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2018年4月22日日曜日

羅針盤:言語活動従事とラングの知識 - コアな知識とペリフェラルな知識(201611)

以下、主として入門・基礎の習得と教育をイメージして話します。

第二言語による言語技量は、言語事項や文の作り方などのラングの知識を蓄積することで
はなく、現在の自身の言語技量を少し上回る発達的言語活動従事を通して涵養されます。
発達的言語活動従事や第二言語の習得に関連してラングの知識について改めて考えてみる
と、ラングの知識にはコアな知識とペリフェラルな知識(peripheral knowledge)があるよ
うに思います。とりあえず入門基礎の段階で考えると、新しい言語としてコアな知識を形
成するのは、端的に、名詞でしょう。そして、入門期でそうしたコアな知識の形成として
扱うべき名詞は、学習者が入りやすいカタカナ語です。ただし、カタカナ語を表記も含め
て教えるということではありません。カタカナ語をオーラルの語として教えるのです。そ
れに適当な語としては、(1)外国の国名・地名、(2)名の通っている日本の地名、(3)外来語
で言われる食べ物・飲み物、(4)スポーツや音楽、(5)衣服や装飾品、(6)家電製品・電子機
器及びその周辺機器、などです。なぜ、それらが入門期に適当なコアな知識なのでしょう。
それは、それらの言葉をアンカーとして思考が拡がって、その延長にペリフェラルな語を
載せることができるからです。例えば、NEJのユニット3のUseful Expressions(p.41)
を見てください。1では食べ物、2では飲み物、6ではスポーツ、7では音楽関係の語が
それぞれであげられています。例えば、1の食べ物をイラストを示しながら言う練習をし
ます。「パン! サラダ! フルーツ! ヨーグルト! トースト! ベーグル! クロワッサ
ン! サンドイッチ!」となります。これで日本語の語彙を8つ知ったことになります。こ
れらの言葉を言っていると、自ずと「パン!<(を)たべます>」「サラダ!<(を)たべ
ます>」、「フルーツ!<(を)たべます、(が)すきです!>などと思考が拡がるでしょう。
そうなると、これらの名詞の概念の延長として、多少のジェスチャーも交えながら、「パン
(を)たべます」「サラダ(を)たべます」「フルーツ(を)たべます」「フルーツ(が)す
きです」のようにペリフェラルな語を載せて指導を展開することができます。そして、教
師が「フルーツがすきですか?」と尋ねると、短いながら発達的言語活動従事に入ること
になります。このようにコアな知識を橋頭堡として、そこから発達的言語活動従事を滋養
的に展開するというのは、入門基礎段階で重要な学習活動であると思います。

で、媒介語の使用について。これらの広義の外来語を教える場合は、もともとの語を素直
に提示するとよいと思います。例えば、「サラダは、salad、フルーツはfruits、ヨーグル
トはyogurt、サンドイッチはsandwich」となります。そのように対比的に示すことで、日
本語の音節構造を身につける重要な機会になります。

入門の学習者というのは、いわば日本語の言葉を何も知らないわけです。入門学習者が早
い時期に日本語の言葉を一定量知ることは、日本語学習を容易にするためにとても重要で
す。入門期を担当する教師は、シラバスやスケジュールに関わらず?、上の(1)から(6)の
ような語に注目して、学習者に日本語の言葉を教えて、さらにペリフェラルな言葉も増や
していくというような日本語滋養的な活動を積極的にするべきでしょう。

羅針盤:アラサーの学習者を対象としたカテゴリー4言語の教育(201605)

4月から日本語研修コースが始まりました。国費留学生を中心とす
る大学院進学予備日本語教育です。わたしは、日本語学習経験まっ
たくなしのコンプリート・ビギナーのクラスの担当です。このクラ
スのコーディネータを担当するにあたってわたしとしてはめずらし
く「悩みました」、というかけっこう考えて頭を労しました。今回は、
そのときに考えたことの主要点を話します。

痛切に感じたのは、タイトルにあるように、(1)学習者は20代後半
以降であること、(2)学習者は全員非漢字系でその意味でほぼ間違い
なくかれらにとって日本語はカテゴリー4の外国語であること、で
す。

まずは、(1)について。高卒すぐの若い留学生はよく日本語が習得で
きる。20歳前後の短期留学生も日本人学生との交流もわりあい活発
に行って習得が進む。しかし、20歳を超えると日本語習得能力が
徐々に減退していき、25歳くらいを境にぐっと落ちる気がします。
これは、実証的な研究に基づく見解ではなく、あくまで経験に基づ
く感覚です。研修コースの学生たちは20代後半から30歳前後つま
りアラサーで、かつ理系の学生が多いせいか、外国語の流れに素直
に身を委ねるよりも、システムを理解したい、システムを理解する
ことが外国語習得の近道だと考えている学生が多いようです。この
状況はかなりの「不利」です。

次に、(2)について、少し情報も交えながら。アメリカの国務省語学
研修所は興味深い調査結果を公表しています。英語を母語とする者
の場合に、仕事ができる水準まで各言語を習得するのにどれほど時
間がかかるかという調査です。同調査によると、スペイン語、ポル
トガル語、イタリア語、フランス語、オランダ語、スウェーデン語、
ノルウェー語、デンマーク語などが最もやさしいカテゴリー1に分
類され、23から24週間の集中教育が必要とされているのに対し、
最もむずかしいカテゴリー4に分類される日本語、中国語、韓国語、
アラビア語はその3倍以上の88週間となっています。この習得困
難度の差は何を意味するのでしょう。それは、さまざまな側面があ
ろうとは推測されますが、常識的に考えられる大きな要因は、カテ
ゴリー1の場合は英語と各学習言語の間で大ざっぱな言い方だが
「重なり」が多く、カテゴリー4の場合は「重なり」が少ないとい
うことでしょう。そして、英語とカテゴリー1の諸言語の間で言う
と、「重なり」の重要な部分は語彙の「重なり」と表記システムの重
なり、つまり類似した音声形態を有する同義あるいは類義の語がた
くさんあること、及びその事情とアルファベットという文字の共通
性から書記言語の場合でも多くの「親しみのある語」が見つけられ
るということです。例えば、現代英語の語彙の75%はフランス語あ
るいはラテン語から来ていると言われ、その一方で頻用語彙の80%
はゲルマン語系のものだと言われています。前者はカテゴリー1の
ロマンス系の諸言語語との語彙の重なりの傾向を、そして後者はカ
テゴリー1のゲルマン系の諸言語との語彙の重なりの傾向を示すと
言っていいでしょう。このような重なりに対し、英語と日本語の間
ではどれほどの語彙の「重なり」があるでしょう。仮に外来語を日
英語間の語彙の「重なり」と見るならば、概略5%から10%程度の
重なりがあることになります。しかし、その外来語も書記言語にな
ると、アルファベットではなくカタカナで表記されます。そして、
書記日本語は、アルファベットを主要な文字として使用せず、漢字
仮名交じりという欧米語使用者にとってはまったく新規で異質なも
のとなっています。その重要部を占める漢字は、形態が複雑で数も
多く巨大な学習の障壁となります。

研修コースの国費留学生はアフリカや南太平洋やアジアの国々から
の学生、そして一部南米の学生となります。現在のクラスは15名で
す。かれらにとっての日本語は、英語話者にとっての日本語と同じ
ようにカテゴリー4に分類できると思われます。20代後半以降のか
れらにとってそのようなカテゴリー4の外国語を学ぶことはたいへ
んなチャレンジだと思います。

端的に、フツーの方法だけでやっていてはまともに困難にぶつかる
と思われました。そこでわたしが提唱し先生方にお願いした重要な
工夫を2つお話しします。一つは、外国の国名でも町の名前でも人
の名前でもいいし、日本の有名な会社の名前でもいいし、さらには
外来語でいいので、とにかく「ああ、それは日本語でそのように言
えばいけるのか!」という安心の経験をたくさん与え、日本語の語
彙を蓄えさせることです。どんなものがあるかいろいろ考えてみて
ください。もう一つは、「滋養豊富な活動」をたくさんすることです。
「滋養豊富」というのはいかにも抽象的ですが、あえて説明すると、
日本語のイントネーションやリズムに体を慣らすこと、また知って
いることばの組み合わせの日本語の言葉遣いを「文節」や「内容語
と付属語」の構造を手で示しながら、日本語の切れ目のある流れや、
要素の構造的な流れを体に染みこませることです。

今日、うちのワンちゃんと散歩しているときに、おもしろい言い方
が思い浮かびました。「日本語が体に染みこむのに身を任せる」です。
外国語の習得がうまい人は、理解をそこそこ確保しながらこの「日
本語が体に染みこむのに身を任せる」ということをするがうまいの
だと思います。そして、フツー以上にうまい教師は、本来の授業内
容を適切にこなしながら、その隙間で、学習者に「日本語が体に染
みこむのに身を任せ」させる機会を豊かに提供する教師なのだろう
と思います。みんながそんな教師になったら、さぞかしすばらしい
教育実践が実現できると思います。めざすは、「手品のような授業」
です。

羅針盤:コーディネータは厄介な稼業です!(201604)

4月から、日本語研修コース(大学院進学予備教育)の初習者クラスのコーディネータを務めることになりました。取りあえずは、NEJとい
う「強い味方」があるので、大きな心配はないのですが、コースのスケジュール作りにはやはり大いに気を遣います。バフチン本2のエピロー
グで次のように書きました。NEJという有力なリソースがあるのに教育の実践がうまくいかないのはどんな場合?という問題意識での文脈です。

教育プランが所期のように実現されない場合の第3の要因は、これはコーディネータの仕事となりますが、授業内容の調整、より具
体的に言うと授業スケジュールの調整です。コーディネータの基本的で最も重要な仕事は、各授業がその時点での学習者に有益に実施
されるように授業を調整することです。そのためにコーディネータは学期やコースの開始時に学習者の日本語力や期間中の学習環境
などを考慮してコースのスケジュールを作成するわけですが、コースが始まった後も…習得の進捗状況を把握して、以降のいずれの授
業も学習者の現在の日本語力の水準にちょうどいい活動となるように授業内容やスケジュールを調整しなければなりません。(バフ
チン本2のpp.151-152)

この前にある第1の要因は、企画された教育の背後にある言語観や言語習得・教育観と実際に授業をする教師のそれらに齟齬がある場合、第
2の要因は、カリキュラムとして提示されているねらいや教育内容が授業をする教師に然るべく理解されない場合となっています。要因の3→
2→1と遡って言うと、(1)コーディネータは緻密に授業スケジュールを作成しなければならない、しかし、(2)いかに綿密にスケジュールを作っ
てもそのスケジュールのねらいや「教育内容」が教師に「理解」してもらえなかったらだめ、で、(3)スケジュールを「理解」してもらうために
は根本の言語観と言語習得・教育観に「相応の重なり」がなければならない、となります。4月からの研修コースのスケジュールを作っていて、
改めてこの問題はむずかしいなあと感じました。

それがむずかしいのは、「教育内容」を意識的あるいは無意識的(半意識的?)を含めて学習者が習得する内容とするなら、「教育内容」はパシ
ッと「これ!」とは言えないからです。また、どの授業でも「教育内容」は一つではなく、主要なもののようなものがあるとしても常に錯綜して
います。つまり、「教育内容」は豆腐を切り分けるようには分割することはできません。そして、そういう曖昧で錯綜したものを「理解」しても
らおうとするわけですから、「理解」というのも当然ファジーなものとなります。「理解」してもらえているかどうかも雰囲気で知るしかありませ
ん。そして、「理解」してもらうためには「理解」の基盤として、カリキュラムの企画者やコーディネータと「同じような目線」の言語観と言語
習得・教育観が要るだろう、となります。ただし、最後のポイントは、言語観と言語習得・教育観の一致ではなく、「相応の重なり」や「同じよ
うな目線」で十分だと思います。(このあたり、文型・文法積上方式では「一致」を要求しているように思います。バフチニアン・アプローチで
はひじょうに大きなレベルでの「相応の重なり」や「同じような目線」だけが必要で、その上でのディテールの違いはあってよいように思います。)

授業に仮に配当した内容をながめて「こんな感じで学習者はどんな学習ができるかなあ」と想像して、また授業の配当・配分を考えるという
ことを繰り返します。厄介なのは、上のパラグラフの冒頭でも言ったように、配当・配分を「物理的に調整すればよい」というものではないこ
とです。言語の学習あるいは言語学習経験の蓄積というのは、意識レベルと無意識レベル(そしてその中間域)で、また注視された言語事項と
してや生きた言語活動の中の言葉遣いとしてなど、さまざまな種類の対象においてさまざまな心理・記憶水準で進行します。そして、比喩的に
言うと、無意識レベル(半意識レベル?)での言語活動の中の言葉遣いの経験の蓄積は言語能力の養分となります。これがないと「不健康な」
言語能力になってしまうでしょう。その一方で、言語事項に相応に注視した意識レベルの学習ということもなければ、具体的なブツとしての言
語事項の知識を仕入れることがむずかしいかと思います。

もう一つ厄介な問題は、これは明らかに意識レベルの学習になるのですが、言語のシステムの理解や知識がどれほど必要で、その必要な部分
をどのように習得させるかです。成人の学習者で特に理知的な人たちはシステムの理解や知識を要求する傾向があります。「そうしたニーズにき
ちんと応えるべきだ」と言う先生がいますが、そのお言葉には、(1)それはニーズじゃなくてウォンツ(wants)でしょう、(2)言語習得のために
何が重要かを最終的に判断するのは言語教育の専門家である教師であって「学習者が○○をほしがっているから、○○を与えましょう」では専
門家ではない、(3)しかしながら学習者のウォンツに対しては「一定の尊重」が必要である。そうしないと学習者は教師から「離れる」、と言いた
いです。NEJの試みは「日本語のシステムについての教室での指導は一旦ゼロにしてみましょう。そして、マスターテクスト・アプローチで学
習を進めて、教科書にある説明と学習者の類推力でどこまでいけるかやってみましょう。その上で、本当に必要なシステムについての指導内容
を検討して、適正な指導方法を企画して、実践しましょう」というものです。筆者自身はこれを今学期や来学期の「研究課題」の一つにしたい
と思っています。

他に音声言語の習得と文字及び書記言語の習得のうまい取り込みと調整も考えなければなりません。アルファベットで表記しないで、ひらが
な、カタカナ、漢字という3種類の超奇怪な文字を使う日本語は、漢字系でない学習者にとっては、とんでもない!言語です。このこと、一般
的に十分には意識と配慮と卓越した工夫がされていないと思います。

で、結論。カリキュラム・教材の企画・開発者やスケジュールを作るコーディネータがいくらがんばってもひじょうに限界がある。そして、
結局、教育実践をする仲間の先生方といっしょに考えながら実践を創造していくしかないということになります。ただし、「生ぬるく」いっしょ
に考えていては、厄介な仕事のたいへんさを舐め合うだけです。優れた実践を創造するためには、「ガチでクリティカルに」やらなければなりま
せん。そして、そのような協働的な教育実践を通してこそみんながより高度な専門的職業人として成長していけると思います。チームで教育実
践にあたるというのは、わたしたち一人ひとりが高度な専門的職業人であるがゆえに、「ガチのたたかいの場」にならざるを得ないのかもしれま
せん。でも、それこそが、専門家集団によるチームティーチングの醍醐味だと思います。
もちろん、(大阪らしく!?)友好的で笑いに包みながら。