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2019年6月18日火曜日

マスターテクストの作成法・制作法

マスターテクストの作成法・制作法

1.2つのマスターテクスト
(1)教材としてのマスターテクスト
(2)学習者の自分の声としてのナラティブ(マスターテクスト)

2.学習者の自分の声としてのナラティブ(ライフストーリーインタビューとナラティブ制作の活動)
・簡単に言うと、日本語活動しているボランティアは、(入門は別にして)日本語を教えようなんてしないで、ライフストーリーインタビューをすればいい。
・そのような形で、学習者の声を引き出して、それをしっかりと受け取る。そして、それをその本人が自身の声として発することができるように、その人がわかって覚えられる日本語のナラティブとしてまとめあげる。

3.教材としてのマスターテクストの制作
3−1 基礎編
・NEJ指導参考書の第6章に書いてあるとおりです。
・ここでは、「プロトタイプ的な人物をできるだけ具体的に設定して」と「ユニット間で事実関係のそごがないように」とだけ注意している。
・看護候補者の「フィタさん」を例とした、p.86(ユニット8 わたしの家族)、p.87(ユニット15 わたしの将来)は、いい例になると思います。(布尾くんにも見てもらった!)
※この作業を学習言語事項を「適度に」意識しながら行わなければならない。

3-2 発展編
・基礎編は語学素材の域を出ていない。
・発展では、(1)キャラを立たせること、(2)全体として小説的な?モチーフがあること。
・NEJでは、キャラとしては、リさんは「中国系のマレーシア人で、優等生」、あきおさんは「理系の学生だが山の会の部長でリーダーシップがある。彼女ももちろんいる」というキャラ。
・そして、小説的なモチーフとしては、(a)リさんとあきおさんの関係はどうなるのだろう。あきおさんの現在の彼女と三角関係?、(b)リさんはユニット11で「生活がしんどい」とちょっと弱音を吐き、supplementary unitでいよいよ「悩み」、あきおさんの山の会に入会することになる。(c)リさんの「その後」はNIJの会話で続く。(d)NIJの会話では、ユニット7で出会った中田くんとリさんの12回、24の会話となる。
・小説的なモチーフまでは必要ないと思うが、キャラを立てるというのはぜひ!です。
※この作業を学習言語事項を「たくらみ」ながら行わなければならない。

4.マスターテクストを作成する技量
・基本的な技量は「ものを語る」・「ものを書く」技量です。日本語の先生は、自分たちは「ものを語ったり」「ものを書いたり」する立場ではなく、日本語という素材を教える・わからせる立場だと思っているので、この基本的技量がある人はひじょうに少ない。また、その方向で、自分を伸ばそうという姿勢もない。
・次に必要なのは、はやり、作家さん的な技量。NEJを制作するときには、まずは全体の構想を練った。これにすごく時間がかかっている。

2019年6月17日月曜日

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育) ─ つながる日本語の習得と習得支援

多文化共生社会の創造を推進する、人として人とつながって暮らすための日本語の習得とつながりながらの日本語習得支援(教育)
─ つながる日本語の習得と習得支援

1.就労者・生活者にとっての「日本語の課題」への対応の現状
1−1 ニーズという視点の落とし穴
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・仕事が日本語で運営できるるようになる?、生活を日本語で運営できるようになる?
・ニーズの調査によって、「実用的な」必要性を知ることができ、「実用的な日本語のゴールの一覧表」は得られる。※介護・看護の試験対策などは当面議論対象外とする。
・(1)実用的でない日本語は見落とされている。
 (2)日本語習得のルートという視点がない。

2-1 作られた 「喫緊の課題」
・仕事のための日本語、生活のための日本語
・でも、それって、基礎日本語力の保障のための制度と実践が行われている上で、言うことでしょ!
・その第一段階ができていないのに、自分たち(産業界とそれと関係した政治家?)が作った状況・都合の中の顕在的な課題を喧伝して、「これが喫緊の課題だ!」と言うのは、いかにもご都合主義?でしょう!
・そして、それ(第一段階も第二段階も)を、公的にやらないで、「ボランティア」に委せているというのはどうでしょう?

・一方で、そのように捉えられた「喫緊の課題」は、パウロ・フレイレの言う「機能的識字」獲得の要求でしょう。(その獲得が、本人にとって一定の「有益さ」はあるわけだが。)

☆産業界のご都合主義の機能的日本語に振り回されていないか!?

2.代替的な視点
2−1 さまざまなモチベーションで日本に来る外国出身者
・外国出身者にとって入管法やそれに基づくビザ制度などは、まさに「制度」でしかない。
・外国出身者は「さまざまなモチベーション」で、制度に準じて(あるいは利用して)日本に来る。
・また、明確に一時滞在希望の人(出稼ぎやワーキングホリデー感覚者)もいるし、永住志望の人もいるし、両者が混ざっている人もいるし、途中で変わる人もいる。
・在住外国人の一部?は、地域の日本語教室を「上手に」利用している。
※中国からの帰国者や、国際結婚の人や、定住志向の日系人などの本当の生活者は別。

2−2 人としての視点
・人は「実用」のみに生きるにあらず。人は人として人とつながって毎日を暮らす!
・人とのつながりは、創造である。無(今までなかった!)から有(今はある!)が生まれる。
・つまり、人との人との関係は、創造であり、それは当事者(たち)が当事者として自ら創造するもの。
・創造しなければ、ない。

・「社会」というのは「そこにある」という様相を一方で見せながらも、実際には人々が日々の実践を通じて生産し維持し、そして徐々に改変しているものである。
・社会は、局在的な社会(local circle)を寄せ集めた総体という側面もあり、局在的な社会は相互に直接・間接に影響し合っている。

・「人として人とつながって暮らすための」という視点から見ると、就労者・生活者のための日本語の課題は違って見えてくる。

2−3 日本語の習得の第一歩
・就労者や生活(運営)者の前に「人として暮らすこと」があるのではないか。そのための日本語。
・「人として暮らすための日本語」が(長い)日本語習得の行程の第一歩ではないか。

2−4 声の獲得としての日本語の習得と習得支援

3.地域の日本語教室で何をする?
3−1 外国出身者にとっての日本語
・2−1の観点から言うと、「ニーズ」はあらかじめ決められないし、わかったとしても、変わるかもしれない。
・「N4がないと特定技能1で日本で就労できない!」というのは、「ニーズ」ではなく、その人の「都合」
・そもそも「ニーズ」などと言っているのが、日本(人)サイドの「一人よがり」
・そのような「ニーズ」に基づいた「生活のための日本語」や「就労のための日本語」などは、本当にかれらの日本語に関するモチベーションと合致しているか。→たいてい合致していないのでは?※技能実習生などにおける日本語能力試験のための勉強希望
・2−1の中の「軽快派」と、2−2、2−3、2−4の視点を考えると、「人として人とつながって暮らすための日本語」や「声の獲得としての日本語」を中心に据えて、同時に(1)日本語の基礎力の養成をして、その先の日本語能力試験や(2)より進んだ日本語力につなげてあげるのが、かれらの「関心」に合致しているのではないか。

3−2 市民ボランティアにとっての外国出身者と日本語
・市民ボランティアは、制度が作った「日本語の課題」を引き受ける必要はない。
・市民ボランティアは、何にせよ、日本語を教える「責務」を負う筋合いはない。
 ※市民ボランティアも「国民」として、産業界や政府が「作った」制度の「シワ」の部分を担う?
・市民ボランティアにとって、外国出身者は「好奇心」や「興味」の対象。
・ それでいい! だって、これまであまり「縁」がなかったし、日本に来ている外国出身者の当事者からあれこれ話を聞くのは「視野」を深め、局所的な共生社会創造の前進となる。
・「市民ボランティアは日本語を教える専門的な知識と技能をもっていない!」。だからどうなの?

3−3 日本語交流活動
・日本語教室は、さまざまな外国出身者と「日本人」が週に1回集まって、主として!日本語でワイワイする場所。
・お互いのいろいろな諸側面・テーマについて、毎週、主として日本語でワイワイすることを通して、交流を深め、日本語習得を促進する。=日本語交流活動
・そのためのリソースとして、NEJ、「日本語おしゃべりのたね」
─ ふつーの市民ボランティアが「活動」できる。
─ 継続的にやれば、日本語習得の成果が得られる。
─ 特にNEJは「体系的に」ワイワイできて、基礎日本語力を身につけて、(2)や(1)につなげることができる。
─ 局域的な社会からより広い多文化共生社会の創造へとつながる「化学反応」を起こすことができる。

4.結論
・つながる日本語の習得と習得支援
・多文化共生社会の創造の推進

2019年5月13日月曜日

活動中心と表現活動とニホンゴ

 表現活動中心の日本語教育の教育企画のキモは、言語を直接に扱わないが、言語の上達が自ずとついてくる、ということです。「活動中心」の部分です。そして、表現活動中心の日本語教育のもう一つのキモは、「表現活動」です。基礎では「自己表現活動」、中級では「テーマ表現活動」です。「表現活動」でぼくが意図していることは、「日本語を日本文化の土着性やしがらみから解放する」ということ、そして、個人における複言語の一つに位置づけるということです。日本語学校などでも同じような状況が見られると思いますが、大阪大学にいると、さまざまな国出身、さまざまな民族・母語・宗教の人たちが、日本語を共通語とした話している状況をよく見ます。かれらは、自身の中の複言語の一つとしての日本語で話しているわけで、土着的な日本語で話しているわけではありません。そして、「日本人と話す」というのは、かれらの複言語的な言語生活の中のワンシーンでしかないと思います。 ぼくはどうも「日本文化」というのがあまり好きではないこともあって、昔から土着的な日本語ではなく、文化のしがらみを免れたニホンゴを教えたいと思っています。 NEJやNIJの本文を見てください。日本文化の土着性を免れていると思います。 ただ、一方で、経験の言語化の過程で、その言語の「習慣」がどうしても関わってしまうことがあります。例えば、家族の話をするときは、一つの典型で、日本語では、「I have two brothers and two sisters.」とは言えません。以下省略。また、「休みの日に友だちといっしょにショッピングモールに行きました。I found so many people and variety of shops and restaurant.」のこの英語部分は、「人がたくさんいました。そして、いろいろな店がありました。」(NEJのユニット6)と言わざるをえません。このように、言語の話し方が経験の仕方をしばしば左右します。しかし、現代語の間では、「よく似た経験の仕方」が多いです。 いずれにせよ、「日本語」「日本文化」と並置するのは、ぼく的には「小耳ではない」です。しかし、学習者の多くがそのような「ニコイチ」で、日本語&日本に関心をもっているとも言えます。しかし、その場合でも今の若い学生たちにとっての「日本文化」は「入り口」としては、トトロや、ポケモンや、ドラゴンボールなどです。

先の記事で「自己の探究」について書いたので、「続き」

 NEJのナラティブとNIJの会話は、実は「リさん」の成長物語になっています。(実は、NEJのユニット7で「リさん」に会い、NIJの会話で「リさん」の話し相手になる中田くんも自分の人生を振り返り、マレーシアに放浪の旅に出る、という話になっています。)単なる、各テーマについての語りではなく、全体が一つの物語になっています。これは、「自己の探究」に向かってもらうための「仕掛け」です。
 また、NIJの12回のレクチャーの全体のテーマは「現代社会を生きる」です。こちらも、人間とはどのような動物かという話から始まり、現代の社会はどのような社会か、その中で生きるとはどういうことか、現在の日本の社会の「デザイン」はどのようになっているか、などの話を聞き、そういうテーマについてしっかりと考えてもらうように企画されて、レクチャーの本文が用意されています。
 少し自慢気に言うと、そういう意味で、NEJとNIJは「ただの日本語の教科書」ではありません。しかし、このあたりは、ナラティブや会話やレクチャーを、一つの作品として、「味わって」読んでもらってわかってもらうしかありません。
 昨日のセミナーに参加してくださった皆さんも、またNEJやNIJをお手元に持っていらっしゃる方も、ぜひ、NEJとNIJの「本文」を一つの作品として読んでみてください。

昨日(20190511)のセミナーでの近藤さん(名古屋外大)からのご質問と「人が生きるための志(こころざし)とことばの教育 細川英雄」(ルビュ言語文化教育706号)


 昨日のセミナーに名古屋外大の近藤さんが参加してくださいました。そして、NEJの授業の実演が終わったところで、「今の授業実演を見ると、従来の文型・文法の直接法でやられている絵カードを見せながらの教授法となんら変わらない。表現活動の日本語教育や自己表現活動中心の基礎日本語教育では、改めて「自己」を探り・問い、他者から問われ、発見しつつ言葉にし、言葉にしつつ発見するという自己の探究の部分が重要なのではないか?」というご発言をいただいた。自己表現活動中心の基礎日本語教育を含む表現活動中心の日本語教育の日本語教育の需要部分に関わるクリティカルなご指摘だと思います。
 で、概ね以下のように応えました。
1.ご指摘はまったくその通り。
2.自己表現活動中心の基礎日本語教育の企画そのものとしては、そういう、他者との対話、自己との対話を通した、自己の探究の部分は、要求はしていない。しかし、そういう側面を重視して具体的な教育実践ができるようにということは企画としても「入れている」。
3.つまり、自己表現活動中心の基礎日本語教育はいわば「幅のある」企画になっている。日本語の上達(言語事項の習得ではない!)という部分に焦点化して教育実践を行うこともできるし、他者・自己との対話を通した自己の探究を中心に据えて教育実践を行うこともできる。
4.企画者としては、自己の探究の部分は「重視」してほしいと思っている。(ここは、昨日は言いませんでした。うちの先生で、自己の探究を重視して実践している先生がいる、とだけ言いました。)
 上のようなのがぼくの応えです。細川さんはエッセイで「人が生きるための志」ということをおっしゃっています。ぼく自身は今大学院進学学生のための集中コースを担当していますが、このコースの場合は、特に造作しなくても、自ずと、自己の探究、生きるための志を立てるというような言語活動が行われています。そして、NEJでは、selfのさまざまな側面をテーマとして採り上げているので、交換留学生のクラスなどの場合でも多かれ少なかれそのようになります。
※ついでに言うと、ぼく自身は以前から語りに興味・関心をもっています。『物語の哲学』(野家啓一)、『ストーリーの心理学』(ブルーナー)など、語りの事情についてよく教えてくれます。
 一方で、「日本語の上達」を重視すると言って、文型・文法を取り立ててあらかじめ教えて、それからナラティブでの学習に入る、という教え方を良しとする/それがいい/それがやりやすいという先生もいらっしゃると思います。教育企画者としては、そういう方法は「NG」ですが、このあたりは、今井さんがしばしば言っていらっしゃる「教材は一人歩きする」ということになります。ただし、「教材は一人歩き」しますが、「教育企画」は一人歩きしません。教育企画は、教育実践創造の見取り図であり、教育実践の方向性の共有ですから、「教育企画が一人歩き」するというのは言葉的に論理矛盾となります。
 で、教育企画者・教材制作者としては、そんなふうに一人歩きするとしても、この「新造船」に乗り換えてほしいと思っています。というのは、この「新造船」は実は、教授者のためのリソースである前に、学習者のためのリソースだからです。(優れた学習者であれば、この教育企画とこの教材を活用して、教育企画の趣旨を完遂してくれると思います。もちろん、この企画でいっしょに勉強する仲間や、サポートしてくれる教師がいたほうがなおいいとは思いますが。) NEJを採用して教育をした場合に起こることですが、「ちゃんと教えることができたかどうかよくわからない。でも、学生は日本語が上達している。」という声をしばしば聞きます。これはある意味で、当然です。先に言ったようにNEJは、学習者のためのリソースだからです。
 先日、細川さん・今井さんの「教えないvs.教えない」がありました。日本語教育のレガシー(不幸な遺産)は、日本語という言語そのものへの執着だと思います。また、「日本語の話し方を習得することはむずかしい」という幻想もあります。「日本語の文の作り方をしっかりと習得すること」はなかなむずかしいです。しかし、「日本語の話し方を習得すること」はそれほどむずかしくありません。このあたり、やはり日本語教育のレガシーですね。このレガシーから逃れる第一歩としては、「日本語を教えるというのは、日本語の上達をサポートすることだ」という発想に変えるのがいいと思います。そうすると、今自身がやっている実践が、学習者の日本語の上達に貢献できているかという「自省」ができるようになると思います。そういうのと並行して、「自己の探究」や「生きるための志を立てる」などの観点に関心を持ち、やがて注目して、そのような観点を取り入れる先生が増えると、日本語教育が若い人たちへの教育の一部を担うものらしくなると思います。

2018年4月22日日曜日

羅針盤:ぼくがやりたかったエンタープライズ(201709)

2010年以来わたしの所属機関では、自己表現活動中心の基礎日本語教育(SEJと略す)の
実践をしています。そして、2014年から、テーマ中心の中級日本語(TIJと略す)のカリ
キュラムと教材を開発・改良しつつ実践をしています。SEJとTIJは、独自の企画方法に
おいて日本語教育における大きな変革であると思います。SEJやTIJと従来の教育企画と
の大きな違いは、学習者と教授者が学習言語事項や教材に拘束されるのではなく、むしろ
各ユニットでそれを貫くものとしてテーマがあって、すべての学習活動と教授活動はその
テーマの軸に沿ってそしてテーマの言語技量を養成するために実施されるという点です。
SEJにはNEJという教材があり、TIJにはNIJという教材がありますが、これらの教材が
提供する素材もテーマを提示し、テーマの言語活動を例示し、テーマの言語活動を促し支
援するものとして用意されています。

そのような事情について最近おもしろい譬えを見つけました。SEJで言うと、NEJの素材は
教室という空間に、「リさん」や「あきおさん」や「西山先生」を登場させているのです。
つまり、教室には、学生と先生の他にリさん他がそこにいるという譬えです。ユニットの
当初は新しいテーマの始まりなわけで、このリさん他は「学生たちには『わからない』言
葉や言葉遣いをあれこれ使って話す人」として登場します。教科書についている注釈や文
法説明そして教師の理解促進のための授業は、リさん他を「何を言っているのかわかる人」
にするための仲介(者)の役割をします。つまり、学生たちは、教科書の注釈や授業など
を通して、リさん他が何をどのように話しているかを知ります。次は本来的には教師の番
です。教師が、当該のテーマについてリさん他の言葉や言葉遣いにならって自身の話をす
るのがいいでしょう。そして、ようやく第3段階として、リさん他の「何をどのように話
しているか」と、教師の「何をどのように話しているか」を参照しながら、当該テーマに
ついての自身の事情を組み立てて、教室の友人=クラスメートや教師に(そしておそらく
仮想的にそこにいるリさんたちにも)話すわけです。NIJもユニットの基本構造は同じよ
うな原理に基づいています。

この教育方略の利点を2つだけ挙げるなら、(1)あらかじめ学習者にカリキュラム=一連
のテーマを示すことで日本語ができるようになっていく経路がわかり、ユニットのテーマ
を知らせることでユニットの目標がわかり、基本として日本語学習のイニシアティブを学
習者に持たせることができること、そして、(2)リさん他のナラティブを参照先とすること
で言葉遣いをまるごとあるいは部分的に変えて流用して日本語が学習できること、です。

しかし、「実は…」ということで最近強く思うことがあります。ぼくがやりたかったこと
は、この教育変革ではないのです。実は!、この教育変革は、もちろん重要で有効な教育
変革であると思いますが、この教育改革はいわば「手段」で、本当にやりたかったエンタ
ープライズは他にあるのです。それは、学習言語事項や何がどう有益なのかわからない教
科書から学習者や教師を解放して、本当に日本語習得に資する学習や教授実践に従事でき
るようにすることです。そして、教師の立場としては、日本語習得に資するということ
を、ユニットの目標に向けてだけ考えるのではなく、今日の授業や現在のユニットをも超
えたところで全般的な日本語力の養成に資する活動を、ユニットの目標に向けた教授活動
とオーバーラップして実施してほしいのです。そのようにすれば、SEJの実践やTIJの実践
は、3倍・5倍の効果を発揮することができます。それは、日本語発達栄養分が豊富な教
育実践です。

羅針盤:気がかりと、長期的な展望と中期的な企画と短期的な計画と実行(201708)

2017年7月8・9日の両日にわたり国立国語研究所で実用日本語言語学国際会議ICPLJが
開催されました。その報告は、同翌日にfacebookで発信しましたのでそちらをご覧くださ
い。(https://www.facebook.com/profile.php?id=100004549323842)この羅針盤では、一
部ICPLJにも触発されたタイトルのようなことを話します。基礎日本語教育の革新につい
てです。

もちろん日本語教育というお仕事に関してですが、物事を真摯に考える人であるならば、
「現状」を見て、気にかかることがあれこれあるでしょう。表面的な些細なことではな
く、重大な根本に関わることについての気がかりです。ただし、ここに言う「現状」は第
一義的には自身が関わってある種の責任がある目の前の教育現場の「現状」です。ヨソの
ことは二義的です。まずは「自身の足許の改革から」です。自身がまさに日本語教育の現
場をもっていながら、「現在の日本語教育は…」と大上段に立ってあれこれ大げさに課題
を並べ立てるのは詮無いこと。大事なのは個々の現場における改革の推進です。そして、
自身の現場の「現状」にあれこれ憂いがあるのであれば、憂えていてもしかたがないの
で、改革を考える! 改革は、長期的な展望と、中期的な企画と、短期的な計画と実行、
というふうに「したたかに」やる。目論見を隠して改革をしようとする人もいます。ま
あ、それはそれでいいですが、ぼくの場合は、隠し立てはしません。で、ここでは、気が
かりと中期的な企画について話します。

基礎日本語教育についての長期的な展望は「優れた教育実践を実現すること」です。それ
に向けた第一弾の改革目標の背後にある「気がかり」は、言語事項の呪縛でした。まず
は、教師も学習者も言語事項の呪縛から解放しなければ「最初の一歩」を踏み出すことが
できない。で、そのためには新たな言語観と言語習得観に基づく基礎日本語教育の企画と
それを支える教材を作らなければならない。それが自己表現活動中心の基礎日本語教育の
企画であり、NEJでした。そして、ぼくの所属機関ではすでに十分にこの「最初の一
歩」を踏み出しそれを越えた領域に入っています。同僚の先生方も同じように考えていら
っしゃると思います。

で、ぼくとしては、この言語事項の呪縛から解放された領域に入ると、控えさせていた次
の「気がかり」を次の教育改革の課題として前面に出すことになります。それは、「学習
者に注いで吸収させる『栄養』が足りないのではないか」「栄養失調のような授業をして
いるのではないか」という気がかりです。そして、その気がかりについて、ぼくは直接的
に何かを改革することはできません。なぜなら、それは個々の授業の問題だからであり、
それゆえ個々の先生の授業の仕方に帰するからです。しかし、直接的には何もできません
が、間接的にはあれやこれやできます。こうして「栄養分が足りてないよ」「もっと日本
語的な栄養分をたっぷりと供給する授業をしよう!」と叫ぶこともその一つです。また、
最近「自己表現活動中心の基礎日本語教育の教育企画(教育のマトリクス)」という資料
も作成し先生方とシェアしました。

自己表現活動中心の基礎日本語教育とNEJでわたしたち(わたしの現場)は、言語事項の
課題を包摂する形で言語事項の呪縛からの脱却を果たしました。次に来るのは、「栄養価
の高い授業実践」です。そして、さらに次に控えている第3歩は、「多水準的で多面的で
多事項的な授業実践」です。第一歩ももちろん「問題意識とかなりの経験といい感じの直
感」をもっている優れた教師集団がいなければなかなか実行はむずかしいです。(でも、
実は「いい感じの直感」は掘り起こすことができる!)そして、第二歩と第三歩は、ほん
とうはぼくが「出る幕」でもないのですが、わたしたちとしてさらに上をめざすためにや
っぱり「しゃしゃり出てしまう」ようです。そして、ぼく自身はヨソのことも引き続きぼ
ちぼちやります。でも、やはり、ウチのことが一番大事です。仲間の先生方、これからも
改革をいっしょに楽しんでね!

羅針盤:コーディネータは厄介な稼業です!(201604)

4月から、日本語研修コース(大学院進学予備教育)の初習者クラスのコーディネータを務めることになりました。取りあえずは、NEJとい
う「強い味方」があるので、大きな心配はないのですが、コースのスケジュール作りにはやはり大いに気を遣います。バフチン本2のエピロー
グで次のように書きました。NEJという有力なリソースがあるのに教育の実践がうまくいかないのはどんな場合?という問題意識での文脈です。

教育プランが所期のように実現されない場合の第3の要因は、これはコーディネータの仕事となりますが、授業内容の調整、より具
体的に言うと授業スケジュールの調整です。コーディネータの基本的で最も重要な仕事は、各授業がその時点での学習者に有益に実施
されるように授業を調整することです。そのためにコーディネータは学期やコースの開始時に学習者の日本語力や期間中の学習環境
などを考慮してコースのスケジュールを作成するわけですが、コースが始まった後も…習得の進捗状況を把握して、以降のいずれの授
業も学習者の現在の日本語力の水準にちょうどいい活動となるように授業内容やスケジュールを調整しなければなりません。(バフ
チン本2のpp.151-152)

この前にある第1の要因は、企画された教育の背後にある言語観や言語習得・教育観と実際に授業をする教師のそれらに齟齬がある場合、第
2の要因は、カリキュラムとして提示されているねらいや教育内容が授業をする教師に然るべく理解されない場合となっています。要因の3→
2→1と遡って言うと、(1)コーディネータは緻密に授業スケジュールを作成しなければならない、しかし、(2)いかに綿密にスケジュールを作っ
てもそのスケジュールのねらいや「教育内容」が教師に「理解」してもらえなかったらだめ、で、(3)スケジュールを「理解」してもらうために
は根本の言語観と言語習得・教育観に「相応の重なり」がなければならない、となります。4月からの研修コースのスケジュールを作っていて、
改めてこの問題はむずかしいなあと感じました。

それがむずかしいのは、「教育内容」を意識的あるいは無意識的(半意識的?)を含めて学習者が習得する内容とするなら、「教育内容」はパシ
ッと「これ!」とは言えないからです。また、どの授業でも「教育内容」は一つではなく、主要なもののようなものがあるとしても常に錯綜して
います。つまり、「教育内容」は豆腐を切り分けるようには分割することはできません。そして、そういう曖昧で錯綜したものを「理解」しても
らおうとするわけですから、「理解」というのも当然ファジーなものとなります。「理解」してもらえているかどうかも雰囲気で知るしかありませ
ん。そして、「理解」してもらうためには「理解」の基盤として、カリキュラムの企画者やコーディネータと「同じような目線」の言語観と言語
習得・教育観が要るだろう、となります。ただし、最後のポイントは、言語観と言語習得・教育観の一致ではなく、「相応の重なり」や「同じよ
うな目線」で十分だと思います。(このあたり、文型・文法積上方式では「一致」を要求しているように思います。バフチニアン・アプローチで
はひじょうに大きなレベルでの「相応の重なり」や「同じような目線」だけが必要で、その上でのディテールの違いはあってよいように思います。)

授業に仮に配当した内容をながめて「こんな感じで学習者はどんな学習ができるかなあ」と想像して、また授業の配当・配分を考えるという
ことを繰り返します。厄介なのは、上のパラグラフの冒頭でも言ったように、配当・配分を「物理的に調整すればよい」というものではないこ
とです。言語の学習あるいは言語学習経験の蓄積というのは、意識レベルと無意識レベル(そしてその中間域)で、また注視された言語事項と
してや生きた言語活動の中の言葉遣いとしてなど、さまざまな種類の対象においてさまざまな心理・記憶水準で進行します。そして、比喩的に
言うと、無意識レベル(半意識レベル?)での言語活動の中の言葉遣いの経験の蓄積は言語能力の養分となります。これがないと「不健康な」
言語能力になってしまうでしょう。その一方で、言語事項に相応に注視した意識レベルの学習ということもなければ、具体的なブツとしての言
語事項の知識を仕入れることがむずかしいかと思います。

もう一つ厄介な問題は、これは明らかに意識レベルの学習になるのですが、言語のシステムの理解や知識がどれほど必要で、その必要な部分
をどのように習得させるかです。成人の学習者で特に理知的な人たちはシステムの理解や知識を要求する傾向があります。「そうしたニーズにき
ちんと応えるべきだ」と言う先生がいますが、そのお言葉には、(1)それはニーズじゃなくてウォンツ(wants)でしょう、(2)言語習得のために
何が重要かを最終的に判断するのは言語教育の専門家である教師であって「学習者が○○をほしがっているから、○○を与えましょう」では専
門家ではない、(3)しかしながら学習者のウォンツに対しては「一定の尊重」が必要である。そうしないと学習者は教師から「離れる」、と言いた
いです。NEJの試みは「日本語のシステムについての教室での指導は一旦ゼロにしてみましょう。そして、マスターテクスト・アプローチで学
習を進めて、教科書にある説明と学習者の類推力でどこまでいけるかやってみましょう。その上で、本当に必要なシステムについての指導内容
を検討して、適正な指導方法を企画して、実践しましょう」というものです。筆者自身はこれを今学期や来学期の「研究課題」の一つにしたい
と思っています。

他に音声言語の習得と文字及び書記言語の習得のうまい取り込みと調整も考えなければなりません。アルファベットで表記しないで、ひらが
な、カタカナ、漢字という3種類の超奇怪な文字を使う日本語は、漢字系でない学習者にとっては、とんでもない!言語です。このこと、一般
的に十分には意識と配慮と卓越した工夫がされていないと思います。

で、結論。カリキュラム・教材の企画・開発者やスケジュールを作るコーディネータがいくらがんばってもひじょうに限界がある。そして、
結局、教育実践をする仲間の先生方といっしょに考えながら実践を創造していくしかないということになります。ただし、「生ぬるく」いっしょ
に考えていては、厄介な仕事のたいへんさを舐め合うだけです。優れた実践を創造するためには、「ガチでクリティカルに」やらなければなりま
せん。そして、そのような協働的な教育実践を通してこそみんながより高度な専門的職業人として成長していけると思います。チームで教育実
践にあたるというのは、わたしたち一人ひとりが高度な専門的職業人であるがゆえに、「ガチのたたかいの場」にならざるを得ないのかもしれま
せん。でも、それこそが、専門家集団によるチームティーチングの醍醐味だと思います。
もちろん、(大阪らしく!?)友好的で笑いに包みながら。