2018年7月3日火曜日

日本語教育というお仕事

 ぼくは、今の大学の国際教育交流センターという組織の日本語教育研究チームに属しています。そこでの仕事の中心は間違いなく日本語教育です。(一方で、大学院でも兼任という形でお仕事をしていて、それはまあ学問?の指導をしていて、日本語教育という仕事ではありません。)
 センターでの仕事は、授業関係のロジスティクスやさまざまな周辺にある用務や一般的な管理運営の業務なども十分にありますが、「中心」は日本語教育、つまり誰かの日本語の習得を(直接、間接に)支援する仕事です。その中にはざっと、(1)(非常勤講師の先生などといっしょに)自身が実際に授業担当をすること、(2)非常勤講師の先生たちといっしょに教育を実施する際のコーディネーションをすること、(3)限られたリソースの中で適切と思われる各種のコースを企画すること、(4)ウェブをも活用した自学自習や予習・補習などができる学習リソースセンターや学習のコンサルテーションなどをする日本語ラーニングサポートセンターを構想・企画・構築・実現すること、などです。(4)の仕事は将来に向けての広い意味での日本語の習得と学習の環境整備となります。この仕事は以前からセンター内でアイデアがあり、現在改めて浮上して実際に検討・研究中ですが、具体的なリソースセンター等の実現はまだだいぶ先になるかと思います。(3)の仕事は、端的に学生の動向を見て来年度はどのような内容のコースをどのような時間に開講しようかという提供するコースの企画です。これは毎年、次年度のものについて秋に検討しコース企画をして、非常勤を含む教員を配置する仕事をしています。いわゆる教務という仕事の「毎年の一大イベント」で、この時期はチームで検討しながらも教務担当の先生は「大わらわ」です。そうして、学期が始まるころから、そして授業がスタートすると、(2)と(1)という「通常の」具体的な教育実践の仕事が始まります。で、当面は(4)の話は除くとして、(1)から(3)までのことを考えてみましょう。
 (1)から(3)については、「地味」スタンスと「派手」スタンスという2種類のスタンスでそれに当たることができます。「地味」スタンスは、典型として言うと、(2)については、既存の市販の教材を適当に選んでコースの教科書として、適当なスケジュールを作成して、コーディネーションをする。そして、(1)については、その本人(コーディネータの専任教員)と非常勤講師であれこれ適当な工夫をしながら具体的に教育を実践する、というものです。そこには、派手な「革新」はありません。一方、「派手」スタンスは、端的に言うと、(2)と(1)を革新的にやり、やがては(3)も革新するというスタンスです。このスタンスで仕事をする場合は、(2.5)として新たなコースの企画・教材システムの開発・具体的な教育の実践の促進という3種類の仕事が加わります。(2.5)の仕事はなかなか一気にはいきません。ざっと言って、バックステージでの教育の企画と最低限の教材の開発で1-3年(準備期)、最低限の教材を使いながらの試行と教授者による「試運転」(試行的な教育実践)と並行する教材システムの充実で(1年に2学期つまり2ラウンドあるとして)1-3年(試行期)、教材システムの洗練と教育実践の洗練で1-3年(洗練期)、くらいはゆうにかかると思います。準備期の仕事はバックステージでの仕事で、この時期は一方でそれまでのままのコースで(2)と(1)の仕事をしながら、その一方で、教育企画と基本教材開発の仕事をすることになります。試行期になって、ようやく新たなコースのスタートとなります。詳細は省略しますが、教育企画と基本教材が「OK」であれば、この試行期を何とか一定の成果をあげながら仕事ができて、次の洗練期に入ることができます。教育企画と基本教材が「NG」であれば、また(新たな)準備期に戻る(出直し)、あるいは大幅修正期?に入ることになります。順調な試行期を経たあとは、さらに洗練期に入ります。試行期と洗練期を通して、授業担当する教授者が、当該の教育企画や教材をよく理解し咀嚼し、具体的な教育実践へと展開する高度な専門家としての資質・能力・技量が高度化する時期となります。洗練期の教授者の資質等の高度化は、時に「新しい地平が見える」というような「生まれ変わる」ような経験になるでしょう。この言い方に基づくならば、新たな教育の企画には教授者の役割の変化や専門職としての教授者開発(teacher development)の要素があらかじめ組み込まれている、ということになります。当初の教育企画がひじょうに革新的な場合は、当然そうした要素が組み込まれているでしょう。そうでないと、決して革新的な教育実践の創造はできません。教育を具体的に実施するのは個々の教授者であり、その教授者が「旧態依然」の教授者であれば、革新的な教育が実現できるはずがありません。一つの新たなコースの開発というのは、このように時間と「馬力」のかかる、そして「巧妙な構想」を要するプロジェクトです。そして、そのようなコースの革新は、やがては(3)の提供するコースの革新につながるのだと思います。
 ああ、それで、結論。端的に言うと、ぼくは明らかに「派手」スタンスで仕事をしています。でも、「派手」スタンスながら、割合「地道」なのかなあ。根が「派手」ではないので。(これは、NJ研究会フォーラム マンスリー 2018年7月号に掲載された「羅針盤」です。)

2018年7月1日日曜日

ナラティブと自己と日本語教育の企画

標記のタイトルで本日、「批判的言語教育国際シンポジウム 未来を創ることばの教育をめざして」(2018年7月1日(日)、@武蔵野大学有明キャンパス)で投稿発表をします。資料は、以下。https://drive.google.com/open?id=1WQt_mWxbuI8_NHs4PNZ45OWe9ZrVRZzR
資料1https://drive.google.com/open?id=1uClE9nWktrBOLa6TjPHOfYWOM6f-ODdq
資料2https://drive.google.com/open?id=1owqdrfeqiNfTHCtjDWGcIEUV0DfLkF3X