2019年6月24日月曜日

現象学から人間科学へ②

現象学から人間科学へ②

 第1回では、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』の最初のページから引用をして、現象学には、(a)哲学・思想そのものに関わる側面と、(b)「科学的な心理学」を克服してその後の人間科学の確立へと繋がる部分があると指摘しました。今回も現象学というものを捉える試みです。
 木田によると、現象学というのはフッサールによって創唱された哲学的立場ですが、フッサール本人及びその後継者であるハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティによって何度も「脱皮」を繰り返したし、今も「脱皮」は続いていると言います。ですから、現象学を捉えようとする場合に、フッサールの現象学として捉える方法と、「脱皮」を続ける現象学運動として捉える方法という2つの方法があります。そして、わたしたち人間科学に関心を置く者としては人間科学に関係がある部分やその部分における「脱皮」が重要なわけですから、現象学運動として捉えたほうが有用だということになります。次は、木田からの引用です。

 これらの哲学者の努力は、諸科学の領域で進行中の方法論的革新 ─ さまざまな科学の領域でそれぞれの置かれた問題状況に迫られて起こった、従来の機械論的、要素主義的方法に対するかなり徹底した方法論的反省 ─ をいわば集約し、主題歌することに向けられていたと見るべきであろう。そしてまた、こうして現象学者によって主題化された方法論的反省が、比較的遅れた諸科学に直接間接に影響を及ぼすことにもなる。したがって、現象学的運動は…今世紀の科学、ことに人間科学の諸領域をおおう包括的な運動と見るべきものなのである。(木田元『現象学』pp.7−8)

 方法(論的革新)とはいっても、新たな特定の研究方法の提案ということではなく、むしろ現象学的方法というのは、開かれた方法論的態度、思考のスタイル、研究対象に立ち向かう態度のことです。そして、そこに流れている一貫したモチーフは、当時の実証主義的風潮に対する批判です。フッサールに限定して実証主義的風潮批判の中での「脱皮」について言うと、所期の『論理学研究』は当時の心理学主義批判、中期の『イデーン』はより包括的な自然主義批判、そして後期の『危機』は近代の実証主義全体に対する批判となります。
 現象学というもののこうした性質を確認した上で、いよいよ現象学とは何かという中身に入っていきたいと思います。で、ここで、しばしば、いきなり「躓き」が生じます。一般に現象学を説明するときには、最初にエポケー(判断停止)の話がきます。これが「躓き」となるように思います。むしろ、志向性(intentionality)から始めたほうがわかりやすいと思いますので、ここでは、志向性から始めます。
 フッサールは志向性の概念を師であるブレンターノから学びました。木田によると、志向性に関わる見方でブレンターノは次のように言っています。(残念ながら出典不明)

 いかなる心的現象も、同じ仕方でではないにしても、とにかく何かを客観としてそれ自身のうちにふくんでいる。表象においては何かが表象され、判断においては何かが承認あるいは否認され、愛においては愛され、憎しみにおいては憎まれ、欲求においては欲求されているのである。このような志向的内在はもっぱら心的現象に固有のものであって、物的現象には見られない。したがって、心的現象は志向的に対象をそれ自身のうちにふくむ現象であるという言い方で、心的現象を定義してよいであろう。

 こうした考えに立って、ブレンターノは、その志向性に関係する仕方の違いに応じて心的現象を、表象、判断、情動の3群に分類した。しかし、それ以上は突っ込んで論じようとはしなかった。それはブレンターノの関心が記述的心理学の域を出なかったからだろう、と木田は推測しています。それに対して、学問的な認識の基礎づけという認識論的な課題の前に立ったフッサールは、日常的なものだけでなく、学問的なものも含めて、意識はすべて何ものかについての意識であると言ったのです。(これで、上の(a)と(b)を架橋しています。)そして、それを志向性という概念で捉えようとしたのです。そして、志向性を梃子として、認識作用の主観性(主観的な性質、つまり当事者において起こるという性質)と認識内容の客観性(当事者の「外」にある何かという性質、物としては外在で当面はいいし、物以外では社会的に共有されている概念や思想などでも)とを橋渡ししようとしたのです。
 そして、この志向性という視点を軸として、エポケーや、ノエシス・ノエマ関係などの議論が展開されるのです。先に言った、「まずは志向性!」と言ったのはそのため

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