2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ④

 ♠1 教育企画① ─ 会話とは表現活動である

「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない!」
 「これだけ教えているのに、学生たちは会話ができない」という日本語の先生の嘆きの声をよく耳にします。おそらく、学生たちも「これだけ勉強しているのに、会話ができない」と嘆いているでしょう。これはなぜでしょう。
 会話やコミュニケーションを教えるとして、教科書制作者や授業をする先生たちは、「道を尋ねる」「買い物をする」「料理の作り方を教える」「レストランで注文をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの言語活動を扱ってきたのではないでしょうか。しかし、よく考えてみてください。

社交的なコミュニケーション
 わたしたちは実用的な用を足すためだけに言語活動をしているのではありません。用を足す言語活動のほかに、話すことそのものを目的としたおしゃべりという言語活動をとても豊かに行っています。わたしたちは、最近の自分の経験や、友人のことや家族のこと、また自分自身のことなどいろいろなことについて、友だちや最近知り合った人などに話しています。また、そういう会話をしています。そして、一定程度親しくなった相手には、より深く経験や自身のことや家族のことや趣味のことなどについて話しますし、そういう会話をします。そして、時には特定のテーマについてお互いの考えを交換したりします。実用的なコミュニケーションに対して、これらは社交的な言語活動と呼ぶのが適当でしょう。つまり、わたしたちの言語活動の重要な部分は社交的な言語活動であり、「日本語で会話ができる」ということの実際は実はそういう言語活動ができることなのです。
 そんなふうに考えると学生たちが会話ができるようにならないのは当然です。従来の日本語教育では教育企画として社交的な言語活動を組織的に扱っていないからです。

文型・文法と語彙、及び実用的なコミュニケーション能力の位置
 社交的な言語活動の中心部分は表現活動、つまりさまざまなテーマについて話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)ことです。表現活動の日本語教育では、その名の通り、そのような表現活動を日本語教育の中心に据えて教育を企画しています。そうすると、文型・文法と語彙や、実用的なコミュニケーションはどうなるのでしょう。
 先ずは、文型・文法と語いなどについて。表現活動を実際に運営するのは言葉遣いです。そして、言葉遣いでは文型・文法や語彙などの言語事項が動員されています。つまり、表現活動を行うためには、当然相応の言語事項が必要になるということです。ですから、表現活動の日本語教育の中に当然文型・文法や語彙の教育が組み込まれることとなります。そして表現活動の日本語教育の学習と教育を巧みに企画し、着実に実践すれば、文型・文法は自ずと身につきます。(ただし、その教育企画と教材制作は簡単なことではありません。表現活動ができる領域を徐々の拡大しながらそれに伴う形で文型・文法や語いを拡充できるようにうまく表現活動のテーマとそれに伴う言語事項を調整しなければならないからです。NEJとNIJでは、そのような作業を慎重に行いました。)
 他方、実用的なコミュニケーション能力はどうなるでしょう。手短に結論を言うと、実用的なコミュニケーション能力は表現活動の言語技量を基礎としています。表現活動の言語技量を身につければ、それを基盤として、実用的なコミュニケーション能力をはじめとしてさまざまな種類の言語技量を容易に発達させることができます。つまり、表現活動の言語技量こそが他のすべての言語活動に関わる基幹的な言語能力だということです。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ③

♡3 教育の趣旨と内容③ ─ NEJの教育内容の概要

以下のファイルをご覧ください。http://nej.9640.jp/sample/contents

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ②

♡2 教育の趣旨と内容② ─ NIJのテーマと文法

以下のファイルをご覧ください。https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ①

♡1 教育の趣旨と内容① ─ ねらいと目標

 表現活動中心の日本語教育は、口頭と書記の両様にわたる基幹的な日本語表現技量を習得することをねらいとしています。そして、そうしたねらいを達成するために、基礎日本語教育中級日本語教育の2段階に分けて、各段階でねらいと目標を定めて、教育を企画しています。以下では、表現活動中心の日本語教育の基礎日本語教育と中級日本語教育のそれぞれについて、ねらいと目標と教育内容について説明します。順番として、まず、中級日本語教育から話をします。中級日本語教育のねらいと目標が表現活動の日本語教育の全体がめざす最終的なねらいと目標になるからです。つまり、最終の到達点から出発点の方にさかのぼるような形で話を進めます。
※ KGIは、Key Goal Indicator(目標達成指標)の略です。

Ⅰ.テーマ表現活動中心の中級日本語教育の趣旨

□ ねらい
 自己をめぐるさまざまなテーマ、及び現代社会の諸側面とそこで生きることに関するさまざまなテーマについて、話すことと聞いて理解することとやり取りすることの口頭言語の諸モードと、書くことと読んで理解することの書記言語のモードで、さまざまな言語活動に従事できる言語技量を育成する。また、そのような言語活動に関与する語や言葉遣いに習熟し、合計約400字の漢字を習得しそれらに実用的に習熟する。

□ 目標
 コース修了時に、学生は以下の言語活動ができるようになり、以下の言語事項と言語技能を習得し習熟している。
※総括的評価においては、1の言語活動のパフォーマンスを評価材料とし、(1)そのパフォーマンスが達成されているか否かを判定し、さらに、(2)そのパフォーマンスにおいて2の言語事項や言語技能が適切に実現されているか否かを判定する。
1.言語活動に関する目標(KGI-1)
(1) 口頭日本語(KGI-1.1)
 自己をめぐるさまざまなテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、相互行為的に会話をしたりすることができる。また、現代社会の諸側面とそこで生きることに関するさまざまなテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、ディスカッションしたり、インフォーマルなプレゼンテーションをしたり、そうしたプレゼンテーションをおおむね理解したりすることができる。
(2) 書記日本語(KGI-1.2)
 上記のようなさまざまなテーマについて、適宜にスマホなどを利用しながら、1時間で、約400字の漢字を用いながら、A4で1枚程度(800字程度)のエッセイを書くことができる。また、そのようなエッセイを読んでおおむね理解することができる。
2.言語事項と言語技能に関する目標(KGI-2)
(1) 言語事項(KGI-2.1)
 基礎段階の文型・文法や語彙などに十分に習熟するとともに、テーマ表現活動に関わる言葉遣い、及びそこで行使される文型・文法と語彙等を新たに学習しそれらに習熟する。※前者はN4(あるいはCEFRのA2)水準の内容、後者はN3(あるいはCEFRのB2.1)水準の内容となる。
(2) 音声言語技能(KGI-2.2)
 基礎的な音声技能(発音と基本的なアクセントパターン)の課題を克服して十全に習得するとともに、発話やディスコースのプロソディ特性に注目し習熟する。※同上。
(3) 文字言語技能(KGI-2.3)
 基礎的な書記技能(ひらがなとカタカナの認識と書き方)の課題を克服して十全に習得するとともに、基礎300字の漢字と新たに学習する約100字の漢字の計約400字について、実用的に習熟する。
※「実用的に習熟する」とは、学習した語の中で遅滞なく認識できて、ワープロ入力で正しい漢字を選択できるようになることと、提示された漢字語を正しく再生できること。

□ 教育内容
 以上のようなねらいと目標の下に、テーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画した。同教育企画で扱われる具体的なテーマと文法については、https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)を参照。


Ⅱ.自己表現活動中心の基礎日本語教育の趣旨と教育企画

□ ねらい
 自己のさまざなな側面に関するテーマについて、話すことと聞いて理解することとやり取りすることの口頭言語の諸モードにわたる口頭日本語の基礎技量を育成する。また、漢字300字を含む基礎的な書記日本語の知識を習得し、基礎的な書記日本語技能を習得する。

□ 目標
 コース修了時に、学生は以下の言語活動ができるようになり、以下の言語事項と言語技能を習得している。
※総括的評価においては、1の言語活動のパフォーマンスを評価材料とし、(1)そのパフォーマンスが達成されているか否かを判定し、さらに、(2)そのパフォーマンスにおいて2の言語事項や言語技能が適切に実現されているか否かを判定する。
1.言語活動に関する目標(KGI-1)
(1) 口頭日本語(KGI-1.1)
 自己のさまざまな側面に関するテーマについて、話したり、相手の話を理解しながら聞いたり、相互行為的に会話をしたりすることができる。また、インフォーマルなプレゼンテーションをしたり、そうしたプレゼンテーションをおおむね理解したりすることができる。
(2) 書記日本語(KGI-1.2)
 上記のようなさまざまなテーマについて、適宜にスマホなどを利用しながら、1時間で、約300字の漢字を用いながら、A4で2/3枚程度(600字程度)のエッセイを書くことができる。また、そのようなエッセイを読んでおおむね理解することができる。
2.言語事項と言語技能に関する目標(KGI-2)
(1) 言語事項(KGI-2.1)
 自己表現活動に関わる言葉遣い、及びそこで行使される基礎的な文型・文法や語彙等を習得する。
(2) 音声言語技能(KGI-2.2)
 基礎的な音声技能(発音と基本的なアクセントパターン)を習得する。
(3) 文字言語技能(KGI-2.3)
 ひらがなやカタカナで表記される学習した語彙や表現を認識することができる。基礎300字の漢字を実用的に習得する。
※「実用的に習得する」とは、学習した語の中でおおむね認識できて、ワープロ入力でおおむね正しい漢字を選択できるようになることと、提示された漢字語をおおむね正しく再生できること。「おおむね」とは70-80%程度。

□ 教育内容
 以上のようなねらいと目標の下に、自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画した。同教育企画で扱われる具体的なテーマと文型・文法については、http://nej.9640.jp/sample/contents)を参照。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪

はじめに ─ 日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⓪
 
 NEJ(2012年)に続いて中級のNIJがこの(2018年)秋出版されました。これで、基礎(入門・初級)から中級までの日本語教育について、ぼく自身の考えと教育構想をようやく具体的な形にすることができました。

現在の日本語教育実践は労多くして功少なし
 今、この時点で改めて、ぼくは一体何をしたかったのかと考えてみました。それは、日本語教育実践の再生ということのようです。
 日本語教育の具体的な現場の実践は、根本の構想が有効でないために、「労多くして功少なし」、つまり現場の先生があれこれと工夫していっしょうけんめい教えてもなかなか結果が出ない、という状況になっています。現在の日本語教育のカリキュラムや教材では今後もこの状況が続くでしょう。それでは、いっしょうけんめい学生を支援しようとしている先生の努力がちっとも報われません。
 ぼくがやりたかったことは、そのような現状を克服して、学生たちが着実に成果をあげて、現場の先生たちの熱意と創意工夫が報われるような教育実践ができる新しい日本語教育のプラットフォームを作ることでした。

「教育の良し悪しはすべて授業をする教師の教え方にかかっている」?
 日本語の先生たちの間ではしばしば「教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えるのだ!」と言われます。そして、「教科書『で』教える」でも飽き足らず、上のような「授業至上主義」あるいは「教師の教授方法至上主義」的な発言に至ります。
 上の言葉はすでに日本語を教えている先生たちの間でよく言われています。また、日本語教員の養成課程でも、これから日本語の先生になろうかと考えている人たちにいの一番に言われる「お説教」です。そんな事情ですので、ベテランであれ若手の先生であれ、日本語を教えている先生はほぼみんな上の言葉を信じています。そして、そのご教説に従って、日々、創意工夫に励んでいます。
 上の言葉をもう少し詳しく言うと、「教育が有効となるかどうかはすべて授業を計画し実施する教師の教え方にかかっている」となります。このご教説」は何を意味しているのでしょう。日本語教育のことを知らない人がこの言葉を聞いてどのように思うかという形で想像してみましょう。

第一声 わー、日本語を教えるってたいへんそう!(終わりなく永遠に創意工夫を続ける? それは厄介な仕事で、とてもしんどそう! ほとんど自虐趣味!?)
第二声 うん? 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」? 一つひとつの授業が大事なのはわかるけど、そもそもの教育の企画や、カリキュラムや、学習や授業実践を支える教材などもすごく大事なんじゃない? そのあたりは、どうなっているのだろう?
第三声 「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」ということは、日本語の先生というのは、授業に配当された言語事項をとにかく創意工夫して教えればいい」ということ? 日本語の先生は「言語事項指導請負人」ということ?
第四声 日本語の先生の仕事の重要部分はあてがわれた言語事項をしっかりと教えるということ? 何だかこじんまりした仕事で、それで十全な仕事をしていると言えるのかなあ。先生たちがそんなふうにばかりしていて、「日本語ができるようになる」という結果を出すことができるのかなあ?
第五声 日本語教育では、(教師も学生も多かれ少なかれ頼りにするはずの)教材や、(学生がその筋道で学び教師がその筋道で教える)教育計画(カリキュラム)や、そもそものアプローチ(「何を」「どのように」習得させていくのかについての根本原理)などは、あまり問題にされないの? 専門的に議論されないの? 一つのコースを担当する先生たちは設定されたゴールや目標の達成に向けて協力し合いながら授業を実践するんじゃないの?
第六声 また、日本語を教えている人たちは、「媒介語を使用しない直接法で日本語を教える」らしいけど、媒介語は日本語の習得を阻害しないようにしながら効果的に使ったらいいのでは? 実際のところ学生たちは辞書や文法書(最近はみんなネット上のものを使っている!)を利用しているわけだし。「媒介語を使用しない直接法で」というのに固執するのはドグマ的な感じがするし、そもそもの「教育が有効となるかどうかはすべて教師の教え方にかかっている」というのも何だか前近代的な感じがする。


 現在日本語教育に従事している人の「精神」は上の「教育の良し悪しは…」という言葉によく集約されていると思います。しかし、その「精神」は、日本語教育のことを知らない人が聞くと、上の第一声から第六声のように、いろいろな疑問が提示されます。端的に言うと、合理主義の精神が感じられないということです。ただし、ここに言う合理主義というのは、ニーズ分析をしてそれに基づいてコースデザインをするというような現金なやり方を言っているのではありません。むしろ、日本語の習得と習得支援について熟考した上で思い描かれた優れた日本語教育実践を実際に実際に実現するという構想を完遂できるように緻密にもくろまれた合理的な企画と開発をするということです。それは、容易なことではありませんが。

新しい日本語教育の構想と実践の創造
 ぼくはかれこれ40年近くも日本語教育の仕事をしています。そして、ずっと前から、「今の日本語教育の企画では有効な教育実践ができるわけがない!」と言ってきました。他方で、日本語の先生たちや先生を養成・研修している大先生たちのほうは上のように「教師の教授方法が最重要の問題!」と言い続けてきました。そして、現場の先生たちは大先生や先輩の先生方の言葉に従って、教え方を工夫しつつどうにかこうにか日本語教育を支えてきました。しかし、ぼくには教授方法が最重要の問題とは思えません。また、教材を改善すればいいという問題だとも思えません。むしろ、根本の教育企画に問題があるからこそ、上のような精神論(合理的な企画と開発と実行ではなく、個々のメンバーの多大な努力と強靱な精神で状況を乗り切ろうとすること)が横行するのだと思います。根本の教育企画を練り直して、教師が相応の仕事をすれば十分な教育成果を出すことができて、創意工夫をすればさらに優れた教育成果が得られるような教育企画にしないと、日本語教育という仕事はいつまで経っても精神論が横行する「ブラックな仕事」のままです。
 さて、教育企画が問題となると、教育企画を刷新しなければなりません。そして、教育企画を新たにすると、当然、その教育企画を反映して学習と教育実践を支える教材も制作しなければなりません。また、期待される具体的な授業の原理やイメージも多かれ少なかれ提案する必要があるでしょう。つまり、新たな教育実践を創造するためには、企画・教材・具体的な実践を包括する構想が必要です。ぼく自身は日本語教育の経験を重ね、第二言語教育学を探究しつつ、そのような構想をずっと温め続けてきたように思います。そして、その構想がようやく具体化されました。それが、自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の日本語教育からなる表現活動中心の日本語教育です。

内容も方法もこれまでの日本語教育とは異なる表現活動中心の日本語教育
 表現活動中心の日本語教育は、日本語教育実践を再生するための新たな日本語教育の提案です。 そして、その基礎教育を支える教材がNEJ(『A New Approach to Elementary Japanese ─ テーマで学ぶ基礎日本語』くろしお出版)で、初中級から中級段階の教育を支えるのがNIJ(『A New Approach to Intermediate Japanese ─ テーマで学ぶ中級日本語』くろしお出版)です。
 専門的な職業として日本語を教えている人で、日本語を教えるということをただ文の作り方(文型・文法)と文の要素(語彙)や、ひらがなやカタカナや漢字を教えることと考える人は少ないだろうと思います。そして、現在の流行(はやり)は「コミュニケーションができる」ようにすることです。しかし、日本語を教えることを「日本語でコミュニケーションができる」ように教えることと見るようになると、どちらかというと、「道を尋ねる」「買い物をする」「友だちを誘う」「ものを頼む」などの実用的なコミュニケーションが注目されるようになりました。つまり、「日本語ができる/話せる」の実際をそのような実用的な用を足すコミュニケーションができることと見たわけです。しかし、そのような実用的なコミュニケーションの仕方を教えるだけでは、基幹的な日本語力は身につきませんし、文型・文法や語彙などの言語事項も十分に習得することができません。これまでの日本語教育は、「文型・文法(と語彙)か、実用的なコミュニケーションか」という2つの間で揺れていました

忘れられた領域としての社交的なコミュニケーションあるいは表現活動
 これまでの日本語教育の内容と方法の議論では、「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という議論ばかりがされてきました。そして、そうした二者択一の議論の中でまったく気づかれていないのが、文型・文法でも実用的なコミュニケーションでもない第3の領域としての社交的コミュニケーションあるいは表現活動です。この社交的なコミュニケーションあるいは表現活動の「発見」が日本語教育の構想の重要な転換点となります。そのような立場で、表現活動を中心に据えて構想された日本語教育を、ここでは表現活動中心の日本語教育と呼びます。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現活動中心の中級日本語教育
 表現活動中心の日本語教育の具体的な教育企画として、基礎段階で自己表現活動中心の基礎日本語教育を企画し、初中級から中級段階でテーマ表現活動中心の中級日本語教育を企画しました。
 自己表現活動表現活動の基礎的な部分で、自己表現活動中心の基礎日本語教育におけるテーマとしては自分のことや自分の身の回りのことや人についてあれこれ話す(話したり、聞いたり、やり取りしたり、書いたり、読んだりすること)を選んでいます。具体的な内容は、NEJのテーマ(http://nej.9640.jp/sample/contents)です。そして、テーマについての表現活動より進んだ表現活動で、テーマ表現活動中心の中級日本語教育としては、自分や家族などに関するさまざまなテーマや人間一般や社会一般に関するさまざまなテーマを扱っています。具体的な内容は、NIJのテーマ(https://drive.google.com/open?id=1xrqTeBGk1F5037KH6OVzjCc5lFbq4LWg)です。

NEJやNIJは新しい教材ではなく、新しい日本語教育を創造するためのリソース
 NEJやNIJは従来的な意味での新しい教科書ではありません。NEJやNIJは表現活動中心の日本語教育の構想の上にあり、それらは同教育を具体化するためのプラットホームであり「触媒」です。NEJやNIJは、日本語促進的な言語活動従事(♠2)を触発して、言語事項の習得を伴いながら日本語技量を育成する表現活動中心の日本語教育を創造するための中核的なリソースです。
 ですから、NEJやNIJを使って、その中で出てくる言語事項の指導をして、その後に本文を聴解活動や読解活動の素材にするというような教育実践は、表現活動中心の日本語教育という新しい日本語教育の趣旨に合致したものではありません。NEJやNIJを活用することにおいて重要なことは、実際に教育を行う実践者が表現活動中心の日本語教育という構想をよく理解し、教材が誘発するするさまざまな言語活動をしっかりと想像すること、そしてその上で、教育構想の趣旨に合致し、教育のねらいや目標の達成を力強く後押しする教育を創造的に実践することです。つまり、重要なのは、実際に教育を担当する先生が表現活動中心の日本語教育ということの趣旨をよく理解して、NEJやNIJを自身及び学習者を支えるリソースとしてうまく活用して、表現活動中心の日本語教育を主体的に実践することです。

日本語教育再生の日本語教育へ
 表現活動中心の日本語教育はこれまでの日本語教育とは内容も方法も大きく異なります。そして、そこで期待される教師の役割もこれまでのものとは異なります。しかし、その実践方法は、決してむずかしいものではありません。多くの先生が、表現活動中心の日本語教育(以下の♡以外の本文では、表現活動の日本語教育と略記)を知り、NEJやNIJを活用して、自己表現活動中心の基礎日本語教育(以下の♡以外の本文では、自己表現の日本語教育と略記)やテーマ表現活動中心の中級日本語教育(以下の♡以外の本文では、テーマ表現の日本語教育と略記)を主体的に実践してくれることを願いつつ、以下では、♡教育の趣旨と内容、♠教育企画、♣教材、♢教育実践の4つの領域に分けて、各々3項目で、表現活動中心の日本語教育についてその趣旨を説明したいと思います。

※参考文献
 表現活動中心の日本語教育の理論的な背景を知りたい方は、以下の本を参考にしてください。同書では、理論的な背景と共に、特に基礎段階(NEJ)のユニットの授業の進め方や具体的な授業の方法が紹介されています。
西口光一(2015)『対話原理と第二言語の習得と教育』くろしお出版

2018年12月2日日曜日

オンボロ船と新造船

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー 第49号 2018年12月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。

2018年12月号 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!) 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない?  うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く!  日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! (に)

2018年11月2日金曜日

日本語教育学における知性と教養を考える②


この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2018年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを再掲しています。

 「…知性と教養を考える」の第2回です。今回は、短いです。適宜に第1回の記事を参照してください。
 人間の知的能力を一定のスケールで俯瞰すると、「知識→教養→知性」というような並べ方ができるのではないかと思います。ざっと言うと、左のほうが知ること関係、右のほうが知ったことをオーガナイズ(組織化する、統合する)というようなことになります。そして、右から言って、「知性は鋭くなる」、「教養は深まる/豊かになる」、そして「知識は広がる」となります。
 この2回のエッセイで言いたかったことは、前回の最後に言った“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要です” です。そして、そのような「知的作業がまだ行われていない」のです。
 日本語教育の学会や研究会などに行くと、しばしば日本語教育に多かれ少なかれ関心をもつ特定分野の研究者がその豊富な知識と専門的な教養に基づいて滔々と話していらっしゃる姿を目にします。そんな姿を見ると、「特定分野の知識・知見だけで、なんで日本語の習得と教育という多面的で重層的で輻輳的な現象について物が言えるの?」と、その大胆さに! 不思議を感じます。また、「そんなやたらに怒濤の如く知識の『排出』をして…」と、自分の土俵で自分の「気」の赴くままに自分のペースで「位押し」(自身の地位や立場と「力」を存分に発揮して相手を圧倒すること、筆者創作の言葉)をしているという感じがします。
 前者と後者の「感じ」について話します。まずは前者。
 いかなる分野であれ個別の研究分野の知識・知見に基づいて日本語の習得と教育という現象について何か物を言うことはできないでしょう。ただし、ここに言う個別の研究分野というのには、哲学や理論○○学というようなメタレベル(個別を架橋するレベル)の学問(探究・追求・研究)は含まれません。他方で、上の“ ”内の「さまざまな関連分野」には、メタレベルの学問が含まれます。そして、上の“ ”内で言いたいことは、そういうメタレベルの学問をむしろ中心にしてそれに個別の研究分野も含めて“さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に…”ということです。
 次は、後ろの「感じ」について。個別の研究分野の「大学の先生」は「位押し」をしては、だめです。日本語教育に従事している現場の先生たちの興味や関心や悩みにもっと耳を傾けるべきです。そして、現場の先生たちに寄り添って、自身が何ができるか(できないか!)を謙虚に「反省」して、正直に話をしなければなりません。そして、その「耳を傾ける」と「反省」は、気持ちをベースにした知性的な活動です。そのようにしないと、「位押し」をして、ただ単に自身の「位」を保持するばかりとなります。
 書きながら考えていますが、日本語教育学に関して主張したいのは以下のことのようです。
1.メタレベルの学問への関心が低い。
2.“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要”という認識がない。
3.上で言ったような、気持ちをベースにした知性的な活動を怠っている。
 メタレベルの学問ということで言うと、日本語学を専門としている人あるいはそれに興味のある人は、まずは、言語研究のメタレベルの研究ということで、ヤーコブソンやマルチネやバンヴェニストなどのプラーグ学派の言語学などに触れていただくのがよいかと思います。
 少しまとまりが悪いですが、これで、「日本語教育における知性と教養」を終わります。皆さんは、どのような感想をもったでしょうか。