2018年12月23日日曜日

多文化共生と未来共生

 日本での多文化共生の議論は、たいてい文化本質主義的な議論、つまり、日本(人)vs.外国(人)、日本(人)vs.中国(人)、ベトナム(人)、フィリンピン(人)などの構図になるのですが、馳さんはそれではだめだということを感じていらっしゃるのだと思います。それは、以下の一節に「匂って」います。「わかりやすい言葉でいえば「根無し草」では人間はいけない。親の一人がブラジル人でもう一人は日本人、日本で生まれポルトガル語は話せない。こういう例はけっして少数ではない。「私は何者なのか」という悩みに配慮しなければならない。日本語を学んでもらう目的は相互理解だ。相互理解というのは他者を尊重すること。自分が何者なのか、理解したうえで相手の立場も理解し、尊重する。」(馳さんの記事のより) ご存じかと思いますが、大阪大学では未来共生学という新しい学を提唱しています。未来共生というのは、これまでの多文化共生の議論が抱える文化本質主義を克服するための方略です。そのキモは、「共生すべきなのは人間か文化か」(pp.76-79)という栗本さん(栗本英世、現在大阪大学人間科学研究科長)の議論に集約されています。https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56236/... 馳さんの先の一節は、この栗本さんの意見あたりを感じていらっしゃるように思います。 未来共生というのは、簡単に言うと、「共生すべきは人間だ!」ということになり、「みんな違って、みんないい!」という考え方です。日本内や日本人内の多様性に目を向けない共生の議論は、とても寒々しいです。

2018年12月20日木曜日

プロフィール

☆皆さんからのブログ記事へのコメント、お待ちしています。

西口光一 NISHIGUCHI, Koichi PhD.
言語文化学博士
大阪大学教授
国際教育交流センター/言語文化研究科
〒565-0871
吹田市山田丘1−1
ICホール

日本語教育学、第二言語教育学、言語哲学、人文学

☆バフチン関係の本
(1)『第二言語教育におけるバフチン的視点−第二言語教育学の基盤として』(2013年、くろしお出版)
(2)『対話原理と第二言語の習得と教育—第二言語教育におけるバフチン的アプローチ』(2015年、くろしお出版)

☆日本語教科書(NJシリーズ)
・『NEJ:A New Approach to Elementary Japanese−テーマで学ぶ基礎日本語』(vol.1&2)くろしお出版
・『NIJ:A New Approach to Intermediate Japanese-テーマで学ぶ中級日本語』(くろしお出版)
・『Perfect Master Kanji N2』(凡人社)とiPhoneアプリ「Perfect Master Kanji N5-N2」(ナウプロ)
※facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100004549323842
※ブログ:https://koichimikaryo.blogspot.com
※メールマガジン「NJ研究会フォーラム・マンスリー」(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)
※過去の雑誌掲載論文などは、OUKA、
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/browse?type=author&order=ASC&rpp=10&authority=1000050263330 で。

2018年12月15日土曜日

日本語教育の効率性と、人と関わる日本語

 以下の記事は、2018年12月9日に、神吉宇一さんのfacebookのタイムラインに送ったものです。
 例の「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案にパブコメしました。https://koichimikaryo.blogspot.com です。ポイントは、「人として人と関わって暮らすための日本語」です。短くは「人と関わる日本語」。
 神吉さんが、ノート「効率性とことばの教育」で書いているように、ことばの教育はスムーズにやり取りができ,効率的なコミュニケーションができるためだけにあるのではない、と思います。じゃあ、他に何なんだ!、となります。日本語教育(界?)は、この「他に」をこれまで見つけることができていません。「日本語教師【初任】研修案でも、「効率的なコミュニケーション」のための(相変わらずの)ニーズ調査・コースデザインのパラダイムにとどまっています。小委員会の皆さんも、就労外国人を人として扱わなければ!と考えているはずですよね。なのに、これじゃあだめでしょう。
 ぼくの答えは(以前から!)「人と関わる日本語」です。実用的(で用を足す)コミュニケーションと並行して、人と関わる日本語(コミュニケーション)の教育をしないと、主に就労目的で日本に来た外国人を労働者扱いするという方向に「加担」することになります。専門家集団の日本語教育(界)の良識に基づく「知恵」として「人と関わる日本語」を今こそ提案するべきでしょう。
 ただ、ここで一つ厄介なことが起こります。それは、「人と関わる日本語」の必要性を科学的に(調査に基づいて?)明らかにしてください、と言われた場合です。「人と関わる日本語」は遍在していて、そういうコミュニケーションがそこらじゅうどこでも起こっているというのが「デフォルト」です。そして、そういうコミュニケーションが行われていないと、孤立や情報不共有や、疎外や無援というような事態が生じるというものです。そのようなみんながフツーにやっていること、つまり、自分のことをあれこれ話、相手の話も聞いて、交友を広め、仲間や「味方」を作り、自分を支えてくれる、あるいは相互に支え合う基本の人間関係を作ること、そういうことがフツーにできるようにするために必要なのが「人と関わる日本語」です。そして、そういうことができないと、しばしば仕事や仕事を覚えることもうまく行かなくなり、実用的なコミュニケーションもスムーズに行かなくなります。それは広く人文学に従事する日本語教育者であるからこそ、指摘することができる日本語教育についての重要な視点です。その必要性は「科学的に」ではなく、人が人と関わって生きることを営むことの重要側面として人文学的に(あるいは哲学として?)議論されるべきことです。

2018年12月14日金曜日

就労外国人の受入れに関わる日本語教育について

就労外国人の受入れに関わる日本語教育について

 ぼくのこの苛立ちは何なのでしょう? たぶん、「また、日本語教育界は知恵と洞察を発揮しないで仕事をしようとしている!」という苛立ちでしょう。あるいは、さらに非難がましく?言うと、「また、日本語教育界はつまらない日本語教育を再生産しようとしている!」という苛立ちでしょう。
 ここでは就労を主な目的として日本に来て居住する外国出身者のことを就労外国人と呼びます。まず、提案を箇条書きにします。その後に、そうした提案が出てきた背景を書きます。

□ 提 案
1.就労外国人に対する日本語教育プログラムについて
(1) 人として人と関わって暮らすための日本語
 就労のための日本語だけでなく、「人として人と関わって暮らすための日本語」(以降では、「人と関わる日本語」と略す)もプログラムのもう一つの柱として設定する。
(2) プログラム当初はオーラル日本語に集中
 プログラムの当初はオーラル日本語(口頭日本語)の習得に集中する。つまり、日本語学習当初は、オーラル-オーラル(オーディオの利用ももちろん可能)による学習活動を通したオーラル日本語の習得をめざす。日本語学習当初にひらがな、カタカナなどを要求しない。テクストや板書などでは、メモとしてローマ字表記を使用する。
(3) (2)をサポートする教材を制作する。
 就労のための日本語の部分についても、「人と関わる日本語」の部分についても、日本語独自の文字を使用しないローマ字表記による教材を制作する。

2.就労外国人の日本語能力の試験について
(1) 文字に依存しない日本語能力の試験
 「人と関わる日本語」を中心として、文字に依存しない試験を作成する。基本の形は、オーディオを聞いてそれに対応する絵を選ぶという形の試験となる。(解答用紙は適宜に工夫する。) 
(2) 試験あるいは模擬試験のウェブ公開
 (1)のような試験をいつでもどこでも実施できるように、試験あるいは模擬試験をウェブ公開する。

 これくらいの「工夫」をしないといろいろなことが決してうまくいきません。この提案は、以下の2つの提案に集約することができます。

A.「人として人と関わって暮らすための日本語」を就労外国人が身につけるべき日本語としてしっかりと位置づける。
B.日本語学習当初にひらがな等を教えることや、日本語学習でひらがな等を使用することをやめる。※就労外国人が必要な日本語の重要部分はオーラル日本語である。日本語独自の文字の学習と日本語学習でのその使用は、オーラル日本語の習得を大きく阻む。

 Bは、日本語習得の基本的な企画に関わることで、すぐれて日本語教育学的な問題です。この提案については、ご同輩の日本語教育の専門の皆さんがどう考えるか、ご意見をうかがいたいと思います。
 Aは、就労外国人に対する日本語教育に関するいわば倫理的な観点から導き出されることです。以下では、この点について論じます。

□ 「人と関わる日本語」という提案が出てきた背景 
 以下、移民か外国人労働者かという議論からスタートして、このイシュー(問題、検討課題)を日本語教育学のイシューとして正確に位置づけたいと思います。
 政府の見解ではかれらは移民ではないそうです。「移民」という場合は「定住のために」という修飾語がつく(IOM、国際移住機関)ので、確かに移民ではありません。
 ならば、彼らは外国人労働者か? 産業界(とそれに追従する政府)の目線では、かれらは外国人労働者でしょう。だって、この大騒ぎは、人手が足りない! 労働力がほしい! というところから始まっているわけですから。
 良識派の論者は、当初は「きちんと移民として受け入れるべきだ」と主張していましたが、現在はトーンが変わって、「現在の経済水準を維持したければいずれは移民を大量に受け入れざるを得ない状況になるだろうから、そこまでのロードマップを描き出しつつ現在の就労外国人の受入れに関する制度や態勢の整備を行うべき。」(例えば、http://www.canon-igs.org/column/security/20181203_5386.html)つまり、移民なのか就労外国人なのかという二元論的な議論を乗り超えて、就労外国人から移民へとうまくバランスを取りながら徐々に移行していきましょう、ということです。バランス感覚のとれた、もっともな議論だと思います。
 一方で、人権派からは「就労外国人の受入れの制度や態勢の整備にあたっては、かれらの人権を守ることが肝要!」と叫ばれています。しかし、改正入管法の特定技能1では、「滞在期間中は結婚が不可。既婚者は家族同伴禁止」となっていて、問題ありだと思います。また、他にもさまざまな側面で人権保障・人権侵害防止のための制度・態勢整備が必要になると思います。現在、政府のほうで「鋭意検討中」のようです。
 他方、日本語教育界では、以前から「外国人労働者が来るのではなく、『人』が来るのだ!」という声が上がっています。つまり、働くばかりの労働者ではなく、人として人と関わりながら人生を生きる「人」が来る、ということです。この観点は、先に触れたような、人権的な観点ではありません。いわば、倫理的な観点です。そして、人文系の一分野である日本語教育学からそうした観点が提起されるのはひじょういふさわしいことだと思います。そうした観点の提示そのものがひじょうに重要なことだと思います。そして、その上で、次に日本語教育学として重要なことは、就労外国人のための日本語教育のプログラムにそのような観点に基づく教育内容を設定ことです。しかし、…。
 文化庁で「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)が作成され、現在パブリックコメントが求められています。(http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.html
) その中の就労者や難民等の部分に上のような「人として人と関わりながら…」というような観点がまったく含まれていません。ですから、就労者に対する日本語教育の内容は、就労のための日本語だけになってしまいます。日本語教育学の関係者は、そんなことでいいの? 
 そして、「そんなことでいいの?」という疑問が多々ありますので、それをきっかけにあれこれ考えて、上記のような提案が出てきました。

2018年12月9日日曜日

「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】 (活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見

「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】
(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見 
【文化庁HP:新着情報より】
http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.html
に意見を送りました。

文化庁国語課
日本語教育担当 御中

以下のように標記について意見を申し上げます。参考にしていただければ幸いです。

西口

○件名: 日本語教師(初任)研修に対する意見
○氏名: 西口光一
○性別・年齢: 男・62
○職業: 大学教員
○住所: 大阪府箕面市森町中1−10−14
○意見

「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点の追加

0.はじめに
 分科会でのご検討並びに報告書(案)の作成に感謝します。
 先に「在り方について」(報告書)で提案された日本語教員の【養成】にかかる教育内容については、提案に基づいて各大学や養成機関でそれぞれの持ち味を生かしたカリキュラムが企画され実施されることと思います。さて、本文書では、今回の日本語教師初任研修(就労者、難民等、海外)について意見を述べたいと思います。

1.就労者と難民等における「生活者としての外国人」という観点の欠落
 まずは、就労者と難民等について、今回の報告の資料の1−2と2−2「知識」の【1】と【2】及び「技能」の前半部に関わることです。端的に言うと、「生活者」の観点が欠落しています。「在り方について」の表2の「【初任】(生活者としての外国人)の内容は並行して実施するということでしょうか。

2.人として人と関わって暮らすための日本語という観点の欠落
 また、今回の報告の就労者と難民等や「在り方について」(報告書)の生活者としての外国人のいずれにおいても、人として人と関わって暮らすための日本語という観点が欠落しています(注1)。
 わたしたちはみんなそれぞれ一人の人として人生を生きています。職場や地域の一メンバーとしてそこでのさまざまな活動に参画してメンバーとしての「役割を果たす」ことはそれはそれで重要なことです。しかし、わたしたちの人生には、人として人と関わって暮らすという面も重要な側面としてあります。わたしたちは人と関わってあれこれと自分の話をします。家族の話をする、好きな物や好きなこと(スポーツ、音楽、映画・ドラマなど)の話をする、毎日の生活/きつい生活について話す、週末の過ごし方について話す、あれがしたいこれがしたいと話す、自分の来し方や将来について話す、特別な技能や能力について話す、子どもの時の話をする、自分の国や町のことを話す、などです。そして、もちろん相手からのそういう話も聞きます。わたしたちはそのようにして、他の人たちと人生をシェアしつつ相互にラポールを育みながら人生を生きています。外国出身の就労者や難民等は、就労者や難民等であるわけではありません。かれら一人ひとりは一人の人間です。就労者や難民等というのはかれらが経験する/経験した一つの人生であり、そういう意味でかれら一人ひとりの背景でしかありません。かれらが一人の人として生きていくためには、自身のことや自身のあれこれの背景を語る言葉を持たなければならないし、また、現在の自身の生活や暮らしを自分なりに話す言葉や自身の将来を思い描きそれを語る言葉も持たなければなりません。(難民等の場合のように「厳しい過去」がある場合は、過去を語ることはきついことであるとは思われますが、それでも一定の「折り合い」つけて将来に向かって人生の展望を描くほかありません。)

3.生活活動の実用的な側面と非実用的な側面
 わたしたちの生活活動には、実用の面と非実用の面があります。就労者や難民等のための日本語教育やこれまでの生活者のための日本語教育の議論では、実用の面ばかりが注目されきたように思います。上で述べた「人として人と関わって暮らすための日本語」は非実用の面です。しかし、そういう非実用の部分こそが人が一人の人間として生きるために欠かすことのできない部分ではないでしょうか。また、そういう非実用の部分があってこそ、基本としての人と人との関係が構築され、人と人との信頼できる関係が醸成されます。そして、そうした関係やそこで育まれたラポールなどが実用の面の土台となったり、実用の面をいい方向に導く「触媒」となったりするものと見られます。
 実用の面ばかりに注目することは、パウロ・フレーレが批判した機能的識字の視点を適用することとなります。つまり、体制に順応して、与えられた立場において役割を適正に果たすという視点です。フレーレが説いたように、そうした機能的識字の視点にとどまらないで、一人の人として「解放」される方向を見据えた日本語教育の構想が必要であろうと思われます。そのようなより広い視点から就労者や難民等や生活者の日本語教育を構想するというのは、ニーズに基づいて企画される言語教育ではなく、人が流動する現代社会についての見方や見識に基づいて未来志向的に企画される言語教育となります。

4.人格尊重の日本語教育
 そのような面に目を向けた日本語教育を企画し実践してこそ、外国出身のそれぞれの人を一人の人として受け入れるという人格尊重の日本語教育になるのだと思います。実用の面での言語コミュニケーションを実用的コミュニケーションと呼ぶとすれば、非実用の面は社交コミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。つまり、ここで強調しているのは、社交コミュニケーションのための日本語ということになります。
 「人として人と関わって暮らす」という面への着目は、長い目で見て人権尊重に繋がると思われます。また、しばしば言われる多文化共生社会を築くという方向にも合致することだと思われます。

5.人と人が出会い・交流する場としての日本語教室
 生活活動の実用の面にばかり注目することの「弱点」がもう一つあります。それは、日本語教室という場の根本の構図に関わることです。
 生活活動の実用の面はたいてい教室の外にあります。ですから、実用的なコミュニケーションというのは教室の外の「現実」で行われる活動に奉仕するコミュニケーションとなります。実用的コミュニケーションが生気を得るのは教室の外です。そのような事情ですので、生活活動の実用の面を日本語習得の課題として設定すると、教室の構図は、教室の外の「現実」で行われるコミュニケーションの形骸をただ覚えるだけの学習と教育になってしまいます。教室は、畢竟、「役に立つ日本語」を教えてもらうだけの場になってしまいます。そこには、教室に集まった学習者と学習者、学習者と教師や支援者との出会いや交流はありません。
 教室というのは、週に1回あるいは数回、同じ場所に同じ顔ぶれの人たち(学習者、教師、支援者など)が寄り合う機会です。教室という時空間のデフォルトの構図はこのように人と人が出会う場であり、人と人の交流が自然と進む場です。実用の面ばかりに注目した日本語の学習と教育は、そのような貴重な出会いと交流のチャンスを台無しにしてしまいます。「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点からの日本語の学習と教育がそこに実現されれば、教室という時空間は生気を取り戻して、人と人の出会いと交流の活動が促進され、それに伴う「支援された言語パフォーマンス」(assisted language performance)の形で社交的なコミュニケーションの日本語を習得することができます。

6.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点
 どのような日本語教育の構想であれ、そこには緻密な企画と計画が必要です。「人として人と関わって暮らすための日本語」教育を系統的にあるいは段階的に実践するためには緻密な企画と計画が必要です。それがどのような内容でどのような段階を踏んで行うのが有効で有益であるかは明瞭にはわかっていません。しかし、そのような教育の可能性を追究することは必要でしょう。(注2)

 以上のような論点から、就労者や難民等の【初任】の資質・能力の中にぜひとも「人として人と関わって暮らすための日本語」(短く、人と関わる日本語の教育)の観点を入れていただくのが適当であろうと考えます。

注1.生活者としての外国人の観点に、「人として人と関わって暮らすための日本語」の観点が含まれているかどうかは、実際には、あいまいです。「在り方について」の表2の中の「教育的観点」や「「学習者が地域社会とつながり、ネットワークを構築する力を育てる教育実践」というような文言ににじみ出ているとも言えます。
注2.「人と関わる言語教育」については、Hall(2001)で「関わり(interaction)そのものを目的とする言語活動」として言及されている。※Hall, J. K. (2001) Methods for Teaching Foreign Languages: Creating a Community of Learners in the Classroom. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.
捕捉.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点は、海外の【初任】においても重要であると思われる。

2018年12月8日土曜日

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑫

♢3 教育実践③ ─ 言葉遣いを盗み取って領有することと、ことば経験の充填

 ここでは、各ユニットでの学習と指導の話と、各授業やユニットを越えた日本語習得支援の話をします。

言葉遣いの盗み取りと領有
 教材③(♣3)で、表現活動の日本語教育では、文型・文法や語いなどは学習事項として採り上げて、取り立てて指導することは推奨されていないと言いました。しかし、実際のところを言うと、学生は多かれ少なかれ語や表現に注目してそれを身につけようとしますし、語や表現への一定の注目は言語習得のために必要でしょう。では、それをどのようにするのが言語習得のために有効でしょうか。それが、言葉遣いを盗み取るという方法です。
 言葉遣いを盗み取るというのは、日本語の表現法をただ抽象的で一般的なものとして受け取ってそれを覚えることではありません。発話をした当該の話し手における現実といっしょにその現実を示した言葉遣いを盗み取って、自身の事情と照らし合わせて流用するという形で言葉遣いを習得することです。「日本語の表現法を抽象的で一般的なものとして受け取る」ということは、ほとんど「その表現法を対応する訳とともに受け取る」ということと同義です。抽象的で一般的に受け取られた表現法は訳にしか止まりどころがありません。しかし、具体的な話し手を「感じ」つつ、その話し手における現実世界というものを構成しながら発話やディスコースを受け取る場合はどうでしょう。例えば、NEJのユニット3のB1の好きな食べ物について話しているリさんのナラティブは次のように終わります。

 … わたしは、あまいものも、好きです。シュークリームが大好きです。チョコレートも、好きです。クッキーも好きです。でも、あまりたくさん食べません。

 上のディスコースを勉強しそれに一定程度習熟した学生は、このディスコースによってことば経験をします。すなわち、ここまでのナラティブで知ったリさんは「あまいものも好き」という事実を知り、「シュークリーム」と「チョコレート」と「クッキー」という語をリさんと結びつけてリさんの好物として知り、「でも、あまりたくさん食べません」を、甘い物が好きだけど糖分の摂り過ぎを気にしているリさんの切実な声として受け取ります。そして、それらを示したリさんの具体的な発話をこれらの現実と共に聞き取ります。また、自身もあまいものが好きな学生はリさんの言葉遣いを共感をもって受容します。さらに、リさんと同じように甘い物が好きだが糖分控え目を心がけている学生は、リさんの最後の言葉に強く「仲間意識」を感じてこの言葉遣いを自身にも当てはまる言葉遣いとして受容し摂取します。
 具体的な話し手を「感じ」つつ、その話し手における現実世界というものを構成しながら発話やディスコースを受け取ると、ディスコースと学生とのこのような立体的な対話的関係が生じて、そこで行使されている語や言葉遣いを生きた生気のある言葉として受け取ることができます。そして、そのディスコースに自身の意味や価値を重ね合わせてそこにある言葉遣いを受容し摂取するということが行われる可能性が拓かれます。抽象的で一般的に提示され、そのようにしか受け取ることができない言葉では、言葉はこのようには経験されません。(話し手の事情と学生の事情が大きく異なる場合も、それとして違う形で現在の発話と学生との間で対話が生じて生きた言葉の受容が行われます。)

NEJのナラティブはそのテーマを話すためのテンプレート
 NEJとNIJでは、ディスコースを上のように経験し、その中の言葉遣いを盗み取ることが容易にできるように、細心の注意を払ってテクストが作られています。特に基礎段階のNEJのナラティブでは、各テクストが当該のテーマについて話すためのいわばテンプレートのようになっています。教師が学生に「ナラティブをモデルにすれば自分の話ができるようになる!」と助言し、学生がそのことを理解すれば、後は学生は自ずと積極的に言葉遣いの盗み取るようになります。
 教育企画③(♠3)では、言語促進活動を強調しましたが、各ユニットの学習では、このように言葉遣いを盗み取って自分のものにすること、つまり言葉遣いを領有することが推奨されます。中級段階のNIJのユニットの学習においても、盗み取って領有するという同じ原理で語や言葉遣いを習得することが期待されています。

ことば経験の充填
 教育企画③(♠3)では、言語促進活動が豊富に行われることを勧めました。そして、その中でも特に受容摂取言語促進活動の重要性を強調しました。一方、ここでは、NEJやNIJのナラティブや会話やレクチャーのディスコースをその話し手の生きた言葉として経験して、そこにある語や言葉遣いを盗み取って自分のものにするという日本語の学び方について説明しました。この2つは、広く言うと、いずれもことば経験をして、そこにある語や言葉遣いをしっかりと自身に充填するということです。
 教育企画として特定のテーマの言語活動をうまく設定して、各ユニットではユニットのテーマの活動に従事できるようにしっかりと日本語を充填すること。その充填ということが十分に行われればユニットの終わり頃には学生はそのテーマの言語活動にかなりの程度従事できるようになります。あとは、産出摂取言語促進活動(♠2)で語や言葉遣いに最終的に習熟すればいいのです。

ユニットのテーマ横断的な言語習得の促進
 以上のように教育企画を理解し、教材を把握し、教育実践の方法を知って、具体的な教育実践に臨めば、十分な教育成果を生み出す授業実践ができると思います。
 最後になりますが、特に基礎段階の授業の方法について、もう一つの注意です。NEJに基づく基礎段階の教育では、各ユニットでユニットのテーマについて学生が言語活動に従事できるようになることが重要です。しかし、ユニットの教育目標達成ばかりに集中していると、ユニットの各テーマについては話せるが、広く柔軟にさまざまに話題が移行する会話に従事することができないというような結果になってしまうことがあります。そのようにならないためには、ユニットのテーマ横断的に話を聞いたり、会話をしたりする機会が必要です。つまり、ユニットのテーマ横断的に、受容摂取言語促進活動の機会や、産出摂取言語促進活動の機会や、それらの複合の機会を提供することです。そうしたテーマ横断的で柔軟な言語習得の促進もしながら、各ユニットの教育目標も順次に達成していくことができれば、表現活動の日本語教育の教育実践としては完璧です。

日本語教育実践の再生:表現活動中心の日本語教育を創造するNEJとNIJ ⑪

♢2 教育実践② ─ 言語教育実践におけるタッチ&ゴー

「(教師である)『わたしたち』の関心」と「(教師である)『わたし』の関心」
 はじめに少し言葉遊びをします。「日本語を教える」ということについてです。
 日本語の先生たちがミーティングをして、カリキュラムや教材や基本的な授業方法をめぐって「どのように日本語を教えたらいいか」について議論しているとき、その場合の先生たちの関心は「学生たちが日本語ができるようになること」にあります。そこでは、理論的、実践的、教育方略的などのさまざまな議論が熱心に展開されます。そして、その場合の「日本語を教える」の意味は、「学生たちが日本語ができるようになることを促進し支援すること」となります。このような場合の先生たちの目線を仮に、「(教師である)『わたしたち』の関心」と呼びましょう。
 一方で、そのような目線で熱心に議論していた先生たちも、いざ自分が具体的な授業をする段になると、「わたしはわたしの授業では何を教えればいいの?」とたずねてしまいます。そして、その「何」は特定の文型・文法や語彙や漢字などとなります。つまり、そのように「何を?」と言った瞬間に、「(教師である)『わたしたち』の関心」は霧散してしまい、日本語教育は文型・文法などの個々の言語事項に関心を寄せた、それらを教えようとする実践に移行してしまいます。そのような目線を「(教師である)『わたし』の関心」と呼ぶことにしましょう。
 日本語教育の企画と教材と実践をめぐる根本的なむずかしさは、最終の具体的な教育実践が「(教師である)『わたし』の関心」に陥らないで、どの先生の授業においても「(教師である)『わたしたち』の関心」を維持して教育が実践されるようにすることにあります。

「(教師である)『わたしたち』の関心」の維持
 従来の日本語教育の方法、とりわけ基礎(初級)の教育では、教材ができて提供された段階で、すでに「(教師である)『わたしたち』の関心」は抹消され、「何を教えるのか」という「(教師である)『わたし』の関心」に移行してしまっています。そして、学生のことを真摯に考えている教師は、「『わたしたち』の関心」を抹消された教材を手渡されても、再度「『わたしたち』の関心」に寄り戻して、何とか学生たちが日本語ができるように指導しようと涙ぐましい努力をするというような状況もよく見られます。本当に、涙ぐましいことです。
 表現活動の日本語教育は違います。教育企画(♠)と教材①(♣1)で話したように、教育企画や教材の段階まで、「『わたしたち』の関心」を維持しています。そして、引き続いて実際の授業まで「『わたしたち』の関心」を維持することが期待されています。しかし、最終的に実際の授業で「『わたしたち』の関心」が維持されるかどうかは、一人ひとりの先生の教えることに臨む姿勢にかかっています。教育企画や教材までは表現活動中心なのに、実際の授業になると結局は文型・文法などを採り上げて教えたり、活用の練習をしたりしているようでは、『わたしたち』の教育企画も教材も台無しです。

言語教育実践におけるタッチ&ゴー
 日本語の習得というのは、文型・文法や語いや漢字などの言語事項を身につける単線的に進行する経路ではありません。そのような単線的な経路ではなく、多元的で、多面的で、輻輳的で、累進的な経験蓄積的な言語摂取の過程です。そして、表現活動の日本語教育の企画では、学生を生きた生気のある言語活動従事の状況につなぎとめておくために、あえて学生をそのような道筋に導き入れています。それはある種類の学生にとってはつらい状況です。学生たちはそこここで、さまざまな「言語的なむずかしさ」に直面するからです。しかし、生気のある言語活動従事の現場で「言語的なむずかしさ」を克服していくことにこそ言語習得の契機があるのです。ですから、教師も学生もそのような状況に耐えなければなりません。そして、教師が言語促進活動を緻密に段階的に計画し実施すれば、その「つらさ」は十分に耐えて克服していける「つらさ」となります。そのあたりは、一つの教師の腕の見せどころです。
 そして、教師は、そのようにそこここで「言語的なむずかしさ」に直面する学生にしっかりと寄り添わなければなりません。それは、「言語的なむずかしさ」を課題の言語事項として抽出して教えることではありません。それでは、「先祖返り」、「元の木阿弥」です。そうではなくて、発生したさまざまな「言語的なむずかしさ」を言語活動従事のその現場で手当をしたり修繕したり解決したりするのです。そして、手当・修繕・解決をしたら、また元々の言語活動に戻るのです。それが、言語教育実践におけるタッチ&ゴーということです。
 タッチ&ゴーというのは飛行機の曲芸飛行の一つで、着陸するような具合で一旦着地してすぐにまた離陸・上昇するという飛行法です。学生に寄り添う教師は、学生がそこここで遭遇する「言語的なむずかしさ」にさっと対応して、また学生といっしょに言語活動従事の空間に上昇するのです。学生の言語活動従事に寄り添いながらのこのタッチ&ゴーが、言語を有効に摂取させるひじょうに有効な方略です。

言語活動従事を続ける学生に寄り添い続ける教師
 学生が遭遇する「言語的なむずかしさ」にはいろいろなものがあります。ある種類の「むずかしさ」(例えば、ちょっとした誤用を訂正したり、学生が思い出せない言葉をそっと教えてあげたり、など)はわりあい誰でもこのタッチ&ゴーができます。言い誤りやちょっとした発音の誤りなどもわりあい簡単にタッチ&ゴーができます。しかし、文法的な「むずかしさ」への対応や、文法に関する疑問などへの対応などは、かなりの経験と熟練が必要でしょう。可能な範囲でタッチ&ゴーの芸をしながら言語活動従事を維持して、学生が言語促進活に従事するのに寄り添い続けることが、実際に教育を実践する教師にまず第一に期待されていることなのです。
 教師は、コーディネータに「わたしはわたしの授業で何を教えればいいの?」とたずねてはいけないのです。また、授業を計画する際にも、「何(どの言語事項)をどういう順で教えようか?」というふうに考えてはいけないのです。
 教師と学生に与えられるのは、ユニットのテーマと教材です。教材には学生が習得するべき言語事項が織り込まれています。しかし、教えるべき言語事項は指定されていません。教師は、テーマと教材をよく検討して、無理なく運営可能で言語習得を促進し得る言語促進活動を授業として計画し実施しなければなりません。授業で行われる活動の要諦は、学生たちの現在の日本語力でできることと現在の日本語力では少し困難なこと間(はざま)を開示することです。タッチ&ゴーでその間をさまざまな部分で架橋することです。くれぐれも、「言語事項を教える」に「先祖返り」することがありませんように。