2018年6月23日土曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 番外編:人間の思考とディスコース活動の超俯瞰①

 人間の思考とディスコース活動を超俯瞰してみたいと思います。東洋の伝統は「不勉強」で、とりあえず、哲学というものを発明し発展させた西洋の伝統で書きます。

1.活動に付随しないディスコース活動の始まり
 もともとの言語活動は活動に付随していた。やがて、見聞きしたことを語り伝えるということが行われるようになった。言語の「脱活動化」の第一歩である。やがて、歴史の語り(ホメロスなど)や創世神話(ギリシア神話、各部族の神話)などが語り継がれるようになる。だいたい紀元前8世紀頃です。
2.哲学の誕生
 1までは、人間は「そもそもこの世界とは」「存在とは」「人間とは」などは考えませんでした。そういう「そもそも」が考えられるようになるのは、紀元前6世紀ごろのタレス、アナクシマンドロス、ピタゴラスなどの「最初の哲学者」たちからです。
 ギリシアのポリスで暮らす市民たちは「不労階層」つまり働かないで日々を暮らしているヒマな人たちです。かれらがすることは、アゴラに行って、都市国家の運営(植民都市の建設や戦争のこと)について喧々ガクガクの議論をすることと、そうした議論の前や後にアゴラのあちこちで理屈っぽい議論を戦わせる/楽しむことです。なんせ「不労階層」ですから、時間はたっぷりあります。そんなコンテクストでソフィストが登場し、やがてソクラテス「革命」に至るわけです。
 ここで注意。ソクラテスあたりまでは、哲学といっても、書記言語活動はまだ普及していませんでした。実際、ソクラテスは書いた物を残していません。わたしたちがソクラテスを知るのは、プラトンのソクラテス言行録を通してです。
 ソクラテスは簡単にいうと「そもそも〜とはだんだろう」と探究することを一つの重要な言語活動として確立しました。それが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシア哲学の黄金期を作り、西洋哲学の基盤を築いたのです。
3.ギリシア哲学とキリスト教
 一気にローマ帝国の時代に飛びます。380年にキリスト教はローマ帝国の国教となります。当初確固としたキリスト教の教義体系はありませんでした。それを確立したのは、アウグスティヌス(『神の国』22巻、413-426年)です。アウグスティヌスの教義は、超わかりやすく言ってしまうと、プラトンのイデアの部分に神を入れ替えた、プラトン主義の翻案番です。ですので、アウグスティヌスが確立したキリスト教は「民衆のためのプラトン主義」と揶揄されます。これがキリスト教での、神が、世界も、動物も、人もお作りになったという考え方になります。人間も含めて万物は神の創造だということです。
4.人間理性への注目の大きな第一歩 ─ デカルト(17世紀半ば)
 デカルトはいわば人間を神の意思あるいは理性の「出張所」と考えました。「神は、世界創造の仕上げとしてみずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた」となります。一方に、神の理性(Ratio)を反映した世界を貫く理性法則としてのratioがあって、もう一方に、神によって神の似姿として植え付けられた人間のratioがあるという構造です。デカルトは、徹底的な懐疑によって行きついた「私は考える。ゆえに、私は存在する」という命題で、人間理性の実在性を論証によって基礎づけたことで理性主義の扉をあけました。デカルトについては、身体と精神は区別されうるという身-心二元論も注目しておかなければなりません。
5.人間理性を考えるにあたって、神と「縁を切った」カント(18世紀終わり)
 カントは、ある範囲内でのわたしたちの理性的認識の効力を認めること、つまり神の理性の媒介なしにもある範囲内でわたしたちの理性的認識と世界の理性的構造とは一致しうることを主張しようとしました。カントは、わたしたちの純粋な理性的認識の有効範囲を理性そのものの自己批判によって明らかにしようとし、その課題に答えることができたとされています。それが、『純粋理性批判』です。カントは「理論的認識の問題を考えるに場面に神や神の理性を持ち出すのはおかしい」と主張したので、「カントは神様の首を切り落とした(ハイネ)と言われています。
6.デカルトからカントまでのまとめ
 デカルトの『省察』が1641年刊、そしてカントの『純粋理性批判』が1781年刊です。つまり、デカルトからカントに至るのに150年もかかっています。デカルト以前は、人間は神の僕(しもべ)、農夫などは「迷える子羊」だったのだと思います。 つまり、神なしには人間という神秘的な存在が考えられなかったのだと思います。デカルトは、人間の理性を徹底的に「疑って」、「オレら、現に、こうして考えてるやん」というところに強烈なスポットライトを当てた。そして、この「現に考えていること」と世界の構造がどのように関わっているかを徹底的に反省(批判)して、わたしたちが考えること、つまりここでは理性的に認識の有効範囲を画定したのがカントだ、ということになるかと思います。理性の、神から人間への「引っ越し」と譬えてもいいかもしれません。このまとめは、かなりぼくの「推測」が入っています。
7.ドイツ観念論とヘーゲル
 カントの3つの『批判』本から1831年のヘーゲルが没するまでの約半世紀は、ドイツ観念論の時代です。カントの哲学を継承し展開したフィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルが登場します。この時期は、ギリシア哲学に匹敵する哲学のもう一つの黄金時代です。
 カントからヘーゲルに至る重要な経緯は、ぼくのこのエッセイの「タネ本」である『反哲学入門』(木田元)でとてもわかりやすくまとめられていますので、それをそのまま引用して、ヘーゲルまでの番外編①を終えようと思います。

「ドイツ観念論の展開のなかで、カント哲学にあった認識と実践、理論理性と実践理性の二元性が克服されてゆき、それも自由な実践理性寄りのかたちで一元化されてゆきましたので、(カントが論じた─筆者注)カテゴリーも単なる認識のための思考形式にとどまらず、認識をもふくめた主幹の活動一般、つまり宗教的・倫理的・政治的・社会的・芸術的活動などの形式としてかんがえられるようになってゆきました。
 一方、世界の方ももはや単なる自然界としてではなく、歴史的な世界として捉えられるようになります。というのも、フランス革命の基盤となったフランス啓蒙思想や、その強い影響を受けたドイツ啓蒙思想 ─ カント哲学はその所産 ─ が「光」として掲げた理性は、いわば無時間的、無歴史的なもの ─ つまり、古代のギリシア人にあっても、18世紀のフランス人やドイツ人にあっても、まったく同じ理性 ─ と考えられており、フランス革命軍はこれを旗印に、ドイツ人をも封建的圧政から解放してやるんだとドイツに侵入してきた(のですが、ドイツ人の方では、ドイツ民族には中世以来固有の歴史のなかで培われてきた民族的個性があるのだと言ってこれに抵抗しました。いわば世界を歴史的に見はじめていたからです。こうした世界の見方がドイツ・ロマン派の芸術運動の一つの動機にもなりました。シェリングやヘーゲルは、まさしくそうした運動のさなかで自分たちの思想を形成していったのです。
 「理性(Vernunft)」というラテン語のratioの訳語に使われてきた言葉に代えて、生粋のドイツ語である「精神(Geist)」という言葉が愛用されるようになった背後にも、そうした動きがありました。
 こうして、世界は歴史的世界として受けとられ、それに応じて主観の方ももはや個体的な認識主観としてではなく、歴史的世界を形成してゆく民族精神として、いや、さらには世界史を形成する人類の精神として捉えられることになります。(木田『反哲学入門』pp.156-157)

 
  

2018年6月22日金曜日

グローバル時代の庶民の教養②:大学のセンセのあり方

 大学のセンセのあり方について、今のぼくの考えを少し書きたいと思います。まずは、大学のセンセに関する2つのエピソードから。

 江戸川柳に「先生と言われるほどのバカでなし」というのがあります。大辞林の説明は以下の通り。「先生と言われて気分をよくするほど、馬鹿ではない。また、そう呼ばれていい気になっている者をあざけって言う言葉。」 あれっ? 実は、今日の今日までぼくは、「学校の先生という人たちは、社会経験がなくて世間知らず。わたしはそんな世間知らずの人間ではない」というような意味で理解していたし、使っていました。こんなふうに使っている人、多いですよね。
 もう一つのエピソード。これは、昔読んだ金田一春彦の本にあった話。著名な万葉集学者犬養孝は、大学の講義で朗々と万葉集の中の歌を詠むそうです。そして、最後に「ええですなあー」と感慨を込めて叫ぶそうです。その後で、何が、どう、いいのかの説明がふつーはあるのだろうと思いますが、金田一さんの話では、「ええですなー」で「はい、次の歌」という風情でした。とにかく、金田一さんは、この「ええですなー」と叫ぶという部分を「微笑ましく」強調されていました。この本を読んだのはもう40年くらい前のことですが、本の内容はすっかり忘れましたが、このエピソードだけは今も感慨深く覚えています。感慨としては、「そんな先生がいたら楽しいなあ! 素敵だなあ!」です。今のぼくの目線でそのときのぼくの感慨を解説すると、「大学のセンセというのは、研究対象の作品や、思想や、テーマに心底惚れているんだ。好きで好きで、もっと追究したくてたまらない、他の人にもそのおもしろさや楽しさを話さないではいられない、そいういう人種なんだ」ということです。現在のぼくの身近にもそんな先生方がけっこういらしゃいます。(でも、残念ながら「おもしろさや楽しさを話す」の部分は、「ええですなあー」ではいけませんので、抑制されているように思われます) その一方で、シンドそうに?義務的に?研究活動をしている先生もいらっしゃいます。端的に、前者の先生が「本来の大学のセンセ」なのだと思います。つまり、本来、大学のセンセというのは「世間知らず」でよくて、「好きが昂じて、好きなことがそのまま仕事になった」という人がいいと思います。後者のセンセは、「本来」でない感じがします。ああ、このあたり、社会科学系のセンセはあまりに世間知らずなのは困りますね。社会科学系を除く人文系のセンセの話です。
 
 で、次は、前回ご紹介した與那覇さんの2つの本から。かれは、従来大学のセンセたちがやってきた、上の「ええですなー」のスタイルや、自分の弟子を育てることだけに関心をおいた教育では、これからの大学が期待されている役割は果たせない。これから、大学でやらないといけないのは、教養教育と知性教育であると主張しています。
 一つ目の「なぜ日本人は存在するのか」では、前回のblogで紹介したように、教養について論じられています。彼の「大学で教養を身につける」という場合の教養は、「人間とはどのような存在か、社会はどのように形成され成り立っているのか、人類はこれまでどのような文化形成・自己形成の歩みをしてきたのか、現在科学技術の進歩も含めてどういう段階に至っているのかなどについて、哲学、人文科学、社会科学、自然科学横断的に俯瞰する視線を養うこと」という感じです。同感です。
 二つ目の「知性は死なない」では、知性が論じられています。彼が言う知性のキモは、(1)自身の考えを持ちそれを(書物や他者との対話を通して)更新し続けること、(2)自身の考えをしっかりと言語化(理路整然とした言葉の形で他者に伝えること)できること、です。これも納得。

 はい、結論に行きます。
1.大学のセンセは、「ええですなー」系の先生と、教養教育・知性教育をやる先生のミックスがいい。前者は、本来の大学としてやはり重要。後者は、まさに21世紀を生きる若者たちのための教育として重要。
2.教養教育と知性教育に関して重要なことは、内容が歴史であれ、経済学であれ、心理学であれ、文学であれ、どんな分野の先生でも、それぞれの分野を「舞台」としながら教養教育や知性教育ができること。

 はい、こんな感じです。
 で、次の課題は、外国語教育(学)を担当する大学のセンセのことです。外国語教育(学)担当のセンセは、(a)1と2のどっちをするのか、両方するのか、(b)外国語の技量というのは「現金」なものです。その「現金」な技量の養成をどうするのか、これまでと同じくらい重視するのか、教養教育や知性教育の要素が入るから少し重みを減じるのか、あるいは言語的な技量の養成と教養・知性教育はうまくやると「両立」するので重みを減じる必要はないのか、などを知性的かつ教養的にクリティカルに検討する必要があります。もちろん、一元的に「みんなこうするべきだ!」と主張する必要はないのですが、21世紀の現代において、何が期待されているかを検討することが大事だと思います。

2018年6月13日水曜日

グローバル時代の庶民の教養:『日本人はなぜ存在するのか』(與那覇潤)を読んで

 與那覇潤の『日本人はなぜ存在するのか』を読みました。帯にはなぜか「“グローバル人材”よ、さようなら」と書かれています。さらにその下には、小さく「『教養学』入門の決定版」とあります。
 與那覇潤との「出会い」は毎日新聞(2018年4月24日(日))の書評「鬱を抱える当事者だからこそ見える社会、大学、そして知性のあり方」(https://mainichi.jp/articles/20180424/org/00m/040/012000c)です。ただし、そこで紹介されている本は著者のもう一つの著書『知性は死なない』です。同書評を以下に再掲します。

『知性は死なない--平成の鬱をこえて』與那覇潤・著(文藝春秋/税別1500円)
 自分が、学者として、あるいはここで書評を書かせて頂いている言論人として、一番何に興味があるかといえば、世の中に転がる「誰も得しないことをあたかも最適解のようにみんなで信じながら進めて、潰し合ったり、うずくまったりしている」現象を解決することだ。そのためには丁寧に現実を見聞きして、じっくり考えて、これが当面の答えなんじゃないでしょうか、ということを言っていく、行動に移していくしかなく、それが自分の仕事だと思っている。その道具として、専門的な知識とか大学・研究機関・メディアという場は極めて有用だ。そんな自分の立ち位置を改めて見つめ直させてくれる本を『中国化する日本』で一世を風靡(ふうび)した著者が書いてくれた。
 本書は現代社会論であり身体論であり大学論である。著者が鬱に苦しみ、2年以上の療養を経て書かれた重み…
(ここまでは無料記事で、それ以降は有料!)『知性は死なない』は2018年の本で、『日本人はなぜ存在するか』は、2013年の本で、文庫本が2018年に出ています。
さて、ぼくが引かれたのは、評者の姿勢と評者を聞きつけた與那覇潤という人です。大学のせんせいというのはある意味で「知りすぎた」人であり、「立場が弱い人や社会の中でしんどい状況にある人にシンパシーを向け(たディスコースを発信し)ながら、自身はのうのうと安泰なご身分に居座っている」自己矛盾した存在です。そして、「正義漢ぶって」大学で講義をしたり本を出したりすればするほど、その自己矛盾を増幅させるほかない存在です。そんな仕事、常人には羞恥心なくしてやれるものではありません。平気でやれる人は、そうとう傲慢な人です。評者や與那嶺さんもそんなふうに考え、羞恥心を感じつつ大学のせんせいというお仕事をされているのだろうと勝手に想像しています。

 で、『日本人はなぜ存在するのか』です。とてもおもしろくて、知的に充実した本でした。そして、著者の議論はちゃんと最終の10章の結論に収斂しています。結論は、21世紀の人類は、自身の運命を自分で決めなくてはならないほどの領域(例えば、臓器移植や、原子力エネルギーの活用など)にまで来てしまった。そして、個人のレベルでは、人間という「小さな存在」の手には余るような決定をしなければならないところ(例えば、臓器移植の決断など)まできてしまった、ということです。
 本当に、21世紀の現在の人間の到達点、あるいはたどりついて「しまった」ところをよくわからせてくれます。また、人間というものの「正体」、現実というものの「正体」もよくわからせてくれます。

 なるほど、「これが21世紀に生きる人間が持つべき教養なのか」と一瞬!?思わせます。しかし、それは「ちょっと待てよ!」…。與那覇さんは、1979年生まれで、今まだ40歳前! この本、60歳くらいの老教授が書いたような本です。「見通し」すぎています!! 「早熟」過ぎ!!(東大出の與那覇さんは、上の書評にもある2014年刊の『中国化する日本』で「一世を風靡した」そうです。ぼくは、『中国化する…』はまだ読んでいませんが。)

 なんかやっぱり與那覇さんは「庶民」じゃないよねえ。ぜんぜん庶民じゃない。そして、世の中の90%くらいの人は庶民、つまり東大や京大などを出た秀才ではなくフツーの人です。ぼくも間違いなくこの90%の中にいます。で、與那覇さんは秀才のいやらしさのないピュアな目線をもっているなあと本を読んで思いました。というか、書評にあるように、與那覇さんが鬱になっていたと言う話を聞いて、この人はきっとピュアな人なんだろうなあと思っていたのが、やはりそうだった、という感じです。で、この與那覇さんが、グローバル人材についてこの本の冒頭ですごくおもしろいことを書いています。ごく結論だけ言うと、グローバルに仕事をするということは、これまでの(国内で「よく似た人たち」といっしょに阿吽の呼吸で「言わなくても」「縷々説明しなくても」わかる)ハイコンテクストな状況での仕事から、背景も考え方も意見も違う、縷々説明しないと決していっしょにやっていけないローコンテクストな状況での仕事になるよ、と言っています。
 で、次にぼくが考えたこと。「秀才の連中がこういうローコンテクストでもリーダーシップを取れるようになると、ますます秀才たちとフツーの人の「格差」が拡がるなあ…」「しかし、ちょっと待って。秀才たちは実は『頭が固い』のではないだろうか。」「そうなると、秀才でない人こそ、ハイコンテクストにカモフラージュされた多様性を暴いてけんかいや対話をさせる「ピエロ的」対話コーディネータになれるのではないか」、そして、「それこそが、庶民が『特殊能力』を発揮して能動的に活躍できる道ではないか」と考えました。それで思い立ったのが、「グローバル時代の庶民の教養」です。これから、ぼちぼち、このテーマを考えたいと思っています。

 最後の2パラグラフの論理がとてもファジーですね。お汲み取りをいただければ。

2018年5月19日土曜日

大学の先生というのは物好きであることが本来

 ある院生のレポートの中に、「第二言語教育について考えるために、なぜ社会学、心理学、言語学、応用言語学といった分野を見る必要が出てくるのか(ということを自分なりにも考える必要があると感じた。)」との一節がありました。
まず、ちょっと「遊ぶ」と、この文は多義的ですね。つまり、「なぜ」が、「社会学、心理学、言語学、応用言語学」に係っているのか、「見る必要があるのか」に係っているのか、です。たぶん、学生の疑問は、「なぜ(そういう分野を)見る必要があるのか」だろうと思います。では、本題に。
 ぼくのこたえ。二方面で。まずは、学術研究的に言うと、「究明されていないから」。これで、終わりです。明らかになっていないことを、見つけたら、「では、わたしはこのあたりを明らかにします」でよい、ということになります。表題にあるように、大学の先生というのは、本来、物好きです。その探究・究明の活動に「なぜ?」とか「何のために?」は要りませんし、ましてや「何の役に立つの?」などはそもそも大学の先生には「無関係」で、むしろ「役に立つ」云々を考えると、研究が「不純」になります。そして、本来の大学の先生はそれでいいのです(orよかったのです??)。
 次は、日本語教育学?的?に先の質問にこたえると、「現在の日本語教育の状況や、それに従事している人たちはみんな迷妄の中にある。その結果として『いい仕事(学習者に質の高い教育を提供すること)ができている』とはとても思えない」と(ぼくは!)思うので、その迷妄を少しでも「晴らす」ためにそういう研究をする、となります。これは本来の研究として、「動機不純」でしょうか。うーん、「動機不純」という必要はないでしょうね。研究者自身に教育実践への「関心」があって、教育実践を「ながめた」ときに、「どうもそこに(大きな)課題がありそうだ」と思って、「そこ」に注目しておもむろに研究を始めるというのは、正統な研究動機」と言っていいでしょう。日本語教育学としての問題は、「おもむろに」の前(研究動機)と後(研究)の区切り・けじめです。
 で、その「区切り・けじめ」に関連してまた他の院生からおもしろい指摘がありました。その学生のレポートの末尾に「現在の日本語教育の企画や実践がいかに理論的に見ていびつかを説明しても、どれほど受け入れられるのかわからない」という指摘がありました。この学生の指摘は「まさにおっしゃる通り」です。つまり、研究をしてその産物を学会発表や論文や本の形で公にしても、そもそも「迷妄な人たち」の耳や目に入るかどうか、仮に入ったとしても関心をもってもらえるか、関心を持ってもらえたとしても分かってもらえるかど、そしてうまい具合に分かってもらえたとしても受け入れてもらえるか、という問題があります。この学生の指摘は、このようにひじょうに「現実的な」指摘です。研究の中身や質に関わることではありません。そして、現実の世界では「普及」(自動詞&他動詞)ということが中心的な問題になります。「素晴らしい新製品」を開発しても、「マーケッティング」(これは、「他動詞」になりますが)が悪いと、売れないし使ってもらえない、ということです。そして、この「普及」ということを考えると、「ユーザー・フレンドリーであるかどうか」が問題となります。つまり、読んで分かってもらうためには読みやすく分かりやすく書かなければならないということです。しかし、探究・考究を終える前に「ユーザーフレンドリー・バージョン」を書くことはできません。まず学術研究としてしっかりとやって、その上で広く多くの人に分かりやすい本を別途書く、という二段構えでやる必要があると思います。しかし、「学術研究」を経ないと「分かりやすい本」は出せませんので、大いに時間がかかります。(世の中には、「学術研究」を経ないで、いいかげんな「分かりやすい本」を書いている日本語教育学者?がたくさんいる!?)
 研究活動において物好きほど「強い」ものはありません。その分野のことが好きで、「何のために」など考えることもなく探究・考究に邁進できるわけですから。大学の他の分野の先生の様子を見ているとそんな具合です。恐るべし!です。読書量が全然違う!! 
 そんなことで言うと、「そもそもわたしの関心は日本語教育(の教育実践)です」というところが、研究者をめざすことにおいて「動機不純」です。研究という何とも動機が純粋で心が無垢なところに、「日本語教育に役に立つ研究をしたい」などと言う不純な・世間ズレした(・泥臭い)人間が入ろうとするのは、どうかなあ。また、そういうそもそもが「動機不純」な者は、物好きにかないません。じゃあ、どうする? 実践研究という自分たちらしい新たな研究分野を開拓する? それとも「研究」に「身を売る」? どうしましょう? 問題の焦点は、「不純さ」「世間ズレ」「泥臭さ」を克服していかに(再)純化するか、かなあ? (再)純化したら「『研究』に『身を売る』ことになる!」? そうなることもしばしばでしょうが、そうならない道もあるだろうと思います。いずれにせよ、道を拓かなければならないと思いますが。


2018年5月18日金曜日

日本語教育(学)というカイワイ(201805)

ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、
Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ
レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の
人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた?

カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視
点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地
域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周
辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定
の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模
を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界
上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ
イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、
簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン
ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結
びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連
づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし
ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが
いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、
誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。)

さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ
スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー
ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ
イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して
います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度
共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。

カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる
ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう
にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を
何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな
く、カイワイです。

で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい
は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内
実の一致・不一致はしばしば問題になります。

ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ
ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな
いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう
れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学)
というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。
http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。

結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう
に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の
関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで
す。

2018年5月11日金曜日

さまざまなイデオロギー圏(ver.2)

以下、さまざまなイデオロギー圏についてのメモです。
 
※社会文化史あるいは文明史はイデオロギー圏の増殖の歴史である。
※仮想領域のイデオロギー圏の中で具体的な仮想イデオロギー現象(行為、出来事、ハナシ)を張り巡らす。そのように張り巡らされた世界がわたしたちにとって重要な(
siginificant)実在である。
※そして、わたしたちは、主として言語、より広くはさまざまな記号によってイデオロギー界を立ち現せ操縦する(operate)ことができる。
※ 1はいろいろな意味ですべてのベースラインで、短潔で臨機応変な言説実践で構成され共有される日常生活のイデオロギー圏。2から6は、テクスト的に練り上げた言説実践によるイデオロギー圏。そして、それらはしばしば1の脈絡でそれに編入される。そのときは、しばしば「断片的でくずれた」形になる。各イデオロギー圏の間には重要な間テクスト性の関係がある。そして、それらが主要部を占める場合に、7となる。

1.日常生活のイデオロギー圏
※わたしたちが経験するのはイデオロギー的な行為、イデオロギー的な出来事、イデオロギー的な「あなた」と「わたし」である。わたしたちの経験でイデオロギー的でないものはない。
※日常生活のイデオロギー圏は、きわめて多種多様である。生活活動のさまざまな領域、生産や仕事の活動のさまざまな領域を考えよ。ただし、仕事という場合にホワイトカラーの仕事は高次のイデオロギー圏での仕事になることに注意(cf.7)。
※そして、しばしば2から6の要素が変形されて編入される。
(1)生活のイデオロギー圏
(2)生産・仕事のイデオロギー圏
(3)インターアクティブな日常的なトークのイデオロギー圏

2.ナラティブのイデオロギー圏
(1)日常的状況でのナラティブのイデオロギー圏 ─ 一方向的な一人語り的な話
(2)あらたまった状況でのナラティブのイデオロギー圏 ─ 体験・経験などのお話会・講演。カウンセリングセッションや尋問などで引き出されるナラティブも含むか?
(3)自叙伝の世界

3.物語のイデオロギー圏
(1)神話のイデオロギー圏 ─ 原始的な部族の創世神話なども
(2)叙事詩のイデオロギー圏 ─ ホメロスやヘシオドス(口承、吟遊詩人の系譜)、古事記(稗田阿礼)や日本書紀
(3)歴史物語のイデオロギー圏
(4)昔話・説話のイデオロギー圏 ─ 今昔物語集、うつほ物語
 → フィクションのイデオロギー圏へ

4.規律のイデオロギー圏
(1)基本的な振る舞い方のイデオロギー圏 ─ しつけ、約束事、校則
(2)倫理・道徳のイデオロギー圏 ─ 人として生きる道
(3)宗教のイデオロギー圏 ─ 聖典。(2)の要素も含まれるし3の(1)の要素も含まれる。
(4)法律等のイデオロギー圏 ─ 法典、憲法と法律と条例など。

5.学問のイデオロギー圏
(1)自然科学のイデオロギー圏
(2)人文科学のイデオロギー圏
(3)哲学のイデオロギー圏
(4)サイエンスのイデオロギー圏

6.芸術のイデオロギー圏
(1)演劇のイデオロギー圏(イーリアス、オデュッセイア)
(2)戯曲のイデオロギー圏
(3)歴史的物語のイデオロギー圏
(4)物語のイデオロギー圏
(5)小説のイデオロギー圏

7.教養のイデオロギー圏
(1)さまざまなテーマのイデオロギー圏
(2)文化活動のイデオロギー圏
(3)ホワイトカラーの仕事のイデオロギー圏
(4)詩のイデオロギー圏
(5)随筆のイデオロギー圏

Q&A

Q1 なぜ、イデオロギー世界ではなく、イデオロギー「圏」か?
A1 すべての基本は生きることの営みです。そして、わたしたち人間は、自然界で生きる存在でありながら、イデオロギー圏でも生きることを営む存在だということになります。自然界は、環境と身体と生理機能や本能に基づくものとしていわばもともと自然としてそこにあるものなので、自然「界」でよいと思いますが、イデオロギーの世界は、(1)もともとの自然としてはそこにない、(2)人間の創造物としても(a)実在としてそこにあるものではなく、(b)常に構成・再構成を続けて産出と維持をすることによってこそ立ち現れるものなので、仮想領域としてイデオロギー「圏」があって、そのイデオロギー圏に具体的な(言語的や記号的)振るまいによって具体的なイデオロギー現象(行為や出来事やハナシ)を立ち現せ(張り巡らせ)共有するということになると思います。ですので、やはり、このリストでは、イデオロギー圏、です。

Q2 「ナラティヴ」とか「語り」という言葉を、どんな次元で論じるのかで人によって捉え方が違うと思われる。上のさまざまなイデオロギーでは、2としてナラティブのイデオロギー圏を、そして3として物語のイデオロギー圏を挙げているが、例えばブルーナーの言うナラティブはもっと包括的な概念ではないか?

A2 上に書いたように、(1)すべての基本は生きることの営み。その上で、(2)人間には社会文化史的な生きる世界(イデオロギー圏)の発展ということがある。ですので、それをまず望観してみた、ということになります。上に書いたようにイデオロギー圏というのは仮想現実の領域です。そして、その仮想現実の領域があるものとして、わたしたちは言語や記号を操縦して(operate)して、行為、出来事、ハナシなどの具体的なイデオロギー現象を立ち現せて(張り巡らせ)共有する、となります。ここで、ハナシという新しい用語を提案したいと思います。物理的な活動に直截に関連する行為や出来事などのイデオロギー現象とは異なり、物理的な活動とは直截に関連しないという意味で脱脈絡的なイデオロギー現象をかもし出す行為とその産物の総称です。そして、そのようなハナシという用語を使うなら、2から7はすべてハナシとなります。ブルーナーにおけるナラティブは、ここに言うハナシのことを言っている場合もあるし、2を言ったり、3を言ったり、6を言ったりしている場合もあります。なので、広義のナラティブはハナシとし、2に限定してナラティブとしたほうがよいかなあと思っています。