2020年4月26日日曜日

オンライン授業狂想曲 ─ 「ちゃんと」は本質をダメにする

 今朝(2020年4月26日)の毎日新聞第3面にクローズアップとして「芽吹くオンライン授業」という記事がありました。教育関係、まさにオンライン授業狂想曲です。
 いつでもそうですが、事態が「狂想曲」状態や「灰神楽」(司馬遼太郎の好きな言葉)になったとき/なりそうなときは、ぼくはいつも「この活動のそもそもの『価値』は何だったのか」と自ずと振り返ります。
 この「価値」という言葉は、ぼくにはとても印象的に残っています。ぼくは人文系の大学のセンセで日本語教育関係のjobもしているのですが、学部時代の専門は経済学です。そして、大学1年生のときの経済学原論の授業だったと思いますが、最初の授業で先生が、「物」と「サービス」とかいう話をしたあとで、「経済活動というのはそうした『価値』を生み出す活動です!」とおっしゃったのをよく覚えています。そう! 経済活動というのは人の暮らしに「価値」があるものを生み出す活動なのです! だから、経済活動に従事する人はとても偉い!のです。ここに言う「価値」というのは、ただ単に貨幣的な価値を増やす活動は入りません。ですから、バブル経済期のような土地の投機によって金を増やそうというような活動は、ぼくの先生がおっしゃった(まっとうな!)経済活動には入りません。人の暮らしをより快適にしハッピーにすることに貢献する物やサービスを生み出し提供することが(まっとうな)経済活動です。(ここに「豊か」と「安心」を入れることには躊躇があります。「豊か」は経済発展主義につながり、「安心」はどうかすると人間による人間の過剰防衛になるからです。)
 経済活動がそのように価値を創造する活動なのですから、教育活動は「より崇高な価値」の創造・維持・発展をめざして行われなければならないと思います。その活動には「『価値』は何か」を教育者自身が考え、学生にも考えさせる/考える態度を身につけさせるということも含まれると思います。第2パラグラフで言った「価値」というのはそういうことです。なのに、、、
 今のオンライン授業狂想曲は、「オンラインを使って『ちゃんと』授業を実施する! 提供する!」という部分に片寄りがちだと思います。小中高の場合は、受験と学習指導要領と教科書(つまりタイトな制度!)があるので、そのように傾いてしまうのはやむを得ない部分があると思います。しかし、大学の教育はそうした制度の縛りがひじょうに緩いわけで、教師は、自身の担当科目の(学科等の全体のカリキュラムの中での)位置づけや趣旨を適切に(再)把握して、その上で自由な発想と「価値」判断で、この状況下での教育を企画し実践すればいい。
 大学における言語教育(外国語教育、外国出身学生対象の日本語教育を含む)を単に言語スキルの教育と考えている人には、上の「価値」についての議論は何も響かないかもしれません。しかし、言語教育を単に言語スキルの教育と考えている先生の場合でも、現下の状況は「そもそも学生が『何ができるようになる』ことがわたしの教育実践のねらい/目的なのか」を改めて根本のところから再考するよい機会なのだと思います。
 実際の仕事を着実にこなしつつも、その一方でわたしのこの活動の「価値」は何なのだろうといつも振り返る姿勢が教育に従事する者、特に大学教育に従事する者には、求められていると思います。大学教育に、特に大学の人文系の教育に!?、制度的な縛りが緩いのはそのためでしょう。ただ単にメディアを活用してオンラインで「ちゃんと」授業をしようとする「『価値』忘却的な」姿勢は、教育の本質をダメにする!

2020年4月23日木曜日

言語教育者の社会グループ、言語教育学という(生物学的・)文化的伝統


 ある社会グループのカップリングに特有のいろいろな規則性がぎっしりつめこまれた、あの鞄、その名は、生物学的・文化的<伝統>だ。伝統とは見たり行動したりする仕方であるだけでなく、またひとつの隠蔽の仕方でもある。伝統とは、社会システムの歴史において、あきらかで、規則的で、受入れられるものになった、すべての行動(ふるまい)からなっている。それらの行動が実行されるためには反省的思考[=反映]は必要とされないので、それらは失敗しないかぎり目に見えないものだ。<伝統>をなす行動が失敗したときに、はじめて反省的思考が登場する。

 これは、マトゥラーナ&ヴァレラの『知恵の樹』pp.292-293にある言葉です。
 この「ある社会グループ」に「言語教育者の社会グループ」を、そして「生物学的・文化的<伝統>」の部分に「言語教育学という(生物学的・)文化的伝統」を入れてみるとおもしろい! この入れ替えからあなたは何を読み取る? ヒントは、そのような脈絡で、「過去の<伝統>」、「現在の<伝統>」、「近未来の<伝統>」、「大未来の<伝統>」とは何か! です。「伝統」というと普通は「『現在』が過去から受け継ぎ引き継いでいるもの」となるので、この4つの<伝統>は少し変です。しかし、マトゥラーナ&ヴァレラが言っている意味での「伝統」であれば、OKです。
 あなたは「近未来の<伝統>」を担いたい? それとも「大未来の<伝統>」を築きたい?

2020年4月21日火曜日

トランプさんの手練手管(20200417)

めずらしく政治向きの話
 昨日(4月16日)の毎日新聞の余録です。
 トランプさんは、アメリカでは「教養層」には人気がないわけですが、現に「民主的な」選挙によって大統領に選ばれています。ですから、特段の政治的な主義主張のないぼくは「選ばれているのだから、それがアメリカの『人々』の意思でしょう!」と考えて、「教養層」が発するポピュリズムや一国中心主義などの言説には関心を向けていませんでした。(トランプさんの言動も態度も「品がない」とは思っていました。「教養がない」かどうかは、「教養」の定義によると思います。)しかし、そんな「ノンポリ」(←ぼくが学生時代はこれ!)のわたしもこのごく短い記事を読んでちょっと見方/見え方が変わる/変わったような…。この記事を読むと、トランプさんの大衆迎合をうまく操作する「手練手管」と責任回避体質が改めてよくわかります。キーワードは「奇貨」です。このキーワードを使うことで、トランプが自身の発言を意図的にやっているということが示されます。「無意識的な」意図的である可能性もありますが、それでもやはり「身についてしまっている」「意図的」となります。そして、この記事で言及されている「トランプさんの責任」というのは、経済・軍事そして国際政治上の21世紀の大国としての「責任」です。Twitterなどの「大衆メディア?」がこの「手練手管」を可能にしている部分があるのかなあとも思います。余録、全文読めます。

2020年4月18日土曜日

結び

結び

 この後の仕事は、大きく3つです。SAL​​​​​​​​​​​​​​のプラットフォームを制作すること、そして、SAL​​​​​​​​​​​​​​の支援システムを構想し装着することです。
 そして、2つ目に関わる大きな3つ目仕事は、SAL​​​​​​​​​​​​​​の支援について研究することです。
 SAL​​​​​​​​​​​​​​における支援は、学習上の問題を解決することと学習の方法について助言をすることに限定するのではなく、日本語の習得を促進するという大きな観点からSAL​​​​​​​​​​​​​​のinstructionalな支援を計画し実行する必要があると思います。例えば、相互支援の学習者コミュニティの形成を促進することは、そのような観点からのSAL​​​​​​​​​​​​​​らしい支援の一つだと思います。
 いずれにせよ、SAL​​​​​​​​​​​​​​は今いよいよ始まろうとしている段階で、SAL​​​​​​​​​​​​​​における支援はまさにこれから研究・検討・創案しなければなりません。そして、そうした仕事をするためにはさまざまなICTツールを学ぶことも必要です。それは21世紀の第二言語教育者として重要な仕事だと思います。
 しかし!!、これはぼくの大学院時代の教育工学の先生の言葉ですが、「洗練された道具を! シンプルに使う! のがいい!」! そうでないと、「道具倒れ」になります。洗練された道具を知って、そのポテンシャルを精確に把握し、シンプル&有効に活用してメディア・ミックスの有効なinstructionを実践する。そこが教育の専門家の腕の見せどころです。

序章 SAL​​​​​​​​​​​​​​への道のタネ明かし

序章 SAL​​​​​​​​​​​​​​への道のタネ明かし

ぼくはバフチニアン(だけ)ではない
 過去2冊のぼくの本(『第二言語教育におけるバフチン的視点』(2013)と『対話原理と第二言語の習得と教育』(2015))を読んで、皆さん何か気づいたでしょうか。この2つの本は、本当にタイトル通りの本なのです。「第二言語習得研究(接触場面相互行為研究)への言及は少しありますが、Krashenへの言及がほとんどない!のです。1冊目は『…バフチン的視点』だし、2冊目は『対話原理と…』ですから、Krashenが入ってくる余地はありません。(1冊目の第11章結論の中でヴィゴツキーの第二言語習得についてのモノロジズム的な見方を批判する文脈で補足的に5行ほどKrashenに言及しているだけです。西口(2013)pp.208)
 過去10年くらいのぼくのパブリックな発信だけを見ていると、ぼくはバフチニアン(やヴィゴツキアン)に見えるでしょうね。でも、そのイメージはぼくの「正体」ではありません。ぼくの「正体」は「クラシェニアン×バフチニアン」です。そして、時系列でどっちが先かというと、クラシェニアンが先です。1980年の始めにクラシェニアンになっています。ただし、正統的なクラシェニアンではなく、修正派のクラシェニアンです。

クラシェニアン×バフチニアン
 ぼくの「履歴」をざっくり言うと、1980年始めがクラシェニアンの時代(「熱狂的」ではありませんが)、その後ヴィゴツキーに出会うまでは模索の時代。そして、1990年代がヴィゴツキアンの時代、2000年代がバフチニアンの時代、となります。(模索の時代には、認知心理学、生態心理学、いろいろな「応用言語学」の理論などを勉強しました。)
 上で言った過去2冊の本は、バフチニアン(&ヴィゴツキアン)としてのぼくが書きました。そして、第二言語教育のこともそのバフチニアンな理論との関係でのみ論じています。そこにKrashenは介入させていません。

日本語教育者としての射程とSAL​​​​​​​​​​​​​​(supported autonomous learning)
 上の話の中心は、ぼくの理論家としての履歴です。その話と、ぼくの日本語教育者としての射程と履歴は別の話になります。本章の「タネ明かし」というのは、あえてぼくの日本語教育者としての射程を明かそうという趣旨です。
 まず、日本語教育者としての(過去10年ほどの)履歴の話をすると、過去10年ほどの表現活動中心の日本語教育の構想と企画と教材制作・出版と、表現活動中心の日本語教育の構想を説明し、その「根拠」を示す本(西口, 2015)の出版です。(そして、その本を出すためには、その前に西口(2013)が必要でした。)
 しかし、ここまでの履歴は、実は、ぼくがやりたいこと(射程)の「基礎(工事)」です。この後のことは、(1)広く日本語教育一般向けへの表現活動中心の日本語教育の普及とそのための本の出版(2020年5月か6月に出版予定)、と、(2)表現活動中心の日本語教育に基づくIT技術を十分に活用したSAL​​​​​​​​​​​​​​(supported autonomous learning)の制作と実践の創造、です。

SAL​​​​​​​​​​​​​​への道
 というようなことで、SAL​​​​​​​​​​​​​​の制作とその実践の創造は、日本語教育者としてのぼくの射程に、言ってみれば、当初から入っていました。そして「基礎」部分は、最初からSAL​​​​​​​​​​​​​​に移行できるように作っています。つまり、最初からSAL​​​​​​​​​​​​​​の「A」を強調していますし、SAL​​​​​​​​​​​​​​の「S」も「A」とは密接に関わりながらも自立的な要素であることを強調しています。また、これまでの「基礎(工事)」の仕事は、いわばSAL​​​​​​​​​​​​​​に載る「ネタ」「リソース」などを用意することでした。

第2章 第二言語の習得と習得支援についての考え方

第2章 第二言語の習得と習得支援についてのわたしの考え

 表現活動中心の日本語教育と、(表日!)SAL​​​​​​​​​​​​​​の両方に関わる、第二言語の習得と習得支援についてのぼくの考えを、改めて、タネ明かし的に話したいと思います。

 「タネ明かし的に」と言うのは、序章で言った理論家としてのわたしの「タネ明かし」と関連しているからです。序章の最初のパラグラフの末尾でわたしは「修正派のクラシェニアンだ」という話をしました。以下の【参考資料】は、修正派クラシェニアンの習得と習得支援についての見解(Newmark and Reibel×Krashen)です。そして、これも序章で言いましたが、ぼくの習得と習得支援についての考えは、修正派クラシェン×バフチンです。それを簡潔に言って、クラシェン×バフチン です。【参考資料】は、quick look(快速参照)としては、太字にしているA、B、C、だけ見てください。

 これまでの表現活動中心の日本語教育の議論ではバフチンばかりを表(おもて)に出してきましたが、それは「話のわかりやすさ」のためです。最終的に行きたいところは、クラシェン×バフチンで、さらに言うと、クラシェン的な(正確には修正クラシェン的な)学びに、学習者を導くことと教師による習得支援を導くことです。そして、言語事項中心のカリキュラムでは、それは決してできません。表現活動中心の日本語教育でこそできる! クラシェン流とバフチン流は、表現活動中心の日本語教育を支える両輪です。

 ちなみに、「話のわかりやすさ」というのは、「何を身につけさせるか」の見えやすさの問題です。クラシェンでは、「何」とか「これ!」というのが一切見えません。しかし、バフチンなら見えます。それは、言葉遣いです。ただし、その言葉遣いも「実体」や「モノ」ではありませんが(西口, 2015, p.29)


【参考資料】

1.Newmark and Reibel:言語学習のための必要性と十分性

 1960年代はオーディオリンガル法の流れにありながら、学習者の第一言語と目標言語との対照研究が重視された時代です。対照研究によって学習困難点を予測し、それに基づいて教材を用意して、特に母語の干渉(英語ではinterference)が生じると予想される構造について集中的なパターン・プラクティス等を実施することが強調された時代でした。そんな時代に、カリフォルニア大学サンディエゴ校のLeonard NewmarkDavid Reibelが書いた「言語学習のための必要性と十分性」(Necessity and sufficiency in language learningNewmark and Reibel, 1968)が発表されました。同論文で、かれらは以下のように高らかに主張しました。

 言語教育を有効に行うために言語構造の理論に基づく言語習得の理論の開発を待つ必要はないとわたしたちは主張します。人が言語を習得するために必要で十分な条件はすでにわかっているものとわたしたちは考えます。つまり、言語行使の実例がそのまま学習者に提示されて、学習者の実際に言語を行使しようとする行為が選択的に強化されさえすれば、普通の人は言語を習得することができます。ここで重要な点は、学習者が実際の使用の中にある言語の実例(instances of language in use、筆者注)を学ぶのでなければ、言語を学んだことにならないということ、そして、学習者がそうした言語の実例を十分に習得すれば、そのままの形で与えられている実例について分析や一般化は不要だということです。学習する教材に関して教師が主としてコントロールしなければならないのは、教材として提示される材料が学習者が使う事項として把握可能であることだけです。後は、学習者の言語学習能力が発揮されてうまく行きます。(Newmark and Reibel, 1968, p.149p.161、筆者訳、傍点強調は原著)

 当時も今も、多くの人は、子どもにおける第一言語の習得と成人における第二言語の習得は違うものであり、成人は言語学習者として子どもとは質的に異なると考えています。Newmark and Reibelはそうした一般的な見解に反論して、かれらの主張の根拠となる議論を展開しています。Newmark and Reibelの主張を箇条書きにすると以下のようになります
  
A.   第二言語の習得支援についてのNewmark and Reibel1968)の見解
  1.言語習得のために必要で十分な条件
   (1) 言語行使の実例をそのまま学習者に提示すること
   (2) 学習者の実際に言語を行使しようとする行為を選択的に強化すること
   (3) 言語行使の実例とは、実際の使用の中にある言語の実例である。
   (4) 十分な量の言語行使の実例を知り、習得すること。
  2.言語習得のために不必要なこと
    学習者が言語行使の実例を十分に学んでしまえば、それについての分析や一般化は不要である。
  3.教材として提示する材料についての条件
    学習者が使う事項として把握可能であること

 かれらの議論でとりわけ注目されるのは、実際の使用の中にある言語の実例(英語ではinstances of language in use)、あるいは短く、行使中の言語の実例という視点です。かれらの言う行使中の言語の実例は、いわゆる場面会話としての話し方のサンプルではありません。Newmark and Reibelは、次のように説明しています。

 しばしば批判されるように、具体的で、それゆえ必然的に限定された状況でどのように話すかを学習者に提示しようというのではありません。むしろ、学習者が貯蔵(stores)し、分節(segments)し、そして最終的に再構成(recombines)して新たな状況で適切な用法として使える新たな発話が作れるような、意味のある言語行使の実例(instances of meaningful use of language)を提示することを提案しているのです。(Newmark and Reibel, 1968, p.152、筆者訳、括弧内は原文の英語)

 Krashenの言う“comprehensible”と、Newmark and Reibelの言う把握可能(原文ではgraspable)はよく似ていますが、Krashenの“comprehensible”のほうが概略的にわかればいいというニュアンスが強いです。
 入力仮説は、従来の第二言語の習得支援に関する見解に次のような変更を要求しています。

B.   従来の習得支援の見解への入力仮説からの変更要求
  (1) 言語事項を取り立てて指導することは役に立たない。
     多くの第二言語教育者はPPPの方略による教授を通して言語を産出する能力を養うことができると信じているが、入力仮説はその有効性を否定する。入力仮説によると、PPPなどの教授を通して得られる学習された知識や言語操作能力をいくら身につけても、それは言語を内から発起する能力にはならない。それは発起された発話の文法や語彙などをチェックして修正できるだけである。そして、理解可能な言語入力に基づく習得を通して得た無自覚的な知識のみが言語を内から発起することができる。ゆえに、学習よりも習得こそが重要だと主張する。
  (2) 話させることは習得を促進しない。
     これまでは学習者にたくさん話させることが言語能力を伸ばすと考えられてきたが、入力仮説はそれを否定する。そして、むしろ言語を理解して受容する活動こそが、そしてそれに大量に従事させることこそが言語の習得を促進すると言う。そして、そのような豊富な受容的言語活動従事の結果として、話すこと(や書くこと)は自ずと育成され現れてくると主張する。

 これら2点を含めたKrashenの第二言語の習得支援についての見解は次の2点に集約されます。

C.   Krashenの第二言語の習得についての見解のサマリー
(1) 話すこと(や書くこと、筆者注)は習得の結果であって、原因ではない。話すこと(や書くこと、筆者注)は直接に教えることはできない。話すことは、むしろ、理解可能な言語入力を通してコンピテンスが育成された結果として自ずと「現れてくる」。
(2) 言語入力が理解できて、そしてそれが十分にあれば、必要な文法は自ずと与えられる。教授者は自然習得順序に準じた次の言語構造を取り立てて教える必要はない。
Krashen, 1985, p.2、筆者訳)

 このような見解の下に、緊張や不安などがない状態で理解可能な言語入力を大量に与えることを教授方略として提案された教育方法が、よく知られているKrashenTerrell(テレル)のナチュラル・アプローチですKrashenがめざしたのは、少し乱暴に要約すると、その言語が話されている国に行ってそこで暮らしながら自然に言語を身につけていくという自然的な第二言語習得を疑似的に教室で再現することです。

第3章 (表日)SAL​​​​​​​​​​​​​​における支援

第3章 (表日)SAL​​​​​​​​​​​​​​における支援

 表現活動中心の日本語教育については西口(2015)で詳細に論じていますし、先生方におかれましてはNEJやNIJなどもしっかりと「にらんで」いただいて、知っていただくこととして、ここでは(表日)SAL​​​​​​​​​​​​​​における支援の考え方について話します。
 この話をするために下のようなPPT資料を作成しましたので、それを横に置いて以下の説明をご覧ください。

1.基本原理
 教育内容とねらいを示す表現活動中心の日本語教育新たなインストラクション(学習指導)!?の方略であるSAL​​​​​​​​​​​​​​も、基本原理はクラシェン×バフチンです。ですから、それにふさわしい形で、SAL​​​​​​​​​​​​​​での支援も、一方でSAL​​​​​​​​​​​​​​らしく!、行わなければなりません。

2.自律学習(autonomous learning)ステージでの支援
 SAL​​​​​​​​​​​​​​のautonomous learningの部分は、バフチン的にデザインされたクラシェン的な習得の機会を提供しています。そして、この部分は、PPT資料の三角錐のB(言語技量の開発)の部分に焦点化した学習となります。

(1)学習の各ステップは無理のない一連のステップになっている。
そして、各ステップでは、
(2)適切な言語事項で構成された言葉遣いで編成された「意味ある」ディスコースを提供している。
(3)そのディスコースに対して補助的に語彙の注釈や文法の「よく分からない」に対処するための情報を十分に提供している。 ※SAL​​​​​​​​​​​​​​では、NEJの「Gist of Japanese Grammar」以上の文法説明を用意しています。

 ですから、autonomous learningの部分では、ModuleやAssignmentでの指示に従って、提供された注釈や文法説明なども参考にして、しっかりと勉強すれば、相当程度そのテーマについての言葉遣いを蓄積して、そのテーマについての基礎言語技量を形成することができることが見込めます。学習上の「よく分からない」も提供されている情報をちゃんと見れば!解決するはずです。
 ですから、このステージでの支援は、(a)しっかり「自力」を発揮せよ!(自律学習支援)、と、(b)その「よく分からない」の答えはここに書いてある!(自律学習支援)、の2つが基本となります。
 こうした支援は、しなくても学習者は順調にautonomous learningを進めているというのが望ましい状況です。(a)や(b)が頻繁になってしまう場合、それは現在の取り組んでいる学習がその学生の「習得に適切な内容」を超えているということなので、学習ステップをバックすることを指導しなければなりません。それも重要な適切な支援です。

3.学習者のパフォーマンスに関わる支援
 SAL​​​​​​​​​​​​​​では、学習の節目節目で、ワークシート課題の提出やエッセイの作成・提出を求めます。
 支援の方法という関心からは、まずは、どのようなメディアや方式でこうしたパフォーマンスを「提出」させるのが日本語習得支援の一環として有益で、支援の実施の観点からも便利で、有効な支援ができるかを検討・研究しなければなりません。学生相互でのpeer feedbackなども支援のオプションとして検討・研究の対象としていいと思います。
 この部分での学習と支援では、PPT資料の三角錐のA(言語パフォーマンスの形成)が注目されており、その学習と支援の趣旨は、B(言語技量の開発)に関心を置きながらのAに関わっての学習指導です。
 そして、その際に、そうした活動に付帯して、C(言語知識の習得)やD(言語システムの理解)も支援の「俎上」に上がってくるかもしれません。多かれ少なかれ上がってくるでしょう。そして、クラシェン×バフチンの原理でいくと、そのような場合の支援は「速やかな『解決』を旨とする」となります。なぜなら、CやDの部分は、日本語上達の「周縁部の構成要素」だからです。これまでのパラダイムでは、第二言語の習得においてCやDは重要な部分と位置づけられてきました。しかし、クラシェン×バフチンを基本原理とする表現活動中心の日本語教育と(表日)SAL​​​​​​​​​​​​​​では、それは「周縁」となります。(このあたりは、西口(2015)をご参照ください。)

4.その他の支援
 正確な用語を忘れましたが、昔Ellisが、授業活動は「教えること」の側面と「実際の相互行為」の側面があると言っていました。PPTの三角錐と絡めて言うと、「教えること」の側面は、CやDに関係することです。そして、「実際の相互行為」の側面は、B、あるいはBに関心を置きながらのAとなります。
 SAL​​​​​​​​​​​​​​では、(ネット上でない)直接的な対面授業も支援方法の一つに入れていいと思います。しかし、ぜひ必要な直接的な対面授業の部分以外は、ネット上でやネットを介しての支援となります。
 直接的な対面授業では、クラシェンの言う「習得」を促進する授業活動を実施することは容易にイメージすることができます。そして、クラシェン×バフチンの原理からはそれは大いに推奨されます。
 ここで、提案したいことは、ネット上やネットを介してという場合でも、「習得」の促進をねらった「支援(活動?)」をしてほしいし、それは十分にできるということです。あるいは、一般論の形で言うと、ネットを介した支援はDやCの部分だとあらかじめ規定してしまわないで、もっと広い目線や観点や洞察でネットを介した支援のポテンシャルを研究・検討・創案し、多様で柔軟で豊かな支援を開発してほしいということです。


【PPT資料】
https://www.dropbox.com/s/fwyjenjnh8k3gte/%E3%83%91%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%8A%80%E9%87%8F%E3%81%AE%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%AE%E9%80%A3%E5%8B%95.pptx?dl=0

2020年4月10日金曜日

今こそ必要なデザイン思考

 今、大学の先生たちは、オンライン授業やメディア授業(大阪大学)などの準備で、大わらわ、灰神楽(←司馬遼太郎が好んで使っていた!)になっています。大学等で日本語(だけでなく語学一般)の授業を担当する先生は、途方に暮れています。
 神吉宇一氏が4月7日のfacebookで発信していたように、「対面型授業を再現する」というような姿勢でこの状況に対応しようとすると、当然「途方に暮れ」ます。日本語教育者がこの状況を「好機」と捉えて、自己改革、自己変革、大躍進をするためのヒント?少し書きたいと思います。タイトルにありますように、キーはデザイン思考です。
 デザイン思考。ぼく自身はもともと専門の一つがカリキュラム開発やインストラクショナル・デザイン(というか、仕事をする際の元々の性?)ということもあって、デザイン思考に10年以上前からちらちら関心を寄せていたのですが、調べてもどうもキモがわからない感じでした。しかし、今朝、久しぶりにウェブで「デザイン思考とは何か」と検索してみて、以下のサイトに出会いました。
https://blog.btrax.com/jp/design-thinking-difference/
 “Last update: Nov.13, 2019”となっているので、それ以前にはなかったのではないかと思います。
 まずは、本記事に沿ってデザイン思考のキモを説明します。その上で、今、対面授業が大前提なのに「対面授業はまかり成らん!」と言われている日本語教育(語学教育一般)に、デザイン思考がこの状況への対応に関してどのような発想の転換や洞察を与えてくれるかについて話します。

1.デザイン思考のキモ
 上記サイトで説明されているデザイン思考のキモは以下の5つ((1)から(5))です。このサイト記事を書いたのはサンフランシスコ在住(「詳しくはサンフランシスコに来てください」というようなことが書いてあるので)の女性ですが、以下のように見出しは大阪弁で書いていらっしゃいます。(ぼくではない!) それぞれについてサイトの説明からかいつまんで、そしてぼくの理解も含めて、説明します。
(1) ユーザー中心とお客様第一主義とはちゃうねん
─ ユーザー中心は「お客様第一主義」ではない。
─ ユーザーの言動からかれらの欲しいものをより深く分析して、リフレイミング(reframing、再定義)する。
─ つまり、ユーザー本人を超えてユーザーを理解する。
─ クリエイティブなデザイナー(例えばイスのデザイナー)は、従来のイスに座って「満足している」人の「期待」を超えて(場合によっては特別な「潜在的なニーズ」を洞察して)新たなイスをデザインし、制作する。それがデザインということ。
(2) プロセス重視はプロセス厳守とはちゃうねん
─ 一般に5つのプロセス図が提示されるが、このプロセスをフォローすることが大事なのではなく、プロセスを意識することが大事。
─ 実際には、プロセスを行ったり来たりすることも、ジャンプすることもある。それはかまわない。大事なのは、プロセス全体と、今どのプロセス(ステップ)にいるかを意識・自覚しながら作業を進めること。
(3) デザイン思考はメソッドちゃうねん、マインドセットやねん
─ これはそのままで、デザイン思考はメソッド(やり方、手続き的な手法)ではなく、マインドセット(思考法や、課題に対応する姿勢や心と体の基本「体勢」)です。
─ 現在の状況の変化(「対面授業はまかり成らん!」)を「たいへんなことになった!」というふうにとってしまうと、すでに「硬い体勢」ができてしまいます。
(4) ソリューションやなくて、問題定義の方で差別化するねん
─ ここに言うソリューションというのは、ビジネスでは、新製品や新商品。教育では、開発された新たな実践(方法)でしょうか。「実践(方法)」と方法を括弧付きにしたのは、(3)のマインドセットに関係しています。
─ そして、ここに言う「ソリューションではなくて」というのは、デザイン思考のめざすところは必ずしも「画期的な新製品、新商品、新たな実践(方法)」を開発・提案することではないということです。
─ 後半の「問題定義の方で差別化する」というのは、(1)のリフレイミングに関わることで、課題・問題の再定義にあたっての目の付けどころが「新規」「画期的」「他の人が思いも寄らない」というのが重要、ということ。そのリフレイミングの結果としてソリューションが「地味」でも、実に課題・問題を解決することができるのであれば、それは立派なor高度なイノベーションである、ということ。
(5) ニーズの広さちゃうねん、深さやねん
─ 従来のマーケッティングの考え方では、「いかに広くパイを取れるか」がめざされ、そのために「なるべく多くの人がもつニーズをさがし出す」ことが重視されました。
─ そんな「既存の、自覚の範囲内の」ニーズを調べて「浅く広く」対応しようというのではなく、デザイン思考では、「狭く深く」を重視します。
─ 日本語教育のデザインで言うと、「自身の学生・学習者にとって(学生・学習者自身も自覚していないが)どの部分が中核的に重要で、実はやってみたら学生・学習者も『こんな日本語教育を受けたかった』と思えるような「日本語習得の核心部」を見つけ出し、摑み出す、ということです。
─ そして、そのように見つけ出し摑み出された「狭く深い(潜在的な!)ニーズ」が実は多くの人に共通のニーズなのかもしれない、と結んでいます。

2.現在の状況への対応に向けて
(a) マインドセット
 わたしたち(日本語教育者)はこれまで、ソリューションのモードとして対面授業を大前提にしてきました。そして、わたしたちは今、その大前提で頼みの綱は「ダメ!」と言われています。この現在の状況変化(「対面授業はまかり成らん!」)を「たいへんなことになった!」というふうにとってしまうと、すでに「硬い体勢(マインドセット)」ができてしまいます((3))。現在の状況変化はどうしようもないわけですから、これは「あっそ」とか「その前提でやるしかないよねえ」とあっさり受け入れるしかありません。
(b) リフレイミングと、「深さ」or 核心部
 そのように現在の状況を受け入れた上で、改めてのリフレイミングということで、わたしたちがなさねばならないこと、学生・学習者が「達成」しなければならないことをリフレイミングします。つまり、現在言われている条件の下で、日本語教育(語学教育)として、どのようなゴールを設定するのが、現実的(実現可能)で、かつ語学習得の面でも重要部・核心部の形成ができるか、を再考することです。
(c) インストラクショナル・デザイン
 これは上の(2)や(4)の「拡大解釈」というか、それからの連想!ですが…。上の(2)のようにゴールをリフレイミングした上は、後はそれを達成するために、合理的で最適なプランニングをし、実施の体制を整えて、そして、ゴールを達成するために学習者においては最適な学習の実践を、教師においては最適な教授の実践をするということです。

3.いくつかのヒント
1.  (b)に関して
 例えば、知り合いのある入門・基礎クラス担当の先生は「今学期は文字の習得は要求しない」と決めました。その部分は「放棄」(勉強したい学生は勉強してもよい!が)して、オーラルの日本語の習得のみをゴールとして設定して、その指導に集中するということです。「まずオーラル日本語の習得を!」というのは実は昔はあった発想ですが、現在は忘れられている観点です。それの現下のメディア条件の下での「復興」です。
 また、別の中級前期担当の先生は「『日本語ワープロで(中級相応のディスコースの)文書作成ができるようになる」ということを今学期のコースの重要目標として設定しました。そして、それに伴う形で、語彙や文型・文法事項や、そしてオーラルの日本語を伸ばすというスキームを考えています。オーラルの日本語の部分については、(教師の添削も経て)できあがった自身のエッセイを(読む練習を各自でした上で)ボイスメモなどで録音させてそのファイルを提出させて、そして適切な方法でフィードバックをするというようなことを考えています。
2.  学習指導でも、自律学習でもなく、支援ありの自律学習(Supported Autonomous Learning、略してSAL)
 これまでわたしたちは、対面授業を主要なモード(資料の配付や学生からの宿題の提出・返却なども対面でできる)とした学習指導をしてきました。今回、それは「禁じ手」となりました。一方で、従来から、自律学習の重要性? 有効性? そのリソースの必要性? が叫ばれています。一方で、(語学)教育でのIT活用の有効性も指摘されてきました。
 詳細な「理屈」は省略して言うと、今こそ、自律学習×IT活用=支援ありの自律学習(SAL)、ではないかと思います。つまり、学習・習得の基本経路は自律学習としてプログラム化する。その上でITを適宜に有効に活用して、自律学習を支援し、アチーブメントを確認し、必要なフィードバックと指導をし、助言を与える、というふうにするのが、今こそ検討されるべきときだと思います。このように発想すると、対面授業も学習支援の一つの方法ということになります。
 ピンチはチャンス!

4.現実的なステップ ─ プログラミング化が決定的に必要!
 上で「学習・習得の基本経路は自律学習としてプログラム化」と言いました。実は、対面の教授実践であれ、自律学習であれ、何であれ、この部分こそがネックです。これまで、わたしたちは「『対面授業』というぬるま湯」につかって、そのような努力を怠ってきました。また、それと関連して、「日本語習得の重要部・核心部」を摑み出す努力も怠ってきたと思います。ああ、誤解なく! わたしが言っているのは「重要な文型・文法事項を精選して、それを着実に理解・練習・習得させる経路を明らかにする」ということではありません。それは、すくなくともわたしには、日本語習得の重要部・核心部を形成する内容と道筋とは思えません。わたしの目からは、それだと「(大)後退」です。
 そして、日本語習得の重要部・核心部をうまく摑み出し、その形成に向けてプログラミング化ができれば、それを促進する、対面ではなくITを活用した有効な支援のアイデアも実は豊富に出てきます。

 わたしの「周辺」では、こんな感じでの現下の状況への対応が着々と進んでいる感じです。
 







2020年4月1日水曜日

現象学から人間科学へ⑫ — 地平と自己

 「現象学から人間科学へ」と題した連続エッセイも今回で最後となります。最後の「結び」で、現象学的に人間科学を遂行する際の留意事項が論じられることになります。

地平的図式あるいは地平
 世界内存在の存在様態等について『存在と時間』の第1部第1編で論じたハイデガーは、第2編の第4章で、同書の要所となる現存在の実存と時間性との関わりを投企とも関連させながら論じています。このあたりは前節で焦点化して論じた第1部第1編の第5章を再論しているような様子です。
 同部分でハイデガーは、時間性と現存在の実存について以下のように総括しています。

 現存在は、おのれ自身の存在可能を主旨として実存している。現存在は実存しつつ投げられており、投げられているゆえにもろもろの存在者へ引き渡されている。すなわち、現存在は現存在として ─ おのれ自身を主旨として ─ 存在することができるためには、かような存在者を必要とするのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 趣旨は3-1の最初の引用と同様で、現存在は世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられ引き渡されていると言っています。しかし、3-1の引用との違いは、「もろもろの存在者」や「かような存在者(を必要とする)」ということに言及している点です。では、この「もろもろの存在者」とは何なのでしょう。続きを見てみましょう。

 現存在は事実的に実存しているかぎり、おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結においておのれを了解しているのである。実存する現存在のこのような自己了解がおこなわれる場面は、現存在の事実的実存とともに《現に》存在している。第一義的な自己了解がそこでおこなわれる場面は、現存在とおなじ存在様相をもっている。現存在は実存しつつおのれの世界を存在しているのである。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 先の引用での「もろもろの存在者」とは、上記引用の中の「おのれ自身が《主旨とするもの》と、そのつどの《……するためにあるもの》とのこのような連結」らしい。そして、それは、現存在が自己了解を行う「場面」であり、それは「現存在の事実的実存とともに《現に》存在している」と言います。そのような事態をハイデガーは「現存在は実存しつつおのれの世界を存在している」と表現しています。現存在は実存しつつ、自らが存在する世界を在らしめそこに存在しているということです。そして、その次のパラグラフで以下のような論述に行きつきます。

 現の開示態のうちには、世界も、あわせて開示されている。してみれば、有意義性の統一態、すなわち世界の実存論的構成も、やはり時間性にもとづいているはずである。世界の実存的=時間的可能条件は、時間性が脱自的統一態として、ある地平のようなものを備えていることにある。このような脱自態の行く手を、われわれは地平的図式となづけておく。(ハイデガー、『存在と時間』下、p.287

 ここでは、第1文で、現存在が投げ入れられる「そこ」あるいは「それ」の開示においては世界も開示されていると言っています。そして、ハイデガーの論においては時間性が存在の起源としてあるわけですが、その時間性が脱自態的統一態として「ある地平のようなものを備えている」と論じています。そして、時間性に基づく脱自態的な産物を地平的図式と呼んでいるのです。

地平的図式と現存在
 地平的図式あるいは地平という視点はハイデガーの議論を理解するための梃子になるでしょう。すなわち、世界内存在として実存する現存在は、世界内存在として存在するために自らが実存するための地平を自ら開示します。そして同時に、その開示した地平の要の部分に自らも投げ入れられ引き渡されるということです。
 つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、そして自らもその地平に属するという形で実存するということです。
  
まとめ 
 本連続エッセイでの考察をまとめると以下のようになります。

1.   一般に自己(self)として扱われ論じられているものを原点に差し戻してハイデガーは現存在と呼ぶ。
2.   現存在は、世界内存在という形で存在する。つまり、世界内存在として存在する現存在は、自ら地平という領野を開示して、自らもその地平に属するという形で実存する。
3.   気持ちの中で現存在はいつもすでに気分的に開示されている。つまり、その都度に地平という領野を開示して、その地平に属するという形で実存している。
4.   世界内存在の了解可能性は、自らをディスコースとして語り明かす。あるいは、思考は現存在の存在への関わりを仕上げ、存在は思考の内にディスコースとなって現れる。現存在の実存は、思考の内にディスコースとして印される。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている。
5.   そうしたディスコースには、現存在の持続的な存在と当該の契機での存在の総体が示されている。つまり、そうしたディスコースは広く深く存在に立脚している。

 さらに、実践や労働の概念をも織り込んで本稿での議論と考察を敷衍すると以下のような点を指摘することができるでしょう。

6.    地平とは、生きることの各々の契機で現存在がその中に自らを見出す世界の景観である。したがって、地平には、広範な地平と局域的な地平、時間的な広がりをもつ歴史的な地平と空間的な広がりの地理的な地平、身体的活動の地平と知的活動の地平、公的な地平と私的な地平など多種多様な地平があり、その多様性は列挙し尽くせない。
7.    世界内存在という現存在の実存は社会文化史的な現象である。そして、現存在の実存の場として立ち現れる地平は文化特殊的なものとなる。
8.    文明の発展と地平の歴史的更新との関係は、それまでの生産・生活様式を基盤とした地平の上に、新たに築き上げられた生産・生活様式を基盤とした新しい地平を重ね上げるという関係になる。

結び 
 単にインタビューデータに基づいて研究するということではなく、現象学的に人間科学を遂行するということを考えると、以下のような諸点への留意が必要でしょう。

 1.そもそも地平は社会文化史的な産物、つまりは人工の産物であり、その地平において実存するわれわれも人工の産物である。
 2.現代の高度で複雑な技術文明社会に生きるわれわれは、行動を高次にシンボル的に統合し組織化した地平に生きる「現代的な世界内存在」として実存している。そして、われわれは、個人として実存しており、そのように実存していることと、自己が多地平的に実存していることを多かれ少なかれ自覚している。
 3.質的研究においてしばしばインタビュアーの要因ということが指摘されるが、それは取りも直さず、調査協力者がインタビュアーとのインタビューという実際の相互行為で「わたし」が内属するどのような地平を開示するかという問題である。
 4.インタビュアーの要因だけでなくその他のさまざまな要因も働いて、そこで語られるナラティブは開示される特定の地平によって、「腹を割らない」建前的な話、「腹を割った」打ち明け話、自己を「英雄」に仕立てるサクセスストーリー、自己を「悲劇のヒーロー」に仕立てる被害者ストーリー、楽観的な話、悲観的な話などになることがある。
 5.観察者/研究者はいずれが真実であるかはわからない。

 以上のようなことを考えると、観察者/研究者はむしろ、特定の地平に立った単純な特定のストーリーを追い求めるのではなく、調査協力者の複合的な心理の機微を描き出すことにこそ質的研究の意義があるのだと思います。もちろん、インタビュー時点において、調査協力者が自身についての特定の単純なストーリーに「傾倒している」場合は、それをその人のストーリーとして受け取るほかありませんが。
 地平こそが「わたし」のストーリーを規定します。そして、地平は多くの場合実際には複合的で、また変わりやすいものです。地平がそのようなものなので、そもそもの「わたし」(自己)の真実というものがあるのかどうかも本源的には疑わしくなります。そうしたことも十分に自覚した上で、人間についての質的な研究は行われなければなりません。