2018年5月19日土曜日

大学の先生というのは物好きであることが本来

 ある院生のレポートの中に、「第二言語教育について考えるために、なぜ社会学、心理学、言語学、応用言語学といった分野を見る必要が出てくるのか(ということを自分なりにも考える必要があると感じた。)」との一節がありました。
まず、ちょっと「遊ぶ」と、この文は多義的ですね。つまり、「なぜ」が、「社会学、心理学、言語学、応用言語学」に係っているのか、「見る必要があるのか」に係っているのか、です。たぶん、学生の疑問は、「なぜ(そういう分野を)見る必要があるのか」だろうと思います。では、本題に。
 ぼくのこたえ。二方面で。まずは、学術研究的に言うと、「究明されていないから」。これで、終わりです。明らかになっていないことを、見つけたら、「では、わたしはこのあたりを明らかにします」でよい、ということになります。表題にあるように、大学の先生というのは、本来、物好きです。その探究・究明の活動に「なぜ?」とか「何のために?」は要りませんし、ましてや「何の役に立つの?」などはそもそも大学の先生には「無関係」で、むしろ「役に立つ」云々を考えると、研究が「不純」になります。そして、本来の大学の先生はそれでいいのです(orよかったのです??)。
 次は、日本語教育学?的?に先の質問にこたえると、「現在の日本語教育の状況や、それに従事している人たちはみんな迷妄の中にある。その結果として『いい仕事(学習者に質の高い教育を提供すること)ができている』とはとても思えない」と(ぼくは!)思うので、その迷妄を少しでも「晴らす」ためにそういう研究をする、となります。これは本来の研究として、「動機不純」でしょうか。うーん、「動機不純」という必要はないでしょうね。研究者自身に教育実践への「関心」があって、教育実践を「ながめた」ときに、「どうもそこに(大きな)課題がありそうだ」と思って、「そこ」に注目しておもむろに研究を始めるというのは、正統な研究動機」と言っていいでしょう。日本語教育学としての問題は、「おもむろに」の前(研究動機)と後(研究)の区切り・けじめです。
 で、その「区切り・けじめ」に関連してまた他の院生からおもしろい指摘がありました。その学生のレポートの末尾に「現在の日本語教育の企画や実践がいかに理論的に見ていびつかを説明しても、どれほど受け入れられるのかわからない」という指摘がありました。この学生の指摘は「まさにおっしゃる通り」です。つまり、研究をしてその産物を学会発表や論文や本の形で公にしても、そもそも「迷妄な人たち」の耳や目に入るかどうか、仮に入ったとしても関心をもってもらえるか、関心を持ってもらえたとしても分かってもらえるかど、そしてうまい具合に分かってもらえたとしても受け入れてもらえるか、という問題があります。この学生の指摘は、このようにひじょうに「現実的な」指摘です。研究の中身や質に関わることではありません。そして、現実の世界では「普及」(自動詞&他動詞)ということが中心的な問題になります。「素晴らしい新製品」を開発しても、「マーケッティング」(これは、「他動詞」になりますが)が悪いと、売れないし使ってもらえない、ということです。そして、この「普及」ということを考えると、「ユーザー・フレンドリーであるかどうか」が問題となります。つまり、読んで分かってもらうためには読みやすく分かりやすく書かなければならないということです。しかし、探究・考究を終える前に「ユーザーフレンドリー・バージョン」を書くことはできません。まず学術研究としてしっかりとやって、その上で広く多くの人に分かりやすい本を別途書く、という二段構えでやる必要があると思います。しかし、「学術研究」を経ないと「分かりやすい本」は出せませんので、大いに時間がかかります。(世の中には、「学術研究」を経ないで、いいかげんな「分かりやすい本」を書いている日本語教育学者?がたくさんいる!?)
 研究活動において物好きほど「強い」ものはありません。その分野のことが好きで、「何のために」など考えることもなく探究・考究に邁進できるわけですから。大学の他の分野の先生の様子を見ているとそんな具合です。恐るべし!です。読書量が全然違う!! 
 そんなことで言うと、「そもそもわたしの関心は日本語教育(の教育実践)です」というところが、研究者をめざすことにおいて「動機不純」です。研究という何とも動機が純粋で心が無垢なところに、「日本語教育に役に立つ研究をしたい」などと言う不純な・世間ズレした(・泥臭い)人間が入ろうとするのは、どうかなあ。また、そういうそもそもが「動機不純」な者は、物好きにかないません。じゃあ、どうする? 実践研究という自分たちらしい新たな研究分野を開拓する? それとも「研究」に「身を売る」? どうしましょう? 問題の焦点は、「不純さ」「世間ズレ」「泥臭さ」を克服していかに(再)純化するか、かなあ? (再)純化したら「『研究』に『身を売る』ことになる!」? そうなることもしばしばでしょうが、そうならない道もあるだろうと思います。いずれにせよ、道を拓かなければならないと思いますが。


2018年5月18日金曜日

日本語教育(学)というカイワイ(201805)

ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、
Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ
レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の
人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた?

カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視
点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地
域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周
辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定
の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模
を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界
上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ
イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、
簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン
ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結
びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連
づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし
ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが
いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、
誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。)

さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ
スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー
ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ
イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して
います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度
共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。

カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる
ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう
にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を
何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな
く、カイワイです。

で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい
は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内
実の一致・不一致はしばしば問題になります。

ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ
ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな
いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう
れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学)
というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。
http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。

結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう
に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の
関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで
す。

2018年5月11日金曜日

さまざまなイデオロギー圏(ver.2)

以下、さまざまなイデオロギー圏についてのメモです。
 
※社会文化史あるいは文明史はイデオロギー圏の増殖の歴史である。
※仮想領域のイデオロギー圏の中で具体的な仮想イデオロギー現象(行為、出来事、ハナシ)を張り巡らす。そのように張り巡らされた世界がわたしたちにとって重要な(
siginificant)実在である。
※そして、わたしたちは、主として言語、より広くはさまざまな記号によってイデオロギー界を立ち現せ操縦する(operate)ことができる。
※ 1はいろいろな意味ですべてのベースラインで、短潔で臨機応変な言説実践で構成され共有される日常生活のイデオロギー圏。2から6は、テクスト的に練り上げた言説実践によるイデオロギー圏。そして、それらはしばしば1の脈絡でそれに編入される。そのときは、しばしば「断片的でくずれた」形になる。各イデオロギー圏の間には重要な間テクスト性の関係がある。そして、それらが主要部を占める場合に、7となる。

1.日常生活のイデオロギー圏
※わたしたちが経験するのはイデオロギー的な行為、イデオロギー的な出来事、イデオロギー的な「あなた」と「わたし」である。わたしたちの経験でイデオロギー的でないものはない。
※日常生活のイデオロギー圏は、きわめて多種多様である。生活活動のさまざまな領域、生産や仕事の活動のさまざまな領域を考えよ。ただし、仕事という場合にホワイトカラーの仕事は高次のイデオロギー圏での仕事になることに注意(cf.7)。
※そして、しばしば2から6の要素が変形されて編入される。
(1)生活のイデオロギー圏
(2)生産・仕事のイデオロギー圏
(3)インターアクティブな日常的なトークのイデオロギー圏

2.ナラティブのイデオロギー圏
(1)日常的状況でのナラティブのイデオロギー圏 ─ 一方向的な一人語り的な話
(2)あらたまった状況でのナラティブのイデオロギー圏 ─ 体験・経験などのお話会・講演。カウンセリングセッションや尋問などで引き出されるナラティブも含むか?
(3)自叙伝の世界

3.物語のイデオロギー圏
(1)神話のイデオロギー圏 ─ 原始的な部族の創世神話なども
(2)叙事詩のイデオロギー圏 ─ ホメロスやヘシオドス(口承、吟遊詩人の系譜)、古事記(稗田阿礼)や日本書紀
(3)歴史物語のイデオロギー圏
(4)昔話・説話のイデオロギー圏 ─ 今昔物語集、うつほ物語
 → フィクションのイデオロギー圏へ

4.規律のイデオロギー圏
(1)基本的な振る舞い方のイデオロギー圏 ─ しつけ、約束事、校則
(2)倫理・道徳のイデオロギー圏 ─ 人として生きる道
(3)宗教のイデオロギー圏 ─ 聖典。(2)の要素も含まれるし3の(1)の要素も含まれる。
(4)法律等のイデオロギー圏 ─ 法典、憲法と法律と条例など。

5.学問のイデオロギー圏
(1)自然科学のイデオロギー圏
(2)人文科学のイデオロギー圏
(3)哲学のイデオロギー圏
(4)サイエンスのイデオロギー圏

6.芸術のイデオロギー圏
(1)演劇のイデオロギー圏(イーリアス、オデュッセイア)
(2)戯曲のイデオロギー圏
(3)歴史的物語のイデオロギー圏
(4)物語のイデオロギー圏
(5)小説のイデオロギー圏

7.教養のイデオロギー圏
(1)さまざまなテーマのイデオロギー圏
(2)文化活動のイデオロギー圏
(3)ホワイトカラーの仕事のイデオロギー圏
(4)詩のイデオロギー圏
(5)随筆のイデオロギー圏

Q&A

Q1 なぜ、イデオロギー世界ではなく、イデオロギー「圏」か?
A1 すべての基本は生きることの営みです。そして、わたしたち人間は、自然界で生きる存在でありながら、イデオロギー圏でも生きることを営む存在だということになります。自然界は、環境と身体と生理機能や本能に基づくものとしていわばもともと自然としてそこにあるものなので、自然「界」でよいと思いますが、イデオロギーの世界は、(1)もともとの自然としてはそこにない、(2)人間の創造物としても(a)実在としてそこにあるものではなく、(b)常に構成・再構成を続けて産出と維持をすることによってこそ立ち現れるものなので、仮想領域としてイデオロギー「圏」があって、そのイデオロギー圏に具体的な(言語的や記号的)振るまいによって具体的なイデオロギー現象(行為や出来事やハナシ)を立ち現せ(張り巡らせ)共有するということになると思います。ですので、やはり、このリストでは、イデオロギー圏、です。

Q2 「ナラティヴ」とか「語り」という言葉を、どんな次元で論じるのかで人によって捉え方が違うと思われる。上のさまざまなイデオロギーでは、2としてナラティブのイデオロギー圏を、そして3として物語のイデオロギー圏を挙げているが、例えばブルーナーの言うナラティブはもっと包括的な概念ではないか?

A2 上に書いたように、(1)すべての基本は生きることの営み。その上で、(2)人間には社会文化史的な生きる世界(イデオロギー圏)の発展ということがある。ですので、それをまず望観してみた、ということになります。上に書いたようにイデオロギー圏というのは仮想現実の領域です。そして、その仮想現実の領域があるものとして、わたしたちは言語や記号を操縦して(operate)して、行為、出来事、ハナシなどの具体的なイデオロギー現象を立ち現せて(張り巡らせ)共有する、となります。ここで、ハナシという新しい用語を提案したいと思います。物理的な活動に直截に関連する行為や出来事などのイデオロギー現象とは異なり、物理的な活動とは直截に関連しないという意味で脱脈絡的なイデオロギー現象をかもし出す行為とその産物の総称です。そして、そのようなハナシという用語を使うなら、2から7はすべてハナシとなります。ブルーナーにおけるナラティブは、ここに言うハナシのことを言っている場合もあるし、2を言ったり、3を言ったり、6を言ったりしている場合もあります。なので、広義のナラティブはハナシとし、2に限定してナラティブとしたほうがよいかなあと思っています。

2018年5月1日火曜日

羅針盤:日本語教育(学)というカイワイ(201805)

ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、
Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ
レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の
人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた?

カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視
点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地
域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周
辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定
の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模
を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界
上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ
イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、
簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン
ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結
びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連
づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし
ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが
いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、
誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。)

さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ
スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー
ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ
イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して
います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度
共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。

カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる
ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう
にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を
何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな
く、カイワイです。

で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい
は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内
実の一致・不一致はしばしば問題になります。

ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ
ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな
いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう
れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学)
というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。
http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。

結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう
に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の
関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで
す。