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2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年9月7日土曜日

研究と実践研究について(ガーゲン&ガーゲン, 2018の第4章を読んで)

研究と実践研究について

1.研究
・ 研究のコミュニティ(パラダイム) ─ 研究対象 ─ 研究方法 ─ 研究成果
  研究対象についての「真理」の探究

2.実践研究(日本語教育の実践研究)
2-1 日本語教育
・学習者における「日本語の上達」を計画的・組織的に支援する営み。

2-2 教育の企画
・一般目的のための日本語教育の企画の第一歩
 日本語力の基幹となる言語活動的なまとまりを伐り出す 
 ⇔ 日本語の上達を「線」としてではなく、「固まり」として措定する。
 
<従来の日本語教育の企画>
 企画A:「文型・文法ときどき語彙(漢字、発音)、ところによって技能」
⇒ 日本語力の基幹を知識と技能と措定している。
 企画B:実用的な言語コミュニケーションの「カタログ」
⇒ 日本語力の基幹を育成するという意図がない。

・そのまとまり(固まり)を育成するために習得の経路を直線的に描く⇒日本語上達の階段
・各ユニットは、日本語の習得と習得支援のフィールド

2-3 教材の制作

2-3 具体的な学習と教授の実践
・学習者と教師としては、基本は、各ユニットの目標を達成すればよい。

3.実践研究
3-1 実践領域に関わる研究
(1)実践をめぐる物の見方や考え方や発想やアイデアと、具体的な学習活動や習得方法、教育企画、教材の制作・作成、授業計画、実際の教授実践などに直接・間接に関わる諸テーマについての、
(2)研究というものを知っている実践を担う者(→研究的実践者?)に向けた
(3)実践のあり方やその改善に真摯な関心を持つ者(→実践的研究者?)による「発信」
・それが「研究」と呼びうるためには、一定程度の論理主義と証拠主義が必要。また、理論的研究としては、堅実な発掘と遡及が必要。
☆つまり、実践研究とは、純粋に「真理」を探究しようという企てではなく、学術研究的な方法を一定程度踏襲しながらの、実践に直接・間接に関わる諸テーマについての探究と報告の対話的実践である。
あくなき実践のあり方やその改善への関心がその対話のナヴィゲーターとなる。

3-2 「日本語の上達」という成果
・「日本語の上達」という成果についてはおおむね合意が得られるであろう。
・しかし、「日本語の上達」をどのように見るかは、人によって見方が異なるである。
・研究においては、研究者が何をもって「日本語の上達」と考えるかをしっかりと定義しておけばよい。
・そして、実践はその「日本語の上達」との対応で解釈すればよい。 




2019年3月12日火曜日

理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しに基づく教育の創造

 3月9日・10日の両日、早稲田で開催されたALCEに行ってきました。そして、いろいろな話を聞きながらふと考えたこと。研究と実践の関係、理論と研究の関係、理論と実践の関係についてです。
 最近は「実践に役に立つ研究を!」という声をあまり聞かなくなった気がします。「実践に役に立つ」とかツベコベ言っていないで、とにかく研究をし、研究の成果をあげようという風潮?(←まあ、就職のためとか研究業績のためとかいう事情でしかたがないか) その一方で、「研究の基盤となる理論」とか「実践の基盤となる理論」という言葉をしばしば耳にするように思います。研究の基盤となる理論については前号の羅針盤で書きましたので、ここでは、「実践の基盤となる理論」について書きます。
 「実践の基盤となる理論」と聞くと、初聞は「うん、それは必要!」と思います。しかし、よく考えてみると「うん? ちょっと違うかな?」と思います。第二言語の教育で「実践の基盤となる理論」というと、第二言語の習得についての理論となります。そして、それに関しては、入力仮説、産出仮説、インターアクション仮説が提出され、比較的最近は(と言っても、1992年ですが)、言語促進相互行為仮説(Scarcella and Oxford, 1992)が提出されています。(いずれの仮説も、文型・文法積み上げ方式を端っから相手にしていないことは注目しておいてください。) この4つの中では、後発の言語促進相互行為仮説が前3者を包摂した上で、Scarcella and Oxfordの言うには、ヴィゴツキーの最近接発達の領域の視点に立つ仮説(この点についてはぼくは「要注意!」と言い続けています!)です。そして、現在はそれが最も有力な仮説だと言っていいでしょう。言語促進相互行為仮説は「入力を受ける言語活動従事も習得促進のために重要、産出をする言語活動従事も重要、相互行為従事も重要。しかし、いずれの場合も必要な時に必要な援助が与えられる形での言語活動従事でなければ言語促進的にならない」という仮説で、最後の一文に強調点があります。この仮説は理にかなっていると思いませんか。ただ…。
 言語促進相互行為仮説の重要ポイントを箇条書きにすると以下の2つです。

(1) 言語促進相互行為は「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」でなければならない。
(2) (1)のような言語活動従事状況で必要なときに必要で適切な支援をしなければならない。

 これを教育企画と授業実践の方法に「翻案」すると、次のようになります。

(a) 言語発達の経路として想定されるものをカリキュラムの行程として計画しろ。
(b) (a)の行程の上で行われる具体的な授業での個々の活動も「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」にしろ。
(c) (b)の只中で教師は、必要なときに必要で適切な支援をしろ。
(d) 言語活動は全体的(wholistic)なものなので、文法や語法、語彙、音声、さらには社会言語的な側面なども含めて、さまざまな種類の支援をしろ。

 (a)から(d)、とても理にかなっていると思いませんか。で!…、理論はこれでおしまいです。そして、続くお話は2つ。

1.わたしたちは何に基づいて「理にかなっている」と感じるのか。
2.ここから先は、何が必要か。

です。1の答えは、第二言語習得者としての自身の直感、第二言語教育者としての経験に基づく直感でしょう。これを、ここでは野生の直感と言います。次は2です。
 2でもやはりそのような理論と重なった野生の直感が必要です。しかし、教育企画、つまり上の(a)に関して言うと、むしろ理論と重なった論理に基づく見通しが重要になります。端的に言うと、教育企画をするにあたっては、野生の直感を働かせながらの論理に基づく見通しが重要になるということです。そして、この(a)の部分をやり遂げないと、後続の(b)から(d)はそもそも成り立たないということになります。
 ですから、日本語教育の革新のためのボトルネックは、(a)の部分を「突破」できるかどうかです。理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しを働かせながら。
 このように「実践の基盤となる理論」は、野生の直感と論理に基づく見通しに媒介されてこそ、実践に繋がることができるのです。理論と実践は直接に繋がることはできません。

草莽と有象無象

 みなさんは草莽と有象無象の違いがわかるでしょうか。まずは草莽から。
 ウィキペディアによると、草莽というのは、「民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人(草莽之臣)」と説明されています。取りあえずは、それくらいでいいでしょう。次の有象無象は、kotobankによると「取るに足りない種々雑多な人々。多く集まったつまらない連中。有象無象の輩(やから)」となっています。それで、草莽と有象無象の違いは何でしょう? 端的に草莽は教養層の人たちです。教養層の人たちだけど、現在権力の地位に就いていない在野の人のことです。それに対し、有象無象は、端っから軽蔑的な視線が注がれていて、ワイワイうるさく言う/妙な主張をする雑多な人々というような感じです。
 学術研究の文脈で言うと、「主流」の人たちと同じくらいの文化資本(ブルデュー)を背景として高度な教育を受けた人で、現在「主流」にない人たちで現在の「主流」に対してある種「オレたちにも物を言わせろ/主張させろ」と言っている人たちがいわば草莽です。草莽の人たちは「主流」の人たちと同じくらい手の込んだディスコースによる議論が好きです。そして、議論が長く、実用的なものを何も生まなくても平気です。どうかすると、議論そのものを楽しんでいるのではないか、この人たちにとっては議論することそのものが目的ではないのかとさせ思わせます。「主流」の人も草莽の人も、野良に出てせっせと働くとか、何かを着実に作ることこそが、人が生きることであるという感覚をずっと前の代から(祖父母の代、曾祖父母の代あるいはもっと前から)「免れて」いて、本を読むことや手の込んだ言葉で議論することが普通に生活の一部になっている人です。簡単に言うと、教養層です。草莽の人たちは、実は自分たちは「主流」の人たちと広くは「同じ穴のムジナ」であることを自覚しなければなりません。
 それに対し、世の中には有象無象の人もたくさんいます。そして、有象無象の中から高度なリテラシーと知識を身につけて、「論壇」に登場する人がいます。ブルデューは、リセに入ったときに、自身が育った文化・教養環境と他のクラスメートのそれとの格差を強く感じたそうです。ブルディーの批判的な社会学の根底には、そのような教養層と自身との間の違和感があります(ブルデューの『自己分析』から)。そんなブルデューにとっては、自身が身につけた高度なリテラシーと知識は、教養層が「自分たち圏」として形成している世界を暴くためのツールでありメディアだったのではないかと思います。ブルデューを有象無象出身者に入れるのが適当かどうかはよくわかりませんが、高度なリテラシーを身につけて「論壇」に登場した有象無象出身の人たちには、そのような違和感があると思います。そして、教養層にとって「空気」のような高度なリテラシーが、有象無象出身の人にとっては、野良仕事や物作りの場合の農具や道具と同じく、言語活動を通して仕事をするための道具=ツールに見えています。
 教養層によって維持し発展させられる教養や学術研究は、それが重要であるかどうかを議論する前に、自分たちの「文化圏」を形成しているという冷静な自覚が教養層には必要だと思いますし、「野良や作業場」(教育現場や看護の現場などの実践の場)でせっせと働いている人たちの仕事や暮らしに少しでも役に立とう、役に立っていないのは申し訳ないという感覚が必要なのではないかと思います。(←安藤昌益の農本主義的な発想です) そうでないと、汗水垂らして毎日働いている「庶民」から見ると、ただ「こぎれいな服を着て、しゃべったり物を書いたりして、いいお給料をもらっている人」に見えるのではないでしょうか。また、「論壇」でとりとめなく延々と議論が続くと、有象無象出身の人は、しゃべってばかりいないで「野良や作業場」での仕事に役に立つ成果を少しでも出そうよという気持ちになります。
 こんなふうに思っているのはぼくだけ? 他にもいるよね!

2019年3月1日金曜日

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー2019年3月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。 

 「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
 昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
 このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
 さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
 院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。

2019年1月26日土曜日

日本語教師って何?

 就労外国人関係の議論で盛んに「日本語教師」という言葉が使われています。しかし、そもそも「日本語教師」って何? 2つの可能性。(1)調理師、美容師、看護師、介護士、司法書士、行政書士などと並んで「日本語教師」、(2)日本語教員の意味。
 (1)については、日本語教育能力試験というのがあって、それに合格したら「日本語教師」? うーん、どうもそうでもないような…。現在の日本語教育能力試験が、日本語を「教える」ということに必要な資質、知識、技能を妥当に測っているとは言えないような…。仮に知識は測っているとしても、資質と技能は測っていないでしょうね。だから、「資格試験」という観点で言って、「日本語教師」というのが存在しているかというと、存在していないと思います。
 では、(2)はどうでしょう。「小学校教員」と言うと、フツーは正規に雇用されている教諭をイメージします。社会保険などがもちろんありますし、給与は給与表というので定められていて年功的に上がっていきます。非常勤の場合は、わざわざ「小学校・非常勤教員」と言うでしょうね。日本語教育の場合に「日本語教員」というのがそもそもあるのでしょうか。日本語学校の専任の先生は「日本語教員」? 一応社会保険はあるかと思いますが、きちんとした給与表はないし、日本語学校の場合は教員の研修などのシステムもほとんどありません。だから、「日本語教員」とは言わないのでしょう。では、大学の日本語教育センターで日本語教育に携わっている人や、国際交流基金で(国内・国外で)日本語教育に携わっている人やなどは「日本語教員」? うーん、まあ待遇的には「日本語教員」と言ってもまあいけるでしょうね。ただし、基金の場合は、日本国内では形式的には「1年契約」で、いわゆる「終身雇用」ではありません。海外の場合は、赴任期間だけの雇用契約です。日本語教育センターなどは、一部「終身雇用の」専任教員(とはいえ、形式的には多くは「1年契約」)がいますが、たいていは契約教員や特任教員で任期ありです。一方で、大学の留学生センターや国際センターなどで日本語教育に携わっている人は、自分たちは「日本語教員」ではなく、「大学教員」だと言うでしょうね。どうも(2)の観点でも、まともに職業として成り立っている「日本語教師」は見つかりそうにありません。
 「だからこそ、日本語教師の地位の向上をしなければいけないのだ!」という声が聞こえそうですが、それ変! 世の中に「日本語教師」や「日本語教師の地位」なんてないのに、それを向上するなんて論理矛盾。正確に言うなら「日本語を教えるということを立派な専門職として確立すること!」でしょう。そうなると、今のままの「わたしたち日本語教師」のままではダメということがしっかりとはっきりしてきます。俗にしばしば言われる「日本語教師の地位の向上」は、「わたしたち」が立派な専門職に変容できるかの問題なのだと思います。
 取り急ぎ。

読書教養人はえらい人?

 以下の記事は、相変わらず!! 日本語教育(学)の関心から書いています。
 小説家、大学の先生、評論家、ジャーナリストなどはたいてい小さい頃から現在も引き続いて強烈に本を読んでいます。本を読むスピードやネットで情報にアクセスしてそれを読み解くスピードも強烈です。元ジャーナリストでその後一念発起してイギリスに留学して博士号をとって今ぼくの身近な同僚になっている人がいますが、かれは仕事をフツーにこなしながらも、小説、教養書、専門書などを日常的に読んでいて、たぶん1週間に数冊いっていると思います。たいへんな「読書馬力」です。『火花』で芥川賞をとった又吉くんの読書量も半端ではありません。
 新聞やテレビなどにしばしば出てきて、ものを書いたり、いろいろな発言をしたりしているそういう種類の人たちを仮に言論人と呼ぶことにしましょう。言論人の多くは、最近では、自身のブログなどでも発信をしていらっしゃいます。
 言論人はえらい人なのでしょうか? うーん、えらいのかなあ? 本を読むことが日常にある家庭出身でもなく、本を読むことが日常になっている人が身近にいない環境で育ったぼくには、今振り返ってみると、八百屋のおっちゃんや、豆腐屋・お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんや、鶏肉・玉子屋や肉屋や酒屋のおっちゃんとおばちゃんなど、日々お仕事に励んで町の人たちの生活を支えている人たちがとても「えらいなー」と思えるのです。たぶん、町の人たちの生活に奉仕していてせっせと働くその姿がビビッドに「えらいなー」と思えるのでしょう。それと比べると、新聞やテレビで出てくる言論人は、どうかすると「能書きを垂れてお金を稼いでいる」ふうに見えてしまいます。「どうかすると」というのは、たぶん2種類あって、一つは「えらそうに」話す人。大阪人としては「えらそうなこと言うて、お前、なんぼのもんやねん!」と言いたくなります。もう一つは、議論がどんどん舞い上がってしまって、本来の重要なテーマを忘れてしまって、議論の相手とだけの議論・討論にはまってしまっているのに平気で「白熱して」議論を続けている場合です。これは「何、しょうもない能書きばっかり言うてるねん!」となります。
 趣味の世界の中で「議論がどんそん舞い上がって…『白熱して』議論を続けている」というのは別にかまわないでしょう。それは、趣味の世界、広い意味で娯楽の世界なので、見ている人、読んでいる人も本気で議論しているのを聞く・読むのはそれはそれで圧巻でしょう。しかし、世の中の問題、社会のいろいろな問題について議論しているときに、「フツーの人の暮らし」を忘れて議論していらっしゃる(←これ、皮肉の敬語!)のは、どうもうさんくさいです。「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」と聞きたくなります。
 ここまでは、どうも「まくら」です。では、収束、2つ。
 言論人云々について言うと、言論人と読書教養人は異なるのだと思います。読書教養人は「表(舞台)」に出るかどうかにかかわらず読書を楽しみ教養を身につけますます人格を高めている人です。言論人は、その中の一部として「表(舞台)」に出ている人です。読書は本来は、言論や議論のためにすることではなく、私事としてひっそりとするものでしょう。もちろん友人同士の間で「この本はすばらしかった!」というような共有はあると思いますが。言論が「生業(なりわい)」になってしまうと、そのような「本来の読書」から離れていってしまうのかなあと思います。そして、人文系の大学の先生においてもどうもそういう「よろしくない傾向」に傾いている気がします。人文系の大学の先生は、本来的には高度な読書教養人(であるべき)なのだと思います。
 もう一つの収束。日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、上のような意味での高度な読書教養人(であるべき)なのでしょうか? うーん、これはむずかしい質問です。日本語教育学や第二言語教育学を教育実践に資する学問と定義するなら、答えは「No!」となります。「教育実践に資する学問」と定義すると、教育実践のために教育実践者に向けて積極的に発言しなくてはならなくなるわけで、そうなると「本来の読書」から離れてしまいます。
 それに対し、日本語教育学や第二言語教育学は日本語教育や第二言語教育への関心という部分で教育実践とつながりはあるが、それをきっかけとして人文学の一分野として自由に研究を展開していっていい、というふうに考えると、上の質問への答えは「Yes!」となります。そして、日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、日本語教育や第二言語教育への関心をスタートとしながらも自身の興味・関心にまかせてどんどん「本の世界」に入って行ってもいい、のめり込んでもいい、ということになります。しかし、ここで一つの「むずかしさ」が生じます。「本の世界」に深く入って行けば行くほど「微に入り細に入り」の議論になってしまって、そうした議論は教育実践者にとって、(a)疎遠でよそよそしい議論、(b)自身の目の前の関心から離れた議論、になってしまうという「むずかしさ」です。しかし、…。(a)と(b)について考えてみましょう。
 (a)に関しては「微に入り細に入りでややこしくてゴメンね。でも、我慢して読んで! 聞いて!」と言うほかありません。そして、(b)に関しては、「目の前の関心」というのが本当にそれでいいのかを振り返るためにあれこれ言語やコミュニケーションや意識や社会文化的現実のことを深く探究して公表しているわけで、それを「わたしの目の前の関心はそれではない」と言って読んで・聞いてもらえないとなると大いに残念ですと言わざるを得ません。ただし! このように「残念です!」と言えるのは、研究者自身において自分の研究が教育実践と重要なつながりがあると確信できている場合だけです。そうでない場合は、「こんな研究をしているのですが、教育実践とのつながりはわたしもよくわかりません」と告白するのが誠実です。このあたり、厄介なのは、「重要なつながりがある」との確信が思い込みである可能性があることです。結局、「重要なつながりがあるか/ありそうか」は、話を聞いて/本を読んでくださる教育実践者のほうの「野生の直感」に委ねるしかありません。
 結論として言いたいのは、実はこの「野生の直感」です。教育実践者の人たちがしっかりと「野生の直感」を磨いて、しっかりと、本当に教育実践のことを真摯に考えて研究活動をしている大学の先生とそうでない先生を見抜かなければなりません。これが、先の「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」という言論人への質問とつながるわけです。うさんくさい日本語教育学・第二言語教育学の大学の先生もたくさんいる? 変に教育実践とつながりがあるように発言するからうさんくさいのです。自身に「重要なつながりの確信」がないのなら、「つながりはわたしもわかりません」と正直に言えばいいのです。「えらい人」の不正直は罪が重い!!

2019年1月8日火曜日

日本語教育をプロデュースしているのは誰/何で、監督をしているのは誰/何だ? ─ 「遠吠え」ばかりしている?

 webjapanese(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/
)の「Who cares? ─ 誰が日本語学習者を守るのか」の記事を読んだ上での先の記事の後に以下のようなことを考えました。まあ、この記事も、あまり「明るい」記事ではありません。

前口上
 わたしはなぜあれこれ専門の本を読んだり論文を読んだりしているのでしょうか? それは、何かについて発言しよう(書こう)と思ったら、その何かについてすでに発言している人の見解を知っておかないといけないからです。これは、研究や学問をする人間の基本的なマナーです。
 一般的にはこれは先行研究のレビューということになります。では、わたしは先行研究のレビューということをしているのでしょうか。どうも違うようです。先行研究のレビューというのは、一定の研究領域(例えば、第二言語習得研究)と一定の研究テーマ(例えば、文法形態素や文法構造の習得の研究や語用論転移の研究ど)があって、それまでに行われている理論的研究や実証的研究を踏まえてその上にさらに研究的知見を積み重ねようという趣旨で先行研究のレビューをします。その営みは、当該の研究分野をさらに伸展させることです。
 「わたしの場合は違う」というのは、(1)わたしの学問的営みは特定の研究領域に焦点化していない、そしてこの(1)とも関係ますが、わたしの研究は、(2)いろいろな研究領域の研究成果を第二言語教育学の関心から「批判的に」(関係があるか無関係か、関係がある場合はどのように関係があるか、に焦点化して)まとめあげることと、(3)教育学的に日本語教育学を確立すること、です(教育実践に関わる仕事は別物ととして)。わたしがやっていることは、フツーの意味での学術研究ではないのだろうと思います。しかし、(たぶん!)、日本語教育や第二言語教育の実践のために「必要で」「求められている(?)」学問的な営みであろうと思って(願って)います。
 そんな事情のため、日本語教育(学?)関係の論文や海外の応用言語学関係の本や論文もけっこう読んでいます。そして、今、日本の日本語教育界は、就労外国人の受入れに向けた日本語教育の整備で「てんやわんや」になっていて、そんな文脈で教員教育や教師養成の改革というテーマが頻繁に論じられています。そんなのも、読んでいます。
 そんなことをしていて、しばしば感じるのが、表題のようなことです。検討してみましょう。

本文
 取りあえず、用語。映画のプロデューサーや、ドキュメンタリーや特集番組のプロデューサーと言うように、プロデューサーというのは、基本のところで何をどのように制作するかを決める人です。そして、監督というのは、プロデューサーと連携しながら具体的に制作を進める人です。多くのジブリ作品では、高畑勲さんがプロデューサーで、宮崎駿さんが監督です。

Q1 日本語教育をプロデュースしているのは誰/何だ?
A1 日本語の教科書です。基礎(初級)段階や中級前半は、各々基礎(初級)教科書、中級教科書に依存しています。そして、中級後半や上級段階でも適当な教科書を選んで授業をしたり、いろいろな教科書から抜粋して寄せ集めて授業をしています。自身でコースを企画しデザインして、教材なども準備して教育実践をしているのは、ごく一部の先生だけです。それも、中級以上の学習段階に限られるでしょう。結局、日本語教育をプロデュースしているのは教科書です。そして、厄介なことに、たいていの教科書の著者は一人ではありません。ですから、日本語教育をプロデュースしているのは誰だと聞かれて、「この人(A教科書の著者)と、この人
B教科書の著者)」というふうに言うことができません。日本語教育は、責任を負っているのが誰だかわからない教科書によってプロデュースされているのです。そして、この状況は今後も変わらないだろうと思います。
 そして、フツーの教師が教科書を頼りにするのはむしろ「フツー」のことです。ですから、日本語教育の専門家という人が、優れた教育の企画とそれを支える「頼りになる教科書」を制作するべきなのだろうと思います。

Q2 日本語教育を監督しているのは誰/何だ?
A2 日本語教育を監督するのは本来は、各々の教育現場を担当しているコーディネータであるはずです。しかし、実際にはコーディネータは、学生や先生たちの「ご不満」をうけたまわってそれに対応して若干の「調整」をしている程度ではないでしょうか。既存の教科書を使っている限りは、コーディネータが授業担当教師と相談してダイナミックに学習活動や教育活動を展開するということはないように思います。(コースの流れに乗っていない唐突なスピーチコンテストや発表会などはありますが…) そんな状況ですので、授業担当の先生たちの方はそれぞれで、与えられたノルマをどのようにこなそうかということに汲々とするばかりです。そして、基礎(初級)段階では、各々の文型・文法の教え方を解説した教授法の本などに頼って、授業を計画し実施しています。このような事情ですので、この質問への答えは、監督は「不在」となります。

 さて、現在日本語教育の実践は、満足な状況でしょうか。これは、結果を客観的に測定して云々ということではなくて、実際に教育をしている教師の感覚として、そして教育を受けている学習者の感覚として、です。非漢字系の学習者について「毎日勉強していても、1年半勉強してN3に受かるかどうかだ!」という話をよく聞きます。うーん、これはどうもうまくいっていないと言わざるをえないのでは…。
 そんな状況を見て、大学のセンセたちは、たいていは、日本語教員の教育や教師養成を何とかしなければという方向で、あれやこれや「研究」して「提案」をします。そして、ますます「上等な」議論を繰り広げます。しかし! 今の日本語教育の状況を改善する方策として、教員教育や教師養成を改革するという行き方はどうなんでしょう? 有効でしょうか? 大学のセンセたちは、QA1やQA2などの状況をどのように考えているのでしょうか。どうもそのような現場や現状やそれに実際に関わっている人に直接関わることを避けて、「遠吠え」ばかりしているように見えてなりません。
 大学のセンセになった人は、「自分は日本語教育の研究者であって、日本語教育の(実践をする)専門家ではない」と自認しているのかもしれません。(それには一定の理解はできます。大学のセンセであるという「値打ち」を維持するためにも!) そして、その一方で、「日本語教師は…」「日本語教師にとって…」というように「日本語教師」ということをよく論じています。こういうセンセは、「日本語教師」を「卒業」されたようです。しかし! 大学のセンセが「日本語教師」を「卒業」した日本語教育の研究者で、現在日本語教育の現場に携わっている人が「未卒業」の日本語教師だとしたら、この世の中のどこに日本語教育の専門家がいるのでしょうか? どこに、日本語教育の専門家(その重要部分として、日本語教育のプロデューサーや監督がある)が「生まれる」のでしょうか。 
 これは、日本語教育と日本語教育学が抱える根本的な構造的問題です。この構造的問題を解決する処方箋はまだ誰も見出していません。厄介です。
 そして、その一方で、日本語教育の研究者と目されている人は、今、政治家や行政官から「関連するデータを出してくれ!」とせがまれて(?)います。普及可能なgood pracriceを生み出すことができておらず、そのために「関連するデータ」も集めることができていないわけで、これも実に厄介です。

 webjapaneseの記事をきっかけにあれこれ考えてしまいました。

2018年12月2日日曜日

オンボロ船と新造船

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー 第49号 2018年12月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。

2018年12月号 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!) 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない?  うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く!  日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! (に)

2018年11月2日金曜日

日本語教育学における知性と教養を考える②


この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2018年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを再掲しています。

 「…知性と教養を考える」の第2回です。今回は、短いです。適宜に第1回の記事を参照してください。
 人間の知的能力を一定のスケールで俯瞰すると、「知識→教養→知性」というような並べ方ができるのではないかと思います。ざっと言うと、左のほうが知ること関係、右のほうが知ったことをオーガナイズ(組織化する、統合する)というようなことになります。そして、右から言って、「知性は鋭くなる」、「教養は深まる/豊かになる」、そして「知識は広がる」となります。
 この2回のエッセイで言いたかったことは、前回の最後に言った“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要です” です。そして、そのような「知的作業がまだ行われていない」のです。
 日本語教育の学会や研究会などに行くと、しばしば日本語教育に多かれ少なかれ関心をもつ特定分野の研究者がその豊富な知識と専門的な教養に基づいて滔々と話していらっしゃる姿を目にします。そんな姿を見ると、「特定分野の知識・知見だけで、なんで日本語の習得と教育という多面的で重層的で輻輳的な現象について物が言えるの?」と、その大胆さに! 不思議を感じます。また、「そんなやたらに怒濤の如く知識の『排出』をして…」と、自分の土俵で自分の「気」の赴くままに自分のペースで「位押し」(自身の地位や立場と「力」を存分に発揮して相手を圧倒すること、筆者創作の言葉)をしているという感じがします。
 前者と後者の「感じ」について話します。まずは前者。
 いかなる分野であれ個別の研究分野の知識・知見に基づいて日本語の習得と教育という現象について何か物を言うことはできないでしょう。ただし、ここに言う個別の研究分野というのには、哲学や理論○○学というようなメタレベル(個別を架橋するレベル)の学問(探究・追求・研究)は含まれません。他方で、上の“ ”内の「さまざまな関連分野」には、メタレベルの学問が含まれます。そして、上の“ ”内で言いたいことは、そういうメタレベルの学問をむしろ中心にしてそれに個別の研究分野も含めて“さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に…”ということです。
 次は、後ろの「感じ」について。個別の研究分野の「大学の先生」は「位押し」をしては、だめです。日本語教育に従事している現場の先生たちの興味や関心や悩みにもっと耳を傾けるべきです。そして、現場の先生たちに寄り添って、自身が何ができるか(できないか!)を謙虚に「反省」して、正直に話をしなければなりません。そして、その「耳を傾ける」と「反省」は、気持ちをベースにした知性的な活動です。そのようにしないと、「位押し」をして、ただ単に自身の「位」を保持するばかりとなります。
 書きながら考えていますが、日本語教育学に関して主張したいのは以下のことのようです。
1.メタレベルの学問への関心が低い。
2.“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要”という認識がない。
3.上で言ったような、気持ちをベースにした知性的な活動を怠っている。
 メタレベルの学問ということで言うと、日本語学を専門としている人あるいはそれに興味のある人は、まずは、言語研究のメタレベルの研究ということで、ヤーコブソンやマルチネやバンヴェニストなどのプラーグ学派の言語学などに触れていただくのがよいかと思います。
 少しまとまりが悪いですが、これで、「日本語教育における知性と教養」を終わります。皆さんは、どのような感想をもったでしょうか。

2018年10月14日日曜日

日本語教育に関係する(にじり寄りかどわかす?)大学のセンセ(とその予備軍)の胡散臭さ

 10月に入り新学期が始まりました。(新渡日の留学生たちはフレッシュな顔でキャンパスに現れ)院生たちも皆さん清々しい気持ちでまたキャンパスにもどってきました。MゼミやDゼミが始まり、10月に入ってすでにいくつかの小さな研究会にも参加し、いろいろな人と日本語教育の実践や、日本語教育に関わる研究のことなどについて、議論し、情報交換をし、意見を交わしました。そんな中で、ふと上のようなことを感じました。「日本語教育に関係する(絡みつこうとする)大学の先生(及びその予備軍)は胡散臭いなあ」ということです。できるだけ簡潔に話そうと思います。
 大学の先生の2大仕事は、教育と研究です。教育というのは、「教える」ことを通して教養があり健全な批判精神を有する社会に有為な人を育てる、というくらいのことでしょうか。そして、研究というのは、各先生のそれぞれの専門分野の研究となります。日本語教育に「関係しそうな」分野としては、日本語学、認知言語学、コーパス言語学、音声学、社会言語学、第二言語習得研究、会話分析、言語政策などでしょうか。研究というのは、それぞれの分野ですでに蓄積があって、しかしその蓄積をもってもまだ解明されていないことを、解明する営みです。ですから、本来、「内にこもった」「内的自律性のある」営みです。もう少しわかりやすく言うと、研究者が対話し議論するべき相手は基本的には同じ研究分野の研究者です。つまり、同じ研究分野の研究者相互で切磋琢磨して、当該の研究分野のさまざまなテーマの研究を前進させるべきものです。そのようにしてこそ、当該の研究コミュニティでの正統な一人前のメンバーとなります。
 大学の(専任の)先生になっている人の中には、教育の義務は日本語を教えることで、その他に研究は上のようなそれぞれの研究分野でやっているという人がたくさんいます。そんな人は、日本語教育者と各自の分野の研究者という2つのアイデンティティを明確にもってほしいと思います。そして、各自の研究分野においては、それはそれで立派な研究をして、その分野で一人前にやってほしいと思います。そして、教育の義務のほうの日本語教育も、自身の研究分野や研究テーマに限定しないで広く関係の知見をリサーチして解釈して仲間と協働してしっかりといい仕事をしてほしいと思います。そのような(専任の)先生の場合は、たいていコーディネータという役割を担い、非常勤の先生たちとチームになって仕事をするのが普通です。コーディネータというのは、コースを計画し、教材を選択(作成?)し、しばしば教育の内容や方法に関して一定の指針を示すべき立場です。その立場の人が、真摯に教育に取り組まなかったり、自身の研究的関心に大きく偏った教育計画をしたり教育指針を出したりすると、それはいずれも自己チュー(自己中心的)な振る舞いだと言わなければなりません。そんな専任教員=コーディネータの下で仕事をしなければならない非常勤の先生は気の毒としか言いようがありません。教育の責任として日本語教育に携わる専任教員は日本語教育に関する広い専門的な教養を身につけておくべきです。そして、自身の研究分野の強みを生かしながら、非常勤の先生たちと仲間として協働していい仕事ができるようにリードしなければなりません。
 さて、このエッセイで言いたい「胡散臭い」先生は上のような先生の話ではありません。むしろ、日本語教育が出身だが、今は教育の責任として日本語教育の責任を負っていない、めでたく大学のセンセになりおおせた人です。そういう人は、どうかすると、研究者としても中途半端なのに、日本語教育に対してあれこれ発言をします。先に言ったように研究者の第一の対話相手・議論相手は同分野の研究者です。ですから、そっちでしっかりと対話・議論して一人前にやってほしいと思います。そして、ざっくりと一般的に言ってしまうと、研究で明らかになったことは、その研究が純粋な研究であればあるほど、教育実践に役に立つものはありません。そんなことは、研究を純粋に突き詰めている人には自明なことです。そして、中途半端な人にかぎって妙に教育実践に対して「研究の立場から」あれこれ発言する傾向があるように思います。フツーの日本語の先生から見たら「権威のある」大学のセンセが日本語教育について発言するのは慎重にするべきだと思います。その部分で慎重でない人は、胡散臭いです。ただし、自身の発言が日本語教育の実践の総体の一部としてバランスよく具体化されるところまで責任をもつ覚悟がある場合は、発言していいと思います。
 もう終わろうと思いますが、ぼくが胡散臭さを感じるのは、「そんなふうに発言しているあなたは、その発言を具体化する『優れた教育実践』を実際に創造してきたのか、あるいは、これからそれを創造する気持ちと予定があるのか」という部分です。日本語教育に本気で関心をもっているなら、自分がリーダーになって「優れた教育実践」を創造してください、ということです。それを示すのが、一番のご自身の主張が受け入れられることになります。日本語教育(学)関係では、個人による一定の「優れた教育実践」は報告されているかと思います。しかし、チームで実施された、原理に基づく「優れた教育実践」はほとんど報告がないかと思います。研究的な傾向のある人は原理を考えているはずですから、そういう人が中心になって、原理に基づく「優れた教育実践」を創造して、報告をしてほしいと思います。
 結論。若い院生たちは、将来、そういう胡散臭い大学のセンセになってほしくないと思います。
 すべて、日本語教育の発展のためです。そして、先日は、院生たちと話していて、「やっぱり、日本語教育学っていうのは成りたたないよねえ!」と皆さんため息をついていました。

日本語教育学における知性と教養を考える①

この記事は、NJ研究会フォーラム2018年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを、再掲しています。

 このテーマはどうも長くなってしまいそうなので、2回に分けて話します。今回は1回目です。
 知性と教養というのは、昭和の前半までは社会全体のごく一部の人しか身につけていなかったのではいないでしょうか。大阪の南のほうの元々は農村地域であった町で育ったわたしが子どもの頃は、親やそれ以上の世代について言うと、元庄屋さんだった人や、元地主で現在もお屋敷に住んでいる人の一部(本を読むのが好きな人)だけが、読書階級・教養階級でした。それ以外の人は、学校に通わせてもらってようやく一定の「読み書きそろばん」ができるようになったというような具合でした。しかし、学齢期の大部分やその一部が戦時と重なった人は、学校に十分に通うことができず、「読み書きそろばん」も必ずしも十分に身につけることができていません。そんな「それ以外の人」の家庭に育ったわたしには、知性と教養は本来「自分の文化圏外のもの」です。ですから、そういうものを求められつつ仕事をしながらも、同じように知性と教養を動員して仕事をしている人たちと自分は「違う人種」だとほとんどいつも違和感を感じてます。ちなみに、「それ以外の人」の名誉のために言うと、「それ以外の人」が身につけている高次の美徳は、誠実さと品位と人としての矜持と、それらに基づく信用かと思います。知性と教養がなくても、そういう美徳を備えた人はたくさんいます。
 知性と教養の対比について、先ずは、一般論から。
 知識というのは物を知っていることです。地理的な知識、歴史的な知識、自然や植物・生物に関する知識、技術的な知識などいろいろな知識があります。ここで言っている知識は、学校で教えられるその種の知識も含まれますが、学校では教えられないが社会で共有されているその種の知識もあります。わたしのおじいちゃんの世代は、和歌山、福井、徳島とは言わず、紀州、越前、阿波などと言って、かれらの交通網のイメージと重ねて、豊富な地理的知識を持っていました。また、自身の直接的な経験や上の世代の話を聞いて、近現代の歴史的な知識が豊富な人も多かったです。農家の人は、自然や植物・生物に関する知識が豊富でした。そして、職人は自身の工作活動に関わる道具使用の技量を身につけていることはいうまでもなく、各種の資材や塗料や接着剤やそれらの用途をよく知っていました。昭和までの小学校で学んだ知識は、そのような生活・生産活動に関わる知識及びその一定の抽象化であったのだろうと思います。そして、それらと並行して言語の技量つまり国語と、数の技量つまり算数が教えられました。現代の小学校では、同様のロジックで、現代の生活や生産活動を営むことに関わる基礎的な知識が教えられているということになります。「基礎的な知識」が増大しているので、現代の中学校での教育内容も小学校からの基礎的な知識の教育の延長と見るのが適当でしょう。このような幅広い教育が大学に至るまで推し進められて、それを通して人々が身につけるのが教養です。ただし、教養があるというのは単にあれこれの知識が豊富だということではありません。教養と言うには各種の知識がその人の人格とうまい具合に統合されていなければなりません。理科系の技術的な知識が教養ということと疎遠な感じがするのはこうした教養の定義に由来するのでしょう。
 では、一般的に知性と教養とは何か? とりあえず比喩的に言うと、「教養は深まる」、「知性は鋭くなる」というイメージを持っています。一定の教養のある人は、さらに本を読んだり、ネットで興味のあることを調べたり、博物館などを訪ねたりして、一層教養を深めることができます。それは、人格と結びついた人文的な知識の拡充と円熟です。そこには、円みが感じられます。これに対し、知性というのは鋭さでしょう。この鋭いというのは何か? それは、本質を突いた物の見方ができる、俯瞰する視野を持っていてその視野の下に知識が整然と整理整頓されている、ということでしょうか。ですから、その気になれば、物事をわかりやすく話すことができます。
 教養のある人は、しばしば教養にどっぷりと浸っています。そして、どうかすると、教養の勢いにまかせて奔流のように話をします。その話はめくるめく展開していってとてもおもしろいのですが、どうかすると取り留めのないものになってしまいます。一方で、知性のある人が知性に勢い にまかせて話をすると、実際には整理整頓されて話をしているのですが、しばしばとても早口になり、聞いている人は「目が回る」というような具合になってしまいます。この後者の知性派の代表選手が茂木健一郎です。茂木健一郎は脳科学者で、脳科学の専門家で人文科学の知識も豊富です。知性派のかれの話は、実は整理されているのですが、早口でどんどん話が進むので、聞く方はちゃんと理解しようとすると「目が回り」ます。
 さて、ここから日本語教育(学)に引きつけて。日本語教育学関係で大学の先生になっている人は、ご専門が日本語学にせよ、音声学にせよ、社会言語学にせよ、第二言語習得研究にせよ、それぞれの分野を中心として実に豊富な知識をもっていらしゃいます。ですから、フツーの日本語教師がそういう先生方から話を聞くと、何をたずねても奔流のようにお話になるので、圧倒されてしまいます。もちろん、端っから自分の「土俵」に引き込んで話しているわけで、聴衆も「この先生のこのテーマの話を聞こう」と足を運んだところですでに相手の「土俵」に入っているわけで、大学の先生はその「土俵」の専門家なので、奔流のように話せるのは当たり前です。そして、そんな話を聞いて、一部の「(生)真面目な」日本語教師は「わたしは本当に知識が不足しているので、もっともっと勉強しなければならない」と思い、その一方で、一定の経験があって勘の鋭い日本語教師は「この(大学の)先生は自身の知識が日本語教育にとって重要で必要なように滔々と話しているけれど、本当にそうなのか」と疑います。
 日本語教育の実践経験の有無にかかわらず、大学の先生になって「研究」ということを長年してきた先生は、その研究分野のスペシャリストです。そして、かれらは自身の分野については長年やっているだけに本当に知識が豊富です。そんなかれらが、日本語教育関係の集まりに呼ばれると、日本語教育の実践に役立つことを積極的に(自身の目から見て一定の自信をもって積極的に)あるいは消極的に(本当はあまり何とも言えないと思いつつ司会者や聴衆に促されてしぶしぶ)話します。「積極的に」か「消極的に」かは、人によって違います。さて、ここで注意しなければいけないのは、かれらは日本語の習得や習得支援ということの全般を見渡して考究しているジェネラリスト(広域的専門家)ではなく、局所的なスペシャリスト(特定領域的専門家)だということです。ですから、かれらからの日本語教育実践に向けたアイデアや助言は、特定分野の立場からのアイデアや助言です。そして、特定分野の立場からのアイデアや助言ですから、当然偏らざるを得ません。ですから、日本語教師がそういう大学の先生から話を聞くときは、あらかじめ「この先生の話は○○学の立場からの話だ」と開き直って聞くのが無難です。それは何も「大それたこと」ではありません。日本語教育を責任をもって担っているのは、そういう大学の先生ではなく、個々及びチームとしての日本語の先生なのですから、何でも自分(たち)の責任においてやればいいのです。そのように開き直って聞かないと「もっともっと勉強しなければ」という「積極性のマゾヒズム」になりがちです。
 フツーの大学の先生は、ご専門の分野を中心とした専門的な知識と教養は豊富です。しかし、専門以外の分野の知識や教養はしばしば不足しています。また、日本語教育を俯瞰する目線もたいていは欠けています。日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で「ねじ伏せる」ことが必要です。日本語教育学の世界では、そのような力を要する知的作業がまだ行われていないようです。次回は知性を中心に。(に)

2018年8月4日土曜日

研究者であることと実践者であることは相容れない!?

NJ研究会フォーラム・マンスリー(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)の「羅針盤」として以下のような記事を投稿しました。

 標記のようなテーマで話します。このメルマガは、日本語教育学や第二言語教育学の人たちの間で共有されているメルマガですので、「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言うと、ガッカリする人もいるだろうし、反発する人もいるだろうと思います。また、このように言うと、「研究」を要求されている大学の先生であることと、日本語教育者であることは、相容れないように聞こえてしまいます。また、そもそも日本語教育学や第二言語教育学なんてあるのか、という疑問にまで行ってしまいます。

 教育実践者は、教育の企画においても、教材の制作や作成においても、そしてもちろん授業の計画や具体的な教育実践においても、常にその時々に自身の信念が問われるわけで、意識的であるか無意識的であるかいずれにせよ、その問いへの自分なりの答え・信念を根拠に判断を下して、実践者としての行為をしています。教育実践者は、「信念の塊」であらざるを得ません。言うまでもありませんが、教育実践者の信念は、自身の教育者としての経験だけでなく、教師教育期間中に学んだことや、その後に学んだことや他の先生から教示を受けたことなどをもとに、あるものは受け入れ、あるものは拒む形で、形成されています。実践者と実践者の間では、教育についての議論をすることができます。その場合に提示される個々の意見や見解は、当該の実践者のそのテーマについての信念であるわけです。その場合に、どれほどにさまざまな学問研究を吸収してその信念が形成されているかが問題となります。そして、さらに言うと、日本語教育学というところで、どれほどのさまざまな学問研究が普及しているかが根本の問題となります。

 一方、研究者は、理論志向の研究者であれ、実証志向の研究者であれ、本来的に言うと教育実践に関心がありません。ただし、教育実践をきっかけに特定の研究テーマに関心を持つことはあります。研究者が研究をするのは、当該の研究領域の当該の研究課題について考究・探究・検証するためであって、研究の目的は、当該の研究分野の進展、研究課題の解明に貢献するためです。研究というのは、研究領域特定的(ディシプリナリー、disciplinary)にならざるを得ません。学際的な研究(interdisciplinary study)というのがありますが、それは特定の研究課題についてさまざまな研究領域(ディシプリン)からのアプローチをするということであって、一つの論文の中で学際的になっているわけではありません。ですので、ある研究を行った結果として、その研究結果に基づいて教育実践について何かを語るということは本来はできないはずです。できることはせいぜい、教育実践との関係でその研究の研究領域は他の研究領域との対比でどのような位置にあって、それ故に、その研究領域が教育実践に対してどのような貢献ができそうかを論じる程度で、その研究そのものの教育的示唆を論じるのは乱暴だと言うほかありません。とはいえ、いずれにせよ、研究者はそもそも教育実践に関心があるわけではないので、積極的に教育について何かを言おうとする研究者はいないと思います。研究者が教育について何か言うとするならば、「この理論的議論から敷衍すると…」とか「今回の実証的研究で得られた結果から敷衍すると…」という言い方をするはずで、それはその人の信念ではなく、あくまで「研究からの敷衍」です。個人としての見解は言わないというのが、そもそも研究者の鉄則です。ですので、「わたしの研究的な背景とわたしの教育実践者としての経験から推論すると…」というふうに話し始めたら、その瞬間にその人の立ち位置は研究者ではなく実践者の立ち位置となります。「研究者であることと実践者であることは相容れない」と言ったのは、このことです。

 実践領域と関連した研究領域として、未来共生学を紹介したいと思います。ここで紹介するのは大学院5年間の副専攻プログラムのような形で実施されている、大阪大学の未来共生イノベータープログラムです。同プログラムは、充実した研究的背景を有しつつ、実際に多文化共生関係の仕事に関わり、その仕事に革新(イノベーション)的に取り組むことができる人材へと教育することが目的です。毎年、大阪大学の大学院新入生の応募者の中から20名が選ばれて、先生たちと共に「共学」しています。その研究成果が、『未来共生学』に掲載されています。http://www.respect.osaka-u.ac.jp/publications/をご参照ください。掲載されている論文は、未来共生というテーマに、哲学、倫理学、社会学、人類学、心理学などさまざまなアプローチで斬り込んでいます。ぼく自身、この『未来共生学』の編集委員として関わっていましたが、同プログラム開始時や、同ジャーナル創刊号当初は「未来共生学って、なんだろう?」というような具合でした。しかしながら、関係の教員や積極的な学生たちの努力のおかげで、なんとか「○○学」らしくなったと思います。そんなこともあって、ぼく自身は、日本語教育学と未来共生学をしばしば横に並べて比べてしまいます。未来共生学は、立派な一つの学際的な研究分野としての地歩を築いたと思います。それに比して、わたしたちの日本語教育学はどうかなあ…。ただ、少し「内幕」をばらすと、未来共生イノベーターの修了生の半分は(いずれ)「立派な研究者」になるだろうなあ、という感じです。未来共生イノベーターという「泥臭い現場的な仕事」をする人はひじょうに少ないように思います。それに対して、日本語教育者の仕事は、(少なくとも今は!)なかなか「泥臭い」です。
 『未来共生学』は、日本語教育学の将来を考える際のひじょうに重要な参考になると思います。未来共生イノベーターの院生たちは、先生たちからとても豊かな学問的な薫陶を受けつつ、東北の被災地のボランティア活動なども経験して「社会派」的な意識と態度も育みながら、「すくすく」育っています。(に)

2018年7月3日火曜日

日本語教育というお仕事

 ぼくは、今の大学の国際教育交流センターという組織の日本語教育研究チームに属しています。そこでの仕事の中心は間違いなく日本語教育です。(一方で、大学院でも兼任という形でお仕事をしていて、それはまあ学問?の指導をしていて、日本語教育という仕事ではありません。)
 センターでの仕事は、授業関係のロジスティクスやさまざまな周辺にある用務や一般的な管理運営の業務なども十分にありますが、「中心」は日本語教育、つまり誰かの日本語の習得を(直接、間接に)支援する仕事です。その中にはざっと、(1)(非常勤講師の先生などといっしょに)自身が実際に授業担当をすること、(2)非常勤講師の先生たちといっしょに教育を実施する際のコーディネーションをすること、(3)限られたリソースの中で適切と思われる各種のコースを企画すること、(4)ウェブをも活用した自学自習や予習・補習などができる学習リソースセンターや学習のコンサルテーションなどをする日本語ラーニングサポートセンターを構想・企画・構築・実現すること、などです。(4)の仕事は将来に向けての広い意味での日本語の習得と学習の環境整備となります。この仕事は以前からセンター内でアイデアがあり、現在改めて浮上して実際に検討・研究中ですが、具体的なリソースセンター等の実現はまだだいぶ先になるかと思います。(3)の仕事は、端的に学生の動向を見て来年度はどのような内容のコースをどのような時間に開講しようかという提供するコースの企画です。これは毎年、次年度のものについて秋に検討しコース企画をして、非常勤を含む教員を配置する仕事をしています。いわゆる教務という仕事の「毎年の一大イベント」で、この時期はチームで検討しながらも教務担当の先生は「大わらわ」です。そうして、学期が始まるころから、そして授業がスタートすると、(2)と(1)という「通常の」具体的な教育実践の仕事が始まります。で、当面は(4)の話は除くとして、(1)から(3)までのことを考えてみましょう。
 (1)から(3)については、「地味」スタンスと「派手」スタンスという2種類のスタンスでそれに当たることができます。「地味」スタンスは、典型として言うと、(2)については、既存の市販の教材を適当に選んでコースの教科書として、適当なスケジュールを作成して、コーディネーションをする。そして、(1)については、その本人(コーディネータの専任教員)と非常勤講師であれこれ適当な工夫をしながら具体的に教育を実践する、というものです。そこには、派手な「革新」はありません。一方、「派手」スタンスは、端的に言うと、(2)と(1)を革新的にやり、やがては(3)も革新するというスタンスです。このスタンスで仕事をする場合は、(2.5)として新たなコースの企画・教材システムの開発・具体的な教育の実践の促進という3種類の仕事が加わります。(2.5)の仕事はなかなか一気にはいきません。ざっと言って、バックステージでの教育の企画と最低限の教材の開発で1-3年(準備期)、最低限の教材を使いながらの試行と教授者による「試運転」(試行的な教育実践)と並行する教材システムの充実で(1年に2学期つまり2ラウンドあるとして)1-3年(試行期)、教材システムの洗練と教育実践の洗練で1-3年(洗練期)、くらいはゆうにかかると思います。準備期の仕事はバックステージでの仕事で、この時期は一方でそれまでのままのコースで(2)と(1)の仕事をしながら、その一方で、教育企画と基本教材開発の仕事をすることになります。試行期になって、ようやく新たなコースのスタートとなります。詳細は省略しますが、教育企画と基本教材が「OK」であれば、この試行期を何とか一定の成果をあげながら仕事ができて、次の洗練期に入ることができます。教育企画と基本教材が「NG」であれば、また(新たな)準備期に戻る(出直し)、あるいは大幅修正期?に入ることになります。順調な試行期を経たあとは、さらに洗練期に入ります。試行期と洗練期を通して、授業担当する教授者が、当該の教育企画や教材をよく理解し咀嚼し、具体的な教育実践へと展開する高度な専門家としての資質・能力・技量が高度化する時期となります。洗練期の教授者の資質等の高度化は、時に「新しい地平が見える」というような「生まれ変わる」ような経験になるでしょう。この言い方に基づくならば、新たな教育の企画には教授者の役割の変化や専門職としての教授者開発(teacher development)の要素があらかじめ組み込まれている、ということになります。当初の教育企画がひじょうに革新的な場合は、当然そうした要素が組み込まれているでしょう。そうでないと、決して革新的な教育実践の創造はできません。教育を具体的に実施するのは個々の教授者であり、その教授者が「旧態依然」の教授者であれば、革新的な教育が実現できるはずがありません。一つの新たなコースの開発というのは、このように時間と「馬力」のかかる、そして「巧妙な構想」を要するプロジェクトです。そして、そのようなコースの革新は、やがては(3)の提供するコースの革新につながるのだと思います。
 ああ、それで、結論。端的に言うと、ぼくは明らかに「派手」スタンスで仕事をしています。でも、「派手」スタンスながら、割合「地道」なのかなあ。根が「派手」ではないので。(これは、NJ研究会フォーラム マンスリー 2018年7月号に掲載された「羅針盤」です。)

2018年5月1日火曜日

羅針盤:日本語教育(学)というカイワイ(201805)

ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、
Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ
レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の
人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた?

カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視
点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地
域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周
辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定
の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模
を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界
上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ
イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、
簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン
ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結
びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連
づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし
ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが
いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、
誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。)

さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ
スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー
ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ
イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して
います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度
共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。

カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる
ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう
にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を
何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな
く、カイワイです。

で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい
は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内
実の一致・不一致はしばしば問題になります。

ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ
ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな
いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう
れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学)
というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。
http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。

結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう
に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の
関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで
す。

2018年4月22日日曜日

羅針盤:日本語教育と関連領域(201804)

新しい年度を迎えて、この春に大学院の修士や博士に入った方を少し意識して、この羅針
盤を書きたいと思います。日本語教育と関連領域とはどのような関係にあるかというテー
マです。

ご存じのようにぼくは、バフチンやヴィゴツキーやバーガーとルックマンなどをお勉強し
ていて、最近はますます関心が拡がりつつあります。そして、日本語教育と関係がありそ
うにも思えない、そんな研究者たちを採り上げてものを書くというようなことをしていま
す。しかし、そんなときでも、(1)日本語教育の企画と実践の創造のためという観点から、
(2)かれらの論のキモをつかみ取った上で、(3)日本語教育の企画と実践の創造のためにそ
れを再編成する、というようなしかたでやっています。

これまでぼく自身は自分のことを応用言語学者とは思っていませんでした。「○○学者」と
うまい名前をつけることができないと思っていました。これまでのぼくは応用言語学とい
う研究分野を、「個別言語を研究する」言語学にとどまらず、言語のその他の側面を扱う分
野、つまり社会言語学や機能文法や言語行為論などの知見も「応用」して言語教育を考え
る研究分野というふうに狭く規定していました。しかし、英国カーディフ大の百済さんと
いっしょに仕事をしていてわかったのですが、どんな分野に「はるばると遠征して行って」
も、その「遠征」の目的が言語教育の改善に資することで、どんなに「遠くに行っても」
やがては言語教育のところに舞い戻ってくるなら、それは応用言語学と言うらしいです。
そんな意味でいうなら、ぼくは応用言語学者でしょう。そして、応用言語学者であるなら、
(a)(言語教育政策や、さらに広くは言語政策なども含めて)言語教育に関心を置くこと、
(b)一人の研究者でもいろいろな方面に「遠征」して行くという「マルチ性」を持っている
こと、(c)「遠征」先の分野をただ紹介するのではなくクリティカルに検討してそこから言
語教育に関連する洞察を引き出すこと、そして(d)言語教育に舞い戻ってくること、という
要件が必要です。

日本語教育学の関連領域は、言語学や日本語学さらには言語社会学などにとどまらず、心
理学系、社会学系、人類学系などさまざまな分野にますます!?拡がりつつあります。今、
日本語教育学の人はそれぞれいろいろな方面に「遠征」に出かけて行っています。しかし、
日本語教育学の人(「日本語教育学」という看板を上げている限り、これは本来日本語応用
言語学者なのだろうと思います)は、「遠征先」の分野をクリティカルに検討しているでし
ょうか。そこから深い洞察を引き出しているでしょうか。またマルチになっているでしょ
うか。そして、最も重要なことは、日本語教育に関心を置き、日本語教育に舞い戻ってき
ているでしょうか。日本語教育に比較的近い関連分野に「遠征」する人は、あまりにも直
截に(短絡的に?)知見の応用をしようとする傾向があるように思います。その一方で、
新しい関連分野に「遠征」する人は、あまりに遠くに行ってしまって、「迷走して」しまっ
たり、うまく日本語教育に戻れなくなったりする傾向があるように思います。

これから大学院で勉学する人たちは、先生たちや先輩たちから「研究! 研究!」、「論文! 
論文!」と責め立てられるでしょう。「そんな教育にベタなテーマではだめ! もっともっ
とテーマを局所的に絞らないとだめ!」とも厳しく言われるでしょう。「研究(らしい?)」
プロダクトを出すためには、そんな先生や先輩たちの言葉に耳を傾けるのが、当面は必要
だと思います。しかし、日本語教育への関心は捨てないでほしい。そして、(当面は)自身
の研究分野を極めて、そこから日本語教育のための洞察を引き出して、それを携えて舞い
戻ってきてほしいと思います。

羅針盤:虚心坦懐・融通無碍(201803)

2月某日。外は寒いながら、南向きの研究室は日差しがたっぷりと入って、うららかな陽
気です。お弁当を食べながら思いついたことをつらつら書いてみたいと思います。教育実
践の創造と研究ということについてです。(いつもは、書きたいモチーフがあって書き始め
るのですが、今回はどういう結論になるかわかりません。)

たぶん前にもこの羅針盤で書いたことがあると思いますが、ぼく自身は自分自身が優れた
授業をすることには関心を置いていません。そんなのはあまりにも当たり前のことでとっ
くに「解決」しています。そんなところで「うろうろしている」なんてありえません。で、
ぼくの関心は自身の実践の創造ではなく、むしろ、最も身近では、(1)自身がコーディネー
タをしているコースで優れた実践が行われること、そしてもう一歩広くは、(2)ぼくが属し
ている機関の多くのコースで優れた実践が行われること、さらに広くは、(3)ぼくが考案し
た教育企画とそれを支える教材を活用していろいろなところで優れた教育実践が行われる
こと、です。(そして、その付随として、日本語教育者の「意識」を変革することです。) 
こんなふうに大それたことを考えるのは、実は多くの日本語教育者はalternativeな教育
企画と教材を求めているとの認識?感覚?がぼくにあるからです。つまり、期待され求め
られているのは具体的な(包括的な)alternativeな提案であって、(a)教え方のアイデア
や、(b)習得や習得支援に関する理論的な「能書き」ではないし、(c)特定の文法現象につ
いての日本語学的な研究や、(d)第二言語習得の原理に関連する実証的な研究の知見でも
ない、と思います。世間的には(a)から(d)のようなものが求められているようにも見えま
すが、実際に「心の底から」求められているのは、具体的な(包括的な)alternativeな提
案だと思います。しかし、多くの日本語教育者は「基礎段階の教育で文型・文法事項を柱
とした教育以外に、組織的な教育(つまり重要な諸事項・諸内容を相当程度に網羅してい
る教育)はできない、つまり「画期的な」alternativeな教育企画や教材は考えられない
と思っているフシがあります。もしalternativeが不可能であるなら、基礎から中級にか
けての日本語教育の「停滞」は今後も続くことになります。そして、そんな「従来通り」
の枠組みの中では、教授者が(a)から(d)のようなことを勉強して身につけたとしても、「焼
け石に水」です。…というような認識でぼくはalternativeを提案し続けています。

次に、ぼくが提案するalternativeの発想やアイデアの源はなにか! ヴィゴツキー? バ
フチン? バーガーとルックマン? ブルーナー? そうではありません。じゃあ、クラシェ
ン? それもちがいます。もちろんかれらのおかげでぼく自身の考えがより洗練されてく
るわけですが、そこが源ではありません。源は、明らかに「ぼくが学習者だったら、こん
な教育企画をしてほしい、こんな教材がほしい、こんな授業をしてほしい!」です。この
源から虚心坦懐(←この使い方、少し変かも)、融通無碍に考えて発想やアイデアを創出す
れば、大きく間違うことはないと思っています。(←ほんまかいな!<桂文枝さん風に>) 
「間違うことはない」の根拠は?

何か「物事を見る目」のようなものがあるのでしょうか? 虚心坦懐・融通無碍に考えれ
ば誰でも物の道理はわかるはず!と思っているフシがあります。

羅針盤:仕事と価値(201802)

昨日(1月30日)は、早稲田で竹田青嗣氏の講演があり、細川さんといっしょにディスカ
ッサントとして参加しました。会場は40人くらい参加の満員御礼でなかなかおもしろい
議論ができました。で、この機会をきっかけに考えたこと。

わたしたちは、日本語教育(学)の仕事をしています。わたしたちの「お客さん」あるい
は受益者は、日本語教育の場合は日本語科目を履修してくれている学生、日本語教育学の
場合は、学部や大学院の授業を履修してくれている学生及び研究指導学生です。このあた
りは、教育領域のお仕事となります。この上に、日本語教育学では、学会発表をしたり論
文を書いて出版したりすることも(まあ)仕事です。そして、そういう成果をまとめて本
を出版するのも「おまけ的な」仕事です。わたしが属する学校では、研究業績の基本は論
文です。本は「おまけ」です。このあたりは研究領域のお仕事となります。さらに、大学
教員としては、管理運営(委員会出席や各種書類作成など)と社会貢献があります。

教育領域の仕事は自身が直截担当している授業をつつがなくやっていればそれでとりあえ
ずは「合格」です。日本語教育(学)関係の教員の場合はコーディネーションの仕事が大
いに時間と手間がかかりますが、この仕事は(大学の立場からは)あまり評価の対象にな
っていないように思います。教務関係の仕事(授業科目の編成、教師の任用と配置、TAの
募集・配置など)もかなり時間と手間を要する仕事ですが、(同じく大学の立場からは)「雑
用の一種」のように扱われているように思います。一方、研究領域の仕事については、と
にかく具体的な業績を出すことが求められています。研究をしていても、具体的な成果を
出すことができなければ、やっていないことになります。

で、ここからが本論。教育の仕事も研究の仕事も、つつがなく堅実にやっていればそれで
「マル」です。教育の特段に高い質や、コーディネーションをしっかりやってチームの教
育成果を充実させることや、論文が高く評価されることは、特に期待はされていません。
最近は、各大学で、教員の優れた教育実践や研究成果に対して学長賞などを出しています
が、その選考基準は何だかあいまいなようです。(例えば、「学生による授業評価に基づい
て」というのであれば、妥当性は別にして、基準は明確です。アメリカなどではそういう
基準日基づくawardがあります。) また、研究に関しては、教育活動としては主として日
本語を教えるということをしている人でも、文学や宗教や昔の日本語などの研究をしてい
て何の問題もありません。それと同じデンで、純粋に文法や音声や社会言語学的な研究を
していても、やはり何の問題もありません。つまり、日本語教育(学)という看板を掲げ
ていても、研究は「好きなように」やって「差し支え」はありません。一大学教員として
の研究領域のお仕事としては、日本語教育に資するかどうかなんてぜんぜん考える必要は
ないのです。

大学のセンセのお仕事としては、日本語教育(学)の人間であっても、ハッチャキに教育
を革新したり、日本語教育に資する新研究領域を開拓したりするなどは取り立てては期待
されていないということです。例えば教育活動に関していうと、一部の非常勤講師の人た
ちに居心地の悪い思いをさせてしまうかもという危険を冒してまで大胆な教育改革をする
必要はない、ということです。(専任教員という立場を利用して「わがままな」教育改革を
している先生はいらっしゃるようです!) 研究についても、新規の(珍奇な?)研究領域
に大胆に踏み込んでいくよりも、オーソドックスな研究をしたほうが「お友だち」がたく
さんできていいかもしれません。

結論。ぼくは長年、現在と将来のたくさんの学習者のためにと思って教育企画と教材制作
などをしてきました。また、日本語教育(学)に資する研究をしたいと思って、バフチン
の研究をし、現在はバーガーとルックマンの知識社会学やブルーナーのフォークサイコロ
ジーの研究などをしています。コーディネーションの仕事も特に「今は!」というときは
ひじょうに力強くやってきました。でも、「学習者のため」とか「日本語教育(学)に資す
る」というのは、自身の仕事の指針とドライブ(駆動力)として(密かに?)持っていれ
ばいいわけで、人に喧伝したり、その部分で認めてもらって評価してもらおうなどとは思
わないほうがいいのではないかと、この数日に気がつき?ました。つまり、ぼくは、やる
べき仕事をつつがなく堅実にやることと自身が「価値あり」と思うことをうまく結びつけ
ながらやっている、ただそれだけでいいじゃないか、ということです。

ぼくは経済学部出身です。そして、1年生の経済学原論で先生が「経済活動とは価値を産
出することだ!」とおっしゃったのを今でも覚えています。つまり、経済活動は本来「お
金を稼ぐこと」ではなく、「価値を創造することだ」ということです。(ただし、既存の価
値の創造も価値の創造の一種であることに注意!) この一言は、それ以降のぼくの仕事上
の生き方に羅針盤を与えているように思います。ぼくにとって、一つひとつの仕事につい
て「価値」を考えないでそれをすることはできません。ただし、その場合には「何が学習
者のためになるのか」、「何が日本語教育(学)に資するのか」はあらかじめわかっている
わけではなく、この部分自体も根本としての議論の対象になります。いずれにせよ、その
あたりのことも(無意識的にでも、真摯に意識的にでも)考えながら仕事をしている人と
の対話は、基本の部分が共感できて、とても楽しいなあ。皆さんも、そんなこと、せめて
時には、考えてね!

羅針盤:日本語教育学は独立した研究領域になった!?(201710)

ルビュ言語文化教育の638号に本田広之さん(北陸先端科学技術大学)が「自著を語る」
を書いていらっしゃって、その流れで日本語教育学の現在の状況や本田さんが当該の本を
書いた意図などを語っていらっしゃいます。本田さんの話は2つの意味でぼくには「楽観
的」だと感じました。一つは、日本語教育学はすでに独立した研究領域になっているとい
う認識。もう一つは、本田さん自身が(当該の本を書いたことも含めて)日本語教育学を
実践していらっしゃるという認識です。

個々の認識についての反論はどうもうまくできないので、ぼく自身の認識や考えをつらつ
らと書きたいと思います。根本は「日本語教育学とは何か」の問題です。本田さんの論で
は「日本語教育に関わっている大学のセンセ等が学問をしたらそれが日本語教育学」とな
ります。まあ、そういう見方をすれば、日本語教育に関わっているセンセたちは相応に研
究発表をしたり論文を書いたり本を出したりしているわけで、相応の日本語教育学の隆盛
があることになります。そして、自身の研究が地元のサインシステム制作会社の方や議員
さんの目にとまって相談の申し出があったというエピソードを紹介されています。う…ん、
何だか変! それって、日本語教育学? 日本語教育に関わっているある種の大学のセンセ
たちからは「日本語教育は日本語研究の宝庫です!」という言葉をよく聞きます。これも
ちょっと違う気がする。ぼくとしては、間接にでも日本語教育の実践に資することができ
るものであってこそ、日本語教育学だというイメージが強いです。このイメージで行くと、
ヨソ(日本語研究や効果的なサインの制作など)に貢献する研究はそれはそういう研究で
あって、日本語教育学とは言えないということになります。抽象的に言うと、日本語教育
の実践からアウトバウンドしてヨソに行ってしまう研究は日本語教育学ではない! 一旦、
研究として実践からアウトバウンドしたとしても、日本語教育の実践に戻らないとつまり
インバウンドしないと日本語教育学の研究とは言えないでしょうという気持ちがぼくには
「根のように」あるようです。

「それなら、お前は(間接にでも)日本語教育に資する研究をしているのか」と問われる
と自信を持って「Yes!」と言うつもりはありません。院生の修論や博論の指導のときに世
の「日本語教育学関係のセンセ」たちは「あなたの研究がどのように日本語教育に役に立
つのかを書きなさい!」と指導すると多くの院生から聞きます。ぼくは「斯く斯くのよう
に役に立つというようなことは書くな!」と指導しています。「研究で明らかになったこと
が直截に教育実践に役に立つなどというresearch into practiceの発想はあまりに単純
だと思うからです。

結論に向かう…。日本語教育に関わる大学のセンセは、研究活動をして具体的な「成果」
を出すのがいいと思います。それは、フツーに大学のセンセとしてのお仕事の一部だから
です。そして、それをしていないと、他の部局のセンセたちから「大学のセンセの端くれ」
とも認められません。そして、「立派な大学のセンセ」と見られるためには、その研究と同
分野の研究者や隣接他分野の研究者から十分に評価される研究をしなければなりません。
研究というものは研究なので、研究の発信元も発信先も否応なく研究者とならざるを得な
いと思います。研究を評価するのもやはり研究者です。(日本語教育に関わるセンセ同志だ
けでやり合っている間は、その研究が「本物」かどうかわかりません!)

ぼく自身としては、自身の研究は、外国出身者に対する日本語教育という言葉を扱う仕事
に真剣に従事している者らしい視点や観点や通常の研究者にはない実用志向などが織り込
まれているものでありたいと思っています。そこのところで、日本語教育に従事している
研究者は「おもしろいなあ!」「なかなか鋭いなあ!」と評価されるようになりたいと思っ
ています。もちろん、繰り返しのようになりますが、そのおもしろさや鋭さはプロパーの
研究者にはないものがあるという程度のことです。総合的な研究としてのクオリティは、
プロパーの研究者に敵うわけがありません。年季と「読書量」(学識や博識ぶり)があまり
にも違います! その一方で、facebook記事
(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=799202946908009&id=100004549
323842)
で書いたような、教育実践者による教育実践を検討するためのニュールック応用言語学の
ような研究もしているし、多くの方々といっしょにそういう研究活動をして一つの研究領
域として確立したいなあと思っています。

結論。「あなたはなぜ研究をしているのですか?」と問われたら、ぼくの答えは「それがお
仕事だから」です。しかし、続いて「単にお仕事だから研究をしているのですか?」と聞
かれたら、「『単にお仕事だから』ではありません。もう一つのぼくのお仕事である日本語
を教えるということとぼくの中でつながっていて、その両方を行ったり来たりするのがお
もしろいからです」と答えます。ですので、ぼくにおいては、お仕事の同僚とはその両方
を行ったり来たりしながら議論するのが楽しい! 7月10日発信のICPLJの記事
(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=787645494730421&id=100004549
323842)
の中で紹介したサンフランシスコ州立大学の南先生もきっと同じようにおっしゃるだろう
と思います。そんなぼくや南先生などを見て、研究も日本語教育実践も両方する人に、院
生たちや若い実践者の方たちが成長していってくれたらいいなあと思っています。それに
しても、研究というのはやっかいなヤツですが…。

羅針盤:気がかりと、長期的な展望と中期的な企画と短期的な計画と実行(201708)

2017年7月8・9日の両日にわたり国立国語研究所で実用日本語言語学国際会議ICPLJが
開催されました。その報告は、同翌日にfacebookで発信しましたのでそちらをご覧くださ
い。(https://www.facebook.com/profile.php?id=100004549323842)この羅針盤では、一
部ICPLJにも触発されたタイトルのようなことを話します。基礎日本語教育の革新につい
てです。

もちろん日本語教育というお仕事に関してですが、物事を真摯に考える人であるならば、
「現状」を見て、気にかかることがあれこれあるでしょう。表面的な些細なことではな
く、重大な根本に関わることについての気がかりです。ただし、ここに言う「現状」は第
一義的には自身が関わってある種の責任がある目の前の教育現場の「現状」です。ヨソの
ことは二義的です。まずは「自身の足許の改革から」です。自身がまさに日本語教育の現
場をもっていながら、「現在の日本語教育は…」と大上段に立ってあれこれ大げさに課題
を並べ立てるのは詮無いこと。大事なのは個々の現場における改革の推進です。そして、
自身の現場の「現状」にあれこれ憂いがあるのであれば、憂えていてもしかたがないの
で、改革を考える! 改革は、長期的な展望と、中期的な企画と、短期的な計画と実行、
というふうに「したたかに」やる。目論見を隠して改革をしようとする人もいます。ま
あ、それはそれでいいですが、ぼくの場合は、隠し立てはしません。で、ここでは、気が
かりと中期的な企画について話します。

基礎日本語教育についての長期的な展望は「優れた教育実践を実現すること」です。それ
に向けた第一弾の改革目標の背後にある「気がかり」は、言語事項の呪縛でした。まず
は、教師も学習者も言語事項の呪縛から解放しなければ「最初の一歩」を踏み出すことが
できない。で、そのためには新たな言語観と言語習得観に基づく基礎日本語教育の企画と
それを支える教材を作らなければならない。それが自己表現活動中心の基礎日本語教育の
企画であり、NEJでした。そして、ぼくの所属機関ではすでに十分にこの「最初の一
歩」を踏み出しそれを越えた領域に入っています。同僚の先生方も同じように考えていら
っしゃると思います。

で、ぼくとしては、この言語事項の呪縛から解放された領域に入ると、控えさせていた次
の「気がかり」を次の教育改革の課題として前面に出すことになります。それは、「学習
者に注いで吸収させる『栄養』が足りないのではないか」「栄養失調のような授業をして
いるのではないか」という気がかりです。そして、その気がかりについて、ぼくは直接的
に何かを改革することはできません。なぜなら、それは個々の授業の問題だからであり、
それゆえ個々の先生の授業の仕方に帰するからです。しかし、直接的には何もできません
が、間接的にはあれやこれやできます。こうして「栄養分が足りてないよ」「もっと日本
語的な栄養分をたっぷりと供給する授業をしよう!」と叫ぶこともその一つです。また、
最近「自己表現活動中心の基礎日本語教育の教育企画(教育のマトリクス)」という資料
も作成し先生方とシェアしました。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とNEJでわたしたち(わたしの現場)は、言語事項の
課題を包摂する形で言語事項の呪縛からの脱却を果たしました。次に来るのは、「栄養価
の高い授業実践」です。そして、さらに次に控えている第3歩は、「多水準的で多面的で
多事項的な授業実践」です。第一歩ももちろん「問題意識とかなりの経験といい感じの直
感」をもっている優れた教師集団がいなければなかなか実行はむずかしいです。(でも、
実は「いい感じの直感」は掘り起こすことができる!)そして、第二歩と第三歩は、ほん
とうはぼくが「出る幕」でもないのですが、わたしたちとしてさらに上をめざすためにや
っぱり「しゃしゃり出てしまう」ようです。そして、ぼく自身はヨソのことも引き続きぼ
ちぼちやります。でも、やはり、ウチのことが一番大事です。仲間の先生方、これからも
改革をいっしょに楽しんでね!