ラベル 哲学のタネ明かしと対話原理 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 哲学のタネ明かしと対話原理 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年6月23日土曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 番外編:人間の思考とディスコース活動の超俯瞰①

 人間の思考とディスコース活動を超俯瞰してみたいと思います。東洋の伝統は「不勉強」で、とりあえず、哲学というものを発明し発展させた西洋の伝統で書きます。

1.活動に付随しないディスコース活動の始まり
 もともとの言語活動は活動に付随していた。やがて、見聞きしたことを語り伝えるということが行われるようになった。言語の「脱活動化」の第一歩である。やがて、歴史の語り(ホメロスなど)や創世神話(ギリシア神話、各部族の神話)などが語り継がれるようになる。だいたい紀元前8世紀頃です。
2.哲学の誕生
 1までは、人間は「そもそもこの世界とは」「存在とは」「人間とは」などは考えませんでした。そういう「そもそも」が考えられるようになるのは、紀元前6世紀ごろのタレス、アナクシマンドロス、ピタゴラスなどの「最初の哲学者」たちからです。
 ギリシアのポリスで暮らす市民たちは「不労階層」つまり働かないで日々を暮らしているヒマな人たちです。かれらがすることは、アゴラに行って、都市国家の運営(植民都市の建設や戦争のこと)について喧々ガクガクの議論をすることと、そうした議論の前や後にアゴラのあちこちで理屈っぽい議論を戦わせる/楽しむことです。なんせ「不労階層」ですから、時間はたっぷりあります。そんなコンテクストでソフィストが登場し、やがてソクラテス「革命」に至るわけです。
 ここで注意。ソクラテスあたりまでは、哲学といっても、書記言語活動はまだ普及していませんでした。実際、ソクラテスは書いた物を残していません。わたしたちがソクラテスを知るのは、プラトンのソクラテス言行録を通してです。
 ソクラテスは簡単にいうと「そもそも〜とはだんだろう」と探究することを一つの重要な言語活動として確立しました。それが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシア哲学の黄金期を作り、西洋哲学の基盤を築いたのです。
3.ギリシア哲学とキリスト教
 一気にローマ帝国の時代に飛びます。380年にキリスト教はローマ帝国の国教となります。当初確固としたキリスト教の教義体系はありませんでした。それを確立したのは、アウグスティヌス(『神の国』22巻、413-426年)です。アウグスティヌスの教義は、超わかりやすく言ってしまうと、プラトンのイデアの部分に神を入れ替えた、プラトン主義の翻案番です。ですので、アウグスティヌスが確立したキリスト教は「民衆のためのプラトン主義」と揶揄されます。これがキリスト教での、神が、世界も、動物も、人もお作りになったという考え方になります。人間も含めて万物は神の創造だということです。
4.人間理性への注目の大きな第一歩 ─ デカルト(17世紀半ば)
 デカルトはいわば人間を神の意思あるいは理性の「出張所」と考えました。「神は、世界創造の仕上げとしてみずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた」となります。一方に、神の理性(Ratio)を反映した世界を貫く理性法則としてのratioがあって、もう一方に、神によって神の似姿として植え付けられた人間のratioがあるという構造です。デカルトは、徹底的な懐疑によって行きついた「私は考える。ゆえに、私は存在する」という命題で、人間理性の実在性を論証によって基礎づけたことで理性主義の扉をあけました。デカルトについては、身体と精神は区別されうるという身-心二元論も注目しておかなければなりません。
5.人間理性を考えるにあたって、神と「縁を切った」カント(18世紀終わり)
 カントは、ある範囲内でのわたしたちの理性的認識の効力を認めること、つまり神の理性の媒介なしにもある範囲内でわたしたちの理性的認識と世界の理性的構造とは一致しうることを主張しようとしました。カントは、わたしたちの純粋な理性的認識の有効範囲を理性そのものの自己批判によって明らかにしようとし、その課題に答えることができたとされています。それが、『純粋理性批判』です。カントは「理論的認識の問題を考えるに場面に神や神の理性を持ち出すのはおかしい」と主張したので、「カントは神様の首を切り落とした(ハイネ)と言われています。
6.デカルトからカントまでのまとめ
 デカルトの『省察』が1641年刊、そしてカントの『純粋理性批判』が1781年刊です。つまり、デカルトからカントに至るのに150年もかかっています。デカルト以前は、人間は神の僕(しもべ)、農夫などは「迷える子羊」だったのだと思います。 つまり、神なしには人間という神秘的な存在が考えられなかったのだと思います。デカルトは、人間の理性を徹底的に「疑って」、「オレら、現に、こうして考えてるやん」というところに強烈なスポットライトを当てた。そして、この「現に考えていること」と世界の構造がどのように関わっているかを徹底的に反省(批判)して、わたしたちが考えること、つまりここでは理性的に認識の有効範囲を画定したのがカントだ、ということになるかと思います。理性の、神から人間への「引っ越し」と譬えてもいいかもしれません。このまとめは、かなりぼくの「推測」が入っています。
7.ドイツ観念論とヘーゲル
 カントの3つの『批判』本から1831年のヘーゲルが没するまでの約半世紀は、ドイツ観念論の時代です。カントの哲学を継承し展開したフィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルが登場します。この時期は、ギリシア哲学に匹敵する哲学のもう一つの黄金時代です。
 カントからヘーゲルに至る重要な経緯は、ぼくのこのエッセイの「タネ本」である『反哲学入門』(木田元)でとてもわかりやすくまとめられていますので、それをそのまま引用して、ヘーゲルまでの番外編①を終えようと思います。

「ドイツ観念論の展開のなかで、カント哲学にあった認識と実践、理論理性と実践理性の二元性が克服されてゆき、それも自由な実践理性寄りのかたちで一元化されてゆきましたので、(カントが論じた─筆者注)カテゴリーも単なる認識のための思考形式にとどまらず、認識をもふくめた主幹の活動一般、つまり宗教的・倫理的・政治的・社会的・芸術的活動などの形式としてかんがえられるようになってゆきました。
 一方、世界の方ももはや単なる自然界としてではなく、歴史的な世界として捉えられるようになります。というのも、フランス革命の基盤となったフランス啓蒙思想や、その強い影響を受けたドイツ啓蒙思想 ─ カント哲学はその所産 ─ が「光」として掲げた理性は、いわば無時間的、無歴史的なもの ─ つまり、古代のギリシア人にあっても、18世紀のフランス人やドイツ人にあっても、まったく同じ理性 ─ と考えられており、フランス革命軍はこれを旗印に、ドイツ人をも封建的圧政から解放してやるんだとドイツに侵入してきた(のですが、ドイツ人の方では、ドイツ民族には中世以来固有の歴史のなかで培われてきた民族的個性があるのだと言ってこれに抵抗しました。いわば世界を歴史的に見はじめていたからです。こうした世界の見方がドイツ・ロマン派の芸術運動の一つの動機にもなりました。シェリングやヘーゲルは、まさしくそうした運動のさなかで自分たちの思想を形成していったのです。
 「理性(Vernunft)」というラテン語のratioの訳語に使われてきた言葉に代えて、生粋のドイツ語である「精神(Geist)」という言葉が愛用されるようになった背後にも、そうした動きがありました。
 こうして、世界は歴史的世界として受けとられ、それに応じて主観の方ももはや個体的な認識主観としてではなく、歴史的世界を形成してゆく民族精神として、いや、さらには世界史を形成する人類の精神として捉えられることになります。(木田『反哲学入門』pp.156-157)

 
  

2018年4月22日日曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 1

第1回 哲学と思想 (2017年2月)                          


この連続記事は、2017年2月から2018年1月のNJ研究会フォーラム・マンスリー(http://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載された12回の連続エッセイ「哲学のタネ明かしと対話原理」を再録したものです。


 新しい年を迎えてはや1カ月になります。昔の年賀状では「穏やかで健やかな年でありま
すように」というような言葉が多かったように思います。今の社会では妙な「圧力」が働
いていて、「穏やかで健やかな暮らし」がなかなかしにくくなっているように思います。穏
やかで健やかにいきたいと思います。そして、皆さんにとっても穏やかで健やかな1年に
なることを祈っています。

 哲学の対話論的タネ明かしの中で対話原理は枢要な観点です。もちろんバフチンの対話原理です。が、そして、数回にわたって「穏やかに」話したいと思います。

 まわりの人にはいつも言っているのですが、ぼくは研究者ではありません。「じゃあ、学者
か?」と問われれば、まあ「研究者」よりは「学者」でしょう。でも、やはり真性の学者
でもないですね。今、テレビや本で池上彰さんが大活躍中です。池上さんは、評論家では
ありません。自身の立ち位置を「解説者」としています。「フツーの人にもわかる解説者」
です。ぼくも池上さんのような感じで第二言語教育学及びその周辺についての「フツーの
先生にもわかる解説者」であろうとしているようです。ただ、これも池上さんの場合と同
じく、扱うテーマ及びその中の事情は単純なものではありません。つまり、聞く人・読む
人に「わかろうとするしっかりした姿勢」を求めます。しかし、それは当該のテーマへの
関心という程度で十分だろうと思います。

最近、日本語教育学や英語教育学などの第二言語教育学関係の人たちの間で、質的研究(質
研と略す)の「人気」が高まっています。そして、一定のところまで質研を勉強した人の
中で、「どうも現象学や言語哲学などの哲学に踏み込まないと『重要な何か』が十分にわか
らない!」と考えて、その方面の勉強を始める人が出てきたようです。だいたいのターゲ
ットは、フッサールとウィトゲンシュタインあたりでしょうか。しかし、仮にこの2人に
ターゲットを絞るとして、一体どの本から読めばいいのでしょうか。かれら自身が書いた
本は、もちろん多数あるわけですが、絶対、歯が立ちません。じゃあ、かれらの哲学の解
説本などを読むとして、それも山のようにあって、どれを読むのが一番いいのか門外漢に
はさっぱりわかりません。身近にいる専門家に自身の興味・関心を説明して尋ねれば、ま
あ「まずは、これ(とこれ)!」と1・2冊の本を薦めてくれるかもしれません。しかし、
その本もおそらく難解であろうし、と言うか、たいていのそういう本は一般的な「フッサ
ール入門」や「ウィトゲンシュタイン入門」であって、第二言語教育の内容や方法や研究
に関心をもつわたしたちプロパーに向けて書かれたものではありません。結局「迷宮に迷
い込む」ことになるでしょう。

ぼく自身の「哲学・思想のお勉強」が始まったのはもう20年以上前になるかと思います。
長いです。そして、最近になってようやく「哲学というヤツ(のカラクリ?)」が見えてき
たように思います。その本質や全体の俯瞰も含めて。そんな具合ですので、これから数回
にわたって「第二言語教育学のための哲学のタネ明かし」を書きたいと思います。

今回は、「哲学のタネ明かし」のタネ明かしをします。と言うか、その話だけにとどめたい
と思います。側面の違う2つのタネ明かしです。一つは、ぼくが「わかった」ということ
についてのタネ明かしです。ぼくが哲学・思想の俯瞰を得られたのは、もちろんフッサー
ル以降あたりを中心として哲学・思想をさんざん読み散らしたという背景があるわけです
が、哲学・思想の泰斗木田元先生の水先案内のおかげです。木田先生の研究と発信のスタ
ンスやそれとぼくの勉強法や研究・発信のスタンスとの関係などについてはぼくの
facebook(2017年1月15日)で発信しましたので、そちらをご覧ください。もう一つの
タネ明かし、ここから本当のタネ明かしが始まるのですが、一つ前のパラグラフから、単
に「哲学」ではなく「哲学・思想」に変わったのに気づいたでしょうか。ここが哲学をわ
かるための、最重要のタネです。そう、哲学と思想なのです。実際にその方面の本でも、
しばしば「哲学」と「思想」に分けられています。ざっくり言って、ソクラテス、プラト
ン、アリストテレスなどのギリシア哲学をスタートとしてヘーゲル(『精神現象学』は1807
年)あたりまでが哲学となり、ニーチェ(『ツァラトゥストラはこう語った』は1885年)
以降が思想となります。また、現在の目から見ると、ニーチェと並んでマルクスも思想の
フロントランナーに入れるべきでしょう。「現在の目から見ると」というのは、マルクスの
思想は1800年代半ばに熟して原稿が書かれたのですが、それらの出版は1900年代になっ
てからで、それ以降に『資本論』や『共産党宣言』でない(若き)マルクスの思想の研究
と普及が始まったからです。マルクスの思想ということでは、『経済学・哲学草稿』が1844
年執筆で1932年に出版、『ドイツ・イデオロギー』が1844-46年執筆で1926年に出版とな
っています。ちなみに、現代思想というのもあります。現代思想というのは、20世紀半ば
以降に現れた思想のことを言うようです。思想と現代思想の違いはあまりよく分かりませ
んが、ニーチェやヘーゲルやマルクスなどの思想の流れを引きながらの20世紀半ば以降
に結実し展開した思想のことを現代思想と呼んでいるようです。ハイデガー、サルトル、
メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、フーコーといったところで、英米系では、クワ
イン、クリプキ、そしてデイヴィッドソンなどです。そして、やがて、ポストモダンやカ
ルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムの思想へと発展していきます。でも、
このエッセイでは現代思想は扱いません。フッサールやウィトゲンシュタインといったと
ころまでです。

この第1回では、
 1.哲学 ─ ギリシャ哲学からヘーゲルまで
 2.思想 ─ ニーチェ(19世紀の終わり)以降
ということをしっかり覚えておいてください。第2回は、「哲学と反哲学」というテーマで
書きます。乞うご期待。

哲学のタネ明かしと対話原理 2

第2回 哲学を見る視点-哲学と反哲学 (2017年3月)

連続エッセイのタイトルを少し修正しました。考えてみると、ぼくがこの連続エッセイで
やりたいことは、「哲学のタネ明かし」そのものではなく、タネ明かしをした文脈にバフチ
ンを位置づけて論じることです。ですので、今回のタイトルのように「哲学のタネ明かし
と対話原理」が適切です。

第1回では、哲学というのはギリシャ哲学からヘーゲルくらいまでで、その後のニーチェ
以降は思想というふうに捉えましょうという話をしました。今回は、その趣意をもう少し
膨らませて、再度、もう少しだけ細かく哲学・思想の時代区分をします。時代区分は最後
に出てきます。とっかかりは、哲学(上の哲学と思想の両方を含む)を見る視点です。
※以下で( )は補いで、〔 〕は茶々入れです。そして、文献で「木田」とあるのは、木
田元著『反哲学入門』(新潮文庫)です。

まくらとして、視点ということについて話します。視点には、2つの意味があります。「視
る」という行為の基点という意味と、「その基点から見える景色・眺望・様子など」という
意味です。前者の基点の意味の視点が実はとても重要です! 簡単にいうと、視点(基点)
を同じくしている人の話は分かりやすく、視点を同じくしていない人の話は分かりにくく
難解です。視点を同じくする人というのは、「わたしのことをよく知っていて、わたしと同
じ立場に立って、むずかしいことでもわたしの関心に沿ってこのわたしに分かるように話
してくれる人」です。もっと分かりやすく言うと、グル(いっしょに謀り事をする仲間)
です。グルであり、そして相互に「わたしたちはグルだ」と認識し信頼し合ってこそ、勘
ぐったりすることなく素直に相手の話に聞き入ることができます。信頼し合うグルでない
場合は、多かれ少なかれ「この人はこのように話をしてわたしを何かの企みにはめようと
しているのではないか」というような心理が微妙に働いてしまいます。ぼくはこのメルマ
ガを読んでくれている人はグルだと思っています。皆さんのほうは、ぼくをグルと思って
くれているかな? では、始めます。

2-1 哲学という対話的ディスコース実践
哲学を見る視点、ここでは哲学に飲み込まれないで、それをわたしたちの立場から「つか
まえる」視点ということですが、それはきわめて端的に、哲学もある種類の人間による対
話的なディスコース実践に過ぎないと見ることです。対話的なというのは、それまでの哲
学の伝統を踏まえて、そして何らかの時代的な背景や状況があって、それらに対する自分
独自の応答を創作し発信するということです。

言うまでもなく、対話的ディスコース実践には、興味・関心があります。〔興味・関心であ
って、目的ではない! 純粋な興味・関心ではなく何らかの目的のために行われる「哲学の
ような」ディスコース実践は「動機が不純」ということになります。このことは後の回で
触れます。〕哲学をする人たちの興味・関心は、「ありとしあらゆるもの(あるとされるあ
らゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういうあり方をしているのか」(木田
p.23)という問いに答えることです。あるいは、短く言うと、「『ある』ということがどう
いうことか」(木田p.23)を突き詰めることです。ですので、哲学する人を突き動かして
いるのは、「存在者全体についての何らかの統一的認識」(木田元著『哲学と反哲学』p.iii)
に至ろうとする野心だということになります。〔木田先生は「哲学なんかと関係のない、健
康な人生がいいですね」と警告!していますが。ちなみに、わたしたち第二言語教育(学)
の人間にはこんなテーマの興味・関心はありませんよね。〔巻き込まれないようにご用心!〕
以下、議論を進めますが、その内容は大きく木田の研究に依拠しています。〔木田先生の論
の妥当性はおおむね了解していますが、「地道な」確認作業は後回しにします。一気に書い
てしまいたいので。〕ただし、対話的ディスコース実践(以降では、略して単にディスコー
ス実践と呼びます。「対話的」の部分は後の回で重要になります。)という観点は木田には
なく、本エッセイ独自のものです。

木田によると、こういうディスコース実践は、西洋以外の文化圏には生まれなかった。そ
して、そのようなディスコース実践をするためには、自分たちが存在するものの全体の内
にいながら、その全体を見渡すことができる特別な位置に立つことができると思わなけれ
ばならない。「存在するものの全体」を仮に「自然」と呼ぶなら、自身が自然を超えた存在
つまり超自然的な存在と思うか、少なくとも「超自然的存在」と関わりを持つことができ
る存在だと思わないと〔これが後に哲学とキリスト教神学の融合へとつながる!〕、「存在
するものの全体は何であるか」というような大それた問いは立てられない。自分が自然に
抱かれて生きていると何の疑問もなく信じて生きてきた日本人には、とてもそんな問いは
立てられないし、したがってそんなディスコース実践にあくせくする必要もなかった、と
木田は言います。〔木田先生は、「あくせく」は言ってません。〕西洋という文化圏だけが、
そのような哲学というディスコース実践をあくことなく行い、そこで産み出されたものの
見方や考え方〔次のパラグラフで言う超自然的原理〕を参照点として自然(存在するもの
の全体)を見ようとしたのです。そのような関心とそれに基づく思考が、哲学というディ
スコース実践です。

2-2 超自然的原理
そのような哲学というディスコース実践が始まる「転換点」がソクラテスです。哲学とい
うディスコース実践での思考法では、超自然的原理というものが立てられます。そして、
自然はその超自然的原理によって形を与えられ制作される単なる材料となります。自然は
それ自体で生きるものではなく、制作のための材料に過ぎない物、つまり物質になるわけ
です。哲学における超自然的原理の設定と、物質的自然観の成立は連動しています。〔哲学
のこのような性質を考えると、哲学を温床として科学が西洋で発展したこともうなづけま
す。〕

そして、哲学の歴史においてはその超自然的原理が変遷していきます。プラトンではイデ
ア、アリストテレスでは純粋形相、キリスト教神学では神、デカルトでは理性というふう
に。そして、「存在するものの全体」がそれぞれに応じて、イデアの模造(プラトン)、純
粋形相をめざして運動しつつあるもの(アリストテレス)、理性によって認識されるもの
(デカルト)というふうに捉え直されるわけです。それぞれの論についての詳しい紹介は
このエッセイの目的ではないのでしませんが、後の回でディスコース実践としての歴史的
な展開の様子だけは見たいと思っています。

2-3 哲学の時代区分
もう一つの哲学を見る視点は、上のポイントと直接に関連しますが、哲学を鳥瞰する視点
です。これも木田に依拠しています。哲学を鳥瞰するために木田が注目するのは、「ソクラ
テス以前の思想家」です。「ソクラテス以前」と言っても、ソクラテスがやっつけたソフィ
ストのことではありません。それよりも以前の思想家です。具体的には、ヘラクレイトス
やパルメニデスやアナクシマンドロスなどの紀元前6世紀から5世紀にギリシアで活躍し
た思想家たちです。かれらはソクラテス、プラトン、アリストテレスのように哲学者とは
呼ばれません。両者の根本的な違いは、超自然的原理を追究したか否かです。ソクラテス
以前の思想家は概して超自然的原理を追究していないのです。このことが、木田が提示す
る俯瞰図の枢要点になります。〔ただし、このことに気づいたのは木田本人ではありません。
ニーチェや木田が専門としているハイデガーです。〕

こうした視点に基づいて木田が描く時代的な俯瞰図は次のようです。ざっくりと3つです。

1.「ソクラテス以前の思想家」
2. 約2000年の哲学の伝統
 ソクラテスを転換点として、プラトンから始まった、超自然的原理を設定して存在する
ものの全体を理解しようとする哲学の伝統。概ねヘーゲル(その主著の『精神現象学』は
1807年)あたりまで続く。この約2000年の間、哲学者たちは、そのような思考法の中で
「七転八倒」していた!
3.反哲学 ─ 「ソクラテス以前の思想家」発見後の思想
 19世紀の終わり頃のニーチェ、20世紀になってのハイデガーが「ソクラテス以前の思想
家」の存在を発見し、「超自然的原理の呪縛」にようやく気づいた。ニーチェやハイデガー
以降を木田は反哲学と呼んでいる。

そして、西洋では、概ね3と時を同じくして、自然科学的な視線のみに基づく世界観への
危機感を訴えたフッサール、別の意味で「哲学のカラクリ」に気づいたウィトゲンシュタ
イン(『論理哲学論考』の前期ウィトゲンシュタイン)、弁証法的唯物論あるいは唯物史観
を提示したマルクス(20世紀になって明らかになってきた初期マルクス)が現れました。
そして、かれらの思想は、3とも合流しながら、現代思想へとつながります。このあたり
の事情は複雑で簡単に論じることはできませんので、本エッセイでは扱いません。

次回から2・3回にわたって、このうちの2について、どのような哲学者等がどのような
ディスコース実践をしたかについて話します。しかし、それは「参考までに!」であって、
重要なのは上の俯瞰図をしっかりと認識しておくことであり、3及びそれ以降、及びそれ
らとバフチン対話原理の関係です。

哲学のタネ明かしと対話原理 3

第3回 ソクラテスのディスコース実践とプラトンのディスコース実践 (2017年4月)

哲学という言語ゲーム

ソクラテスはどうもつかみどころがないなあと考えて、その手がかりを求めていろいろ本
をひっくり返して、竹田青嗣の『プラトン入門』に行きつきました。竹田のディスコースも
おもしろいです。竹田は、木田と同じように哲学を「調伏」しようとしています。そのこ
とを、竹田は「哲学の思考の原型的な本質を再確認すること」と言っています。哲学につ
いて竹田は以下のように言います。

(1) 人間の精神は、自分と世界のあり方を考え尽くそうとする本性をもつ。
(2) 人間が編み出したそのための手段が、宗教と哲学である。
(3) しかし、宗教と哲学には本質的な違いがある。宗教は、「無限なもの」「絶対的なもの」
   を直感的、感覚的、想像的な仕方で求める。あるいは、別の言い方をすると、そのよ
     うな仕方で得たものを物語(=神話)にする。※そのような意味で、ここで言う宗教
     は、最も広い意味での宗教となります。
(4) これに対し、哲学は、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行おうとする。それ
     が哲学するという言語ゲームである。(言語ゲームは、言うまでもなくウィトゲンシ
     ュタインの哲学という営みを喝破した用語である。『プラトン入門』で竹田もこの用
     語を用いて「哲学の調伏」をしている。)
(5) そして、(宗教の普遍的思考はさまざまな共同体を越えることはそもそもできないが、)
     哲学の普遍的思考は、まさにさまざまな共同体を越えて共通了解を作り出そうとす
     る思考の不断の努力である。

上の議論の結論を言うと、哲学とは、「『無限なもの』『絶対的なもの』について、抽象概念
を駆使して、さまざまな共同体を越えて、共通了解を作り出そうとする、終わりのない言
語ゲームである」となります。「終わりのない」の部分については後に注目して議論したい
ので、覚えておいてください。

ちなみに、捕捉として参考までに、これまでの議論と重複する部分もありますが、竹田が
整理してくれている哲学という方法の基本構図を挙げておきます。

<1> 物語ではなく抽象概念を使用する。
<2> 世界の存在について根本「原理」を設定して、そこから世界全体の説明に至る。
<3> 「構造」と「動因」の相関性の解明
<4> 物理的原理と精神的原理の相関性の解明
<5> 抽象概念の使用による論理的パラドクス(アポリア)を解くこと。

すでにお気づきのように、ウィトゲンシュタインや竹田が言語ゲームと言っているところ
を、筆者はディスコース実践と言っています。それでは、ソクラテスに入ります。

ソクラテスのディスコース実践

ソクラテスの話をするためには、やはりソクラテス以前の「哲学っぽい」ディスコース実
践について話しておかなければなりません。要は、物語を使わないで世界説明をしようと
した人たちの話です。箇条書きにしてしまいます。

1.タレス(BC625頃-547頃) - 万物の原理は水である。
2.アナクシマンドロス(BC610頃-546頃) - 万物の原理は、「無限なるもの」である。
3.アナクシメネス(BC585頃-525頃) - 気息こそ(空気)こそ万物の原理である。
4.ピュタゴラス(BC582頃-493頃) - 世界の原理は数であり、宇宙の本質はハルモニア
  (調和)である。
5.ヘラクレイトス(BC540頃-484頃) - 世界の一切はたえざる変化の相にある。
6.エンペドクレス(BC493頃-443頃) - 4元素(土、水、風、火)と愛と憎
7.アナクサゴラス(BC500 -428) - スペルマタ(種子)とヌゥス(精神・知性)
8.パルメニデス(BC554-501) - あるものはあり、あらぬものはあらぬ。

竹田の議論を少し乱暴にまとめると、これらの思想家は素朴に世界の起源や原因や根源を
追求しようとしました。これに対しソクラテスやプラトンは「そもそも人が事物の『原因・
根拠』を問うのはなぜか」という新しい問いから、もう一度それを照らし直していると竹
田は言います。そのことは、有名な「無知の知」で明らかにされていると竹田は見ている
ようです。その無知の知の件は、ソクラテスの死後にプラトンが書いた『ソクラテスの弁
明』の以下の部分です。これも竹田からの受け売りです。

「私も人々も、善美のことがらについては、何も知らない。だけど私は自分の無知を知っ
ているのに対して、人々は自分たちは何でもよく知っていると思っている。まさしくその
点で自分の法に知恵があると言えるのではないか。…これまで知者たちと言われていた
人々…のいずれも、じつは、善美のことについて何も知らず、しかも自分では多くを知っ
ているつもりでいることがわかったのだ。…人間にとって最も善きこと、大事なことは、
何よりも魂をできるだけ善いものにすること、自己自身の徳を高めること以外にはありえ
ない。私が議論によってさまざまな人々の言説を吟味し批判しようとするのは、まさしく
このことを吟味しつつ確認するためであって、それ以外何事も自分の主張するところでは
ない。」

竹田によると、プラトンが描くソクラテスが探究するのは、「節制」「正義」「勇気」「慎み
深さ」といった人間にとって本質的と言える諸徳の「本質」は何であるか、ということで
す。そして、この「〜とは何か」という問いがきわめて重要な意味をもっていると言いま
す。弱冠20歳だったプラトンに衝撃を与え彼を傾倒させたのは、ソフィストたちを相手に
対話を通して本質を徹底的に洞察しようとする老ソクラテス(そのとき63歳)の鬼気迫る
執拗さだったのだろうと想像されます。木田によると、ソクラテスは、何らかの理由で、
それまでのギリシア人の物の考え方の大前提に大鉈を振るって、それをすべて否定すると
いう役割を自らに課しました。また、竹田は、ソクラテスのことを、伝統的な価値と倫理
のあり方を根本から疑う新しい言葉と信念をもった異貌の哲学者と言っています。ソクラ
テスというのは、いわばギリシア時代の哲学の道場破りの人のようなものです。さまざま
な賢人(剣の達人)と言われる人を訪ねては論戦(闘い)を挑み、それまでのものとは異
なる対話という論法(剣の技)で、相手をなぎ倒していったのです。そして、そのような
老ソクラテスの姿を見て、若きプラトンはソクラテスに心酔したのです。

わたしたちはソクラテスのディスコース実践を直接に知ることはできません。わたしたち
が知りうるのは、プラトンが書き残した数々のソクラテスの対話篇を通してです。そして、
プラトンは、自身の思い出の中の師ソクラテスとソフィストたちとの対話を描くことを通
して自身の哲学的思考を高め、思想を磨き上げたようです。

プラトンのディスコース実践

上に言ったように、ソクラテスは書いた物を残していません。ソクラテスの思想を伝えて
いるのはプラトンです。竹田は、プラトンこそが哲学という独自の思考方法の創始者だと
言っています。プラトンは師ソクラテスの言葉(口頭ディスコース)を書いた物(書記デ
ィスコース)に変換するプロセスを通して、つまり師の言葉と対話しそれを流用してより
高次なディスコースへと編み直すプロセスを通して、その言葉と思考法と思想を自らの言
葉と思想へと熟成させ獲得していった(専有=appropriation)のだと考えられます。その
ようにして形づくられたのがプラトンの思想です。

プラトンは、初期に書かれた先の『ソクラテスの弁明』や数々の対話篇の他にも『パイド
ン』『国家』他膨大な著作を残しています。木田によると、西洋哲学はすべてプラトンのテ
キストへの注釈だという言い方もあるほどだそうです。

ちなみに、書くことのディスコース実践の発達についてここで言及しておきたいと思いま
す。言葉の研究者の間ではクラシックの一つとなっている『声の文化と文字の文化』のオ
ングは、ギリシアの時代でもホメロスの時代にはまだ書くことのディスコース実践は存在
しなかったことを指摘しています。そして、書くことのディスコース実践が普及したのが
まさにプラトンの時代と重なると言っています。そして、これこそオングの本の中心的な
主張ですが、書くことの実践が、それまでの話すことのディスコース実践の下での思考様
式とは別種の思考様式を創り上げました。プラトンを軸として言うと、話すことのディス
コース実践の中で産みの苦しみにもがいていたソクラテスの思考法や思想を、書くことと
いう新たなテクノロジーを手に入れたプラトンがその思考法と思想を書くことを通して誕
生させたと言っていいでしょう。

すでにかなり長くなってしまっているので、今回はここまでにしたいと思います。次回は、
プラトンについてしっかり書きたいと思います。

哲学のタネ明かしと対話原理 4

第4回 西洋の文化形成の伝統プラトニズムの誕生 (2017年5月)

哲学を勉強しようとする人が、いきなり躓いてしまうのが、ソクラテス、プラトン、アリ
ストテレスという「有名人」が登場する古代ギリシア哲学です。神がかっているソクラテ
スの奇行と、事情がよく分からないソクラテス裁判のこと、膨大で広範にわたるプラトン
とアリストテレスの思想など「躓きどころ満載」です。プラトンについて論じる今回は、
まずはじめに、師ソクラテスと弟子プラトンの時代背景を概観した上で、プラトン(BC427-
347、なんと80歳まで生きた!)の来歴をざっと見ます。そして、最後に、プラトン哲学
のプラトニズムたる所以を論じます。引き続き、主として木田と竹田の本を参考にして論
じることになります。

ソクラテスとプラトンの時代

ギリシアを中心に紀元前5世紀あたりからの歴史をざっと概観します。古代ギリシアは、
ペロポネソス半島とクレタ島を含む現在のギリシアの地域と概ね重なります。紀元前8世
紀頃からこの地域のあちこちに都市国家ポリスが発達し、ギリシア文明が急速に開花しま
した。ご存じのように、ポリスは、市民と奴隷で構成されており(実際にはペリオイコイ
という在留外国人もかなり多数住んでいた)、市民の生活は奴隷労働によって支えられて
いました。そして、紀元前5世紀までに、ホメロスの叙事詩やソフォクレスの悲劇が生ま
れ、前回紹介したタレスやピタゴラスやヘラクレイトスなどの(自然)哲学者が登場しま
した。ここまでは背景です。

しかし、紀元前500年に、エーゲ海の東にあった大国ペルシアに侵攻にさらされます。ペ
ルシア戦争です。ギリシアのポリスは連合してこの敵と戦いました。そのときに、二大ポ
リスであるアテナイとスパルタはどちらがその連合の盟主になるかで競い合っていました。
ペルシア戦争は、マラトンの戦いに代表される第一次ペルシア戦争と、サラミスの海戦と
プラタイアの戦いの第二次ペルシア戦争を含めて紀元前500年から449年までの約50年
続いたとされています。そして、第二次ペルシア戦争(紀元前480年-479年)の後に、ペ
ルシアの脅威を背景としてアテナイを中心にデロス同盟(都市国家同盟)が組織されます。
これにより、アテナイは都市国家群の盟主となり、大いに繁栄することになります。ソク
ラテス(紀元前470/469ー399)がアテナイに生まれたのはちょうどそんな時期です。アテ
ナイは、交易や商業が栄えるだけでなく、ギリシア全土からさまざまな人々が訪れ、新し
い知識が流れ込みました。そういう時代の雰囲気の中で職業的教育者たち、いわゆるソフ
ィストたちがアテナイの町で活躍するようになりました。紀元前5世紀の半ばつまり紀元
前450年くらいからです。そして、ソクラテスは時を同じくして、ソフィストたちの辛辣
な批判者として登場します。このあたりが、アテナイの黄金時代です。

アテナイの繁栄は長く続かず、やがてギリシアは、アテナイ・グループとスパルタ・グル
ープに分かれて、内戦に入ります。紀元前431年から404年までの30年間にわたるペロ
ポネソス戦争です。そして、この戦争に敗北したアテナイは、以降、徐々に衰退の道をた
どります。

プラトンの来歴

プラトンが生まれたのは、ペロポネソス戦争の最中の紀元前427年です。名門の貴族の家
出身です。ソクラテスに出会ったのも、同戦争の最中の紀元前407年20歳のときです。そ
して、師ソクラテスは、ペロポネソス戦争終結間もない紀元前399年に最後の弁明を残し
て刑死します。プラトンの生涯は大きく次の4期に分けることができます。

1.哲学修業時代(紀元前407年〜)
 20歳のときにソクラテスと出会って傾倒。ソクラテスの刑死によって政治への道を断念
 するまで。
2.世界漫遊旅行と哲学探究時代(紀元前399年〜)
 ソクラテスの死後、メガラ、キュレネ、エジプト、フェニキアなど地中海の諸国を旅しつ
 つ、ソクラテス対話篇を書き続ける。
3.アカデミアの時代(紀元前386年〜)
 紀元前386年41歳のときに、アテナイに戻って、アカデミアを設立して、その後の約
 20年。『饗宴』『パイドン』『国家』などの中期以降の著作。
4.後半生の時代(紀元前367年〜347年死去)
 シュラクサイ(シチリア島の一都市)のディオニュシオス一世の義弟ディオンとの政治
 的、哲学的交流。そして、後のディオニュシオス二世の時代にディオンとディオニュシ
 オス二世との間の確執に自身も多少とも巻き込まれる(紀元前367年から365年)。『ソ
 ピステス』『政治家』『書簡集』などの後期の著作。

本エッセイのテーマとの関係では4はあまり重要ではないので、これ以上論じません。こ
の時代背景とプラトンの来歴で言いたいのは、プラトンはアテナイが繁栄していた時期に
円熟期のソクラテスに出会って、以降の師との濃密な交流を通して師のすべてを吸収しよ
うとしたこと、そして、師の死後には師の思想を熟成させそれを基盤としてプラトン独自
の哲学を発達させたということです。そして、名門というプラトンの出身もプラトンがそ
うした仕事を達成するのに有利に働いたと想像されます。

プラトニズムの誕生

ここでは、本エッセイの重要地点となる哲学の絞り込み作業をします。つまり、古代ギリ
シアから連綿と続く人類の膨大な営みである哲学のどのような面に関心をおき注目するべ
きかを論じます。(逆に言うと、それ以外の面は関心も注目も不要ですよということになり
ます。)

本エッセイの関心は、第二言語教育を考えるための基盤と第二言語教育学のための基盤を
得ることです。そのような基盤を得る上で重要なのは、認識論への関心です。認識論とは、
わたしたちはどのように世界を知ることができるのか、またその「知る」という作用が向
けられる方の世界はどのような構造になっているのか、を解明しようとする試みあるいは
それについての見解です。ゆえに、認識論は、自然科学であろうと人文学であろうと、「知
る」という科学的営みの基礎となるものです。前回言ったように、ソクラテスとプラトン
は「そもそもわたしたちが世界を知るとはどういうことか」という根本的な問いを人類史
上で始めて徹底的に探究した人たちです。では、その問いに対して得たプラトンの見解は
どのようなものでしょうか。それが、イデア論です。イデア論については、わたしが説明
するより木田の説明を直接に引用するほうが後の議論のために有用ですので、かなり長く
なりますが、木田の説明を引用します。

「イデアという言葉は、idein(見る)という動詞から生まれた言葉ですが、プラトンは『魂
の目』でしか見ることができない、けっして変化することのない物事の真の姿を指します。
たとえば、三角形のイデアがあるとしたら、純粋な二次元の平面に、幅のない直線で描か
れた三角形でなくてはならないわけです。それは、普通の目で見ることはできませんが、
魂の目によって直感できるはずだとプラトンは言うのです。いわば、目の前にある物はイ
デアの模像にすぎず、人間が感じ取れる世界は、イデア界の似姿に過ぎない。なにが真に
存在する本物かという価値判断の基準をまったく逆転させたところに、プラトンの独創が
あるわけです。…いずれにせよ、「魂の目」が人に備わっていて、その目でしか見えない真
の存在の実現を目指して生きるというのが、プラトンにとっては、どうしても必要な考え
方でした。」(木田、『反哲学入門p.73)

ここからは木田の推測になりますが、プラトンは、(1) 師のソクラテスを断罪したアテナ
イの「なりゆきまかせ」、「なる」にまかせる政治哲学さらにそれを支えている「なる」の
論理を否定したかった。そして、(2) ポリスというものは一つの理想、つまり正義の理念
をめざして「つくられる」べきものだという新しい政治哲学を構想しようとした。しかし、
(3) そうした政治哲学を説得的に主張するには、ポリスに限らずすべてのものが「つくら
れたもの」「つくられるべきもの」だとする一般的存在論によって基礎づけられる必要があ
った。(4) そうした一般的存在論としてイデア論が構想された、と木田は論じています。
そして、プラトンが生成しなければ消滅もしない「イデア」という超自然的な原理を設定
してから後は、「自然」はそうした原理にのっとって形成される単なる材料・質料であり、
単なる物質つまり単なる質料としての物に過ぎないという考え方が成立した、と木田はプ
ラトンの飛躍を評価しています。これが西洋の文化形成の基礎となるプラトニズムです。

次回は、プラトンのアカデミアで学び、プラトンとならぶ哲学者として評価されているア
リストテレスについてできるだけ完結に話したいと思います。しかし、注目点はやはりプ
ラトニズムです。そして、わたしたちが注目すべきは、そのような物の見方です。

哲学のタネ明かしと対話原理 5

第5回 プラトンとアリストテレス (2017年6月)

前回予告した予定を変更して、今回はプラトンからアリストテレスへの「継承」について
話したいと思います。

すでに告白しているようにこのエッセイは木田の哲学の見方に大きく依拠しています。木
田の哲学論は、「なる(生成)」的思考と「つくる(制作)」的思考というコントラストを縦
糸として哲学的思考の俯瞰図を提示しています。木田の議論に沿っていうと、ソクラテス
以前のギリシア本来の自然的思考(第2回と第3回に論じたソクラテス以前の思想家はそ
の伝統にある)の思考法は、典型的な「なる」的思考です。「なる」的思考では、自然も人
間も「自ずから生成し、変化し、消滅していくもの」となります。そこには、絶対的な論
理や理念などはありません。そして、「つくる」的思考の創始者がプラトンとなります。プ
ラトンはイデア論(前回参照)によってそれまでにはなかった「つくる」的思考を高らか
に宣言したわけです。そして、師プラトンの「つくる」的思考を継承しながら、それにギ
リシア伝統の「なる」的思考を編み込んだのがアリストテレスです。今回は、プラトンの
思想の形成の経緯をたどり、その思考法のアリストテレスにおける展開について話します。

プラトン思想形成の経緯

前回のプラトンの来歴のところでお話ししたように、28歳でソクラテスの死を迎えました。
そこでプラトンは政治家の道を断念して、世界漫遊の旅に出かけます。まあ世界漫遊と言
っても、エジプトやアフリカ北岸にあるアテナイの植民都市キュレネ、イタリアのタラン
トなど基本的に地中海を取り巻くエリアです。この頃は、ギリシア及びそのアフリカ北岸
の植民都市とイタリアの各地に町がある程度で、それ以外のヨーロッパ世界はまだ文明以
前の地です。

アフリカの北海岸は、ユダヤ人の居住地でした。モーゼの出エジプトの地もそのあたりで
す。ユダヤ教はこの地で誕生した一神教です。プラトンの自然を超越した原理であるイデ
ア、諸々のイデアのイデアである善のイデアというような考え方や、世界は作られたもの
だという考え方は、ユダヤ人の信仰である一神教との接触によって生まれたのではないか
と木田は推測しています。ソクラテスの死後、人生をどう生きるか暗中模索していたプラ
トンには、ユダヤ人の信仰する唯一神、その神によって創造された世界という発想は大き
なヒントになったはずだと木田は言います。また、プラトンは南イタリアのタラントにも
行き、当時そこに拠点があったピュタゴラス教団にも立ち寄って、数年間数学を学びまし
た。ピュタゴラス教団の信奉する「数」もプラトンの思想形成に影響していたのではない
かと木田は見ています。

このようにプラトンはアテナイ出身の人ですが、28歳からの諸国漫遊の経験を通してイデ
アに基づく世界の成り立ちという思想を形成していきました。そして、41歳のときにアテ
ナイにアカデミアを設立します。そのような物の見方は、ギリシア伝来の自然主義的な「な
る」的思考に慣れ親しんでいたアカデミアに集う弟子たちには大いに異質だったようです。
実際に、アリストテレスは、プラトンの思想を「異国風(エクトポーテロス)」と言ってい
るそうです。つまり、プラトンのイデア論は、ソクラテス以前からのギリシア伝来の自然
的思考とは大きく趣を異にするものでした。

アリストテレス

アリストテレスは、紀元前384年にギリシア北方のマケドニアの都市スタゲイラの医師の
家に生まれました。17歳のときにアテナイに行き、プラトンのアカデミアに入学し、プラ
トンの死まで20年近くそこで学びました。アリストテレスは後の紀元前335年に、ギリ
シアを版図に収めたマケドニア勢力の支援を得てアテナイにリュケイオンを開き、アカデ
ミアと対抗しながら活動を続けました。アリストテレスが育ったスタゲイラは、イオニア
的と呼ばれる古いギリシアの伝統の影響が色濃くのこっていたところだったので、プラト
ンのイデア論にはアリストテレスはかなり違和感をもっていたのではないかというのが木
田の見立てです。いずれにせよアリストテレスの課題は、プラトンの行き過ぎた異国風の
イデア論を批判し、これを巻き戻すこと、あるいはイオニア的伝統である自然的存在論つ
まり「なる」的思考と折衷するところにありました。これも木田の見解です。

哲学のタネ明かしと対話原理 6

第6回 アリストテレス (2017年7月)

木田の俯瞰点(木田元 2007 『反哲学入門』※2010年に新潮文庫でも出ています。)

木田は、哲学とは、「ありとしあらゆるものが何であり、どういうあり方をしているの
か」について突き詰める営みであると言っています(木田p.19)。それは、「人間を含む生
き物やモノなど、地球上にあるありとしあらゆるものが『ある』というのはどういうこと
か、それをあくまで全体として研究しようとする学問だ」と言っています(p.40)。(これ
に対し、科学というのは、存在者全体のうちからある特定の領域、つまり物理現象とか経
済現象と言って、領域を切り取ってきて、そこにある法則を見出そうとするものです。) 
こうした哲学の営みから出てきた見解を木田は大きく、「なりいでてある」という見方
(前回の「なる」的思考)と、「つくられてある」という見方(前回の「つくる」的思
考)に分類しています。

このような「哲学をする」ことについて、木田は、西洋以外の他の文化圏には生まれなか
った営みだと言っています。というのは、そんなことを考えるためには、自分たちが存在
するものの全体の内にいながら、その全体を見渡すことができる特別な位置に立つことが
できると思わなければいけないわけで、そのような立ち位置・目線をもったのは西洋だけ
だと言うのです。存在するものの全体を「自然」と呼ぶなら、自分たちがそうした「自
然」を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関
わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、そんな思考はできません。自分が自然の中
にすっぽり包まれて生きていると思っている人々には、そんな立ち位置や目線をそもそも
採ることができません。西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照し
ながら自然を見るという特別な見方・考え方をしたのであり、その思考法が哲学です。

哲学は、それ以前の「なりいでてある」という見方から「つくられてある」という見方へ
の転換です。その転換を強力に牽引したのがソクラテスです。そして、ソクラテスの弟子
のプラトンがイデア論によって、哲学の第一歩を踏み出しました。それ以降の哲学発展の
経路は、この「つくられてある」の見方の発展の経路となります。

形相(エイドス)-質料から可能態-現実態へ

プラトンのイデア論については、第4回の「プラトニズムの誕生」の部分で論じました。
イデア論は、すべてのものは「つくられたもの」であり、さらに「つくられるべきもの」
であるという制作的存在論を説くためには有効であると思います。そんなふうに考える
と、プラトンは、「つくる」論理に特別な権利を与えて「自然」を包括して規定しようと
していたことが分かります。しかし、自然的な存在物、つまり植物や動物などの場合はど
うなるのでしょう。その場合でも、「つくる」論理があてはまるでしょうか。

アリストテレスは、言ってみれば、プラトンの極端な「つくる」論理と、ギリシア古来の
「なる」論理を仲裁して組み替えようとしました。アリストテレスは、まずは、「自然に
よって存在するもの」と「技術によって存在するもの」を区別します。前者は、例えば樫
の木、後者は、ヴィーナスの像です。そして、樫の木の種子が樫の巨木に成長する運動
と、大理石の塊がヴィーナス像になる運動とを対比して、それぞれの運動の原因を見定め
ようとします。アリストテレスの考えでは、「自然によって存在するもの」、例えば樫の木
では、運動の原因である「自然」が運動体である樫の木に内蔵されている。それに対し、
「技術によって存在するもの」では、運動の原因が彫刻家の「技術」で、それが運動体で
ある大理石の塊の外にあると考えます。

アリストテレスによると、プラトンには2つの原理しかありません。第4回の最後の部分
で論じた、イデアに由来する形相(エイドス)と材料・素材としての質料(ヒューレー)
です。端的に言うと、アリストテレスは、この「形相-質料」という図式を「可能態-現
実態」という図式に組み替えました。つまり、プラトンの言う質料(ヒューレー)は単に
質料なのではなく、何らかの形相(エイドス)の可能性を含んでいるもの、つまり可能態
の状態にあるものと考え、その可能態が「原因」によって現実化された状態を「現実態」
と呼びました。例えば、樫の木の種子は、樫の木になる「可能態」で、自然の力で成長し
た樫の木は、樫の木の形相を具現化した現実態となります。しかし、その樫の木は、材木
になる「可能態」で、木を切り倒し切り分けて製材するという「技術」の働きを受けて材
木の「現実態」となります。さらに、その材木は、机になる「可能態」で、机の形相に基
づく「技術」の働きを受けて机の形相を具現化した現実態である机になります。

アリストテレスの純粋形相論

このように考えると、可能態-現実態という関係はどこまでも相対化されます。というこ
とはつまり、すべての存在者はその内に潜在している可能性を次々に現実化していく目的
論的運動の内にあるということになります。

こうして見ると、アリストテレスの描く世界像は、動的で、広い意味で生物学的だという
ことになります。これに対し、プラトンの場合では、現実の世界は永遠に不変のイデア界
の模像なので、原理的に不変となります。そのような事情で、プラトンの世界像は数学的
で、アリストテレスの世界像は生物学的と呼ばれるようになりました。

アリストテレスは、絶対的に超越したプラトン流のイデアは否定しましたが、かれ自身が
考えた目的論的運動がめざしている最終目的地(telos)をかれは「純粋形相」と呼びま
す。アリストテレスの言う純粋形相とは、自身を含んでいる可能性をすべて具現化し、も
はや現実化されていない可能性のまったく残されていない存在者、したがってそれ以上動
くことのない存在者のことです。もはや自らは変化することなく、他のすべての存在者を
己に引き寄せようと動かすこの存在者つまり「不動の動者」こそが世界のすべての目的論
的運動の究極の目的(telos)だということになります。この純粋形相は一切の生成消滅
を免れているわけですから、超自然的な存在者と見なすしかありません。その意味では、
プラトンのイデアと同質です。このように、アリストテレスはプラトンの超自然的思考様
式を批判し否定しようとしたのですが、結局はそれを修正しながら受け継いだということ
になります。

そして、ここに至ってギリシア発祥の哲学はキリスト教神学と接近することとなります。
その話は、次回に。

哲学のタネ明かしと対話原理 7

第7回 イデア論を内具したキリスト教神学 (2017年8月)

前々回(第5回)に「プラトンとアリストテレス」、そして前回(第6回)に「アリスト
テレス」を論じて「しまいました」。この連続エッセイでここまで辿りついてわかったの
ですが、このようなプラトン論とアリストテレス論をするから「哲学って、わけわから
ん!」となるのだと思います。(仲間のT先生からそのような「悲鳴」をいただきまし
た。) 理解のための要領を考えると、第5回と第6回はスキップして(あるいはごくざ
っと読んで)、第4回からすぐにこの第7回に入ったほうがいいように思います。そし
て、第8回のときに、第5・6回を適宜に参照していただくのがいいかと思います。で
は、以下、第4回の続きという感じで読んでください。(今回も、相変わらず、木田から
の「受け売り」です。)

プラトンのイデア論

第4回の終わりの部分で、イデア論を核とするプラトニズムの話をしました。以下、少
し、復習から。

イデアというのは、ギリシア語のidein(見る)という動詞から生まれた言葉です。イデ
アとは、「決して変化することのない物事の真の姿」(木田)です。それはいわば「魂の
眼」(木田)です。例えば、紙に書かれた三角形を目にしたとき、わたしたちはそこに
「三角形」を見るわけですが、それは魂の眼によって「『三角形』だ!」と直感している
わけです。誰かの部屋を訪れたときに、部屋の片隅に木でできた大小2つの物体を目にし
たときに、「あっ、『机』と『イス』がある!」と見えるのも、魂の眼のおかげです。

目の前にある物はイスの模像にすぎず、人間が感じ取れる世界は、イデア界の似姿に過ぎ
ない。何が真に存在する本物かという価値判断の基準を、「眼の前に○○がある」という
見方から、「わたしは眼の前に『○○』(イデア)(の似姿)を見ている」というふう
に、プラトンは逆転させたのです。そして、第5回と第6回で論じたように、アリストテ
レスもこの発想を踏襲しています。

アテナイの成り行きまかせの「なる」の論理の政治の中でソクラテスの悲劇の刑死を眼の
前で目撃したプラトンは、イデア論という一般的存在論を展開しないではいられませんで
した。人には「魂の眼」が備わっていて、その眼でしか見えない真の存在の実現をめざし
て生きるという見方をしないではいられなかったのです。

ギリシアとローマ帝国

高校で世界史を勉強するときに最初にギリシアやローマのことを勉強するわけですが、ギ
リシアとローマの関係がイマイチよくわからなかったという人が多いのではないでしょう
か。筆者自身もその一人です。また、ローマとキリスト教の関係も何だかわかりにくいで
す。今回、多少復習してみて、でもやはりあまりよくわからないのですが、わかった範囲
のことを書きます。

地理的にも近いギリシアとローマは、文明的には兄弟のようなものと理解するのがいいと
思います。一方で、両者には違いもあります。ギリシアは帝国を形成せず諸都市国家ある
いは都市国家連合で終わったのですが、ローマは紀元前500年頃(正確には前509年)にロ
ーマを中心として共和政が始まり、前272年にはイタリア半島全域に及ぶ立派な共和国と
なります。その後、ローマはシチリア(前264年)やカルタゴとギリシア(前149年)を取
り込み、さらに勢いを拡大して、北はガリア(現在のフランスとベルギーのエリア)から
ブリタニア(現在のイングランドとウェールズ)、西は沿岸都市カルタゴを中心とするヒ
スパニア(イベリア半島)、東と南はガラティア(現在のトルコ)とシリアから地中海を
ぐるりと回ってカルタゴ(現在のチュニジア)を版図とする巨大な帝国を築きます。古代
のローマの町は繁栄を極め、またローマ帝国下で各地にローマ風の都市が建設されまし
た。

古代ギリシアの発展と繁栄は紀元前6世紀頃から始まります。ギリシアの勢いは盛んで、
地中海北部の沿岸各地に植民市と植民地を作りました。しかし、アテネがアレクサンドロ
ス大王率いるマケドニアに敗れること(前338年)で、ギリシアの繁栄と勢いは終わりを
告げます。

で、ギリシアとローマの関係です。この頃まで、ローマはそれほど勢いが活発ではありま
せんでした。実際のところ、シチリア島の沿岸部やイタリア半島のナポリ以南、そしてベ
ニスはギリシアの勢力下にありました。ローマが勢いを増していくのは、貴族と平民の闘
争に終止符が打たれたホルテンシウス法(前287年)以降です。ですので、形としては、
ローマはギリシアをその内部に吸収して帝国を築いていった観があります。そして、やが
て、ローマ帝国の文明史の中にやがてキリスト教が登場します。

ローマ帝国とキリスト教

もともとキリスト教はユダヤ教から派生したもので、イエスという教祖の奇跡的な言行を
伝える信徒たちの文書を拠りどころに展開された民間信仰のようなものでした。体系的な
教義などはありませんでした。伝道者たちはローマ帝国の各地で布教を行い、やがてキリ
スト教は無視できない勢力となりました。そして、ついに、380年にローマ皇帝テオドシ
ウスによってローマ国教に採用されました。その時点で、ギリシア的な教養を身につけた
ローマ市民に布教をしなければならなくなり、教義体系の整備が迫られました。そこで、
ギリシア哲学を下敷きにして、超自然的原理の部分に「神」を代入して、教義体系を作り
あげたのです。そして、これ以降、キリスト教神学の中で、プラトン主義とアリストテレ
ス主義という2つの思想、2つの世界観が時代によって入れ替わって、西洋の文化形成を
規定することになります。その2つは、プラトン-アウグスティヌス主義とアリストテレ
ス-トマス主義です。

次回は、プラトン-アウグスティヌス主義とアリストテレス-トマス主義の若干の説明と両
者の盛衰を見ていきます。今回のエッセイの注目点は、ローマ帝国以来、ギリシア哲学と
キリスト教が渾然一体となってヨーロッパの文化形成の基盤となってきた、ということで
す。政治、社会、哲学、思想、芸術などどの分野においてもそうです。ここは、重要!!

哲学のタネ明かしと対話原理 8

第8回 プラトン-アウグスティヌス主義とアリストテレス-トマス主義     (2017年9月)

ローマ帝国以来、ギリシア哲学とキリスト教は渾然一体となってヨーロッパ文化形成の基
盤となってきた、と前回述べました。そして、プラトン-アウグスティヌス主義とアリス
トテレス-トマス主義は、この古代末期以来代わるがわる西洋の文化形成を規定すること
になります。

アウグスティヌスとプラトン-アウグスティヌス主義

キリスト教は、380年にローマの国教となりました。しかし、当初は整備された教義体系
はありませんでした。最初の教義体系を組織したのは、アウグスティヌス(354-430年)
です。

アウグスティヌスは、当時ローマ領だった北アフリカのカルタゴ近郊のタガステに、異教
徒のパトリキウスと敬虔なキリスト教徒である母モニカの間に生まれました。20代のアウ
グスティヌスはマニ教に引きつけられて、ゾロアスター教の流れを汲み光と闇などの二元
論的教義を有するマニ教の聴聞者として10年近くを過ごします。383年にアウグスティヌ
スは、ミラノに修辞学の教師として招かれます。そこで、キリスト教の有名な司祭アンプ
ロシウスの説教を聞いて心を引かれましたが入信はしませんでした。しかし、このころ
に、たまたまラテン語訳でプロティノスの『エンネアデス』の一部分を読んでマニ教の考
え方から解放されます。また、当時ローマに伝わっていたパウロの手紙を読んでカトリッ
クの教えに引かれます。ちなみに、プロティノスはオリエントやエジプトの神秘主義思想
プラトン哲学を神秘主義的色彩の濃い新プラトン主義に改造しています。

その後、アウグスティヌスは、32歳の386年の夏の終わりに奇跡的な回心を経験し、ミラ
ノ郊外の友人の山荘で母のモニカや友人たちと聖書に親しみ哲学的談義を続けた後、ミラ
ノに帰って、ついにアンプロシウスの手で洗礼を受けます。その後、388年に故郷のタガ
ステに帰り、友人たちと共に清貧と祈りの生活を続けたアウグスティヌスは、391年の
春、37歳のときに、カルタゴの西の港町ヒッポの友人に招かれてその地の司祭になりま
す。以後、その地に終生留まり、自伝風の本『告白』(397-401年)を著し、またキリス
ト教の護教論と教義論からなる大著『神の国』全22巻(413-426年)などの著作をしま
す。そして、『神の国』で展開された教義はやがてローマ・カトリックの正統教義と認め
られます。

アウグスティヌスとローマ帝国の運命

アフリカの片田舎の司祭が書いたものがと思われますが、カルタゴを中心とする北アフリ
カ地域にはローマの貴族たちが昔から広大な土地や別荘をもっており、またもともとアフ
リカはローマの穀倉地帯でした。そして、この頃のローマはすでに衰退の一途を辿ってお
り、410年8月の西ゴート族(ゲルマン諸族の一族)によるローマ略奪で、再度の侵入を恐
れたローマの貴族たちが次々と海を越えてカルタゴに逃れていました。この貴族たちに伴
われてきた知識人たちが、当時すでに西方教会の中心人物になっていたアウグスティヌス
に、この危機に対処する術を尋ねるのは当然であり、アウグスティヌスの周りで宗教論争
が展開されるのも何の不思議もありません。そして、アウグスティヌスが没する430年に
はかれが住んだヒッポの町もヴァンダル族(ゲルマン諸族の一族)に包囲されて陥落寸前
になります。ローマは395年にすでに東西に分裂しており、ローマを中心としていた西ロ
ーマ帝国は476年についに滅亡します。地中海世界と西ヨーロッパを含む西方世界は、以
降、未開のゲルマン民族に蹂躙され、暗黒時代に入ります。そして、以後、キリスト教文
化は東ローマ帝国に引き継がれていきます。

プラトン、新プラトン主義、そしてプラトン-アウグスティヌス主義へ

プラトンには、イデアの世界と、その模倣であるこの現実の世界つまり個物の世界という
2つの世界を考える独特な二世界説がありました。プロティノスの新プラトン主義経由で
プラトン哲学を学んだアウグスティヌスは、プラトンのこの二世界説を「神の国」と「地
の国」の厳然たる区別という形で受け継ぎ、あの「つくる」論理に基づく制作(ポイエー
シス)的存在論によって世界創造論を基礎づけ、イデアに代えてキリスト教的な人格心を
形而上学的原理として立てます。イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観
念と考えられるようになります。ここから、idea(イデア、ギリシア語)を観念(例えば
英語のidea=アイデア)と見る考え方が生まれてきます。

このように神の恩寵の秩序である「神の国」と、世俗の秩序である「地の国」、ローマ教
会と皇帝の支配する世俗国家、信仰と知識、精神と肉体とを截然と区別するプラトン-ア
ウグスティヌス主義的教義体系がローマ・カトリック教会の正統教義として承認されま
す。ただし、それはアウグスティヌスの没後1世紀近くたった529年のオランジュ公会議
においてでした。背景にある事情を木田は次のように推測しています。「一方では、世俗
の秩序であるローマ帝国によって国教にされ、国家との共存をはかりながらも、他方では
すでに崩壊してしまった西ローマ帝国と運命を共にすることを避けようとするカトリック
教会の政治的意志が働いたように思われます。」と。

こうしてプラトンの超自然的思考様式は、プラトン-アウグスティヌス主義的教義体系に
受け継がれ、キリスト教の信仰と結びついて現実的有効性を発揮しながら展開されていき
ました。このプラトン-アウグスティヌス主義的教義体系は、古代末期から13世紀までカ
トリック教会の正統教義として機能し続けます。一方で、オランジュ公会議と同じ529年
にユスティニアヌス大帝(東ローマ帝国第2代皇帝、東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼
ばれる)の命令で哲学は禁止され、プラトン以来900年に及ぶ伝統をもつアテナイのアカ
デミアも閉鎖されました。ちなみに、木田は、ニーチェ(1844-1900)の言葉を引用して
「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」と指摘しています。

次回は、ゲルマン諸族によるヨーロッパの形成と新たな中世キリスト教文化の開花の話と
なります。

哲学のタネ明かしと対話原理 9

第9回 ヨーロッパ世界の始まりとキリスト教とギリシア哲学 (2017年10月)

4世紀後半から6世紀にかけての200数十年間、世界規模で辺境異民族の高度文明社会へ
の侵入がありました。いわゆる民族の大移動で、この出来事が古代と中世を分かつことに
なります。そして、前回触れたようなゲルマン民族の侵入などの結果、地中海世界を舞台
に展開された古代ギリシア・ローマ文化は西方世界から姿を消します。その後しばらく暗
黒時代が続いた後に、今度は舞台をヨーロッパ日本語教育写して、新たな中世キリスト教
文化が花開きます。そのドラマの担い手は、ヨーロッパ各地に部族国家を作ったゲルマン
諸族です。
 
カール大帝の戴冠と大フランク王国

ゲルマン諸族は近代的な国民国家の組織を整備するには至っていませんでした。この時期
ヨーロッパでは、前回お話しした東ローマのカトリック教会の教区網だけがヨーロッパを
統合する唯一の組織で、土地をめぐる構想などにも教会が介入せざるを得ませんでした。
しかし、統合といっても形だけのものでした。やがて、800年にフランク王国国王のカー
ル大帝(742-814)がローマ教皇によって戴冠され、神聖ローマ帝国皇帝となって、ガリア
(フランス)、ゲルマニア(ドイツ)、イタリアを含む大フランク王国を統治するようにな
ります。ここに大規模な「聖」と「俗」の合流が起こります。それとともに、この出来事
が、今わたしたちがイメージするヨーロッパ世界の始まりとなります。これは重要!

アリストテレス-トマス主義

このようにローマ・カトリック教会が実際に世俗政治に介入するようになると、「神のもの
は神に、カエサルのものはカエサルに」という聖書の言葉を拠り所に、神の国と地の国、
教会と国家を截然と区別していたプラトン-アウグスティヌス主義的教義体系では不具合
が生じます。教会はこうした事態への対応を迫られました。そうした必要に応えて構築さ
れたのが、13世紀のアリストテレス-トマス主義の教義体系です。

この教義体系の再編成の仕事は、12世紀に教会や修道院附属の学校(schola)の教師たち
によって始められたのでスコラ哲学と呼ばれました。その仕事を成し遂げたのはトマス・
アクィナス(1225/26-1274)です。12世紀の末から7期にわたる十字軍の遠征が始まるわ
けですが、その結果、ヨーロッパとイスラム圏との交流が始まりました。その交流の結果、
イスラム圏にいわば「埋もれていた」アリストテレスの哲学がヨーロッパに再輸入されま
す。トマス・アクィナスは、そのアリストテレス哲学を下敷きにしてプラトン-アウグステ
ィヌス主義に代わる新しい教義体系を組織します。木田によるとトマス・アクィナスは信
じられないくらい膨大な量の著書を残しています。その膨大な著作の中心になるのが『神
学大全』です。

アリストテレス-トマス主義教義体系の特徴

すでに論じたように、アリストテレスの哲学はプラトンのイデア論の批判・修正です。プ
ラトンの超越的なイデア論に対して、アリストテレスの形相論では、形相を質料そのもの
に内在してその生成を内側から導くものと考えました。ですので、アリストテレスにあっ
ては、プラトンのイデア界にあたる純粋形相が、この現実界を全く超越した彼岸にあるの
ではなく、現実界と一種の連続性を保ったものと考えられていました。したがって、この
アリストテレスの哲学を下敷きにして考えれば、神の国と地の国、恩寵の秩序と自然の秩
序、教会と国家とがより連続的なものとして捉えられ、ローマ・カトリック教会が国家な
り世俗の政治なりに介入しそれを指導したとしても当然だという帰結になります。ますま
す形を整え力を増しつつあった国民国家との関係に苦慮していたローマ教会にとって、こ
のアリストテレス哲学を使ったトマス主義的教義体系は、有効な解決法を提供してくれる
ものでした。そのような事情で、以後ルネサンス期に至るまで中世を通じて、このアリス
トテレス-トマス主義が正統教義として認められることになりました。

プラトン-アウグスティヌス主義の復興

世俗政治に介入するようになった教会や聖職者は腐敗堕落していきました。そこで、14世
紀あたりから再びローマ・カトリック教会に世俗政治から手を引かせて信仰の浄化を図ろ
うとするプラトン-アウグスティヌス主義ないしプラトン主義復興の動きが各方面で起こ
ってきました。こうした動きは、後の15世紀のルネサンスの時代には、キリスト教とは離
れた人文主義の立場でのプラトン復興の運動からも側面的な協力を受け、やがて16世紀
のルター(1483-1546)の宗教改革運動へとつながっていきます。次回に論じるデカルト
(1596-1650)や、パスカル(1623-1662)やマルブランシュ(1638-1715)なども、アウグ
スティヌス主義復興の運動と接触しながら自身の思想を深めていきました。

このように、プラトン主義とアリストテレス主義はキリスト教の教義史の中で覇権の交替
を繰り返してきました。かれらの哲学がキリスト教と深く関わりながら、ヨーロッパの文
化形成の根幹の部分に関わってきたということです。だいぶ遠回りをしましたが、次回は
ようやくデカルトです。

哲学のタネ明かしと対話原理 10

第10回 近代へのとびらを押し開けたデカルト (2017年11月)

有名な「私は考える、それゆえ私は存在する」というテーゼによってデカルトは近代的自
我の自覚を達成し、そういう意味で近代哲学の創建者だと言われてきました。しかし、以
下に論じるように、実は、デカルトは近代へのとびらを押し開けただけです。

デカルトは本当に近代的自我を自覚したか
いつものように木田に依拠しながら話をします。木田は『反哲学入門』の中でデカルトの
本に言及しながら次のように言っています。

 「(『方法序説』の)第一部の冒頭でこう言います。「良識はこの世でもっとも公平に分け
 与えられているものである」。この「良識(ボン・サンス)」は数行後に、「正しく判断し、
 真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識(ボン・サンス)とか理性(レゾン)と
 呼ばれているものだ」と解説され、さらに「自然の光(リュミエール・ナチュレル)」と
 言いかえられています。そして、この「自然の光」は『哲学原理』(1の30)で「神から
 われわれに与えられた認識能力」と定義されています。」(上掲書pp.108-109)

このようにデカルトの言う「理性」は、神によってわれわれに分かち与えられたものであ
り、それはわれわれ人間のうちにありながらもわれわれの自然的な能力ではなく、神の理
性の派出所や出張所のようなものなのです。そして、この「理性」を正しく使いさえすれ
ばわれわれは普遍的な認識ができるのであり、世界の奥の奥の存在構造を捉えることがで
きる、となります。一般に「近代的自我」といえば、神的なものから解放され自立した自
我ということですが、デカルトの言う自我はそのようなものではありませんでした。プラ
トンの言うイデアや、アリストテレスの純粋形相や、キリスト教神学の「神」というよう
な超自然的原理の「出張所」のようなものが人間のうちに設定されただけと言ってもよい
かもしれません。

「私は考える、ゆえに私は存在する」再考
デカルトの主著の一つである『省察』(1641年)の書名は、正式には『神の存在、および人
間の精神(アニマ)の身体からの区別を論証する、第一哲学についての省察』です。デカ
ルトは、『方法序説』でも『省察』でも、方法的懐疑という手続きを展開しています。「私
は考える、ゆえに…」はその方法的懐疑の終着点として出てくる言葉です。方法的懐疑の
手続きを木田は以下のように説明しています。

 「デカルトは、私たちの外的感覚器官の教えてくれること、つまり外的世界が存在する
 ことを疑い、次に私たちの内的感覚器官の教えてくれること、つまり自分の肉体が存在
 することを疑います。これらは疑えばいくらでも疑えます。さらに彼は、数学的認識の
 ような理性の教えてくれることも疑っていき、いっさいを懐疑の坩堝に投げこみます。
 こうして「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所もない」と仮想し、
 いわば絶望の淵に立たされますが、そのとき一条の光が射してきます。というのも、デ
 カルトは、そんなふうにどれほどいっさいを疑い、「すべてを偽と考えようと」、そうし
 て疑いつつある「私」、「そんなふうに考えているこの私」は「必然的に何ものかでなけ
 ればならない」ということに気づいたからです。この「私」の存在を疑えば疑うほど、
 その「疑っている当の私」の存在、広い意味での「考えている私」の存在はいっそう確
 実になります。『そして、<私は考える、ゆえに私は存在する>というこの真理は、懐疑
 論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、
 この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と
 判断した』とデカルトは結論しています。」

これが、“Cogito ergo sum.”です。

「私」とは何か
さてこのような理路から「私」というものはどのようなものになるでしょうか。以下も、
木田が引用しているデカルトからの一節です。

 「これらのことから私は、次のことを知った。私は一つの実体あり、その本質ないし本
 章は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物
 質的なものにも依存しない、と。したがって、この私、すなわち、私をいま存在するも
 のにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物質〕より認識
 しやすく、たとえ身体〔物質〕が無かったとしても、完全に今あるがままのものである
 ことに変わりはない、と。」

この引用からは、「私は考える、…」の「私」とは、「考えるもの」たるかぎりでの「私」、
つまり「心もしくは精神」、「悟性」、「理性」たるかぎりでの「私」だということになりま
す。身体から実在的に無別され、それが存在するために身体のようなものはいっさい必要
としない「精神」としての、あるいは「理性」としての「私」の存在がこので確認された
わけです。『省察』の表題にあった「人間の精神の身体からの区別を論証する」というのが
まさにこうした結論なのです。

結論
結局デカルトは、私たち人間にあって実体をなしているのはあくまで精神であり、精神は
身体と区別されうるし、身体がなくても精神はそれだけで存在しうる、と言いたいのです。
なぜなら、この精神、つまり理性は神の創造した実体であり、私たち人間のうちにあって
も、いわば神の理性の出張所のようなものだからです。デカルトの主張したいのは次のこ
とです。つまり、上のような事情なので、肉体的感覚に与えられる感覚的諸性質は物体の、
つまり自然の実在的構成要素ではなく、単に私たち人間にとって偶有的なものである身体
への現れにすぎないのであり、物体、つまり自然を真に構成しているのは、私たちの精神
が洞察する(ダ・ヴィンチやガリレオがすでに科学において実践していた!)数学的な量的
諸関係だけなのだと。

神は誠実なのだから、その神が真の観念として私たちの精神に植え付けた観念には客観的
実在性がある。つまり、その観念に対応する客観は実在せざるをえない、というわけです。
そして、これは何もデカルトが初めて言い出したことではなく、すでに科学的な営みが始
まっていた当時のヨーロッパを中心としたキリスト教の世界創造論ではそのように考えら
れていたのです。「神は、世界創造の仕上げとして、みずからに似せて人間を創造し、それ
に理性(ラティオ)を与えた」と。デカルトは、人間理性の実在性を論証によって基礎づ
けようとしたということになります。

次回はデカルト後の展開です。

哲学のタネ明かしと対話原理 11

第11回 啓蒙主義の父 カント  (2017年12月)

理性を重視したという意味では、デカルトの哲学は間違いなく理性主義の哲学でした。理
性主義のrationalismの語幹になっているのは、ラテン語のratioです。木田によると、
ratioは人間の認識能力だけでなく、世界創造の設計図になった神の理性=Ratioも、その
設計図に従って世界に仕込まれた摂理、つまり理性的法則としてのratioも指します。神
のRatioを中心にして、一方に世界を貫く理性法則としてのratioがあって、もう一方に、
神によって神の理性の似姿として植え付けられた人間のratioがあって、この3つの理性
が織り上げる秩序を重視するのが17世紀前半のデカルトを中心とした理性主義です。古
典的理性主義とも呼ばれるそうです。そして、そこでは、神の理性を論じる「神学」と、
世界の理性法則を論じる「科学」と、人間理性を論じる「哲学」とが互いに調和しつつあ
る種の統一を保っていました。ですので、調和の時代とも呼ばれるそうです。しかし、注
意してください。この古典的理性主義においては、統一も調和も、すべて神の理性の後見
の下に成り立っていたのです。

しかし、18世紀に入ると、事情は一変します。18世紀は啓蒙の時代になります。啓蒙=
enlightenmentというのは「照らし出す」という意味です。つまり、理性の光によって「照
らし出す」ということです。しかも、ここでの理性は、17世紀の神の後見を受けた理性で
はなく、啓蒙的あるいは批判的理性なのです。以下、カントの言葉。「啓蒙とはなにか。そ
れは人間が自ら招いた未成年状態を抜け出すことである。未成年とは、他人の指導がなけ
れば自分の理性を使うことができない状態である。」(木田からの二次引用)。ここに言う
「他人」というのは、つまりは神や宗教です。カントが言っているのは、神の理性の後見
を廃して、自立した人間理性が、これまで自分を支えてくれると思っていた宗教や形而上
学なども迷蒙と断じて、その蒙(もう)を啓(ひら)き、それを批判する理性になるとい
うことです。

ところで、神の理性の後見を脱すると、重大な困難が生じます。つまり、これまでは神の
理性に保証されているからこそ、人間理性は自分が明晰に見て取ることができる生得観念
の客観的妥当性、つまりその観念の対象が真に存在することを信じ、それを頼りにして世
界の存在構造についての確実な認識を手に入れることができたのですが、神の理性のそう
した媒介がなければ、人間の理性的認識と世界の合理的存在構造との一致は簡単には成り
立たないことになります。そのような困難を背景として、ロック、バークリー、ヒューム
などのイギリスの啓蒙家たちは、生得観念やそれを使った理性的認識の効力をも否定して、
われわれの認識はすべて感覚経験に基づく経験的認識だと主張しました。イギリスの経験
主義です。しかし、こうすると、彼らは数学や物理学の認識の確実性をも否定することに
なってしまうのです。

イギリス経験主義に対する反省を踏まえて、カントが登場します。カントは、ある範囲内
でのわれわれの理性的認識の効力を認めること、つまり神の理性の媒介なしにもある範囲
内ではわれわれの理性的認識と世界の理性的存在構造とは一致しうることを主張しようと
しました。具体的な内容は省略しますが、カントは、われわれの純粋な理性的認識の有効
範囲を理性そのものの自己批判によって明らかにしようとし、その課題に見事に応えるこ
とができた、と言われています。
 カントはこの問題を解決するのに12年かかりました。その解決に達して書いたのが『純
粋理性批判』です。同書の中で、カントは「理論的認識の問題を考える場面に神や神の理
性を持ち出すのはおかしい」と主張したので、「カントは神様の首を切り落とした」(ハイ
ネ)と言われています。

前回のデカルトの話や今回のカントの話をこのようにたどってみると、西洋においては、
キリスト教が人々の心にひじょうに深く根付いており、神の恩寵から離脱すること、ある
いは哲学者が神の恩寵からの離脱を宣言することがひじょうにむずかしいことだったとい
う様子が見えてきます。実際、デカルトの沈潜な反省から出た「我思う、ゆえに我あり」
からカントの『純粋理性批判』に至るのに、約150年かかっています。

次回は、本連続エッセイの最後として、カントから一足飛びにフッサールに行く予定です。

哲学のタネ明かしと対話原理 12

第12回(最終回) 哲学のタネ明かしと対話原理-フッサールへ (2018年1月)

今回がこの連続エッセイの最終回となります。考えてみると、何とも無謀な企てをしたも
のです。でも、何とか「収拾」をつけなければなりません。しかし、ほぼ予定通り、フッ
サールで「収拾」をつけることができそうです。この連続エッセイの第1回から前回まで
は実は、この最終回の内容を言いたいがための布石のようなものでした。本エッセイでは、
哲学のタネ明かしのタネ明かしとフッサールへのつなぎをします。

哲学のタネ明かし
デカルトからカントに至る経緯は、ごくわかりやすく言うと、理性の神から人間への「引
っ越し」です。その裏事情をはじめに話したいと思います。いつも「あんちょこ」(若い人
にはこの言葉わからないでしょうね…)にしている木田はカントを論じる部分で、「近代哲
学はなぜ文体が変化したか?」という一節を設けています。その部分の話によると、以下
のような理路になります。

 (1)カントあたりまでの大学の哲学の先生は中世以来のスコラ系の哲学者だった。
 (2)スコラ系の哲学者とは言わば「教会御用哲学者」である。
 (3)ですから、彼らは神に疑義を挟むような議論はできない。
 (4)そのような事情なので、近代を開く新しい哲学の担い手は在野の人たちだった。
 (5)たとえば、デカルト、マルブランシュ、スピノザ、ライプニッツといった17世紀の
   大陸系哲学者も、ルソー、ヴォルテール、ディドロなどの18世紀フランスの啓蒙哲
     学者も、ロック、バークリ、ヒュームなどのイギリス系の哲学者も、みんな在野の知
     識人、政治家、外交官などでした。
 (6)そして、かれらが本を書くときは一般の知識人を読者に想定し、平明な文章で書くの
     が常だった。
 (7)そして、だんだんラテン語ではなく、それぞれの国語で書かれるようになった。

このように近代哲学のトビラは、大学の御用哲学者ではなく、在野の人たちによって、在
野の知識人の間から開かれていったのです。御用哲学者さんたちが近代哲学のトビラを開
けられないのは当然ですよね。かれらは神に「仕えている」わけですから。

で、カントの前後から近代哲学の担い手たちが大学の先生になるようになりました。カン
ト哲学を引き継ぎ展開したフィヒテ(1762-1814)、シェリング(1774-1854)、ヘーゲル(1770-
1831)などはみんな大学の先生でした。かれらは、日頃かなり高度な専門知識をもった学
生たちを相手にしているし、近代哲学は何しろしっかりと理屈を展開しないといけません
ので、かれらの文章もどんどんむずかしく難解になっていきました。

カントからヘーゲルに至る哲学は、いわゆるドイツ観念論です。それは、ソクラテス、プ
ラトン、アリストテレスのギリシア哲学に匹敵する哲学のもう一つの黄金時代と見られて
います。さて、1781年のカントの『純粋理性批判』から1831年のヘーゲルの没年までの
ちょうど半世紀にわたって展開されたドイツ観念論哲学の課題は何だったのでしょう。カ
ントの下で神的理性の後見を退けた上で「超越論的主観性」としての自覚に達した人間理
性は当初は自身の有限性の中にあったわけです。ドイツ観念論哲学の課題は、その限界を
打ち破って無条件な「絶対精神」に高まっていこうとするところにあった、と木田は言っ
ています。それがドイツ観念論の到達点である、ヘーゲルの『精神現象学』での論となり
ます。

本連続エッセイで試みたようにギリシア哲学からカントまでをひじょうに大きく俯瞰して
みると、哲学の歩みは、(1)イデアなどの超自然的原理の「発明」(第3回から第6回)、(2)
スコラ哲学を代表とするそうした超自然的原理とキリスト教との合流(第7回から第9回)、
(3)キリスト教神学からの解放と人間による人間理性の自覚(第10回から第12回今回の
最終回)、という流れとなるようです。わたしたち哲学の素人としては、カントまでの哲学
の「大饗宴」というのはそのようなものだったのだという程度に考えておいたらどうでし
ょう、というのが哲学のタネ明かしのタネ明かしです。そして、現代の人文社会科学の研
究者として重要なのはフッサールです。

フッサールの現象学
わたしたちの経験あるいはわたしたちの現実というものの本当の姿を捉えるために、フッ
サールは、エポケー(判断停止)ということで、わたしたちが日常生活の中で普通にやっ
ている自然的態度を一端やめる必要があると言いました。自然的態度というのは、「世界」
がわたしたちの外(out there)にあって、わたしたちは感覚器官を通して「それ」を経験
して、そうすることを通して「この世界」を他者と共に生きることであり、そのように自
然にやり、それが自然だと思うことです。フッサールが第一に主張したいのは、「世界」や
「それ」や「この世界」などは、わたしたちの外(out there)にあらかじめあるものでは
ない、ということです。確かにわたしたちは感覚器官を通して世界と交わるわけですが、
世界というのはわたしたちが経験するものであって、あらかじめ「経験」として与えられ
るものではないということです。そして、フッサールは、そのようなわたしたちの世界の
経験の仕方を、志向性(intentionality)と、ノエシスとノエマという概念によって説明
しようとしました。

ノエシスとは経験される仕方で、ノエマとは経験されるものです。ノエシスとノエマの説
明としては、よくリンゴの例があげられます。机の上にあるリンゴを目にしたとき、わた
したちは「あっ、リンゴがある!」や「あっ、リンゴだ!」とそれを経験するわけです。
つまり、リンゴだというわたしたちの認識とその認識が関係している当該の対象との関係
がわたしたちの経験となるわけです。この関係のことを志向性と言うわけです。世界や経
験があらかじめそこにあるのではなく、わたしたちは認識との相関の中で世界や対象を経
験するのだということです。また、経験というのが物理的な世界との関連でのみ生じるの
ではなく、思考や意思などの形で生じることもフッサールは論じています。このような見
方に基づく認識論と存在論を現象学と言います。まあ、こんなに単純な話ではないのです
が。

フッサールの現象学は、後にシュッツの現象学的社会学に継承され、それがさらに、シュ
ッツの弟子であるバーガーやルックマンによって展開されて知識社会学へと結実します。
また、シュッツの研究はガーフィンケルにも影響を与えエスノメソドロジーの誕生へと繋
がりました。

フッサールと対話原理
フッサールの現象学とバフチンの対話原理を照らし合わせるといろいろとおもしろいこと
が見えてきます。まずは、フッサールの議論ではノエシスとノエマの相関関係が最重要部
となるわけですが、ノエシスを結ぶことがいかに可能になるのかや、ノエシスの素材は何
なのかについてフッサールは十分に議論していないように思われます。ノエシスの素材は、
おそらくバフチンに言わせると言語でないはずがない、となります。そして、素材が言語
であるとして、体系としての言語なのか、発話やディスコースとしての言語(ことば)な
のかも、議論されなければなりません。また、対話原理の観点から言うと、フッサールの
議論は個体主義的でモノローグ的だと言わざるを得ません。

結論
現在、社会学でも心理学でも質的研究というものが注目されています。興味深い研究方法
だと思います。そして、質的研究を行うためには、それと量的研究との対比を知ると共に、
その哲学的基礎である現象学及びその系譜を知っていなければなりません。日本語教育や
第二言語教育一般で質的研究をしようという場合にはややもすると研究の具体的な方法ば
かりに注目が集中してしまいがちです。質的研究の核心をよく理解してそれを行わないと、
研究者自身による薄っぺらい個別ケースの記述あるいは独善的な記述に終わってしまいま
す。そのような意味で、フッサール現象学からリクールのナラティブ論までの系譜をたど
っているラングドリッジの『現象学的心理学への招待』はとても参考になると思います。
結論として、現代的な人間科学的な研究に従事するためには、フッサールをしっかり勉強
し、それ以降の系譜も承知しておくというのがいいのではないかと思います。

以上でこの連続エッセイを終わります。長い間、お付き合いありがとうございました。次
の連続エッセイ、やるかどうか、いつから始めるか、現在、思案中です。