2018年8月4日土曜日

研究者であることと実践者であることは相容れない!?

NJ研究会フォーラム・マンスリー(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)の「羅針盤」として以下のような記事を投稿しました。

 標記のようなテーマで話します。このメルマガは、日本語教育学や第二言語教育学の人たちの間で共有されているメルマガですので、「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言うと、ガッカリする人もいるだろうし、反発する人もいるだろうと思います。また、このように言うと、「研究」を要求されている大学の先生であることと、日本語教育者であることは、相容れないように聞こえてしまいます。また、そもそも日本語教育学や第二言語教育学なんてあるのか、という疑問にまで行ってしまいます。

 教育実践者は、教育の企画においても、教材の制作や作成においても、そしてもちろん授業の計画や具体的な教育実践においても、常にその時々に自身の信念が問われるわけで、意識的であるか無意識的であるかいずれにせよ、その問いへの自分なりの答え・信念を根拠に判断を下して、実践者としての行為をしています。教育実践者は、「信念の塊」であらざるを得ません。言うまでもありませんが、教育実践者の信念は、自身の教育者としての経験だけでなく、教師教育期間中に学んだことや、その後に学んだことや他の先生から教示を受けたことなどをもとに、あるものは受け入れ、あるものは拒む形で、形成されています。実践者と実践者の間では、教育についての議論をすることができます。その場合に提示される個々の意見や見解は、当該の実践者のそのテーマについての信念であるわけです。その場合に、どれほどにさまざまな学問研究を吸収してその信念が形成されているかが問題となります。そして、さらに言うと、日本語教育学というところで、どれほどのさまざまな学問研究が普及しているかが根本の問題となります。

 一方、研究者は、理論志向の研究者であれ、実証志向の研究者であれ、本来的に言うと教育実践に関心がありません。ただし、教育実践をきっかけに特定の研究テーマに関心を持つことはあります。研究者が研究をするのは、当該の研究領域の当該の研究課題について考究・探究・検証するためであって、研究の目的は、当該の研究分野の進展、研究課題の解明に貢献するためです。研究というのは、研究領域特定的(ディシプリナリー、disciplinary)にならざるを得ません。学際的な研究(interdisciplinary study)というのがありますが、それは特定の研究課題についてさまざまな研究領域(ディシプリン)からのアプローチをするということであって、一つの論文の中で学際的になっているわけではありません。ですので、ある研究を行った結果として、その研究結果に基づいて教育実践について何かを語るということは本来はできないはずです。できることはせいぜい、教育実践との関係でその研究の研究領域は他の研究領域との対比でどのような位置にあって、それ故に、その研究領域が教育実践に対してどのような貢献ができそうかを論じる程度で、その研究そのものの教育的示唆を論じるのは乱暴だと言うほかありません。とはいえ、いずれにせよ、研究者はそもそも教育実践に関心があるわけではないので、積極的に教育について何かを言おうとする研究者はいないと思います。研究者が教育について何か言うとするならば、「この理論的議論から敷衍すると…」とか「今回の実証的研究で得られた結果から敷衍すると…」という言い方をするはずで、それはその人の信念ではなく、あくまで「研究からの敷衍」です。個人としての見解は言わないというのが、そもそも研究者の鉄則です。ですので、「わたしの研究的な背景とわたしの教育実践者としての経験から推論すると…」というふうに話し始めたら、その瞬間にその人の立ち位置は研究者ではなく実践者の立ち位置となります。「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言ったのは、このことです。

 実践領域と関連した研究領域として、未来共生学を紹介したいと思います。ここで紹介するのは大学院5年間の副専攻プログラムのような形で実施されている、大阪大学の未来共生イノベータープログラムです。同プログラムは、充実した研究的背景を有しつつ、実際に多文化共生関係の仕事に関わり、その仕事に革新(イノベーション)的に取り組むことができる人材へと教育することが目的です。毎年、大阪大学の大学院新入生の応募者の中から20名が選ばれて、先生たちと共に「共学」しています。その研究成果が、『未来共生学』に掲載されています。http://www.respect.osaka-u.ac.jp/publications/をご参照ください。掲載されている論文は、未来共生というテーマに、哲学、倫理学、社会学、人類学、心理学などさまざまなアプローチで斬り込んでいます。ぼく自身、この『未来共生学』の編集委員として関わっていましたが、同プログラム開始時や、同ジャーナル創刊号当初は「未来共生学って、なんだろう?」というような具合でした。しかしながら、関係の教員や積極的な学生たちの努力のおかげで、なんとか「○○学」らしくなったと思います。そんなこともあって、ぼく自身は、日本語教育学と未来共生学をしばしば横に並べて比べてしまいます。未来共生学は、立派な一つの学際的な研究分野としての地歩を築いたと思います。それに比して、わたしたちの日本語教育学はどうかなあ…。ただ、少し「内幕」をばらすと、未来共生イノベーターの修了生の半分は(いずれ)「立派な研究者」になるだろうなあ、という感じです。未来共生イノベーターという「泥臭い現場的な仕事」をする人はひじょうに少ないように思います。それに対して、日本語教育者の仕事は、(少なくとも今は!)なかなか「泥臭い」です。
 『未来共生学』は、日本語教育学の将来を考える際のひじょうに重要な参考になると思います。未来共生イノベーターの院生たちは、先生たちからとても豊かな学問的な薫陶を受けつつ、東北の被災地のボランティア活動なども経験して「社会派」的な意識と態度も育みながら、「すくすく」育っています。(に)