2018年4月22日日曜日

羅針盤:日本語教育と関連領域(201804)

新しい年度を迎えて、この春に大学院の修士や博士に入った方を少し意識して、この羅針
盤を書きたいと思います。日本語教育と関連領域とはどのような関係にあるかというテー
マです。

ご存じのようにぼくは、バフチンやヴィゴツキーやバーガーとルックマンなどをお勉強し
ていて、最近はますます関心が拡がりつつあります。そして、日本語教育と関係がありそ
うにも思えない、そんな研究者たちを採り上げてものを書くというようなことをしていま
す。しかし、そんなときでも、(1)日本語教育の企画と実践の創造のためという観点から、
(2)かれらの論のキモをつかみ取った上で、(3)日本語教育の企画と実践の創造のためにそ
れを再編成する、というようなしかたでやっています。

これまでぼく自身は自分のことを応用言語学者とは思っていませんでした。「○○学者」と
うまい名前をつけることができないと思っていました。これまでのぼくは応用言語学とい
う研究分野を、「個別言語を研究する」言語学にとどまらず、言語のその他の側面を扱う分
野、つまり社会言語学や機能文法や言語行為論などの知見も「応用」して言語教育を考え
る研究分野というふうに狭く規定していました。しかし、英国カーディフ大の百済さんと
いっしょに仕事をしていてわかったのですが、どんな分野に「はるばると遠征して行って」
も、その「遠征」の目的が言語教育の改善に資することで、どんなに「遠くに行っても」
やがては言語教育のところに舞い戻ってくるなら、それは応用言語学と言うらしいです。
そんな意味でいうなら、ぼくは応用言語学者でしょう。そして、応用言語学者であるなら、
(a)(言語教育政策や、さらに広くは言語政策なども含めて)言語教育に関心を置くこと、
(b)一人の研究者でもいろいろな方面に「遠征」して行くという「マルチ性」を持っている
こと、(c)「遠征」先の分野をただ紹介するのではなくクリティカルに検討してそこから言
語教育に関連する洞察を引き出すこと、そして(d)言語教育に舞い戻ってくること、という
要件が必要です。

日本語教育学の関連領域は、言語学や日本語学さらには言語社会学などにとどまらず、心
理学系、社会学系、人類学系などさまざまな分野にますます!?拡がりつつあります。今、
日本語教育学の人はそれぞれいろいろな方面に「遠征」に出かけて行っています。しかし、
日本語教育学の人(「日本語教育学」という看板を上げている限り、これは本来日本語応用
言語学者なのだろうと思います)は、「遠征先」の分野をクリティカルに検討しているでし
ょうか。そこから深い洞察を引き出しているでしょうか。またマルチになっているでしょ
うか。そして、最も重要なことは、日本語教育に関心を置き、日本語教育に舞い戻ってき
ているでしょうか。日本語教育に比較的近い関連分野に「遠征」する人は、あまりにも直
截に(短絡的に?)知見の応用をしようとする傾向があるように思います。その一方で、
新しい関連分野に「遠征」する人は、あまりに遠くに行ってしまって、「迷走して」しまっ
たり、うまく日本語教育に戻れなくなったりする傾向があるように思います。

これから大学院で勉学する人たちは、先生たちや先輩たちから「研究! 研究!」、「論文! 
論文!」と責め立てられるでしょう。「そんな教育にベタなテーマではだめ! もっともっ
とテーマを局所的に絞らないとだめ!」とも厳しく言われるでしょう。「研究(らしい?)」
プロダクトを出すためには、そんな先生や先輩たちの言葉に耳を傾けるのが、当面は必要
だと思います。しかし、日本語教育への関心は捨てないでほしい。そして、(当面は)自身
の研究分野を極めて、そこから日本語教育のための洞察を引き出して、それを携えて舞い
戻ってきてほしいと思います。

羅針盤:虚心坦懐・融通無碍(201803)

2月某日。外は寒いながら、南向きの研究室は日差しがたっぷりと入って、うららかな陽
気です。お弁当を食べながら思いついたことをつらつら書いてみたいと思います。教育実
践の創造と研究ということについてです。(いつもは、書きたいモチーフがあって書き始め
るのですが、今回はどういう結論になるかわかりません。)

たぶん前にもこの羅針盤で書いたことがあると思いますが、ぼく自身は自分自身が優れた
授業をすることには関心を置いていません。そんなのはあまりにも当たり前のことでとっ
くに「解決」しています。そんなところで「うろうろしている」なんてありえません。で、
ぼくの関心は自身の実践の創造ではなく、むしろ、最も身近では、(1)自身がコーディネー
タをしているコースで優れた実践が行われること、そしてもう一歩広くは、(2)ぼくが属し
ている機関の多くのコースで優れた実践が行われること、さらに広くは、(3)ぼくが考案し
た教育企画とそれを支える教材を活用していろいろなところで優れた教育実践が行われる
こと、です。(そして、その付随として、日本語教育者の「意識」を変革することです。) 
こんなふうに大それたことを考えるのは、実は多くの日本語教育者はalternativeな教育
企画と教材を求めているとの認識?感覚?がぼくにあるからです。つまり、期待され求め
られているのは具体的な(包括的な)alternativeな提案であって、(a)教え方のアイデア
や、(b)習得や習得支援に関する理論的な「能書き」ではないし、(c)特定の文法現象につ
いての日本語学的な研究や、(d)第二言語習得の原理に関連する実証的な研究の知見でも
ない、と思います。世間的には(a)から(d)のようなものが求められているようにも見えま
すが、実際に「心の底から」求められているのは、具体的な(包括的な)alternativeな提
案だと思います。しかし、多くの日本語教育者は「基礎段階の教育で文型・文法事項を柱
とした教育以外に、組織的な教育(つまり重要な諸事項・諸内容を相当程度に網羅してい
る教育)はできない、つまり「画期的な」alternativeな教育企画や教材は考えられない
と思っているフシがあります。もしalternativeが不可能であるなら、基礎から中級にか
けての日本語教育の「停滞」は今後も続くことになります。そして、そんな「従来通り」
の枠組みの中では、教授者が(a)から(d)のようなことを勉強して身につけたとしても、「焼
け石に水」です。…というような認識でぼくはalternativeを提案し続けています。

次に、ぼくが提案するalternativeの発想やアイデアの源はなにか! ヴィゴツキー? バ
フチン? バーガーとルックマン? ブルーナー? そうではありません。じゃあ、クラシェ
ン? それもちがいます。もちろんかれらのおかげでぼく自身の考えがより洗練されてく
るわけですが、そこが源ではありません。源は、明らかに「ぼくが学習者だったら、こん
な教育企画をしてほしい、こんな教材がほしい、こんな授業をしてほしい!」です。この
源から虚心坦懐(←この使い方、少し変かも)、融通無碍に考えて発想やアイデアを創出す
れば、大きく間違うことはないと思っています。(←ほんまかいな!<桂文枝さん風に>) 
「間違うことはない」の根拠は?

何か「物事を見る目」のようなものがあるのでしょうか? 虚心坦懐・融通無碍に考えれ
ば誰でも物の道理はわかるはず!と思っているフシがあります。

羅針盤:仕事と価値(201802)

昨日(1月30日)は、早稲田で竹田青嗣氏の講演があり、細川さんといっしょにディスカ
ッサントとして参加しました。会場は40人くらい参加の満員御礼でなかなかおもしろい
議論ができました。で、この機会をきっかけに考えたこと。

わたしたちは、日本語教育(学)の仕事をしています。わたしたちの「お客さん」あるい
は受益者は、日本語教育の場合は日本語科目を履修してくれている学生、日本語教育学の
場合は、学部や大学院の授業を履修してくれている学生及び研究指導学生です。このあた
りは、教育領域のお仕事となります。この上に、日本語教育学では、学会発表をしたり論
文を書いて出版したりすることも(まあ)仕事です。そして、そういう成果をまとめて本
を出版するのも「おまけ的な」仕事です。わたしが属する学校では、研究業績の基本は論
文です。本は「おまけ」です。このあたりは研究領域のお仕事となります。さらに、大学
教員としては、管理運営(委員会出席や各種書類作成など)と社会貢献があります。

教育領域の仕事は自身が直截担当している授業をつつがなくやっていればそれでとりあえ
ずは「合格」です。日本語教育(学)関係の教員の場合はコーディネーションの仕事が大
いに時間と手間がかかりますが、この仕事は(大学の立場からは)あまり評価の対象にな
っていないように思います。教務関係の仕事(授業科目の編成、教師の任用と配置、TAの
募集・配置など)もかなり時間と手間を要する仕事ですが、(同じく大学の立場からは)「雑
用の一種」のように扱われているように思います。一方、研究領域の仕事については、と
にかく具体的な業績を出すことが求められています。研究をしていても、具体的な成果を
出すことができなければ、やっていないことになります。

で、ここからが本論。教育の仕事も研究の仕事も、つつがなく堅実にやっていればそれで
「マル」です。教育の特段に高い質や、コーディネーションをしっかりやってチームの教
育成果を充実させることや、論文が高く評価されることは、特に期待はされていません。
最近は、各大学で、教員の優れた教育実践や研究成果に対して学長賞などを出しています
が、その選考基準は何だかあいまいなようです。(例えば、「学生による授業評価に基づい
て」というのであれば、妥当性は別にして、基準は明確です。アメリカなどではそういう
基準日基づくawardがあります。) また、研究に関しては、教育活動としては主として日
本語を教えるということをしている人でも、文学や宗教や昔の日本語などの研究をしてい
て何の問題もありません。それと同じデンで、純粋に文法や音声や社会言語学的な研究を
していても、やはり何の問題もありません。つまり、日本語教育(学)という看板を掲げ
ていても、研究は「好きなように」やって「差し支え」はありません。一大学教員として
の研究領域のお仕事としては、日本語教育に資するかどうかなんてぜんぜん考える必要は
ないのです。

大学のセンセのお仕事としては、日本語教育(学)の人間であっても、ハッチャキに教育
を革新したり、日本語教育に資する新研究領域を開拓したりするなどは取り立てては期待
されていないということです。例えば教育活動に関していうと、一部の非常勤講師の人た
ちに居心地の悪い思いをさせてしまうかもという危険を冒してまで大胆な教育改革をする
必要はない、ということです。(専任教員という立場を利用して「わがままな」教育改革を
している先生はいらっしゃるようです!) 研究についても、新規の(珍奇な?)研究領域
に大胆に踏み込んでいくよりも、オーソドックスな研究をしたほうが「お友だち」がたく
さんできていいかもしれません。

結論。ぼくは長年、現在と将来のたくさんの学習者のためにと思って教育企画と教材制作
などをしてきました。また、日本語教育(学)に資する研究をしたいと思って、バフチン
の研究をし、現在はバーガーとルックマンの知識社会学やブルーナーのフォークサイコロ
ジーの研究などをしています。コーディネーションの仕事も特に「今は!」というときは
ひじょうに力強くやってきました。でも、「学習者のため」とか「日本語教育(学)に資す
る」というのは、自身の仕事の指針とドライブ(駆動力)として(密かに?)持っていれ
ばいいわけで、人に喧伝したり、その部分で認めてもらって評価してもらおうなどとは思
わないほうがいいのではないかと、この数日に気がつき?ました。つまり、ぼくは、やる
べき仕事をつつがなく堅実にやることと自身が「価値あり」と思うことをうまく結びつけ
ながらやっている、ただそれだけでいいじゃないか、ということです。

ぼくは経済学部出身です。そして、1年生の経済学原論で先生が「経済活動とは価値を産
出することだ!」とおっしゃったのを今でも覚えています。つまり、経済活動は本来「お
金を稼ぐこと」ではなく、「価値を創造することだ」ということです。(ただし、既存の価
値の創造も価値の創造の一種であることに注意!) この一言は、それ以降のぼくの仕事上
の生き方に羅針盤を与えているように思います。ぼくにとって、一つひとつの仕事につい
て「価値」を考えないでそれをすることはできません。ただし、その場合には「何が学習
者のためになるのか」、「何が日本語教育(学)に資するのか」はあらかじめわかっている
わけではなく、この部分自体も根本としての議論の対象になります。いずれにせよ、その
あたりのことも(無意識的にでも、真摯に意識的にでも)考えながら仕事をしている人と
の対話は、基本の部分が共感できて、とても楽しいなあ。皆さんも、そんなこと、せめて
時には、考えてね!

羅針盤:たかが言語教育、されど言語教育(210801)

新年あけましておめでとうございます。本メルマガ、お友だちにもぜひご紹介いただきた
くお願いします。

ぼくはたぶん誰よりも日本語教育と日本語教育学のことを考えていると思います。四六時
中? それはちょっと言い過ぎですが、「ON」の時間が多いです。そんな事情もあって、「OFF」
のときでもいろんなことや言葉が浮かんできます。浮かんだ言葉 ─ 「たかが言語教育、
されど言語教育」です。

前者の「たかが…」のほうは、わたしたちがやっていることは言葉を教えるという「ちっ
ぽけな」仕事です、というような意味になるでしょうか。言語教育を卑下しているわけで
す。そして、後者の「されど…」のほうは、言葉を教えるという「ちっぽけな」仕事なん
だけど、(a)実はそれは学習者一人ひとりが自身の声を獲得することや新たに「豊かな」ア
イデンティティを形成することに関わる重要で重大な仕事だし、また、(b)うかつにその仕
事をやっていると、すごーく学習者を非人間的にあつかってしまうよとの「警鐘」です。

で、ここからが、「おもしろい話」なのですが、大学のせんせたちは、「されど…」のほう
に関してあれやこれやたくさん「発信」(シンポジウムなどで話をしたり、論考や記事で書
いたり)していらっしゃいます。それは、多くの「フツーの」日本語教育従事者は「たか
が…」で仕事をしてしまっているという認識に基づいているのでしょう。まあ、それはそ
れでいいのですが、どうもぼくはそういう趣味ではありません。

けっこういろんなテーマについてそうなのですが、ぼくと大学のせんせたちの認識はまあ
一致しています。しかし、行動=actionが違うようです。「たかが言語教育、されど言語
教育」なんて、ちょっと考えれば当たり前のことで、そんなことは声を大にして喧伝する
ほどのことでもない、と思ってしまいます。 ぼくの場合は、「たかが言語教育、されど言
語教育」という認識の下に、もう一度前者に立ち返って、言語教育の実際の姿を「たかが
言語教育、されど言語教育」を体現するものに作り替えたいと思って仕事をしているよう
に思います。

このあたりは、役割分担ということかもしれません。つまり、「されど言語教育」と喧伝し
てくれる人も必要だと思います。しかし、「たかが言語教育、されど言語教育」を体現する
ように作り替える方向で行動=actionをする人も必要だと思います。そういう人が、ちょ
っと少ないかなあ。

すみません。今年も早々に「ええカッコ」言うてしまいました。本年もよろしくお願いし
ます。

羅針盤:負けいくさ?(201712)

今回は、「負けいくさ」がキーワードです。(すみません、たたかいの譬えを出すのは憚ら
れますが、ご容赦ください。) 「負けいくさ」の反対は「勝ちいくさ」あるいは単に「勝
利」です。手短に言うと、日本語のせんせいはどうも「負けいくさ」が多いように思いま
す。(これって、精神衛生上もよくないですよね!) で、「負けいくさ」が込む原因を考え
てみましょう。

 (1)具体的な作戦計画に無理がある(授業スケジュールの各ステップ<ユニットの中の
   授業計画やカリキュラムの中のユニット計画>の進み具合に無理がある)。
 (2)作戦計画そのものに工夫がない(授業の各ステップやユニットの各ステップが巧み
     に繋がり合って日本語の習得が促進されるようにカリキュラムやユニットの中の授
     業が構成されているというふうになっていない)。
 (3)(1)と(2)と関連して適切な学習と学習指導のためのリソースがない。
 (4)(1)と(2)(と(3))はOKだが授業を実施する教授者がその趣意を理解していない。
 (5)(4)にも関連して教授者の資質や技量が「不足」している。

(1)から(3)は、教育の企画・計画や教材の問題です。(4)と(5)は教授者の問題です。((4)
はコーディネータと教授者のコミュニケーションの問題とも言えますが) 

さて、この5つの理由の中で、「負けいくさ」が込む大きな原因となっているのはどれでし
ょう。うちの職場に限定しないで日本語教育全般を考えてみると、その原因は間違いなく
(1)から(3)だと思います。簡単に言うと、「優れた作戦とそれを実行するための適切なリソ
ース」がなければ、いくら「兵隊」ががんばっても「勝つ」ことはできません。日本語の
せんせいは、「勝つ見込みのないたたかいを延々と強いられている」というイメージがわた
しには浮かんでしまいます。

一方で、(2)と(3)がOK、つまり巧妙に企画されたカリキュラムと学習と教育実践を支える
リソースさえあれば「勝てる」かというと、まったくそんなことはありません。実際の教
育実践においては、(1)の良し悪しが大きく物を言います。どんなカリキュラムや教材を採
用するのであれ、コーディネータは(1)の部分をひじょうに熟慮して綿密に行わなければ
なりません。(1)がうまくできてさえいれば、どんなに「しょぼい」教材を採用しても、ひ
どい「負けいくさ」は回避することができます。逆に、優れた教育企画とそれを支えるリ
ソースがあっても、(1)がうまくできていないと、「負けいくさ」になってしまいます。

ところで、ここで言っている「勝つ」というのは、教師と学生が共にいい気分で授業や学
習や学習指導の時間を過ごすことができて、各ステップの所期の目標を達成して、その積
み重ねもうまく行ってコースの目標に達することができる。そして、教師も学生もそれを
実感(取りあえずは「実感」!)することができる、ということです。そして、「負け(い
くさ)」というのは、その逆で、学生は所期の目標を達成することができず、教師も学生も
達成できていないことを実感してどちらも「不満足」な気分になることです。

結論です。コーディネータは、学生たちと授業担当教師に「勝たせて」あげないといけな
い。「勝たせて」あげて、ハッピーにする責任があると思います。「負けいくさ」の経験は
みんなにとってつらいです。日本全国のコーディネータさん、がんばって!!

羅針盤:ぐずってぐずぐずしている場合じゃない!(201711)


羅針盤にはあまりふさわしい話ではないかもしれませんが…。このフォーラムを購読して
くださっている皆さんはすでにご承知のように、ぼく自身は明らかに日本語教育の革新、
日本語教育学の革新をめざして日々仕事をしています。フォーラムを読んでいる皆さんも
同じようなスタンスだと思います。その一方で、日本語教育の世界には、(1)はっきりと
した主義主張がある場合であれ、(2)「何となく」であれ、あるいは(3)単に今やっている
ことを変えたくないという理由であれ、(4)現状ではいけないと思うが変えるのがこわい
ということであれ、現状を変えようとしない・変えたがらない人がいます。以下、それぞ
れの人たちについて論評します。

(1)の人たち
(1)の人たちは自身がやっている教育実践を肯定している人、あるいはそれに満足してい
る人です。この人たちについては、まずは、それ以外の教育実践の方法を知っているかど
うかが問題になります。それ以外を知らないのであれば、単に「おめでたい人」です。そ
れ以外を知っているが現在自身がやっているアプローチや方法がいいと思っている場合
は、まずは「本当に『知っている』と言えるほど知ってるの?」と聞きたくなります。
「それ以外を一応知っているが詳しくは知らない」というのは、専門職の場合の「知って
いる」にはなりません。結論として、この種の人たちは、「それ以外を知らない人」(純朴
な?人)、「それ以外を知ろうとしない人」(専門職とも認められない、お勉強が嫌いな
人・できない人)となります。ただし、ご自身の研究方面のお勉強は抜け目なく?して
ことはよくあります。

(2)の人たち
まあ、このタイプの人たちは、ご自身でもご自身のことを「専門職」とは見ていらっしゃ
らないでしょう。「何となく」であまり深く考えていらっしゃらないわけですから。「専門
職になろう!」とお決めになってから話をしたいです。

(3)の人たち
自身のことを専門職と思っている人でこういう態度の人は、専門職と思うのをやめてほし
いと言いたい。この種の人は、今やっていることを変えたくないので、別の教育実践の方
法を知ろうともしません。まあ、言ってみれば消極的な「保守」ですね。今はどんな領域
でも専門性は日進月歩です。30年前、40年前と何の変わりもない「(日本語を教える)専
門技量」(←専門技量と言えるほどのものとも思えませんが)を身につけて、その技量で
職業的な生涯を過ごせるなんて思うことが、そもそも専門職失格です。まあ、この人たち
も、(2)と同様に「出直してきて!」ですねえ。

(4)の人たち
(4)の人たちは、端的に現状では「日本語教育者はいい仕事ができていない」と認識して
いるが、「現在」を捨てて「新しい船」に乗ることをためらっている人です。この種の人
たちは、現状ではだめ、現在の船はポンコツで今にも沈みそう(もう沈んでる?)と思っ
ていて、船を乗り換えなければ!と思っている。そして、そこに「新しい船」が助けに来
てくれた。しかし、その新しい船が「古い型の船の新造船」ではなく、形状も動力も操船
方法もこれまでのものとは異なる。それで、「わたしが乗組員の一人になって操船できる
だろうか」そして「(実験室から出てきたばかりの?)新型船だからまだいろいろと問題
があるのでは?」とビクビクしているわけです。この人には、「今乗っている船が今にも
沈もうとしているのに、『操船できるかしら』なんて言ってる場合ですか! 早く、あなた
もあなたのお客さん(学習者)といっしょに乗り換えなきゃ! そうしないと、あなたも
あなたのお客さんも、溺れてしまうよ!」と言いたい。表題の「ぐずってぐずぐずしてい
る場合じゃない!」はこの人たちへの言葉です。

(4)のところで「あなたとあなたのお客さん(学習者)ということを書きました。ぼくが
日本語教育の改革をしたいのは、別にせんせいたちのためではありません。「お客さん」
である学習者のためです。他の職種で新しい知識や技能を身につけないのは、それはご本
人の自由です。ご本人だけがそのことの結果を引き受ければいいのですから。しかし、教
えるという仕事をしている場合は、その向こうに学習者がいます。せんせいが新たな知識
や技能や方法を知って身につけないと、学習者の「不利益」が続きます。つまり、革新の
利益が得られない。このように、教育のアプローチや、教科書や、授業がポンコツのまま
だと、いちばん「デメリット」を被るのは学習者です。上の(1)から(4)の人たちは、自分
たちの仕事をそのように見ているでしょうか。古いカリキュラム、教科書、教授方法で仕
事をしていらっしゃるのを見ると、エンジンは旧式で馬力がなく老朽化して調子も悪く船
底は穴だらけで海水がジャンジャン入ってくるポンコツ船(カリキュラムと教科書)を、
何とか沈まないようにしながら動かしているというふうに見えます。そして、そんなふう
に手も顔も油で真っ黒になって汗だくで働いている自身を見て「いい仕事してる!」と思
っている人も多いように思います。確かに「奮闘」しています。でも、…。

「いい仕事してますねえ」というのは、「なんでも鑑定団」という番組で鑑定に出された骨
董を見て鑑定者中島誠之助が思わず口にした言葉から流行したものです。そのように「い
い仕事をする」というのは、(作品として優れた産物や)結果を出すことです。仕事に「奮
闘」することではありません。中島誠之助さんは、泥だらけで汗ずくになって仕事をして
いる陶工を見て「いい仕事してますねえ」とは決して言わないでしょう。「いい仕事」とい
うのは優れた結果を出す仕事です。ポンコツ船の乗組員はやめて、新型船の乗員になれば
いいのにねえ。

羅針盤:日本語教育学は独立した研究領域になった!?(201710)

ルビュ言語文化教育の638号に本田広之さん(北陸先端科学技術大学)が「自著を語る」
を書いていらっしゃって、その流れで日本語教育学の現在の状況や本田さんが当該の本を
書いた意図などを語っていらっしゃいます。本田さんの話は2つの意味でぼくには「楽観
的」だと感じました。一つは、日本語教育学はすでに独立した研究領域になっているとい
う認識。もう一つは、本田さん自身が(当該の本を書いたことも含めて)日本語教育学を
実践していらっしゃるという認識です。

個々の認識についての反論はどうもうまくできないので、ぼく自身の認識や考えをつらつ
らと書きたいと思います。根本は「日本語教育学とは何か」の問題です。本田さんの論で
は「日本語教育に関わっている大学のセンセ等が学問をしたらそれが日本語教育学」とな
ります。まあ、そういう見方をすれば、日本語教育に関わっているセンセたちは相応に研
究発表をしたり論文を書いたり本を出したりしているわけで、相応の日本語教育学の隆盛
があることになります。そして、自身の研究が地元のサインシステム制作会社の方や議員
さんの目にとまって相談の申し出があったというエピソードを紹介されています。う…ん、
何だか変! それって、日本語教育学? 日本語教育に関わっているある種の大学のセンセ
たちからは「日本語教育は日本語研究の宝庫です!」という言葉をよく聞きます。これも
ちょっと違う気がする。ぼくとしては、間接にでも日本語教育の実践に資することができ
るものであってこそ、日本語教育学だというイメージが強いです。このイメージで行くと、
ヨソ(日本語研究や効果的なサインの制作など)に貢献する研究はそれはそういう研究で
あって、日本語教育学とは言えないということになります。抽象的に言うと、日本語教育
の実践からアウトバウンドしてヨソに行ってしまう研究は日本語教育学ではない! 一旦、
研究として実践からアウトバウンドしたとしても、日本語教育の実践に戻らないとつまり
インバウンドしないと日本語教育学の研究とは言えないでしょうという気持ちがぼくには
「根のように」あるようです。

「それなら、お前は(間接にでも)日本語教育に資する研究をしているのか」と問われる
と自信を持って「Yes!」と言うつもりはありません。院生の修論や博論の指導のときに世
の「日本語教育学関係のセンセ」たちは「あなたの研究がどのように日本語教育に役に立
つのかを書きなさい!」と指導すると多くの院生から聞きます。ぼくは「斯く斯くのよう
に役に立つというようなことは書くな!」と指導しています。「研究で明らかになったこと
が直截に教育実践に役に立つなどというresearch into practiceの発想はあまりに単純
だと思うからです。

結論に向かう…。日本語教育に関わる大学のセンセは、研究活動をして具体的な「成果」
を出すのがいいと思います。それは、フツーに大学のセンセとしてのお仕事の一部だから
です。そして、それをしていないと、他の部局のセンセたちから「大学のセンセの端くれ」
とも認められません。そして、「立派な大学のセンセ」と見られるためには、その研究と同
分野の研究者や隣接他分野の研究者から十分に評価される研究をしなければなりません。
研究というものは研究なので、研究の発信元も発信先も否応なく研究者とならざるを得な
いと思います。研究を評価するのもやはり研究者です。(日本語教育に関わるセンセ同志だ
けでやり合っている間は、その研究が「本物」かどうかわかりません!)

ぼく自身としては、自身の研究は、外国出身者に対する日本語教育という言葉を扱う仕事
に真剣に従事している者らしい視点や観点や通常の研究者にはない実用志向などが織り込
まれているものでありたいと思っています。そこのところで、日本語教育に従事している
研究者は「おもしろいなあ!」「なかなか鋭いなあ!」と評価されるようになりたいと思っ
ています。もちろん、繰り返しのようになりますが、そのおもしろさや鋭さはプロパーの
研究者にはないものがあるという程度のことです。総合的な研究としてのクオリティは、
プロパーの研究者に敵うわけがありません。年季と「読書量」(学識や博識ぶり)があまり
にも違います! その一方で、facebook記事
(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=799202946908009&id=100004549
323842)
で書いたような、教育実践者による教育実践を検討するためのニュールック応用言語学の
ような研究もしているし、多くの方々といっしょにそういう研究活動をして一つの研究領
域として確立したいなあと思っています。

結論。「あなたはなぜ研究をしているのですか?」と問われたら、ぼくの答えは「それがお
仕事だから」です。しかし、続いて「単にお仕事だから研究をしているのですか?」と聞
かれたら、「『単にお仕事だから』ではありません。もう一つのぼくのお仕事である日本語
を教えるということとぼくの中でつながっていて、その両方を行ったり来たりするのがお
もしろいからです」と答えます。ですので、ぼくにおいては、お仕事の同僚とはその両方
を行ったり来たりしながら議論するのが楽しい! 7月10日発信のICPLJの記事
(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=787645494730421&id=100004549
323842)
の中で紹介したサンフランシスコ州立大学の南先生もきっと同じようにおっしゃるだろう
と思います。そんなぼくや南先生などを見て、研究も日本語教育実践も両方する人に、院
生たちや若い実践者の方たちが成長していってくれたらいいなあと思っています。それに
しても、研究というのはやっかいなヤツですが…。