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2019年10月1日火曜日

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし なりのこたえ

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし
なりのこたえ
                                  西口 光一

先日、神戸のコミュニカ学院で研修を担当させていただきました。その時に、わたしの
考えを十二分に理解してくださった上で院長の奥田先生から「そういう話の上で、結
局、西口先生は何のために日本語を教えるの? 学生たちは何のために日本語を学ぶ
の?」と尋ねられました。5月以来何回か、NEJやNIJの日本語教師対象のセミナーとい
うことで表現活動中心の日本語教育(自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現
活動中心の中級日本語教育を合わせたもの)について話す機会がありましたが、そこで
はどちらかというと「学習者における日本語の上達」に関心を置くオーディエンスの関
心に応える形で、「従来の日本語教育の企画(言語事項中心のアプローチや実用的なコ
ミュニケーション中心のアプローチ)では日本語を上達させることはできません。日本
語を上達させることができる教育企画は表現活動中心の日本語教育です!」という指摘
をして、同教育企画の内容をお話しし、さらにユニットの一連の授業の流れを説明し
て、その一部について具体的に模擬授業を実施する、ということをしました。そんなこ
とでこのところひどく「実際の教育実践対応」をしてきたわたしには、奥田先生のご指
摘は改めて表現活動中心の日本語教育の原点に回帰させてくれるものでした。

表現活動中心の日本語教育におけるそもそもの「関心」は二つです。一つは、上で言及
したように、本当に日本語を上達させることができる日本語教育を構想しその実践を実
現することです。そして、その先にあるもう一つのより上位の関心は、新たな言語を習
得してこれまで交わることのできなかったもっとたくさんの人と交流してほしいという
ことです。そして、より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かに
してほしいということです。この後者は、CEFRの複言語主義と重なる関心かと思いま
す。

仮に、前者を「つながる日本語」という関心と呼び、後者を「つながり」という関心と
呼ぶことにします。あえて、これらに形容詞をつけると、「つながる日本語」は教育的
な関心、「つながり」は価値判断的な関心ということになるでしょうか。

両者の関係は、一見すると、「つながる日本語」の習得が先で「つながり」はその後に
実現できることというように見えるかもしれません。そして、この見方では後者が目的
で前者が手段という具合になってしまいます。しかし、これでは、またまた「道具主義
的な教育」の「復活」となります。表現活動中心の日本語教育では、この2者をそのよ
うな関係としては考えていません。「そのような関係としては考えていない」というこ
とには二つの面があります。

一つは、「つながる日本語」の学習と習得支援(教育)を、さまざまなところから来た
さまざまな背景を持つ他の学生とつながり交流しながら行っているということです。つ
まり、言葉を行使するというのは人とつながることなんだという見解を口で言うのでは
なく、具体的な学習と習得支援の実践として伝えているわけで、そのような実践を通し
て「より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かにしてほしい」と
いうメッセージ/願いを伝えるようにしているわけです。このように表現活動中心の日本
語教育では両者は目的と手段というような関係ではなく、重なり合っています。

今一つは、一つ目と明らかに関連していますが、表現活動中心の日本語教育を実践する
教師は授業であるいは授業外で学生と接するときの態度でも、上のようなメッセージ/願
いを伝えています。同教育を「正統に」実践する教師は、「日本語を教えている」、
「日本語をしっかりと身につけてください」という態度で学生と接することはありませ
ん。むしろ、「日本語で自身のことを話せるように/インターアクションできるようにな
っていろんな人とつながってね。そしたら、楽しいよ。人生がもっと豊かになるよ」と
いうような部分に関心を持っているという態度で学生と接しています。上のエッセイで
岡崎さんが言っているように、表現活動中心の日本語教育の教師は、「つながる日本
語」として学習者一人ひとりが自分の自己というものを紡ぎ出せるようになることに、
そして相互の紡ぎ出し合いによるつながりと対話に関心を置いています。日本語の習得
というのはそれに付帯する事柄として副次的にのみ関心が寄せられます。

このように、表現活動中心の日本語教育は、「つながる日本語」という教育的な関心と
「つながり」という価値判断的な関心を契機として、その両者が渾然となって実際の教
育が実践されるようにと企図して構想されたものです。そして、一教育実践者であるわ
たし自身は言うまでもなく、「正統派」の教師たちも、そのような企図を具現する形で
教育を実践しています。

2019年6月22日土曜日

「つながる日本語」の提案

日本語教育推進法の成立を受けて ─ さまざまな言語的文化的背景の人が共に暮らす共生社会を促進する日本語活動を広げる『つながる日本語』の提案
※新たな『つながる日本語』を提案し普及しないと、従来的な日本語を教えることをボランタリーな市民のところにまで広げるだけ! そして、それは、共生社会の促進という精神に逆行する!
※ここでは、当面、子どもの日本語支援や学力保障についてはテーマとしない。

0.はじめに

・第1条 この法律は、日本語教育の推進が、我が国に居住する外国人が日常生活及び社会生活を国民と共に円滑に営むことができる環境の整備に資するとともに、我が国に対する諸外国の理解と関心を深める上で重要であることに鑑み、日本語教育の推進に関し、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体及び事業主の責務を明らかにするとともに、基本方針の策定その他日本語教育の推進に関する施策の基本となる事項を定めることにより、日本語教育の推進に関する施策を総合的かつ効果的に推進し、もって多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資するとともに、諸外国との交流の促進並びに友好関係の維持及び発展に寄与することを目的とする。」
・第2条 2 この法律において「日本語教育」とは、外国人等が日本語を習得するために行われる教育その他の活動(外国人等に対して行われる日本語の普及を図るための活動を含む。)をいう。
・第3条 日本語教育の推進は、日本語教育を受けることを希望する外国人等に対し、その希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育を受ける機会が最大限に確保されるよう行われなければならない。

・上のように、現在の日本の社会の状況を反映し、日本語教育・日本語支援活動の現状を把握した、すばらしくよく練られた適切な法律であると思う。(現状において、「理念法」となることはやむを得ない。)

・本稿では、第2条にある「その他の活動」のうちの、ボランタリーな市民が参画する地域における日本語活動、一般に地域日本語教育と呼ばれている活動について論じる。本稿では、これを地域日本語活動と呼ぶ。

1.地域日本語活動に関わる「課題」

1−1 関連する言語活動の領域 ─ 「日常生活及び社会生活」
・「日常生活」は「生活者のための…」の領域。これは、安心・安全のための方策としていずれは公的に保障するべき部分。
・「社会生活」という言葉は、あいまいだが、(a)「仕事場のこと」と、(b)「職場でのインフォーマルなつながりを含めた人とつながって暮らす生活」と理解できる。
・そして、(a)は企業の責務、(b)は「職場でのインフォーマルなつながり」の部分は企業で、社会的な広がりを含む一般的なつながりの部分は地域日本語活動に負うところが大きい(負わせてしまっている!!)。
・「つながって暮らす生活」のための日本語に関しては、外国出身者においてつながる日本語の育成をするとともに、日本人参加者においてやさしい日本語の話し方の態度と技量を涵養するのが有効であろう

1−2 社会変容の方向 ─ 「多様な文化を尊重した活力ある共生社会」
 ⇔ 多様な文化を尊重しない、(それを続けていると)社会の活力が減退する、自文化中心社会
(1)「多様な文化を尊重した共生社会」
・「多様な文化を尊重しない」という態度・姿勢をもっているのは誰か?!←→多様な文化を尊重できる態度の涵養
(2)「…活力のある共生社会」
・文化的な多様性がある社会は(単一文化の社会よりも)活力を生み出すという認識←→社会の安全・安心の維持ということが前提となるが…。
・「活力」とそれを生み出すメカニズムには、(現在「マジョリティ」を形成するホスト側における)具体的な多様性の受容と一定の寛容さと、対話することの耐性・態度・姿勢と対話技量が含まれる。(外国出身者でも、自文化中心主義が強く、強い自己主張に基づく対話の態度を有する者には、「穏やかに対話する」態度と姿勢と技量を身につけることが求められるだろう。)

1−3 「活動」主体 ─ 「その他の活動」
・教育は、教育主体が専門職として目標を設定して意図的に行う活動である。「その他の活動」は「(そのような意味での)教育とは分類されない活動」となる。
・そして、「その他の活動」は日本語教育の専門家が担当する活動ではなく、日本語教育の専門家でない人(ボランタリーな市民)が参画する活動そして、ボランタリーな市民が、外国出身者(学習者)とともに参画する活動である。
⇒ボランタリーな市民は、日本語ボランティアではなく、日本語パートナー
⇒日本語パートナーのボランティア性は、多様な文化を尊重した活力在る共生社会の実現ということに関心をもって、その具体的なボランタリーな行動として地域日本語活動に参加するということ。「ボランティアで日本語を教える」という利他的な日本語ボランティアではなく、より広範な共生社会の実現ということに関心をおいたボランタリーな行動であり活動であるということ。

1−4 ○○に応じた日本語教育の現実 ─ 「希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育」
・「○○に応じた日本語」をあらかじめ、あるいは学習当初に明確に把握することはできない。また、「時間とともに」や「気まぐれ」で変わる。
・いわゆるニーズ分析主義に見られる、「○○に応じた日本語」を把握して、それを「教える」というのは、繰り返し同じ種類の学習者が来るという意味での制度的な日本語教育では一定程度可能であろう。しかし、地域日本語活動の場には、さまざまな背景、希望、将来像の学習者が訪れてくる。そういう状況では、「○○に応じた日本語」は無理。
・しかし、お互いのことを知り合うという活動の中で、相手(外国出身の学習者)のことや相手の状況をよりよく知ることで、そのような状況に合った日本語の支援を展開するということはできる。

1−5 まとめ
・今、わたしたちの前に置かれている「課題」は、共生社会の実現という課題「日本語」の課題という複合的な課題である。日本語教育的な課題ではない!
・にもかかわらず、この複合的な課題が日本語教育的な課題に歪曲されようとしている感がある。
・つまり、日本語教育の専門家にこの複合的な課題の解決が委ねられようとしているし、日本語教育の専門家もこの複合的な課題を日本語教育的に歪曲して解決策を提案しかねない状況にある。

・今、求められていることは、(α)特定の成果を生み出す活動を、(β)ボランタリーな市民と外国出身者(学習者)との接触・交流の中で、引き起こすこと。

2.今求められていること
2−1 特定の成果
(1)つながる日本語力の育成と、やさしい日本語の態度・技量(1−1)
(2)多様な文化を尊重できる態度の涵養(と「穏やかに対話する」態度・姿勢・技量)(1−2)
(3)「変幻する」希望・状況・能力に対応した(習得)内容と支援(1−4)

2−2 (日本語教育の?)専門家に期待されていること
・「教え方を容易にして『教えること』を普及すること」ではなく、2−1のような成果が出るようなスキームを提案すること

2−3 共生社会の実現を促進する地域日本語活動のスキーム
 2−1の成果を生み出せるように、
(1) ボランタリーな市民による
(2)「学習者(その人)をよりよく知る」という過程も活動の行程の中に組み込んで、
(3) 多様な文化・言語背景をもつ人との実際のつながりを通した、
(3)(「つながるための日本語」を教えるのではなく)実際のつながりを基盤として、具体的なつながりを形成しつつ「つながりの形成」の経路をそのまま日本語促進活動の行程(カリキュラム)として
 さまざまな言語的文化的背景の人が共に暮らす共生社会を促進する日本語活動 を進める。

2−4 つながる日本語
・共生社会の実現を促進する日本語活動のための枢要概念がつながる日本語
つながりを作りながら、つながる日本語を習得しようというスキーム。日本語教室で日本語パートナーとの交流を通して、つながる日本語を習得した人は、また教室の外で他の人とつながることができるというスキーム。そして、そのようにつながりを広げることができれば、これまで知り合うことがなかった人々と知り合うことができるし、そうした人々とも調和的に暮らしていける態度や社会的技能や日本語の話し方を身につけることができる。

3 (日本語教育の?)専門家に突きつけられている「宿題」
 共生社会を促進する「つながる日本語」の活動が繰り広げられるような仕組みを作る!

・代替的な活動内容・活動様態である「つながる日本語」活動というスキームの提案
・その活動を具体化するのための企画と必要なリソースの開発
・「つながる日本語」の普及者の育成
・日本語パートナーの普及

4.法の課題
4−1 第16条(地域における日本語教育)
・上で論じたようなスキームがない。
・「ボランタリーな市民の皆さん、どうぞよろしくお願いします。支援はします。」と言っているだけ。
・これでは、既存の日本語教育(のまねごと)の活動が広がるだけ。

4−2 第22条(教育課程の編成に係る指針の策定等)
・この条文は、上の「その他の活動」にも関わるものなのか。
・上の「その他の活動」は、2−1のような成果を生む、ボランタリーな市民による外国出身者とともに従事する活動であり、それに関して「教育課程の編成」云々するのは的外れであり、共生社会を促進しようとするボランタリーな市民による活動を阻み、歪める


2019年6月17日月曜日

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育) ─ つながる日本語の習得と習得支援

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育)
─ つながる日本語の習得と習得支援

1.就労者・生活者にとっての「日本語の課題」への対応の現状
1−1 ニーズという視点の落とし穴
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・仕事が日本語で運営できるるようになる?、生活を日本語で運営できるようになる?
・ニーズの調査によって、「実用的な」必要性を知ることができ、「実用的な日本語のゴールの一覧表」は得られる。※介護・看護の試験対策などは当面議論対象外とする。
・(1)実用的でない日本語は見落とされている。
 (2)日本語習得のルートという視点がない。

2-1 作られた 「喫緊の課題」
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・でも、それって、基礎日本語力の保障のための制度と実践が行われている上で、言うことでしょ!
・その第一段階ができていないのに、自分たち(産業界とそれと関係した政治家?)が作った状況・都合の中の顕在的な課題を喧伝して、「これが喫緊の課題だ!」と言うのは、いかにもご都合主義?でしょう!
・そして、それ(第一段階も第二段階も)を、公的にやらないで、「ボランティア」に委せているというのはどうでしょう?

・一方で、そのように捉えられた「喫緊の課題」は、パウロ・フレイレの言う「機能的識字」獲得の要求でしょう。(その獲得が、本人にとって一定の「有益さ」はあるわけだが。)

☆産業界のご都合主義の機能的日本語に振り回されていないか!?

2.代替的な視点
2−1 さまざまなモチベーションで日本に来る外国出身者
・外国出身者にとって入管法やそれに基づくビザ制度などは、まさに「制度」でしかない。
・外国出身者は「さまざまなモチベーション」で、制度に準じて(あるいは利用して)日本に来る。
・また、明確に一時滞在希望の人(出稼ぎやワーキングホリデー感覚者)もいるし、永住志望の人もいるし、両者が混ざっている人もいるし、途中で変わる人もいる。
・在住外国人の一部?は、地域の日本語教室を「上手に」利用している。
※中国からの帰国者や、国際結婚の人や、定住志向の日系人などの本当の生活者は別。

2−2 人としての視点
・人は「実用」のみに生きるにあらず。人は人として人とつながって毎日を暮らす!
・人とのつながりは、創造である。無(今までなかった!)から有(今はある!)が生まれる。
・つまり、人との人との関係は、創造であり、それは当事者(たち)が当事者として自ら創造するもの。
・創造しなければ、ない。

・「社会」というのは「そこにある」という様相を一方で見せながらも、実際には人々が日々の実践を通じて生産し維持し、そして徐々に改変しているものである。
・社会は、局在的な社会(local circle)を寄せ集めた総体という側面もあり、局在的な社会は相互に直接・間接に影響し合っている。

・「人として人とつながって暮らすための」という視点から見ると、就労者・生活者のための日本語の課題は違って見えてくる。

2−3 日本語の習得の第一歩
・就労者や生活(運営)者の前に「人として暮らすこと」があるのではないか。そのための日本語。
・「人として暮らすための日本語」が(長い)日本語習得の行程の第一歩ではないか。

2−4 声の獲得としての日本語の習得と習得支援

3.地域の日本語教室で何をする?
3−1 外国出身者にとっての日本語
・2−1の観点から言うと、「ニーズ」はあらかじめ決められないし、わかったとしても、変わるかもしれない。
・「N4がないと特定技能1で日本で就労できない!」というのは、「ニーズ」ではなく、その人の「都合」
・そもそも「ニーズ」などと言っているのが、日本(人)サイドの「一人よがり」
・そのような「ニーズ」に基づいた「生活のための日本語」や「就労のための日本語」などは、本当にかれらの日本語に関するモチベーションと合致しているか。→たいてい合致していないのでは?※技能実習生などにおける日本語能力試験のための勉強希望
・2−1の中の「軽快派」と、2−2、2−3、2−4の視点を考えると、「人として人とつながって暮らすための日本語」や「声の獲得としての日本語」を中心に据えて、同時に(1)日本語の基礎力の養成をして、その先の日本語能力試験や(2)より進んだ日本語力につなげてあげるのが、かれらの「関心」に合致しているのではないか。

3−2 市民ボランティアにとっての外国出身者と日本語
・市民ボランティアは、制度が作った「日本語の課題」を引き受ける必要はない。
・市民ボランティアは、何にせよ、日本語を教える「責務」を負う筋合いはない。
 ※市民ボランティアも「国民」として、産業界や政府が「作った」制度の「シワ」の部分を担う?
・市民ボランティアにとって、外国出身者は「好奇心」や「興味」の対象。
・ それでいい! だって、これまであまり「縁」がなかったし、日本に来ている外国出身者の当事者からあれこれ話を聞くのは「視野」を深め、局所的な共生社会創造の前進となる。
・「市民ボランティアは日本語を教える専門的な知識と技能をもっていない!」。だからどうなの?

3−3 日本語交流活動
・日本語教室は、さまざまな外国出身者と「日本人」が週に1回集まって、主として!日本語でワイワイする場所。
・お互いのいろいろな諸側面・テーマについて、毎週、主として日本語でワイワイすることを通して、交流を深め、日本語習得を促進する。=日本語交流活動
・そのためのリソースとして、NEJ、「日本語おしゃべりのたね」
─ ふつーの市民ボランティアが「活動」できる。
─ 継続的にやれば、日本語習得の成果が得られる。
─ 特にNEJは「体系的に」ワイワイできて、基礎日本語力を身につけて、(2)や(1)につなげることができる。
─ 局域的な社会からより広い多文化共生社会の創造へとつながる「化学反応」を起こすことができる。

4.結論
・つながる日本語の習得と習得支援
・多文化共生社会の創造の推進

2019年1月13日日曜日

国語と日本語 ─ 移民のための日本語を考える

 政治学者中西寛が、「無意識の壁を取り払う ─ 「国語」と「日本語」の間」という興味深い論説を2019年1月13日の毎日新聞に書いています。(https://mainichi.jp/articles/20190113/ddm/002/070/046000c、有料記事ですが)中西の論は、よく読むとちょっと論理の曲折があると思いますが、いくつかの重要な概念をわかりやすく提示していると思います。ここでは、中西が提示した概念を拝借?しながら、いくつかの議論をしたいと思います。
1.これからの日本社会が使う言語としての「日本語」(中西)
 これまでわたしたちは特段何も考えずに、わたしたちの日本語である日本語、つまり「国語」を、何の躊躇も疑いもなく、わたしたちの間で使ってきました。外国出身の人がフツーに同僚になったり、近所の人になったりすると、それまでの「国語」ではうまく物事を運営できない状況が出てくるでしょう。「国語」というのは、濃密な共通基盤(という幻想?)の上に気づかれた築かれたエスニックな言語であり、これまでわたしたちはそういう濃密な共通基盤の上でエスニック言語である日本語、つまり国語で、人と交わり暮らしてきたからです。そして、外国出身の人たちは、さまざまな原因から、わたしたちとは異なる日本語の話し方をするからです。かれらが話す日本語に発音や文法などの面で「わかりにくさ」があるという水準だけでなく!です。
※「わたしたち」とか「わたしたちの日本語」と書いていて、日本人の中の多文化共生を日頃から主張しているわたしとしては、実は違和感を感じました。わたしは、日本人は一色で一枚岩ではないと思っていますし、「わたしたちの日本語」なんて一部の人の幻想だと思っています。しかし、外国出身の人たちが隣人になるようになるこれからこそ、外国出身の人にもわかりやすい話し方という意味での新しい日本語の話し方が要請されているのだと思います。
2.「日本語教育においては文法や語彙、発音が中心となるが、国語にあってはそれに止まらない用法、たとえば敬語、男女語の区別、書き言葉と話し言葉の区別などが重要となる。」(中西)
 この件を読んだ日本語教育関係の人は、「日本語教育でも、敬語、男女間の区別、書き言葉と話し言葉の区別なども教えている」と「胸を張る」、かな? このポイントは、外国出身者が日本に居住して仕事をしたり生活をしたりする場合に、どのような機能までの日本語を本人が希望するか、これからの日本社会として要求するか、という問題になります。そして、それは、正式な形で移民として日本に来る/来た人の場合でも、国としていろいろな「水準設定」があるだろうと思います。同じく、期間を区切られた就労外国人の場合でもいろいろな考え方があるだろうと思います。それは、外国出身者が多数社会のメンバーを構成するようになったときの日本社会をどのようにデザインするのかという問題と直接に関わります。
3.2に続いて、「日本社会に溶けこむにあたって「日本語」と「国語」との差は、異なる言語と呼べるほどに大きいのである。」(中西)
 「溶けこむ」をどのように考えるかを、よく考える必要があると思います。
 外国出身者を多数受け入れた後のヨーロッパの諸国では、「社会統合」が問題になっています。さまざまな背景をもつ移民が多数入ってきて、かれらもそれぞれの国の国民になりました。その結果、それまでは「国民国家」として、「国民」たちがいっしょになって「わたしたちの国を造り発展させよう。暮らしやすいいい国にしよう」という気持ちでやってきたのですが、国の人口構成が具体的に多様になってきた結果、そういう「わたしたち」や「わたしたちの国」という意識が薄れてきました。そして、「これでは、国がこわれてしまう」という危機感から社会統合政策が行われるようになりました。(そして、実はさまざまな社会統合政策にもかかわらず、さまざまな痛ましい事件も起こっています。もちろん、社会統合政策が不十分だという面もあるでしょう。) その場合の「社会が使う言語」はフランス語であれドイツ語であれ、「国語」ではなく、多分社会の一員として機能的に十分に振る舞えるだけの言語としてのフランス語でありドイツ語だということになります。
 中西は、外国出身者の場合は、「(新しい)日本社会が使う言語である「日本語」さえ習得すればいい」と論説の前半では主張していると読めます。にもかかわらず、この部分で「溶けこむ」と言っています。「溶けこむ」と言われると、さまざまな背景をもつ個々の外国出身者が、遍在しほぼ単一的な日本社会に、「溶けこむ」というイメージを引き起こします。そして、この論考の結論部は「(濃密に文化と歴史が浸み込んだ)『国語』を変革しなければ」となっています。

 本記事の結論。詳細に論じると膨大になるので、結論のみを箇条書きにします。
(a)日本語の「国語」はエスニックな言語である。
(b)日本語は「日本語」と「国語」の二本立てで行く必要がある。「国語」は「国語」で大事。「日本語」も「日本語」で大事で必要。
(c)「国語」ができる人のかなりの部分は「日本語」もできるようになる必要がある。そして、そのことはすでに日本国内にある言語的な多様性やその他の多様性をを受け入れる姿勢を涵養することに資する。
(d)移民のための日本語を考えるときは、文法や語彙ではなく、その人たちが日本語に奉仕させようとしている用途・機能に注目しなければならない。
(e)移民の「社会統合」は、1世代ではなく、複数の世代を見通して考えなければならない。移民に対する言語政策・言語教育も複数の世代を見通して考えなければならない。