ラベル 教育実践について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育実践について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年12月8日日曜日

Krashenと第二言語教育

 この週末(2019年12月6-7日の金土)はとてもおもしろい経験をしました。一つは、入力仮説とナチュラル・アプローチのKrashenが久々に来日。同志社で公演いや講演があって聞きに行ったこと。もう一つは、ぼく自身が講演者でひょうご日本語教師連絡会議主催の教師セミナーをしたこと。この2つ、関連させて話します。
 Krashenの来日は数年ぶりなのではないかと思います。ぼく自身がかれの話をはじめて聞いたのは1984年のJALT大会(@東京新宿の文化女子大学)でした。これがたぶんかれの初来日だと思います。そして、2015年の秋にサンディエゴであったTESOLの年次大会で30何年ぶりにかれの話を2度目として聞きました。そして、今回が3度目です。1984年のKrashenの話は皆さんご存じの入力仮説のことが中心です。かれが講演中に"comprehensible input!"とお題目のように何度も繰り返していたのを今でも覚えています。当時のKrashenは多分40歳代(前半?)だったのだろうと思いますが、ものすごい自信・確信とエネルギーに溢れていてまるで新興宗教の教祖さまのようでした。そして、かれは「入力仮説は、否定しようのない科学的事実だ!」ということも何度も言っていました。かれは、本当に自身の入力仮説を「葵のご紋」にして第二言語教育の革新を進めようと思っていたのでしょう。そしてその革新運動は必ず成功すると思っていたと思います。
 2015年に30数年ぶりに会ったKrashenは往年のエネルギッシュさはかなり薄れていました。でも、自信・確信はあいかわらずでまあまあ元気に見えました。そして、いつのことからか分かりませんが、かれはcomprehensible inputよりもextensive self-selected readingのほうを強く推奨するようになっていました。おそらく、カリフォルニアを中心として北米におけるヒスパニックの子どもたちなどや家庭の教育環境のせいなどでリテラシーが低くなってしまっている子どもたちの読解能力を中心とした知的な言語能力の養成と認知的な発達の両方を促進するために、第二言語教育よりもむしろリーディングのほうに行ったのではないかと想像します。
 で、今回のKrashenの様子と話です。サンディエゴ以来4年ぶりのKrashenは「けっこうおじいちゃんになったかなあ」という印象があります。話し方も4年前と比べてもとても穏やかでした。でも、自信・確信は変わりませんでした。内容は、extensive self-selected readingでした。ぼくにとって鮮烈に印象的だったのはかれが講演のマクラで話したことです。Krashenは、第二言語教育で一般に普及している方法をスキル学習と言いました。つまり、文型・文法事項や語彙などの言語事項を学習してそれを組み合わせて言語を産出する操作(あるいは発話やディスコースをそうした知識を使って分解して理解する操作)という技能を養成するということです。認知心理学で言われているスキル学習理論(Anderson)です。Krashenによるとそうした第二言語の教育法・学習法が一般の人だけでなく第二言語教師の間でも公理(Krashenはaxiomと言った)になっている。そして、かれの子どもの学校でも、カリフォルニア州や全米を見ても、こうした教育法・学習法が今でも「公理」として普及していると言います。「入力仮説が正しいのが科学的事実であると40年前からこんなにあちこちで紹介しそれに基づく教育・学習を推奨しているのに、現状40年前も今も何も変わっていない!」という悲観的な言い方は自信家のかれの口からは出てきませんでしたが、そういうメッセージは十分に発せられていました。かれのこの部分の話を聞いて、ぼくは、かれと自分自身を重ね合わせて、何だかものすごく共感というか同志意識というか、そういうものを感じました。「Krashenがこんな勢いでこんなに広範に過去40年間入力仮説等を『宣伝』したのに、現状はちっとも変わっていないのか! Krashenさんもさぞ落胆しているだろう。そして、ぼくも同じように落胆している!」と。
 さて、ぼく自身の話です。ぼくはKrashenよりも一歩進めて、(自己)表現活動中心の日本語教育という具体的な教育企画と資材(教材)を提案しています。(自己)表現活動中心の日本語教育では、各ユニットで特定のテーマについて言語活動ができるようになるという「日本語上達のエスカレータ」の日本語教育企画を提案しています。そして、その企画に沿った日本語の学習と教育の実践を支える資材として2012年にNEJ(2012年)を公刊し、昨年の2018年にはNIJを公刊しました。同企画では、「日本語上達のエスカレータ」に沿う形で文型・文法事項が系統的に習得でき語彙も体系的に習得できるように仕組んでいます。表現活動中心の日本語教育の企画は、(1)バフチンのことばのジャンルの考え方と(2)Krashenの入力仮説と(3)インストラクショナル・デザインの三者の融合でできたものです。そして、同教育の背景にある理論(バフチンの対話原理が中心ですが)や習得の原理や具体的な実践方法なども西口(2015)の本で解説しています。
 Krashenの主張は「科学的事実」なのだと思います。しかし、Krashenは、言語事項の習得に関心を置く教師たちに一定の配慮をしたインストラクショナル・デザインをしていません。インストラクショナル・デザインをしていないということは、端的に言うと、正式な教育課程の中の1つの教科にすることができないということです。ぼくのほうは、従来の文型・文法事項や語彙の代わりに(バフチンのことばのジャンルから敷衍した)言葉遣いという観点を提示し、テーマ中心のカリキュラムで言葉遣いを配慮して資材を用意しています。そして、その資材を主要なリソースとして活用して学習と教授を進めることで、文型・文法事項や語彙などを含めた言葉の習得の側面にも対応できるようにインストラクショナル・デザインと教材制作と学習と教授のデザインをしています。つまり、ぼくのほうは、採用可能なコースの提案をしているということです。にもかかわらず…。NEJが出てすでに7年経っています。そして、昨日、教師セミナーで、「文型・文法事項ではなく、実用的なコミュニケーションでもなく、表現活動という言語活動領域に注目しましょう。そして、NEJとNIJは表現活動の部分に注目して、テーマ中心で編まれている教材です」という話をしました。しかし、…。まず、NEJ(NIJ)を知っている人はそこそこいらっしゃったようです。しかし、詳しく見た人や、指導参考書を手にして読んだ人となるとうんと少なくなると思います。今年の5月から6月にかけて大阪、東京、福岡で教師セミナーをしたときは「NEJを使っている。学校で採用している」という人が何人かいらっしゃいましたが、今回はいらっしゃらなかったような。というわけで、ぼくとしては「こんなに丁寧に準備万端整えているのに、あまり知られていないなあ、広まっていないなあ」という感を持ちました。そして、改めて、前日のKrashenと自分自身を重ねてしまいました。
 1年ほど前になりますが、早稲田(元筑波)の今井さんが「教えない教え方」ということで割合注目され「物議をかもし」ました。表現活動中心の日本語教育は、いわば「(言語事項を)教えないが、(言語事項等の習得も含めて)日本語上達という結果を出す」教育方法の提案です。昨日のセミナーでもそのような話をしましたが、うまく伝えられたかなあ…。
 結論です。Krashenは、スキル学習という学習法・教育法が、言語教師たちの公理になっていると言いました。その通りだと思います。(従来から思っていました。「公理」とは言いませんでしたが) つまり、文型・文法事項など即物的な教えるモノがあって、それを教えるてこそ、教師としての仕事をしたことになるという考え方です。しかし、言語事項などを取り立てて教えなくても、日本語が上達して、その日本語を見てみたらちゃんと文型・文法事項や語彙などを適切に使っているという結果を出すことができたらそれで教師として「Good job!」をしたことになるんじゃない! 「教える」という行為をして結果が出ないのと、「教える」という行為をしないけど結果が出るのと、どちらが本当に学習者のためで、教師の職責を果たしている? 皆さん、よく考えてね!
 Krashenは当初から"Speaking is a result of acquisition and not its cause."と言っていました。金曜日の講演でも最後に言うチャンスがあったのに、直截にはこの言葉は言いませんでした。今は、"Language capacity and intelligence is the result of development through extensive self-directed reading."と言うのでしょうか? このあたりは、日本語教育では、子ども向けであれ、成人向けであれ、楽しくハマって読める、それでいて知的な興味に応え、知的な発達をも引き起こす教材が必要だというsuggestionがあるように思います。

2018年4月22日日曜日

羅針盤:課題のある学生への対応から…(201707)

他の学生よりも日本語習得が遅れている学生、読み書きがひじょうに苦手な学生など課題
のある学生はたいていのコースで一人や二人は出てきます。ここでは、休みがちな学生
や、宿題をしない学生や授業に集中できない学生や、学習に積極的に取り組まない学生な
ど「基本的な課題がある学生」は除きます。つまり、やる気がないのではないが課題のあ
る学生に一応限定します。

先生たちが集まる講師室では、しばしばこうした課題のある学生が話題にされます。
「○○さんは、××が身についていない」とか「△△くんは、まだひらがなの読み書きが
できない」など。そして、そうした会話はしばしば大いに「花が咲き」、ときに30分さら
には1時間と続きます。しかし!「何の実も結びません」、つまり、何の対策・対応も提
案されません。こんな様子を見ていて、「この時間の半分でも使って、分担して補習指導
をしてあげればいいのに!」と思ってしまうのはぼくだけでしょうか? これって、先生
のストレス発散?

ぼく自身は、どうも、とても実用的に考える人間のようで、こうした学生への対応は基本
的に以下の3つしかないと思います。この3つのいずれかあるいは組み合わせをしないの
なら、その学生についての議論は無意味です。

(1) 授業計画の修正や変更はしないで、教師集団として当該の学生に特別な注意を払っ
  て、その学生に有益で「遅れ」を巻き返せるような授業方法を工夫する。
(2) 課題のある学生に合わせて、授業に復習を入れたり授業のペースを遅くするなど授業
  計画の修正や変更で対応する。※ただし、これができるのは、その修正や変更が「進
  んだ学生」に大きく「ブレーキ」にならない場合です。「ブレーキ」になってしまう
  場合は、適切ではありません。
(3) 当該の学生個別に授業外で特別な課題を与えるなり、特別指導をするなりする。

で、ぼくとしては、基本的に(1)でいきたいです。(2)は、(2)の※にあるように、なかな
かできません。また、(3)は、「じゃあ、それ、誰がやるの?」という話になります。ただ
し、(1)で対応するという場合は、教師のほうに何か特別な「裏技」がなければならない
でしょう。フツーの方法で授業をしていて、その学生は遅れてきたわけですから。

こんな話をすると、「裏技」の話をしたくなります。ぼくは、日本語を教えるという仕事
を始めて数年後(実は2・3年後)には周りの同僚に「いずれ手品のように学生たちの日
本語が伸びる方法で授業をする!」と宣言していました。←「アホ」ですね! ←という
か、「フツーのやり方」がとてもまどろっこしくてかったるくって、少なくともぼくは、
そんなやり方からはできるだけ早くおさらばしたい!と思っていました。皆さんは、自身
の授業の仕方や、ほかの人の授業の仕方の様子を聞いてそんなふうに思った/感じたこと
はありませんか? ああ、注目しているのは基礎(初級)段階の教育です。

ここに言うフツーの方法というのは、「PPP」のパラダイム、つまり、presentation(導
入)-practice(練習)-production(産出活動)のパラダイムのようです。これは、意
味と形が分かって、意味が分かりながら形が作れるように練習して、そうした上でそのよ
うに身につけた知識と技能を実際に使ってなにかやってみる、ということでしょうか。
「フツー」から離れたいぼくは、どうもそのように発想していないようです。ぼくが、最
も重要と思うのは、いつも身近な仲間には言っていますが、滋養栄養豊富な授業です。そ
して、「滋養栄養豊富」を目指して授業をすると、課題のある学生にも十分に滋養栄養豊
富にできると思います。「PPP」のパラダイムではなく、滋養栄養豊富な授業ってどんな授
業でしょう。でも…、根本の問題は「『フツーの授業』はまどろっこしくてかったるくっ
て、そんな「フツーの授業」からはおさらばしたい」と思うかどうかです。皆さんは、
「フツー」から離脱したい?

羅針盤:「何とかしなきゃ」と思うべきは学生!(201608)

普段フツーに日本語のセンセをしているわたしは、講師室に集まる先生たちの様子を日常
的に目にし、話を耳にします。そんなときに、「ふむふむなるほど」と合点することもいろ
いろあるわけですが、「ええっ? なんか変!」と思うこともあります。

先生たちの間で頻繁に話題になるのが課題を抱えた学生、もっとわかりやすく言うと学習
が遅れている学生です。先生たちは、学生の名前を挙げて、「あれができない」「これがま
だ身についていない」「困ったもんですね」「どうすればいいのでしょう」「そうですねえ…」
との会話がしばしば延々と続けられます。このような様子を見、会話を耳にして、わたし
はいろいろなことを考えてしまいます。

まず第一に感じるのは「えー、なぜ、先生たちがそんなに大騒ぎしてるの? できなくて困
って大騒ぎするべきは、学生本人でしょう!」との思いです。こういう課題のある学生に
かぎって、ご本人はどうかすると「平気の介」で、遅れていることを何とも思っていない
し、何とかキャッチアップしようなんてこともちっとも思っていない。「大騒ぎするのは先
生ばかり」です。

次に感じるのは、「大騒ぎする時間があるなら、何とかしてあげたら?」です。ただし、
「何とか」というのは補習授業をしてあげるということではありません。『呼び出し自習と
結果見せ』です。簡単に言うと、呼び出して「赫々然々の課題をここでしなさい。できる
ようになったら申し出なさい。そして、結果を見せてください」というものです。例えば、
NEJで言うと「ユニット△のナラティブをすらすら言えるようになるまでオーディオを
聞いて練習しなさい。言えるようになったら申し出なさい。そして、先生の前ですらすら
っと朗唱してください」というようなものです。他の例として中級の学生であれば「この
20個の漢字語をすらすら書けるようになるまで練習してください。できるようになったら
申し出なさい。そして、わたしの目の前でそれらを書いてください」です。このように『1
回1課題』というような具合で、自助努力をさせるのがいいと思います。厳しくやるなら
「できるようになるまで帰さない!」「毎日、来て、やれ!」くらいの迫力で迫るとよいと
思います。

さて、最後に感じること。やはり、重要なことは、そのような課題のある学生をつくらな
いことです。そのためには、(1)細い道ながらも重要事項をうまく含んでいて大部分の学習
者が着実に達成できる「道」を用意すること、(2)その「道」では明確なステップがあって
そのステップで、進捗をよくモニターし、遅れが発生した場合には即座に『呼び出し自習
と結果見せ』などを実施すること。そのような教育の計画と、実施上でのモニターと機動
的な対応が重要であると思います。今学期は、10何年かぶりに日本語研修コースを担当し
ていますが、コーディネータとして、この(1)や(2)のことを改めて考えさせられています。

教師ばかりが学生の学習の進捗にやきもきしている状況は、とても「歪んでいる」感じが
します。第一の基本は、学習者に「勉強するのはあなたたちだし、その成果を得るのもあ
なたたちだ」と十分に伝え理解させることです。こんなことをあれこれ考えていると、第
二言語教育のキモは「第二言語の着実な発達の経路を巧みに企画すること」だと改めて思
います。

羅針盤:教えることと育むこと(201606)

前回の羅針盤でもお話ししたように、アラサー(around 30 years old)の完全ビギナーの
学生を対象に実践をしています。4月11日に授業が始まったのでちょうど1カ月です。5
月の連休を挟んでいますが。

昨日、ユニット7に入ったところでビジターセッションをしました。学生3人にビジター
1・2人で話をするという機会です。学生たちは片手に自ら書いたエッセイを持っていま
したが、それを見ることもなく、フツーに自身のこと(どこから?専門は?など)や家族
のこと、そして好きなものや好きなこと(ユニット3)やわたしの一日(ユニット4)に
ついて伸び伸びと話していました。ここまでの学生たちの伸びは、学生各自の着実な努力
と先生たちのプロフェッショナルな支援の甲斐あって、「すばらしい!」と思いました。た
だ、その一方で、先生方からは「ナラティブが読めない。ナラティブのQ&Aができない。
自分が書いたエッセイが読めない。まだひらがなが読めない学生がいる。形容詞の過去形
が定着していない。」などの課題が提起されています。課題があれば、その課題をよく検討・
研究して、必要であれば何らかの措置をしなければならないわけですが、そうした議論で
「あれ??」と思うことがときにorしばしばあります。

「教えることと育むこと」については、コースのスタート前の教師相互学習会で「滋養豊
富な活動をたくさんしてください」とわたしは話しました。ことばと思考の発達途上にあ
る乳幼児や幼児と接する場合に、わたしたちは決して「教える」とは言いません。「ことば
や思考や情緒を育むように接する・交わる」ということになります。それは子どもにおけ
る発生(genesis、それまで「なかった」ものが生じる)に関わることです。育むとはそう
いうことです。

さて、学生たちの日本語学習上の課題に対してどのような措置をしようかと先生方と議論
しているときに、わたしはときにorしばしば違和感を感じます。それは、それまでけっこ
う「育む」でいっていた先生たちも、学習上の課題への措置となると、どうも発想が「教
える」系に行ってしまうようなのです。つまり、「分からないから、知識がないから、かれ
らはできないのだ。だから、改めて分かるように指導する、知識を確認する、必要がある」
というふうになってしまうのです。これって、何だか(悪い)「先祖帰り」のような!

課題というのは「○○が課題だ!」というふうに認識されます。そのときに課題がどうし
ても「○○」として対象として認識されます。ですので、その流れで「○○を指導する/練
習する必要がある」となってしまいます。これが落とし穴です。そのアプローチは、言っ
てみれば西洋医学的なアプローチです。わたしの感覚は、東洋医学的、医食同源的、漢方
的です。何らかの症状があったとしてもそれに直接働きかけようとするのではなく、身体
や食事を整えてまた若干の漢方薬を服用して、身体を整えつつその症状も治すという方法
です。そんなふうに対応できたら、すてきだと思いませんか。

羅針盤:アラサーの学習者を対象としたカテゴリー4言語の教育(201605)

4月から日本語研修コースが始まりました。国費留学生を中心とす
る大学院進学予備日本語教育です。わたしは、日本語学習経験まっ
たくなしのコンプリート・ビギナーのクラスの担当です。このクラ
スのコーディネータを担当するにあたってわたしとしてはめずらし
く「悩みました」、というかけっこう考えて頭を労しました。今回は、
そのときに考えたことの主要点を話します。

痛切に感じたのは、タイトルにあるように、(1)学習者は20代後半
以降であること、(2)学習者は全員非漢字系でその意味でほぼ間違い
なくかれらにとって日本語はカテゴリー4の外国語であること、で
す。

まずは、(1)について。高卒すぐの若い留学生はよく日本語が習得で
きる。20歳前後の短期留学生も日本人学生との交流もわりあい活発
に行って習得が進む。しかし、20歳を超えると日本語習得能力が
徐々に減退していき、25歳くらいを境にぐっと落ちる気がします。
これは、実証的な研究に基づく見解ではなく、あくまで経験に基づ
く感覚です。研修コースの学生たちは20代後半から30歳前後つま
りアラサーで、かつ理系の学生が多いせいか、外国語の流れに素直
に身を委ねるよりも、システムを理解したい、システムを理解する
ことが外国語習得の近道だと考えている学生が多いようです。この
状況はかなりの「不利」です。

次に、(2)について、少し情報も交えながら。アメリカの国務省語学
研修所は興味深い調査結果を公表しています。英語を母語とする者
の場合に、仕事ができる水準まで各言語を習得するのにどれほど時
間がかかるかという調査です。同調査によると、スペイン語、ポル
トガル語、イタリア語、フランス語、オランダ語、スウェーデン語、
ノルウェー語、デンマーク語などが最もやさしいカテゴリー1に分
類され、23から24週間の集中教育が必要とされているのに対し、
最もむずかしいカテゴリー4に分類される日本語、中国語、韓国語、
アラビア語はその3倍以上の88週間となっています。この習得困
難度の差は何を意味するのでしょう。それは、さまざまな側面があ
ろうとは推測されますが、常識的に考えられる大きな要因は、カテ
ゴリー1の場合は英語と各学習言語の間で大ざっぱな言い方だが
「重なり」が多く、カテゴリー4の場合は「重なり」が少ないとい
うことでしょう。そして、英語とカテゴリー1の諸言語の間で言う
と、「重なり」の重要な部分は語彙の「重なり」と表記システムの重
なり、つまり類似した音声形態を有する同義あるいは類義の語がた
くさんあること、及びその事情とアルファベットという文字の共通
性から書記言語の場合でも多くの「親しみのある語」が見つけられ
るということです。例えば、現代英語の語彙の75%はフランス語あ
るいはラテン語から来ていると言われ、その一方で頻用語彙の80%
はゲルマン語系のものだと言われています。前者はカテゴリー1の
ロマンス系の諸言語語との語彙の重なりの傾向を、そして後者はカ
テゴリー1のゲルマン系の諸言語との語彙の重なりの傾向を示すと
言っていいでしょう。このような重なりに対し、英語と日本語の間
ではどれほどの語彙の「重なり」があるでしょう。仮に外来語を日
英語間の語彙の「重なり」と見るならば、概略5%から10%程度の
重なりがあることになります。しかし、その外来語も書記言語にな
ると、アルファベットではなくカタカナで表記されます。そして、
書記日本語は、アルファベットを主要な文字として使用せず、漢字
仮名交じりという欧米語使用者にとってはまったく新規で異質なも
のとなっています。その重要部を占める漢字は、形態が複雑で数も
多く巨大な学習の障壁となります。

研修コースの国費留学生はアフリカや南太平洋やアジアの国々から
の学生、そして一部南米の学生となります。現在のクラスは15名で
す。かれらにとっての日本語は、英語話者にとっての日本語と同じ
ようにカテゴリー4に分類できると思われます。20代後半以降のか
れらにとってそのようなカテゴリー4の外国語を学ぶことはたいへ
んなチャレンジだと思います。

端的に、フツーの方法だけでやっていてはまともに困難にぶつかる
と思われました。そこでわたしが提唱し先生方にお願いした重要な
工夫を2つお話しします。一つは、外国の国名でも町の名前でも人
の名前でもいいし、日本の有名な会社の名前でもいいし、さらには
外来語でいいので、とにかく「ああ、それは日本語でそのように言
えばいけるのか!」という安心の経験をたくさん与え、日本語の語
彙を蓄えさせることです。どんなものがあるかいろいろ考えてみて
ください。もう一つは、「滋養豊富な活動」をたくさんすることです。
「滋養豊富」というのはいかにも抽象的ですが、あえて説明すると、
日本語のイントネーションやリズムに体を慣らすこと、また知って
いることばの組み合わせの日本語の言葉遣いを「文節」や「内容語
と付属語」の構造を手で示しながら、日本語の切れ目のある流れや、
要素の構造的な流れを体に染みこませることです。

今日、うちのワンちゃんと散歩しているときに、おもしろい言い方
が思い浮かびました。「日本語が体に染みこむのに身を任せる」です。
外国語の習得がうまい人は、理解をそこそこ確保しながらこの「日
本語が体に染みこむのに身を任せる」ということをするがうまいの
だと思います。そして、フツー以上にうまい教師は、本来の授業内
容を適切にこなしながら、その隙間で、学習者に「日本語が体に染
みこむのに身を任せ」させる機会を豊かに提供する教師なのだろう
と思います。みんながそんな教師になったら、さぞかしすばらしい
教育実践が実現できると思います。めざすは、「手品のような授業」
です。

羅針盤:コーディネータは厄介な稼業です!(201604)

4月から、日本語研修コース(大学院進学予備教育)の初習者クラスのコーディネータを務めることになりました。取りあえずは、NEJとい
う「強い味方」があるので、大きな心配はないのですが、コースのスケジュール作りにはやはり大いに気を遣います。バフチン本2のエピロー
グで次のように書きました。NEJという有力なリソースがあるのに教育の実践がうまくいかないのはどんな場合?という問題意識での文脈です。

教育プランが所期のように実現されない場合の第3の要因は、これはコーディネータの仕事となりますが、授業内容の調整、より具
体的に言うと授業スケジュールの調整です。コーディネータの基本的で最も重要な仕事は、各授業がその時点での学習者に有益に実施
されるように授業を調整することです。そのためにコーディネータは学期やコースの開始時に学習者の日本語力や期間中の学習環境
などを考慮してコースのスケジュールを作成するわけですが、コースが始まった後も…習得の進捗状況を把握して、以降のいずれの授
業も学習者の現在の日本語力の水準にちょうどいい活動となるように授業内容やスケジュールを調整しなければなりません。(バフ
チン本2のpp.151-152)

この前にある第1の要因は、企画された教育の背後にある言語観や言語習得・教育観と実際に授業をする教師のそれらに齟齬がある場合、第
2の要因は、カリキュラムとして提示されているねらいや教育内容が授業をする教師に然るべく理解されない場合となっています。要因の3→
2→1と遡って言うと、(1)コーディネータは緻密に授業スケジュールを作成しなければならない、しかし、(2)いかに綿密にスケジュールを作っ
てもそのスケジュールのねらいや「教育内容」が教師に「理解」してもらえなかったらだめ、で、(3)スケジュールを「理解」してもらうために
は根本の言語観と言語習得・教育観に「相応の重なり」がなければならない、となります。4月からの研修コースのスケジュールを作っていて、
改めてこの問題はむずかしいなあと感じました。

それがむずかしいのは、「教育内容」を意識的あるいは無意識的(半意識的?)を含めて学習者が習得する内容とするなら、「教育内容」はパシ
ッと「これ!」とは言えないからです。また、どの授業でも「教育内容」は一つではなく、主要なもののようなものがあるとしても常に錯綜して
います。つまり、「教育内容」は豆腐を切り分けるようには分割することはできません。そして、そういう曖昧で錯綜したものを「理解」しても
らおうとするわけですから、「理解」というのも当然ファジーなものとなります。「理解」してもらえているかどうかも雰囲気で知るしかありませ
ん。そして、「理解」してもらうためには「理解」の基盤として、カリキュラムの企画者やコーディネータと「同じような目線」の言語観と言語
習得・教育観が要るだろう、となります。ただし、最後のポイントは、言語観と言語習得・教育観の一致ではなく、「相応の重なり」や「同じよ
うな目線」で十分だと思います。(このあたり、文型・文法積上方式では「一致」を要求しているように思います。バフチニアン・アプローチで
はひじょうに大きなレベルでの「相応の重なり」や「同じような目線」だけが必要で、その上でのディテールの違いはあってよいように思います。)

授業に仮に配当した内容をながめて「こんな感じで学習者はどんな学習ができるかなあ」と想像して、また授業の配当・配分を考えるという
ことを繰り返します。厄介なのは、上のパラグラフの冒頭でも言ったように、配当・配分を「物理的に調整すればよい」というものではないこ
とです。言語の学習あるいは言語学習経験の蓄積というのは、意識レベルと無意識レベル(そしてその中間域)で、また注視された言語事項と
してや生きた言語活動の中の言葉遣いとしてなど、さまざまな種類の対象においてさまざまな心理・記憶水準で進行します。そして、比喩的に
言うと、無意識レベル(半意識レベル?)での言語活動の中の言葉遣いの経験の蓄積は言語能力の養分となります。これがないと「不健康な」
言語能力になってしまうでしょう。その一方で、言語事項に相応に注視した意識レベルの学習ということもなければ、具体的なブツとしての言
語事項の知識を仕入れることがむずかしいかと思います。

もう一つ厄介な問題は、これは明らかに意識レベルの学習になるのですが、言語のシステムの理解や知識がどれほど必要で、その必要な部分
をどのように習得させるかです。成人の学習者で特に理知的な人たちはシステムの理解や知識を要求する傾向があります。「そうしたニーズにき
ちんと応えるべきだ」と言う先生がいますが、そのお言葉には、(1)それはニーズじゃなくてウォンツ(wants)でしょう、(2)言語習得のために
何が重要かを最終的に判断するのは言語教育の専門家である教師であって「学習者が○○をほしがっているから、○○を与えましょう」では専
門家ではない、(3)しかしながら学習者のウォンツに対しては「一定の尊重」が必要である。そうしないと学習者は教師から「離れる」、と言いた
いです。NEJの試みは「日本語のシステムについての教室での指導は一旦ゼロにしてみましょう。そして、マスターテクスト・アプローチで学
習を進めて、教科書にある説明と学習者の類推力でどこまでいけるかやってみましょう。その上で、本当に必要なシステムについての指導内容
を検討して、適正な指導方法を企画して、実践しましょう」というものです。筆者自身はこれを今学期や来学期の「研究課題」の一つにしたい
と思っています。

他に音声言語の習得と文字及び書記言語の習得のうまい取り込みと調整も考えなければなりません。アルファベットで表記しないで、ひらが
な、カタカナ、漢字という3種類の超奇怪な文字を使う日本語は、漢字系でない学習者にとっては、とんでもない!言語です。このこと、一般
的に十分には意識と配慮と卓越した工夫がされていないと思います。

で、結論。カリキュラム・教材の企画・開発者やスケジュールを作るコーディネータがいくらがんばってもひじょうに限界がある。そして、
結局、教育実践をする仲間の先生方といっしょに考えながら実践を創造していくしかないということになります。ただし、「生ぬるく」いっしょ
に考えていては、厄介な仕事のたいへんさを舐め合うだけです。優れた実践を創造するためには、「ガチでクリティカルに」やらなければなりま
せん。そして、そのような協働的な教育実践を通してこそみんながより高度な専門的職業人として成長していけると思います。チームで教育実
践にあたるというのは、わたしたち一人ひとりが高度な専門的職業人であるがゆえに、「ガチのたたかいの場」にならざるを得ないのかもしれま
せん。でも、それこそが、専門家集団によるチームティーチングの醍醐味だと思います。
もちろん、(大阪らしく!?)友好的で笑いに包みながら。