2019年11月3日日曜日

現象学から人間科学へ⑦ ─ 『イデーン2』におけるフッサール

以下の記事は、NJフォーラム・マンスリーの2019年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載された記事の再掲です。  

 前回最後に予告した、言葉や言語の登場は少し先延ばしにしたいと思います。すみません。
 前々回は、間奏的に、現象学のその後の展開の概略図として、実存主義と解釈学と現象学的社会学への展開を概観しました。今回は、現象学に立ち返って話をします。『イデーン2』におけるフッサールの話をします。焦点は、自然的態度と自然主義的態度の対比と生活世界です。(『イデーン』は『純粋現象学と現象学的哲学の諸構想(イデーン)』の略称)

 一般に中期フッサールと言われる『イデーン1』を中心とした第4回の内容は、「厳密学としての哲学」あるいは「すべての科学の基礎学」としての現象学の構想の展開でした。これに対し、『イデーン2』はフッサールの後期思想の萌芽に位置づけられています。

1.自然的態度と自然主義的態度と生活世界
 『イデーン2』で、フッサールは、『イデーン1』で重要概念として論じられていた自然的態度を再考します。そして、それを改めて、自然的態度自然主義的態度に区別しました。そして、還元によって超えられるべきであったのは、自然科学のように自然を客体化して見る自然主義的態度だったのだと考えるようになります。こうなると、現象学的還元は、客体的なものの意味の生成を主体の構成作用に遡って明らかにするという一般的な認識論的操作ではなく、むしろいっさいの事象を主体-客体の相関関係において見ようとする客体化的な意識の態度(自然主義的態度が滲みついた態度)を排除するものと考えられるようになります。そして、この還元によって、本来の自然的態度が根源的なものとして姿を現してくるようになるわけです。フッサールの用語では、「態度」は習慣によって生じるある特定の世界定立作用の連関ですが、(本来の)自然的態度はその意味では他の態度と並ぶ一つの態度ではありません。むしろ、自然科学の基礎となる自然主義的態度や精神科学の基礎となる人格主義的態度などの他の態度に先立って、基底としてそれらを可能にするものとなります。
 このように現象学的還元によって客体化された自然主義的世界が排除されます。しかし、だからと言って、わたしたちは動物的な自然の世界に生きるのでもなく、主観性だけが作用する領海に生きるわけでもありません。むしろ、自然主義的な客体化に先立つ本来の自然な世界経験が回復されるのです。そして、その自然な世界経験もやはり世界内存在としての世界経験となります。フッサールはこうした自然な日常的経験において生きられる世界を生活世界(Lebenswelt)と呼んでいます。

 木田は、ここでフッサールの考え方は大きな転回を示していると見ています。すなわち、それ以前は哲学的反省(超越論的還元)とは無世界的な純粋意識つまりすべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことだったのですが、今や、哲学的反省(哲学の課題)は、わたしたちの素朴な日常的経験、つまり普段は反省されることのない自然的態度を振り返り生活世界を回復することになったのです。そして、メルロ=ポンティがこのようなフッサールの志向性を継承しています。以下は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』からの一節です。

 したがって、最初の哲学的行為は、客観的世界(上に言う客体化された自然主義的世界、筆者注)の手前にある生きられる世界にまで立ちもどることだということになるだろう。それというのも、この生きられる世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利もその諸限界も、了解しうるようになるだろうからだ。また、最初の哲学的行為は、事物にはその具体的表情を、有機体には世界に対処するその固有の仕方を、主観性にはその歴史への内属性を返してやることだ、ということになるだろう。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、pp.110-111)

2.フッサールのクリティカルなモチーフ
 以下、少し大仰な話をします。
 プラトン以来ヨーロッパ的学問の真の理想は、それ以上遡り得ない絶対的な洞察、それ以上ということがもはや無意味であるような第一原理によってすべての認識を理性的に根拠づけ諸学問の普遍的な統一体を実現するところにありました。この理想は近代初頭にデカルトの普遍学の構想によって復活されました。ところが、デカルト以後の近代科学は、こうした根拠づけよりも実用的な効果を追いました。その結果、確かに現実の実用的支配の目的は達成され、わたしたちにとって現実は「より有益」になりましたが、現実がよりよく理解されるようになったかと言うと、そうなったわけではありません。
 ところで、学の理想に含まれていた理性的な根拠づけの努力は、決して理論的認識にのみ関わるものではなく、同時に生きることの実践や価値評価にも関わるものでした。古代ギリシャ以来の形而上学(哲学と同義、筆者注)という理性の追究の企てにはそのような趣旨が含まれており、デカルトによる普遍学の構想にも当然含まれていました。しかし、近代にめざましい発展を遂げた実証主義は、形而上学を独断的で非学問的だとして切り捨ててしまいました。そして、このように近代の実証主義が理性の問題を切り捨てそこから逃避したということは、人間が理性への信頼を失ったということであり、それはまた、理性的存在者であることを自らの本質としてきたヨーロッパ的人間が自己への信頼を失ったことを意味します。このような脈絡で、フッサールは、当時の学問の危機を、ヨーロッパ的人間の根本的な生活の危機、その全実存の危機の表現と見ます。そして、自身の超越論的現象学こそがこの危機を克服する手段だと考えたのです。これがフッサール最晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936年)で展開された議論です。

3.根源的な生活世界への回帰
 フッサールによると、わたしたちが通常、それ自体で存在し、真であり、客体的であると信じている世界は、実はすでに歴史的に沈殿した客体化的認識作業による理念化の成果であり、わたしたちの生活世界の上に構築された主観的形象です。つまり、日常的な常識の枠内においても存在者の全体は、すべてすでに「合理性によって支配されている」という理念の下に捉えられている、とフッサールは主張します。このように近代科学の成果に基づいて着せられた「理念の衣」によって、わたしたちの直接的経験の世界である生活世界が蔽われ見失われることになりました。科学による客体的世界の発見が、そのまま生活世界の隠ぺいになってしまったということです。
 フッサールによると、この「理念の衣」こそが近代的意識にとって最も根深い先入見です。そして、超越論的現象学は、この先入見を還元によって一旦保留することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を解明し諸学問の全体を根拠づけようとする企てなのです。これがいわば、フッサール現象学の「野望」です。