2018年3月5日月曜日

あなたはリテラシーのインサイダー? それともアウトサイダー?

 ブルデューの文化資本の視点は、個々の人とリテラシーの関係に「大きな影を落としている」と思います。端的に言うと、読書階層あるいは教養階層の環境で育ったか、日常的に本を読むことがない、あるいはうちに本なんて並んでいないという環境で育ったか、の違いが、人とリテラシーとの関係・感覚に大きな影響を及ぼしていると思います。前者の種類の人の場合は、(両親や親戚のおじさんやおばさんも、さらには直接にお付き合いをしている両親の友人なども、フツーにリテラシーがあるので)自身がリテラシーがあることは「空気のように」フツーです。ですので、ものを書く活動もいわば自身の「フツー」の延長となります。それに対し、後者の種類の人の場合は、教育のおかげで?リテラシーを身につけたことは「特別なこと」となります。両親や親戚のおじさんやおばさんなど誰も「本を読む」ということ(ましてや「ものを書くこと」も!)を日常的にしていないわけですから、そりゃー一族の中で「変わったヤツ」となります。(そんな場合に、むかしはよく「トンビがタカを生んだ」と言いました。)
 前者の人の場合は、リテラシーのインサイダーとなります。本(や論文?)を大量に読んだり、そしてその「延長」として書記言語で発信したり、学会などで「理屈的な」やり取りをしたりすることが、自身の「フツー」の延長なのです。ですから、リテラシー・インサイダーの場合は、リテラシーの活動をすることとそういう活動をしている「わたし」が一体になっている、というか、「このようにリテラシーの活動をしているわたしが『わたし』だ!」というふうに自己がそのリテラシーの活動に埋没することになります。
 これに対し、リテラシーのアウトサイダーとなる後者の人の場合は、リテラシーの活動に従事することが「わたし」におけるフツーではなく、むしろ「特別」あるいは「異常!」となります。つまり、リテラシー・アウトサイダーにおいては、リテラシーの活動をしているときでも、本当の?「わたし」はそのようにリテラシーの活動に従事している「わたし」を「冷めた目で」見ているのです。まあ、ちょっと妙な言い方をすると、「こいつ=わたし、ええかっこしとるなあ!」という「冷めたわたしの目」があるわけです。そして、そういう「冷めた目」には、リテラシーの活動をしているすべての人が「ええかっこしー」に見えるわけです。「ええかっこしー」はちょっと言い過ぎかな。「異星人」です!
 リテラシーのアウトサイダーにとっては、リテラシーの活動が(たぶんいつまでたっても)何だか気恥ずかしいことなのです。そう、とても気恥ずかしいのです。司馬遼太郎がその創作活動のための取材などで会う人の多くは、読書階層の教養人です。そして、組織上でも一定の立場にある人が多い。そんな人に会ったときに、司馬は何ともいいがたい愛情を込めて、「○○さんは羞恥心を隠せない表情で…」というふうにしばしば言っています。司馬がこの羞恥心に込めた意味は、「(幸いにも?)リテラシーがあって一定の立場にあるので相応の役割をしているが、このような何だか物知り気にしたり顔で話をしなければいけない役割をするのは何とも気恥ずかしい」という様子だと思います。そう、リテラシー・インサイダーでもこういう羞恥心を知っている人もいるのです。そして、リテラシー・アウトサイダーにとっては、そういう「羞恥心」を持ったリテラシー・インサイダーに出会うと、何だか「救われた」感じがします。
 「告白」すると、ぼく自身はリテラシー・アウトサイダーです。ですから、(エラそうに?)リテラシーの活動をしているときは、いつも気恥ずかしいです。論文を書くことなども、大いに気恥ずかしいです。
 そんなぼくにとっては、リテラシー・スペースは、民主的な創造空間というふうに映っています。そこは、人間的な豊かさの創造に向けて、誰もが自由に自身の考え・見解を呈示することができて、他者と対等な関係で対話することができる空間です。しかし、(人文系の場合は?)そのリテラシー・スペースへの参加が高度なリテラシーがないとできないというような状況になると、どうも「民主的」でない気がします。たぶんその部分には、「人間的な豊かさの創造に向けて」というのが関わっているのだと思います。「人にはやさしいが同時にクリティカルで、高度なリテラシー活動に従事することができて、でも庶民的?な人」になりたいのかなあ。どうもうまくまとまりません。