2019年6月24日月曜日

現象学から人間科学へ②

現象学から人間科学へ②

 第1回では、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』の最初のページから引用をして、現象学には、(a)哲学・思想そのものに関わる側面と、(b)「科学的な心理学」を克服してその後の人間科学の確立へと繋がる部分があると指摘しました。今回も現象学というものを捉える試みです。
 木田によると、現象学というのはフッサールによって創唱された哲学的立場ですが、フッサール本人及びその後継者であるハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティによって何度も「脱皮」を繰り返したし、今も「脱皮」は続いていると言います。ですから、現象学を捉えようとする場合に、フッサールの現象学として捉える方法と、「脱皮」を続ける現象学運動として捉える方法という2つの方法があります。そして、わたしたち人間科学に関心を置く者としては人間科学に関係がある部分やその部分における「脱皮」が重要なわけですから、現象学運動として捉えたほうが有用だということになります。次は、木田からの引用です。

 これらの哲学者の努力は、諸科学の領域で進行中の方法論的革新 ─ さまざまな科学の領域でそれぞれの置かれた問題状況に迫られて起こった、従来の機械論的、要素主義的方法に対するかなり徹底した方法論的反省 ─ をいわば集約し、主題歌することに向けられていたと見るべきであろう。そしてまた、こうして現象学者によって主題化された方法論的反省が、比較的遅れた諸科学に直接間接に影響を及ぼすことにもなる。したがって、現象学的運動は…今世紀の科学、ことに人間科学の諸領域をおおう包括的な運動と見るべきものなのである。(木田元『現象学』pp.7−8)

 方法(論的革新)とはいっても、新たな特定の研究方法の提案ということではなく、むしろ現象学的方法というのは、開かれた方法論的態度、思考のスタイル、研究対象に立ち向かう態度のことです。そして、そこに流れている一貫したモチーフは、当時の実証主義的風潮に対する批判です。フッサールに限定して実証主義的風潮批判の中での「脱皮」について言うと、所期の『論理学研究』は当時の心理学主義批判、中期の『イデーン』はより包括的な自然主義批判、そして後期の『危機』は近代の実証主義全体に対する批判となります。
 現象学というもののこうした性質を確認した上で、いよいよ現象学とは何かという中身に入っていきたいと思います。で、ここで、しばしば、いきなり「躓き」が生じます。一般に現象学を説明するときには、最初にエポケー(判断停止)の話がきます。これが「躓き」となるように思います。むしろ、志向性(intentionality)から始めたほうがわかりやすいと思いますので、ここでは、志向性から始めます。
 フッサールは志向性の概念を師であるブレンターノから学びました。木田によると、志向性に関わる見方でブレンターノは次のように言っています。(残念ながら出典不明)

 いかなる心的現象も、同じ仕方でではないにしても、とにかく何かを客観としてそれ自身のうちにふくんでいる。表象においては何かが表象され、判断においては何かが承認あるいは否認され、愛においては愛され、憎しみにおいては憎まれ、欲求においては欲求されているのである。このような志向的内在はもっぱら心的現象に固有のものであって、物的現象には見られない。したがって、心的現象は志向的に対象をそれ自身のうちにふくむ現象であるという言い方で、心的現象を定義してよいであろう。

 こうした考えに立って、ブレンターノは、その志向性に関係する仕方の違いに応じて心的現象を、表象、判断、情動の3群に分類した。しかし、それ以上は突っ込んで論じようとはしなかった。それはブレンターノの関心が記述的心理学の域を出なかったからだろう、と木田は推測しています。それに対して、学問的な認識の基礎づけという認識論的な課題の前に立ったフッサールは、日常的なものだけでなく、学問的なものも含めて、意識はすべて何ものかについての意識であると言ったのです。(これで、上の(a)と(b)を架橋しています。)そして、それを志向性という概念で捉えようとしたのです。そして、志向性を梃子として、認識作用の主観性(主観的な性質、つまり当事者において起こるという性質)と認識内容の客観性(当事者の「外」にある何かという性質、物としては外在で当面はいいし、物以外では社会的に共有されている概念や思想などでも)とを橋渡ししようとしたのです。
 そして、この志向性という視点を軸として、エポケーや、ノエシス・ノエマ関係などの議論が展開されるのです。先に言った、「まずは志向性!」と言ったのはそのため

現象学から人間科学へ①

現象学から人間科学へ①

 実は、今回、羅針盤を書くにあたっては「一苦労」がありました。従来は、お仕事をしているうちに「想」が湧いてほぼ一気に羅針盤を書いていました。まあ、これまでの内容はそれはそれで「羅針盤」らしくていいのですが、どうも「お説教じみて」いたり、「愚痴っぽい」感じがしていました。で、「それ系」のお話はもう一通りはした感じがありますので、今号から(当分は)ちょっと趣向を変えて、その時々に読んだ「含蓄・洞察のある」一節を紹介して、それにぼくなりの解説を加えるというふうにしたいと思います。で、この数回?は、表題のように「現象学から人間科学へ」ということで書きたいと思います。
 これには、2つの文脈があります。一つは、2年ほど前にこのメルマガで12回連載した「哲学のタネ明かしと対話原理」です(現在はここにhttps://koichimikaryo.blogspot.com/search/label/哲学のタネ明かしと対話原理
 あります)。そこでは、古代ギリシア哲学からスタートして、デカルトとカントを経て、フッサールに至る話をしました。そして、結論として「人文科学の研究者として重要なのはフッサールです」と述べて、最後に「フッサールの現象学」を1ページ弱で「解説」しています。もう一つの文脈は、4月6日(土)に開催した臨時NJ研究会での「現象学と対話原理 ─ 試論」です。実は、この2月・3月は木田元の『現象学』(岩波新書)を精読していました。そして、木田先生のおかげで現象学の「首根っこをつかんだ」気になっています。ただし、「首根っこをつかんだ」おかげで、次の「知りたいこと」が出てきてしまいました。いずれも現象学の流れのメルロー=ポンティとハイデガーです。そして、今は、ハイデガーの(晩年の名著!)『「ヒューマニズム」について』を読んでいます。『ハイデガー『存在と時間』の構築』も読み始めました。そして、メルロー=ポンティの『知覚の現象学』も。ラングドリッジの『現象学的心理学への招待』は引き続き「水先案内」として座右に置いています。そんなこんなで「現象学から人間科学へ」を思いついたわけです。そして、実は、これらすべての背景には、質的研究というヤツの「首根っこをつかもう」というプランがあります。
 今回は、メルロー=ポンティの『知覚の現象学』の最初のページからの引用です。木田先生はこの一節が現象学というヤツの「変幻自在さ」「得たいの知れなさ」をうまく表現していると言いますが、ぼくとしては、取りあえずはうまく「腑分けしてくれている」気がします。【 】で「a」と「b」を書き入れたのはぼくです。

 現象学とは本質(essense)の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、結局は本質を定義することに帰着する。たとえば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが、現象学とは、また同時に、本質を存在(existence)へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>(facticité)から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。それは〔一方では〕、【a】人間と世界とを了解するために自然的態度(l’attitude naturelle)の諸定立を中止しておくような超越論的〔先験的〕哲学であるが、しかしまた〔他方では〕、【b】世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも<すでにそこに>在るとする哲学でもあり、その努力の一切は、世界とのあの素朴な接触をとり戻すことによって、最後にそれに一つの哲学的規約をあたえようとするものである。それは〔一方では〕【a】一つの<厳密学>としての哲学たろうとする野心でもあるが、しかしまた〔他方では〕、【b】<生きられた>空間や時間や世界についての一つの報告書でもある。〔一方では〕【b】それは現に在るままでのわれわれの経験の直接的記述の試みであって、その経験の心理的発生過程とか、自然科学者や歴史家または社会学者がこの経験について提供し得る因果論的説明とかにたいしては、何の顧慮も払わないものだ。にもかかわらず〔他方では〕フッサールは、その後期の諸著作のなかで、【a】<発生的現象学>だとか、さらには、<構成的現象学>だとかをさえ云々しているのである。(メルロー=ポンティ, p.Ⅰ)

 超簡潔に言うと、【a】は哲学・思想そのものに関わる部分で、【b】は「科学的な心理学」を克服してその後の人間科学の確立へと繋がる部分です。そして、われわれ(日本語教育学をしようとする者)に必要なのは、【b】だけです。【a】は【b】に関する理解を助けるためのみに読めばいいのだと思います。
 「なぞかけ」ようですが、上のメルロー=ポンティの一節を、質的研究というものと一定程度照らし合わせながら、ぜひじっくりと読んでみてください。何が見えますか? ちなみに、次回がどのような展開になるか、ぼくにもわかりません。

2019年6月22日土曜日

「つながる日本語」の提案

日本語教育推進法の成立を受けて ─ さまざまな言語的文化的背景の人が共に暮らす共生社会を促進する日本語活動を広げる『つながる日本語』の提案
※新たな『つながる日本語』を提案し普及しないと、従来的な日本語を教えることをボランタリーな市民のところにまで広げるだけ! そして、それは、共生社会の促進という精神に逆行する!
※ここでは、当面、子どもの日本語支援や学力保障についてはテーマとしない。

0.はじめに

・第1条 この法律は、日本語教育の推進が、我が国に居住する外国人が日常生活及び社会生活を国民と共に円滑に営むことができる環境の整備に資するとともに、我が国に対する諸外国の理解と関心を深める上で重要であることに鑑み、日本語教育の推進に関し、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体及び事業主の責務を明らかにするとともに、基本方針の策定その他日本語教育の推進に関する施策の基本となる事項を定めることにより、日本語教育の推進に関する施策を総合的かつ効果的に推進し、もって多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資するとともに、諸外国との交流の促進並びに友好関係の維持及び発展に寄与することを目的とする。」
・第2条 2 この法律において「日本語教育」とは、外国人等が日本語を習得するために行われる教育その他の活動(外国人等に対して行われる日本語の普及を図るための活動を含む。)をいう。
・第3条 日本語教育の推進は、日本語教育を受けることを希望する外国人等に対し、その希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育を受ける機会が最大限に確保されるよう行われなければならない。

・上のように、現在の日本の社会の状況を反映し、日本語教育・日本語支援活動の現状を把握した、すばらしくよく練られた適切な法律であると思う。(現状において、「理念法」となることはやむを得ない。)

・本稿では、第2条にある「その他の活動」のうちの、ボランタリーな市民が参画する地域における日本語活動、一般に地域日本語教育と呼ばれている活動について論じる。本稿では、これを地域日本語活動と呼ぶ。

1.地域日本語活動に関わる「課題」

1−1 関連する言語活動の領域 ─ 「日常生活及び社会生活」
・「日常生活」は「生活者のための…」の領域。これは、安心・安全のための方策としていずれは公的に保障するべき部分。
・「社会生活」という言葉は、あいまいだが、(a)「仕事場のこと」と、(b)「職場でのインフォーマルなつながりを含めた人とつながって暮らす生活」と理解できる。
・そして、(a)は企業の責務、(b)は「職場でのインフォーマルなつながり」の部分は企業で、社会的な広がりを含む一般的なつながりの部分は地域日本語活動に負うところが大きい(負わせてしまっている!!)。
・「つながって暮らす生活」のための日本語に関しては、外国出身者においてつながる日本語の育成をするとともに、日本人参加者においてやさしい日本語の話し方の態度と技量を涵養するのが有効であろう

1−2 社会変容の方向 ─ 「多様な文化を尊重した活力ある共生社会」
 ⇔ 多様な文化を尊重しない、(それを続けていると)社会の活力が減退する、自文化中心社会
(1)「多様な文化を尊重した共生社会」
・「多様な文化を尊重しない」という態度・姿勢をもっているのは誰か?!←→多様な文化を尊重できる態度の涵養
(2)「…活力のある共生社会」
・文化的な多様性がある社会は(単一文化の社会よりも)活力を生み出すという認識←→社会の安全・安心の維持ということが前提となるが…。
・「活力」とそれを生み出すメカニズムには、(現在「マジョリティ」を形成するホスト側における)具体的な多様性の受容と一定の寛容さと、対話することの耐性・態度・姿勢と対話技量が含まれる。(外国出身者でも、自文化中心主義が強く、強い自己主張に基づく対話の態度を有する者には、「穏やかに対話する」態度と姿勢と技量を身につけることが求められるだろう。)

1−3 「活動」主体 ─ 「その他の活動」
・教育は、教育主体が専門職として目標を設定して意図的に行う活動である。「その他の活動」は「(そのような意味での)教育とは分類されない活動」となる。
・そして、「その他の活動」は日本語教育の専門家が担当する活動ではなく、日本語教育の専門家でない人(ボランタリーな市民)が参画する活動そして、ボランタリーな市民が、外国出身者(学習者)とともに参画する活動である。
⇒ボランタリーな市民は、日本語ボランティアではなく、日本語パートナー
⇒日本語パートナーのボランティア性は、多様な文化を尊重した活力在る共生社会の実現ということに関心をもって、その具体的なボランタリーな行動として地域日本語活動に参加するということ。「ボランティアで日本語を教える」という利他的な日本語ボランティアではなく、より広範な共生社会の実現ということに関心をおいたボランタリーな行動であり活動であるということ。

1−4 ○○に応じた日本語教育の現実 ─ 「希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育」
・「○○に応じた日本語」をあらかじめ、あるいは学習当初に明確に把握することはできない。また、「時間とともに」や「気まぐれ」で変わる。
・いわゆるニーズ分析主義に見られる、「○○に応じた日本語」を把握して、それを「教える」というのは、繰り返し同じ種類の学習者が来るという意味での制度的な日本語教育では一定程度可能であろう。しかし、地域日本語活動の場には、さまざまな背景、希望、将来像の学習者が訪れてくる。そういう状況では、「○○に応じた日本語」は無理。
・しかし、お互いのことを知り合うという活動の中で、相手(外国出身の学習者)のことや相手の状況をよりよく知ることで、そのような状況に合った日本語の支援を展開するということはできる。

1−5 まとめ
・今、わたしたちの前に置かれている「課題」は、共生社会の実現という課題「日本語」の課題という複合的な課題である。日本語教育的な課題ではない!
・にもかかわらず、この複合的な課題が日本語教育的な課題に歪曲されようとしている感がある。
・つまり、日本語教育の専門家にこの複合的な課題の解決が委ねられようとしているし、日本語教育の専門家もこの複合的な課題を日本語教育的に歪曲して解決策を提案しかねない状況にある。

・今、求められていることは、(α)特定の成果を生み出す活動を、(β)ボランタリーな市民と外国出身者(学習者)との接触・交流の中で、引き起こすこと。

2.今求められていること
2−1 特定の成果
(1)つながる日本語力の育成と、やさしい日本語の態度・技量(1−1)
(2)多様な文化を尊重できる態度の涵養(と「穏やかに対話する」態度・姿勢・技量)(1−2)
(3)「変幻する」希望・状況・能力に対応した(習得)内容と支援(1−4)

2−2 (日本語教育の?)専門家に期待されていること
・「教え方を容易にして『教えること』を普及すること」ではなく、2−1のような成果が出るようなスキームを提案すること

2−3 共生社会の実現を促進する地域日本語活動のスキーム
 2−1の成果を生み出せるように、
(1) ボランタリーな市民による
(2)「学習者(その人)をよりよく知る」という過程も活動の行程の中に組み込んで、
(3) 多様な文化・言語背景をもつ人との実際のつながりを通した、
(3)(「つながるための日本語」を教えるのではなく)実際のつながりを基盤として、具体的なつながりを形成しつつ「つながりの形成」の経路をそのまま日本語促進活動の行程(カリキュラム)として
 さまざまな言語的文化的背景の人が共に暮らす共生社会を促進する日本語活動 を進める。

2−4 つながる日本語
・共生社会の実現を促進する日本語活動のための枢要概念がつながる日本語
つながりを作りながら、つながる日本語を習得しようというスキーム。日本語教室で日本語パートナーとの交流を通して、つながる日本語を習得した人は、また教室の外で他の人とつながることができるというスキーム。そして、そのようにつながりを広げることができれば、これまで知り合うことがなかった人々と知り合うことができるし、そうした人々とも調和的に暮らしていける態度や社会的技能や日本語の話し方を身につけることができる。

3 (日本語教育の?)専門家に突きつけられている「宿題」
 共生社会を促進する「つながる日本語」の活動が繰り広げられるような仕組みを作る!

・代替的な活動内容・活動様態である「つながる日本語」活動というスキームの提案
・その活動を具体化するのための企画と必要なリソースの開発
・「つながる日本語」の普及者の育成
・日本語パートナーの普及

4.法の課題
4−1 第16条(地域における日本語教育)
・上で論じたようなスキームがない。
・「ボランタリーな市民の皆さん、どうぞよろしくお願いします。支援はします。」と言っているだけ。
・これでは、既存の日本語教育(のまねごと)の活動が広がるだけ。

4−2 第22条(教育課程の編成に係る指針の策定等)
・この条文は、上の「その他の活動」にも関わるものなのか。
・上の「その他の活動」は、2−1のような成果を生む、ボランタリーな市民による外国出身者とともに従事する活動であり、それに関して「教育課程の編成」云々するのは的外れであり、共生社会を促進しようとするボランタリーな市民による活動を阻み、歪める


2019年6月18日火曜日

マスターテクストの作成法・制作法

マスターテクストの作成法・制作法

1.2つのマスターテクスト
(1)教材としてのマスターテクスト
(2)学習者の自分の声としてのナラティブ(マスターテクスト)

2.学習者の自分の声としてのナラティブ(ライフストーリーインタビューとナラティブ制作の活動)
・簡単に言うと、日本語活動しているボランティアは、(入門は別にして)日本語を教えようなんてしないで、ライフストーリーインタビューをすればいい。
・そのような形で、学習者の声を引き出して、それをしっかりと受け取る。そして、それをその本人が自身の声として発することができるように、その人がわかって覚えられる日本語のナラティブとしてまとめあげる。

3.教材としてのマスターテクストの制作
3−1 基礎編
・NEJ指導参考書の第6章に書いてあるとおりです。
・ここでは、「プロトタイプ的な人物をできるだけ具体的に設定して」と「ユニット間で事実関係のそごがないように」とだけ注意している。
・看護候補者の「フィタさん」を例とした、p.86(ユニット8 わたしの家族)、p.87(ユニット15 わたしの将来)は、いい例になると思います。(布尾くんにも見てもらった!)
※この作業を学習言語事項を「適度に」意識しながら行わなければならない。

3-2 発展編
・基礎編は語学素材の域を出ていない。
・発展では、(1)キャラを立たせること、(2)全体として小説的な?モチーフがあること。
・NEJでは、キャラとしては、リさんは「中国系のマレーシア人で、優等生」、あきおさんは「理系の学生だが山の会の部長でリーダーシップがある。彼女ももちろんいる」というキャラ。
・そして、小説的なモチーフとしては、(a)リさんとあきおさんの関係はどうなるのだろう。あきおさんの現在の彼女と三角関係?、(b)リさんはユニット11で「生活がしんどい」とちょっと弱音を吐き、supplementary unitでいよいよ「悩み」、あきおさんの山の会に入会することになる。(c)リさんの「その後」はNIJの会話で続く。(d)NIJの会話では、ユニット7で出会った中田くんとリさんの12回、24の会話となる。
・小説的なモチーフまでは必要ないと思うが、キャラを立てるというのはぜひ!です。
※この作業を学習言語事項を「たくらみ」ながら行わなければならない。

4.マスターテクストを作成する技量
・基本的な技量は「ものを語る」・「ものを書く」技量です。日本語の先生は、自分たちは「ものを語ったり」「ものを書いたり」する立場ではなく、日本語という素材を教える・わからせる立場だと思っているので、この基本的技量がある人はひじょうに少ない。また、その方向で、自分を伸ばそうという姿勢もない。
・次に必要なのは、はやり、作家さん的な技量。NEJを制作するときには、まずは全体の構想を練った。これにすごく時間がかかっている。

2019年6月17日月曜日

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育) ─ つながる日本語の習得と習得支援

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育)
─ つながる日本語の習得と習得支援

1.就労者・生活者にとっての「日本語の課題」への対応の現状
1−1 ニーズという視点の落とし穴
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・仕事が日本語で運営できるるようになる?、生活を日本語で運営できるようになる?
・ニーズの調査によって、「実用的な」必要性を知ることができ、「実用的な日本語のゴールの一覧表」は得られる。※介護・看護の試験対策などは当面議論対象外とする。
・(1)実用的でない日本語は見落とされている。
 (2)日本語習得のルートという視点がない。

2-1 作られた 「喫緊の課題」
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・でも、それって、基礎日本語力の保障のための制度と実践が行われている上で、言うことでしょ!
・その第一段階ができていないのに、自分たち(産業界とそれと関係した政治家?)が作った状況・都合の中の顕在的な課題を喧伝して、「これが喫緊の課題だ!」と言うのは、いかにもご都合主義?でしょう!
・そして、それ(第一段階も第二段階も)を、公的にやらないで、「ボランティア」に委せているというのはどうでしょう?

・一方で、そのように捉えられた「喫緊の課題」は、パウロ・フレイレの言う「機能的識字」獲得の要求でしょう。(その獲得が、本人にとって一定の「有益さ」はあるわけだが。)

☆産業界のご都合主義の機能的日本語に振り回されていないか!?

2.代替的な視点
2−1 さまざまなモチベーションで日本に来る外国出身者
・外国出身者にとって入管法やそれに基づくビザ制度などは、まさに「制度」でしかない。
・外国出身者は「さまざまなモチベーション」で、制度に準じて(あるいは利用して)日本に来る。
・また、明確に一時滞在希望の人(出稼ぎやワーキングホリデー感覚者)もいるし、永住志望の人もいるし、両者が混ざっている人もいるし、途中で変わる人もいる。
・在住外国人の一部?は、地域の日本語教室を「上手に」利用している。
※中国からの帰国者や、国際結婚の人や、定住志向の日系人などの本当の生活者は別。

2−2 人としての視点
・人は「実用」のみに生きるにあらず。人は人として人とつながって毎日を暮らす!
・人とのつながりは、創造である。無(今までなかった!)から有(今はある!)が生まれる。
・つまり、人との人との関係は、創造であり、それは当事者(たち)が当事者として自ら創造するもの。
・創造しなければ、ない。

・「社会」というのは「そこにある」という様相を一方で見せながらも、実際には人々が日々の実践を通じて生産し維持し、そして徐々に改変しているものである。
・社会は、局在的な社会(local circle)を寄せ集めた総体という側面もあり、局在的な社会は相互に直接・間接に影響し合っている。

・「人として人とつながって暮らすための」という視点から見ると、就労者・生活者のための日本語の課題は違って見えてくる。

2−3 日本語の習得の第一歩
・就労者や生活(運営)者の前に「人として暮らすこと」があるのではないか。そのための日本語。
・「人として暮らすための日本語」が(長い)日本語習得の行程の第一歩ではないか。

2−4 声の獲得としての日本語の習得と習得支援

3.地域の日本語教室で何をする?
3−1 外国出身者にとっての日本語
・2−1の観点から言うと、「ニーズ」はあらかじめ決められないし、わかったとしても、変わるかもしれない。
・「N4がないと特定技能1で日本で就労できない!」というのは、「ニーズ」ではなく、その人の「都合」
・そもそも「ニーズ」などと言っているのが、日本(人)サイドの「一人よがり」
・そのような「ニーズ」に基づいた「生活のための日本語」や「就労のための日本語」などは、本当にかれらの日本語に関するモチベーションと合致しているか。→たいてい合致していないのでは?※技能実習生などにおける日本語能力試験のための勉強希望
・2−1の中の「軽快派」と、2−2、2−3、2−4の視点を考えると、「人として人とつながって暮らすための日本語」や「声の獲得としての日本語」を中心に据えて、同時に(1)日本語の基礎力の養成をして、その先の日本語能力試験や(2)より進んだ日本語力につなげてあげるのが、かれらの「関心」に合致しているのではないか。

3−2 市民ボランティアにとっての外国出身者と日本語
・市民ボランティアは、制度が作った「日本語の課題」を引き受ける必要はない。
・市民ボランティアは、何にせよ、日本語を教える「責務」を負う筋合いはない。
 ※市民ボランティアも「国民」として、産業界や政府が「作った」制度の「シワ」の部分を担う?
・市民ボランティアにとって、外国出身者は「好奇心」や「興味」の対象。
・ それでいい! だって、これまであまり「縁」がなかったし、日本に来ている外国出身者の当事者からあれこれ話を聞くのは「視野」を深め、局所的な共生社会創造の前進となる。
・「市民ボランティアは日本語を教える専門的な知識と技能をもっていない!」。だからどうなの?

3−3 日本語交流活動
・日本語教室は、さまざまな外国出身者と「日本人」が週に1回集まって、主として!日本語でワイワイする場所。
・お互いのいろいろな諸側面・テーマについて、毎週、主として日本語でワイワイすることを通して、交流を深め、日本語習得を促進する。=日本語交流活動
・そのためのリソースとして、NEJ、「日本語おしゃべりのたね」
─ ふつーの市民ボランティアが「活動」できる。
─ 継続的にやれば、日本語習得の成果が得られる。
─ 特にNEJは「体系的に」ワイワイできて、基礎日本語力を身につけて、(2)や(1)につなげることができる。
─ 局域的な社会からより広い多文化共生社会の創造へとつながる「化学反応」を起こすことができる。

4.結論
・つながる日本語の習得と習得支援
・多文化共生社会の創造の推進