日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2019年9月8日日曜日
大学のセンセと地域日本語
地域の日本語教室に対する関心は引き続き高く/ますます高まっています。そして、日本語教育の専門家(大学のセンセ? 日本語学校等のベテラン教師?)の多くも関心を持っています。しかし、日本語教育の専門家としては、まずは「お膝元」の日本語学校や大学での日本語教育をまず「改革」したら! 続きは、https://twitter.com/koichishinmachi/status/1170517886860836864へ。
2019年9月7日土曜日
研究と実践研究について(ガーゲン&ガーゲン, 2018の第4章を読んで)
研究と実践研究について
1.研究
・ 研究のコミュニティ(パラダイム) ─ 研究対象 ─ 研究方法 ─ 研究成果
研究対象についての「真理」の探究
2.実践研究(日本語教育の実践研究)
2-1 日本語教育
・学習者における「日本語の上達」を計画的・組織的に支援する営み。
2-2 教育の企画
・一般目的のための日本語教育の企画の第一歩
日本語力の基幹となる言語活動的なまとまりを伐り出す
⇔ 日本語の上達を「線」としてではなく、「固まり」として措定する。
<従来の日本語教育の企画>
企画A:「文型・文法ときどき語彙(漢字、発音)、ところによって技能」
⇒ 日本語力の基幹を知識と技能と措定している。
企画B:実用的な言語コミュニケーションの「カタログ」
⇒ 日本語力の基幹を育成するという意図がない。
・そのまとまり(固まり)を育成するために習得の経路を直線的に描く⇒日本語上達の階段
・各ユニットは、日本語の習得と習得支援のフィールド
2-3 教材の制作
2-3 具体的な学習と教授の実践
・学習者と教師としては、基本は、各ユニットの目標を達成すればよい。
3.実践研究
3-1 実践領域に関わる研究
(1)実践をめぐる物の見方や考え方や発想やアイデアと、具体的な学習活動や習得方法、教育企画、教材の制作・作成、授業計画、実際の教授実践などに直接・間接に関わる諸テーマについての、
(2)研究というものを知っている実践を担う者(→研究的実践者?)に向けた、
(3)実践のあり方やその改善に真摯な関心を持つ者(→実践的研究者?)による「発信」
・それが「研究」と呼びうるためには、一定程度の論理主義と証拠主義が必要。また、理論的研究としては、堅実な発掘と遡及が必要。
☆つまり、実践研究とは、純粋に「真理」を探究しようという企てではなく、学術研究的な方法を一定程度踏襲しながらの、実践に直接・間接に関わる諸テーマについての探究と報告の対話的実践である。
☆あくなき実践のあり方やその改善への関心がその対話のナヴィゲーターとなる。
3-2 「日本語の上達」という成果
・「日本語の上達」という成果についてはおおむね合意が得られるであろう。
・しかし、「日本語の上達」をどのように見るかは、人によって見方が異なるである。
・研究においては、研究者が何をもって「日本語の上達」と考えるかをしっかりと定義しておけばよい。
・そして、実践はその「日本語の上達」との対応で解釈すればよい。
2019年9月1日日曜日
現象学から人間科学へ⑤
以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年9月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。
2019年9月号羅針盤 現象学から人間科学へ⑤
2019年9月号羅針盤 現象学から人間科学へ⑤
前回は、「志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います」と言って終えました。今回は、多くの人を惑わしている現象学のその後の展開の概略図を示したいと思います。この話は、このような形で語られたことはたぶん今まで一度もなかったと思います。
1.現象学の実存主義的展開
現象学の展開は、ヨーロッパにおける実存主義的な展開と、北米に移って発展した社会学理論への展開という2つに分けて見なければなりません。まずは、ヨーロッパにおける展開の話をします。
ヨーロッパにおいて、フッサール(1859−1938)の現象学は、弟子であったハイデガー(1889−1976)によって実存主義的な展開を見せます。そして、その実存主義的展開は、隣国フランスでサルトルやボーヴォワールによって実存主義運動として花開きます。だいたい1940年代の後半から70年代です。『存在と無 ─ 現象学的存在論の試み』(1943年)以降、実存主義の旗手で当代一の知識人としてサルトルの名声は不動のものとなります。(ちなみに、ハイデガーは、その後の哲学・思想に強く広範な影響を及ぼした20世紀最大の哲学書と言われる『存在と時間』で一般に実存主義の哲学者と言われていますが、ハイデガー自身は実存主義の哲学者と見られることをきっぱりと拒否していました。ハイデガーが実存主義の哲学者と見られるのは、一般に流通している『存在と時間』が実はハイデガーが構想していた上下2巻の本の上巻だけであり、そして、それは上下2巻の本でハイデガーが意図していた「存在一般の意味の追究」の準備作業としての人間存在の分析でしかなかったのですが、その後下巻が出ることなく、上巻のみが『存在と時間』として一人歩きしたという事情によります。その上巻のみの『存在と時間』が出るや否やドイツの思想界に巨大な衝撃を与え一挙に思想界の形成を変えたために、同書で展開された人間存在の分析によってハイデガーは実存主義の哲学者と見られるようになった、というような次第です。しかし、ハイデガーの思想的営為の全体の中に『存在と時間』を位置づけようとする諸研究を見れば、かれの仕事の中心は実存主義の部分にはないことが分かります。)
フッサールの現象学的な観点を継承したハイデガーの思想は、ヨーロッパにおいてもう一つの展開を見せます。解釈学への展開です。主な担い手はガダマーです。こちらの展開については次回や次々回でもう一度論じます。
哲学的な背景を踏まえて現象学的な心理学について論じているラングドリッジは、現象学におけるこれら2つの実存主義的な展開を、実存的転回と解釈学的転回と呼んでいます。
2.現象学の社会学理論への展開
第一次大戦前のオーストリアのウィーン生まれのアルフレッド・シュッツ(1899−1959)は、ウィーン大学卒業後、銀行の法律業務に従事する傍ら研究を続け、1932年にはウェーバーの理解社会学とフッサールの現象学を融合した『社会的世界の意味構成』を出版し、同書をフッサールに捧げました。それ以来フッサールとの交流が始まり、それは1938年のフッサールの死去まで続きました。やがて、ナチスの台頭によりユダヤ系であるシュッツは母国を出ざるを得ない状況となり、1939年にはアメリカに亡命しました。そして、アメリカに移ってからも銀行での仕事と研究を並行して行い、社会学理論の発展に大きな功績を残しました。著名な社会学者であるピーター・バーガーやトーマス・ルックマンはシュッツの弟子です。
シュッツの研究は現象学的社会学と呼ばれています。現象学の物の見方に基づいて社会というものの正体を究明しようとする研究です。
3.実存主義と現象学的社会学が現象学的である点
ハイデガーの実存主義と現象学的社会学の重要な現象学的な重複点は、いずれも「そもそも○○とは何か」を追究している点です。ハイデガーは『存在と時間』で現存在という独自の用語を軸として「そもそも人間という存在とは何か」を追究しています。現存在=Daseinというのは、「da」(そこ)と「sein」(ある/いる)の組み合わせで、人間という存在を前提なしのデフォルトで捉えて追究するためにハイデガーが作った造語です。そして、『存在と時間』以後のハイデガーは、人間という存在と世界という存在の両者を含めて「そもそも存在するとは何か」を追究しています。
一方、社会学に関心を置くシュッツは、現象学の視点に基づいて「そもそも社会とは何か」を追究しました。銀行家と研究者という「二足のわらじ」のシュッツは、少数の著作しか残していませんが、いずれもひじょうに重厚なものです。そして、晩年のシュッツの遺稿はルックマンによって『生活世界の構造』としてまとめ上げられ、バーガーとルックマンの共著になる『現実の社会的構成』は社会学理論の名著として現在も読み継がれています。バーガーは、『現実の社会的構成』の一年後に宗教を社会学的に分析しようという試みの『聖なる天蓋』を上梓し、その第1章で自身の社会学の立場をコンパクトながら明瞭に提示しています。これらはいずれも、日常的世界に生きるわたしたちにとって、また社会学の対象として、「そもそも社会とは何か」を考究したものです。
実存主義と現象学的社会学がいずれも現象学的である重要点は、人間的実存を志向的であるというふうに捉えている点です。そして、それだけでなく、両者ではいずれにおいても、実存の重要な立脚点として言語を置いています。この点が、現象学的心理学においても、またわたしたちの関心である第二言語の習得と習得支援を考える第二言語教育理論においても重要な視点となります。
4.むすび
このあたりが区切りになりますので、これで今回は終わりたいと思います。後期ハイデガーの重要書である『「ヒューマニズム」について』からの有名な「言葉は、存在の家である」の一節を紹介して次節への繋ぎとしたいと思います。
行為することの本質は、実らせ達成することなのである。…本来的にはただ、すでに存在しているもののみが、実らせ達成されうるものなのである。ところで、あらゆるものに先だって「存在している」ものは、存在である。思索というものは、その存在の、人間の本質に対する関わりを、実らせ達成するのである。…思索は、この関わりを、ただ、存在から思索自身へと委ねられた事柄として、存在に対して、捧げ提供するだけなのである。この差し出し提供する働きの大切な点は、思索において、存在が言葉となってくる、ということのうちに存している。言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。(『「ヒューマニズム」について』pp.17−18)
2019年8月30日金曜日
日本語教育=日本語の上達を組織的に支援する営み ─ 日本語教育者はサド&マゾ
日本語教育=日本語の上達を組織的に支援する営み ─ 日本語教育者はサド&マゾ
0.はじめに
(a)一般的に言っても、第二言語の習得は時間とエネルギーを要するがんばりと忍耐の要る企てである。
(b)また、第二言語の習得は、多元的で、輻輳的で、累進的な過程である。これを、修得する内容を特定して直線的(linearly)に企画するのは不可能。
※基礎的な対面的コミュニケーションのための口頭日本語に限定した習得は特別にむずかしいわけではないが、書記日本語をも並行して習得するとなると、特別にむずかしい言語となる。(漢字系学習者にとっては、根本的に第二言語としての種類が違う。圧倒的に有利。)
1.これまでの日本語教育の企画
1−1 学習と教授と習得という用語
・習得とは、「何か」を学んで、日本語が一層上達すること。※対象・対象内容を特定する「○○を習得する」というような「習得」は、本来の習得と区別して「修得」と呼んだほうがいい。
・学習は、日本語の上達(ねらい)を企図して、習得(目標)も視野に入れながら、学習者が行う意図的な営み
・教授は、日本語の上達を企図して、習得も視野に入れながら、教授者が学習者に向けて行う意図的な営み。
1−2 教育企画と学習活動と教授活動
・教育企画というのは、制度的文脈やステイクホルダーの期待や学習者の一般的な期待や要望などを考慮して、広義の目標(ねらいと目標)を設定するところから始まる。
(1)ねらいには、他の教育的目標が含まれることもしばしばあるが、基本的には、何らかの内容での特定のレベルまでの日本語の上達(ねらい)とその基幹となる日本語力(目標)となる。
(2)具体的な教育企画の概略は、その目標に至っていく行程と重なる。
(3)具体的な学習活動と教授活動は、教育企画の下に行われる。
1−3 これまでの初級日本語の企画=最後になったときに一挙に目標が達成される。
□ 実情
・規範的に自己同一的な形態の体系(system of normatively identical forms)、つまりラング(langue)の習得を目標にしている。
・言語活動に従事するのは基礎的なラングをすべて修得してからという考え方。
□ 批判
・こういう企画では、学習者の忍耐がもたない(何かができるようにならないことに我慢できなくなってイヤになる)。また、そういう企画は学習者の自己効力感などを考えても、ひじょうに酷。
・ラングの各要素を修得したとしても、それは元の全体(original whole)ではない。
□ 評価
・稚拙な教育企画は、有効な学習活動と教授活動を導くことができない。それどころか、阻害する。
・「理不尽な」教育企画は、学習者のやる気をなくさせる。
・基幹的な日本語力という発想がない。
1−4 これまでの初中級・中級の企画
□ 実情
・基礎的な技量が身についているという前提で、「次」に行ってしまっている
・学習者は、基礎的な(ラングの)知識も基礎的な技量も十分に身についていない。
□ 批判
・「次に行く」のは、まったく理不尽で酷。
・学習者のスタート時点の知識・能力や、次に養成するべき知識・能力が十分に検討・特定されていない。
・賢い学習者は、企画されたコースに導かれてではなく、学習素材と機会と教師というリソースを上手に活用して自分なりに日本語の上達を図っている
□ 評価
・「無理」と「やたら」が顕著。
・基礎的な知識・技量がない学習者は落ちこぼれる。
2.新たな日本語教育の企画へ
2−1 これまでの教育企画の共通的な根本問題
(1)基幹的な日本語力という発想がない。
(2)基幹的な日本語力の発達階梯という発想もない。
(3)根本的に、学習者を日本語上達のエスカレータに乗せて、着実に上に連れて行く、という発想・強い意志がない。
□ 批判
ひじょうに基本的な問題として、
・半数以上の学習者が達成できない目標を設定して教育課程を策定して実施するというのはどうか。
・「○○を教える」(「○○を修得させる」)という発想での教育企画はどうか。⇔ 日本語の上達は「○○を教える」(「○○を修得させる」)という発想では達成されない! 教授=日本語を教えることではない。むしろ、教授は、学習者における日本語の上達を促進する営み、とまず規定しなければならない。
※前者は、マゾヒスティック。後者は、サディスティック。
※まずは、サド・マゾをやめる!!
※そして、ノーマル(正常)の世界に戻る!!
※ノーマルの世界というのは、着実に日本語を上達させる教育企画と教育実践の世界!
2-2 新たな企画 ─ 教育企画者の仕事
(1)基幹的な日本語力 = 表現活動能力
(2)発達の階梯
基礎段階(N4): 助走期(N5)、離陸期、表現方法拡張期、表現方法充実期、表現方法発展期
初中級段階(N4-N3): 進んだ対面的口頭表現力養成期(NIJのパート1会話)
中級前半段階(N3): 口頭での知的言語養成期(NIJのパート2レクチャー)
中級後半段階(N2): 口頭と書記の両様での進んだ知的言語養成期
興味・関心や目的に特化した日本語力の養成期
(3)日本語上達のエスカレータ
具体的な特定の言語活動ができるようになる(下位目標)という形での達成が可能な各ユニット、及び一連のユニットを企画する。
2−3 コーディネータの仕事
・企画されたコースを具体的な達成可能なスケジュールとして策定する。
2−4 具体的な教育実践 ─ 授業教師の仕事
・各ユニットの目標を着実に達成する。
⇔ 配当された時間でユニットの目標を達成できない場合は、コーディネータのスケジュールが適当でないか、授業教師の仕事が稚拙か、のどちらか!
⇔ ユニット間の「接続・移行」がうまく行かない、より適当な「接続・移行」のアイデアがある場合は、教育企画者にクレームしなければならない。
3.学習者を「惹き込む」「楽しませる」 新たな教材と授業実践
3−1 新たな教材 ─ 語学ための材料として
・テーマの言語活動の範例
・有用な言葉遣いで構成される。
・言葉遣いは有用な語彙と文型で構成される。
・語彙と文型の提出はユニットの進行で一定程度体系的で系統的になるように調整される。
3−2 学習者を「惹き込み」「楽しませる」教材 ─ 文芸作品として
・教材は、語学のための材料でありながら、文芸的な作品である。
・文芸的な作品には、モチーフがあり、ストーリーがあり、登場人物がいて、ドラマ性があり、レクチャーの内容・主張などがある。
・そういう要素があれば、学習者を惹き込み、楽しませながら、学習と教授を進めることができる。
3−3 教材と学習者のインターアクション
・文芸作品的な教材であれば、学習者はそれに「反応」(コメント)するができる。
・また、「わたしの場合は」「わたしだったら」などのストーリーとしての自己の語りを誘発することができる。
・表現活動中心という枠組みであれば、即興的なわたしについての語りやわたしの考えについての語りなどはすべて言語促進活動のためのリソースとなる。
2019年8月2日金曜日
現象学から人間科学へ④
現象学から人間科学へ④
※NJ研究会マンスリー(まぐまぐメルマガ)第57号に掲載された記事です。
※NJ研究会マンスリー(まぐまぐメルマガ)第57号に掲載された記事です。
『論理学研究』(1900−1901)に代表される初期フッサールと『イデーン』(原題は『純粋現象学および現象学的哲学の構想』、1913)を中心とする中期フッサールの間の1910年に、フッサールは『厳密学としての哲学』という論文を発表しています。この論文は、成熟した中期の思想の出発点を告げるフッサールの「現象学宣言」だと言われています。木田からの孫引きとなりますが、同論文へと繋がる問題意識と当時の悲壮な心境がフッサールの1906年の覚え書によく表れています。
かりに自分を哲学者と言いうるとした場合、わたしが自分自身のためにぜひとも解決しなければならない普遍的な課題をまず第一にあげてみたい。それは理性の批判である。論理的理性と実践理性と価値判断理性一般の批判である。概括的にもせよ理性批判の意味、本質、方法、主要観点を明晰に自覚しなければ、また理性批判の普遍的構想を十分に考え、企画し、論定し、そして基礎づけなかったならば、わたしは真の意味で生きることはできない。(フッサールの1906年9月25日の覚え書)
当時は自然主義と歴史主義が哲学的認識の学的性格に疑いを差し挟んでいたのだが、『厳密学としての哲学』は、現象学による厳密な学的哲学の確立を説くプロパガンダだったと木田は言っています。同論文でフッサールは、自然以外のものは何ものをも認めない自然主義、すべての思想を歴史的状況の所産と見る歴史主義を批判しているそうです。
こうした経験的事実についての一定の仮定の上に立って学の理念を変造したり弱体化したりするこれらの誤った実証主義に対し、いっさいの仮定を排して絶対に明確な端緒から出発する自身の現象学を真の実証主義と呼び、これによってのみ「厳密学としての哲学」の建設が可能になるとフッサールは主張しています。フッサールの大きな自信の根源は「現象学的還元」の発見にあると木田は見ています。現象学的還元についての木田の説明を箇条書きにしてみます。ここで、有名なエポケー(判断停止、あるいは判断保留)も出てきます。
□ 自然的態度の一般的定立
1.「超越論的」という概念は「世界内部的」という概念と対をなす。
2.われわれは、日常的な自然的態度においては、世界の内にさまざまな仕方で表れてくるあらゆる可能な存在者とのかかわりに生きている。そこでは「世界」の存在は素朴に仮定されている。
3.世界は、事情だけでなくさまざまな価値をも含みながら統一的な連関をなすただ一つの世界であり、われわれが出会うすべての事象、さらにはわれわれ自身もこの世界に属するものとして経験されている。
4.このように世界を「あり」と素朴に断定して、「世界内部的」に生きるということが自然的態度の基本的性質である。
5.フッサールは、世界についてのこうした素朴な断定を「自然的態度の一般的定立」と呼んでいる。
□ 自然科学や精神科学と自然的態度の一般的定立
1.自然科学も精神科学も世界内部的存在者を研究対象にし、この一般的定立を共にしている。
2.ゆえに、それらも自然的態度の延長線上にある。
□ 現象学的還元
1.自然的態度は、絶えず積み上げられる日常的経験から生じた一種の習慣に過ぎない。
2.つまり、自然的態度は、世界を「あり」とするあらかじめの仮定を前提にしている。
3.無仮定的であろうとする哲学はこうした仮定に甘んじることはできない。
4.そこで、自然的態度の一般的定立つまり世界の存在についての確信・遂行にストップをかけ、逆に、われわれに直接に与えられる意識体験からいかにしてそのような確信が生じてきたかを見ようとする。
5.それが、エポケー(判断停止あるいは判断保留)による現象学的還元である。
最後にこうした現象学的還元の趣旨・目的を確認しておきます。
□ 現象学的還元の目的
1.エポケーは自然的態度の一般的定立を否定するのではない。単に「括弧にいれ」たり、「スイッチを切っ」たりするのである。
2.だから、エポケーによって主体と世界の間に敷設されている「配線」が消えてなくなるわけではない。ただ、日頃無意識に行っている定立作用の電流を一旦切って、敷設されている配線の具合を反省しようということである。
3.つまり、意識の志向的校正作業の錯綜を解きほぐし、そこからいかにして世界といった意味が形成されてくるかを見きわめようというのが、現象学的還元の目的である。
今回は、大いに木田に依拠して議論をしました。最後に、自身でも確認したメルロ=ポンティによる現象学的還元についての説明を紹介して、今回の結びにしたいと思います。
われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、この運動に参加しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて ─ それどころか逆に、これらの確信こそ哲学の恒常的なテーマなのだ ─ むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものになっており>、それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起してそれをして出現させるためには、われわれはそれらを一次さし控えなければならないからこそ、そうするのである。
次回は、志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います。
2019年7月29日月曜日
基幹部の「切り取り」、言語活動従事を可能にする言語技量、言語活動従事を基底として支える知識(基底的な知識)、段階化、習得支援、ユニットの目標達成と領域特定的な言語技量の育成と基底的な知識の形成、コース目標としての総合的な言語技量と総体的な基底的知識
この3か月(2019年5月から7月)の間に、教師セミナー(出版社等主催の一般向けの会)や教師研修会(特定の機関が主催する所属教師向けの会)を5・6回しました。内容は、教育の企画・教材の制作・教育の実践についての一般的原理、自己表現活動中心の日本語教育の企画と教材の教育実践についての原理、教材(リソース)を活用した授業実践の例、などを話し、紹介しました。そんなことをした上で、考えたこと。
ⅠとⅡとⅢの8は教育の企画について、Ⅲの9と10は教材の制作について、ⅣとⅤは教育の実践=習得支援について、です。
Ⅰ.重要な核の「切り取り」と言語活動従事を基底として支える知識(underlying knowledge)
1.言語活動の「大海」から、重要で核になると思われる部分を「切り取って」きて、総体的な目標・内容とすること。
2.そして、総体的な目標とした各種の言語活動の従事を基底として支える知識(underlying knowledge)をイメージする。
※「切り取る」わけなので、「切り捨てられる」部分があることに注意。
Ⅱ.基底的な知識(underlying knowledge)の性質・特性
3.基底的な知識の総体は、離散的な知識ではなく、凝集的な知識である。
4.基底的な知識の総体には、言語事項の知識が当然含まれるが。それは言語事項そのものの構造化された知識(体系的な「文法的」知識)ではない。
5.各種の言語活動の従事との関係を考えると、基底的な知識の要素となるのはむしろ、言語活動従事に直接に奉仕する言葉遣いである。
6.言語事項の知識は言葉遣いに織り込まれた形で基底的な知識に含まれる。まさに。そのような知識が「言語事項の知識を内包した言葉遣いの凝集的な知識」。
7.その上で、言語事項の知識は反省に基づく自覚的な知識として保有される場合もある。言語事項の自覚的な知識が総体としてなくてはいかなる言語活動に従事することもできないと考えるのは誤り。
Ⅲ.段階化(gradation)
8.一方で特定の言語活動に特化した基底的な知識を想定しつつ、もう一方で文型の系統的な習得と語彙の体系的な習得も考慮しながら、達成可能な言語活動を段階的に企画する。それが各ユニットとなる。
9.上のような観点の下に中心的なリソースとなるマスターテクストを制作する。(※個々のマスターテクストは、各登場人物各々の総体的なストーリーとして「文脈化」されている。)
10.言語事項を内包した言葉遣いはこのマスターテクストで学習者に示し、提供される。
Ⅳ.教育の実践=習得支援
11.教育の実践は、ユニットで特定された言語活動に(豊かに)従事できるようになるという方向で日本語習得の支援をする。
12.マスターテクストを学習し何らかの習得支援を受けることができれば、学習者は間違いなく、ユニット開始時よりもユニット終了時のほうが当該の言語活動により豊かに従事できるようになる。※例えば、ユニット開始時にユニットのテーマでエッセイを書かせて、それとユニット終了時のエッセイを比較せよ。もちろん、オーラルのパフォーマンスでもよい。
13.実際を言うと、この教育の企画の下での(マスターテクストを中心とする)教材の学習だけでも、つまり、学習者が自学自習したとしても、学習者の事前(ユニット開始時)と事後(ユニット終了時)のパフォーマンスには向上が見られる(はず!)。
14.ゆえに、教師による教育実践あるいは習得支援は、伸びを一層大きくすることに貢献する要因となる。そして、そういう意味での教師の教育実践技量が問われることになる。
15.習得の基本原理は「盗み取り」あるいは「マネ」。理論的に言うと、テクスト相互連関性(クリステヴァ)である。cf.10
Ⅴ.ユニットの目標達成と基底的な知識の総体の形成
16.教師は10のような方向で教育実践に臨めばよいが、ユニットの目標は首尾よく達成しながら、基底的な知識の総体(cf.Ⅱ)の形成についても貢献できる授業を心がける必要がある。
N3あるいはCEFRのB2.1までに至る表現活動中心の日本語教育はこんなことを考えて構想されているということです。
2019年7月1日月曜日
現象学から人間科学へ③ ─ ギリシア人の驚き(タウマツエイン)と、「偉大なる始まりの開始」と「偉大なる始まりの終焉」
現象学から人間科学へ③ ─ ギリシア人の驚き(タウマツエイン)と、「偉大なる始まりの開始」と「偉大なる始まりの終焉」
今回は、現象学のコンテクストであまり言及されることではありませんが、実は現象学を理解するための決定的なカギとして捉えておかなければならないことについて話します。それは、古代ギリシャ人の驚き(タウマツエイン)と、それに関連する「偉大なる始まりの開始」と「偉大なる始まりの終焉」(いずれもハイデガーの用語)です。このポイントは、一般に哲学を指す形而上学という用語の起源を見ると、現象学理解が開ける部分です。
形而上学(英語で言うとmetaphysics)はもとはアリストテレスの講義録を編纂した際の「整理のためにつけた名称」でした。師匠のプラトンのアカデミアの向こうをはって、アリストテレスが設立した学校がリュケイオンです。そのリュケイオンでの膨大な講義ノートがあったのですが、それがマケドニア王家に没収されるのを恐れて、小アジアのスケプシスという町に2世紀も隠匿されていました。それが、紀元1世紀頃に発見されて、ローマに運び込まれました。そして、そこで整理編纂され刊行されました。アリストテレスの著作としては、かれの生前に刊行された本もあったのですが、現在は散逸してしまっているということで、われわれが現在の『アリストテレス全集』などで読むことができる彼の著作は、ほとんどがこの講義ノートを編纂した講義録集です。
編纂にあたったアンドロニコスは、アリストテレスが「第一哲学」と呼んでいた学科の講義ノートを「自然学(タ・フィシカ)」のノートの後に配列して、それに「タ・メタ・タ・フィシカ」という名前をつけました。後半の「タ・フィシカ」は「自然学」で、「メタ」は「後」という意味で、最初の「タ」はギリシア語の冠詞です。つまり、「タ・メタ・タ・フィシカ」というのは、当初は「自然学の後ろの物」という意味だったわけです。それが古代ローマ末期に「自然」を「超えた」(メタ)事柄についての学問である「超自然学」という意味に読み替えられて、その「メタ・フィシカ」(英語ではmetaphysics)がアリストテレスの「第一哲学」の内容を指す呼称として使われるようになったそうです。では、このアリストテレスの「第一哲学」とはどのような学問なのでしょうか。以下、アリストテレスの『形而上学』(=第一哲学)からの引用です。
存在者であるかぎりでの存在者を研究し、またこれに本質的に属する事がらをも研究する一つの学問がある。この学問は、いわゆる特殊的な諸学のいずれとも同じではない。というのも、他の諸学問はいずれも、存在者であるかぎりでの存在者を全体として考察したりはせず、ただそのある部分を抽出し、これについて、それに付帯する属性を研究するだけだからである。
哲学者の学は、存在者をそれが存在者であるかぎりで、部分的にではなく全体として扱うものである。
この部分について木田は以下のように解説しています。
個別的な諸科学、たとえば物理学なり経済学なりは、ありとしあらゆるもの、<在るとされるあらゆるもの>、つまり存在者の全体のうちから、物理現象なり経済現象なり特定の領域を切りとってきて、部分的に、つまりその領域的特性に限って研究する。存在者をそれが物理現象であるかぎりで、経済現象であるかぎりで研究するのである。ところが、アリストテレスが「哲学者の学」とか、「第一哲学」と呼ぶ学問、つまり狭い意味での哲学は、存在者を、それがさまざまな領域に切り分けられるに先だって、それが存在者であるかぎりで、全体として研究しようというものである。(木田元『ハイデガーの思想』p.75)
この部分を木田は以下のように結んでいます。
したがって、この学問は、結局のところ、すべての存在者をそのように存在者たらしめている<存在>とは何かを問うことになるのである。(木田、前掲書、p.75−76)
そして、プラトンやアリストテレス以降の哲学的営み及びかれら以前のアナクシマンドロスやヘラクレイトスやパルメニデスなどのいわゆる自然哲学者の哲学的営みのいずれも、存在への驚き(タウマツエン)から始まっていると、ハイデガーを引いて木田は指摘しています。
ハイデガーは、「存在者が存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在者が現れ出ているということ、まさしくこのことがギリシア人を驚かせた(タウマツエイン)」のであり、この驚きがギリシア人を思索に駆り立てた。そして、当初(自然哲学者の時代、筆者注)その思索は、おのれのうちで生起しているその出来事をひたすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなかった、と言うのである。(木田、前掲書、p.150)
そして、自然哲学者たちが、驚き(タウマツエイン)に駆り立てられて開始されたそのような思索(おのれのうちで生起しているその出来事をひたすら畏敬し、それに調和し随順するような思索)をハイデガーは「偉大な始まりの開始」と呼びます。やがて、何にでももっともらしい説明を与えようとするソフィスト的知性に抗して、この驚くべき事をあくまで驚くべきこととして保持しつづけようとする少数の人々が現れます。かれらは、「叡智」を意識的に探し求め、存在者の統一を可能にしているものは「何であるか」と問おうとします。それが奇人ソクラテスや、その弟子であるプラトン、さらにはアリストテレスらの哲学です。しかし、ハイデガーは、存在に随順し、それと調和し、そこに包まれて生きるということと、この存在をことさらに「それは何であるか」と問うこととは、まったく別のことだと指摘します。そのように問うとき、すでに始原の調和は破れ、問う者はもはや始原の統一のうちに包み込まれたままでいることはできません。そうした事態をその後の哲学の宿命だと言うようにややペシミスティックに、ハイデガーは、「偉大な始まりの終焉」と言うのです。自然主義哲学者によって「偉大な始まり」が開始されたのに、数世紀のうちにその「偉大な始まり」は終焉を告げてしまったと言うのです。
ハイデガーのこのパースペクティブは、かれの晩年の「存在の追想」という視線と直接に関連しています。そのことについては、また、後に論じます。
次回は、現象学の自然的態度を中心に。そして、次々回は現象学の超越論的還元を中心に書くことになると思います。
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