2019年4月2日火曜日

日本語教育への「味付け」?

以下の記事は、NJ研究会フォーラム(2019年4月号、https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載された「羅針盤」再掲です。 

 このところ、日本語教育学界隈では市民性教育が大流行。また、ついこの間まではどうも、あちらでもこちらでも「クリティカル・シンキング」というのが聞こえていたような…。その一方で、国内の日本語教育の現場ではあいかわらず「ニーズ分析に基づくコース開発!」という流儀になっています。なんか変! と思って、考えてみると、「カラクリ」が見えてきたような気がします。海外の大学における日本語教育(言語教育)では、言語以外に大学の言語教育らしい「味付け」?をしなければならないようです。その「味付け」が、北米ではクリティカル・シンキングで、ヨーロッパでは市民性教育なのです。そして、日本国内でもそういう海外での動向と繋がっている人は、それぞれの海外での言語教育動向を紹介し、日本語教育(学)にもそれを普及しようとします。一方、日本国内の一般的な日本語教育(日本語学校や看護・介護や地域など)や大学での日本語教育(特に短期留学生に対する日本語)ではそのような「圧力」がないので、ベタに学習者に迎合する「ニーズ分析のパラダイム」にはまっている観があります。
 ぼくがこんなふうに見たり、言ったりするのは、日本語教育は、日本語教育という看板を上げている限りは、各コースのねらいの中身はどのような種類のものであれ、やはり語学教育的なねらいを十分に設定してそれを達成しなければならないと思っているからです。その上に、いろいろな素敵な「味付け」をするのがいいと思っています。ただ、厄介なのは、語学的なねらいを妙なふうに設定してしまうと、「味付け」と相互促進的な関係にならないことです。言語そのものを教育内容とする教育企画(文型・文法積み上げ方式はその一つの典型)は、コース内に他の要素の追加はできますが、「味付け」はできません。
 市民性教育やクリティカル・シンキングの育成などが議論されている今は、「味付け」がしやすい開かれた語学教育の企画をする必要があると思います。あるいは、最初から、例えば、市民性教育×日本語教育で教育企画をすることです。中級後半から上級段階なら十分にありうることです。