2019年2月15日金曜日

竹田青嗣『欲望論』をめぐる講演とパネルディスカッション

講演とディスカッションをまとめたものです。わたしもパネリストとして少しまとまった話をしています。一番下のサイトでPDFが入手できます。

竹田青嗣『欲望論』をめぐる講演とパネルディスカッション
言語ゲームと暴力原理― 『欲望論』の展望

講演竹田 青嗣(早稲田大学 *)
パネリスト細川 英雄(言語文化教育研究所八ヶ岳アカデメイア
パネリスト西口 光一

http://alce.jp/journal/dat/16_279.pdf

2019年2月8日金曜日

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?

この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー2019年2月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)の羅針盤からの再掲です。
 
 少し以前から第二言語教育関係の論考などでしばしば、「第二言語話者(非母語話者)は母語話者並に話す(書くも?)必要はない。第二言語話者は第二言語話者らしく、あるいは自分らしく話せば(書けば?)いい!」との意見が出されています。一方で、学習者の中には「母語話者と同じくらいに日本語ができるようになりたい」と言う人がいます。そして、さらに他方で、やたらに文法にうるさい先生がいます。この3つの意見、いずれに対しても違和感があります。
 ハワイに行ったときに、空港から宿までタクシーに乗りました。運転手さんは中国系の人でした。これから行く道の話から始まって、道中のあれこれの建物の話を機嫌よくしてくれるのですが、こっちは「予習不足」なので、地理も分からず、建物もよく聞き取れません。英語はbroken Englishと言っていいし、発音もかなり訛りがありました。話を聞くと、この5・6年の間にハワイに移住したらしいです。この運転手さんは明らかに「母語話者並に」は話していないし、母語話者並みの英語力を身につけているとはいえません。でも、この英語でタクシーの運転手の職を得て、ハワイで悠然と暮らしているわけです。たぶん、ハワイには中国人コミュニティなどもあって、英語が十分にできなくても十分に「居場所」があり、生活情報源もあって、快適に暮らせるのでしょう。この運転手さんにとっては、今の英語力で当面は十分で、今は十分にハッピーなのでしょう。一方で、タクシーの運転手さんの英語が十分に理解できなかったぼくのほうは「もっと英会話ができるようになりたい!」なんて全然思いませんでした。それどころか、無精をして「ああ、そう!」と日本語で生返事をしているくらいです。英会話のための英語力は今くらいで十分と思っているのです。それでいて、今英語で講義をしているのですが、こっちのほうは「もっとしっかりと伝え、学生を引きつけ楽しませる講義ができるようになりたい!」と強く思っています。ただ、こっちのほうも「ネイティブスピーカーの大学の先生のように!」というのは到底ムリです。日本語教育者であり、ユーモアが好きで、学生をリラックスさせるのが得意?なぼくは、そういうぼくらしく英語で講義をしたいと思っています。
 ハワイの中国系の運転手さんの例からは、多言語多文化になっている社会では、共通語になっている言語の能力はかなり限られていてもだいじょうぶということが言えます。ぼくの例からは、その人から見えている第二言語の言語活動領域というものがいろいろあって、領域によって「できるようになりたい」と「そこそこでいい」があることがよくわかります。ぼくの場合では、ぼくの専門分野の学術英語と講義の英語技量は「できるようになりたい」のほうで、英語での日常的な会話や旅行先での会話は「そこそこでいい」となります。
 結論です。多言語社会で暮らす複言語話者における第二言語や第三言語の能力について考える場合には、言語活動領域と「間に合っているかどうか」が主要な視点となります。簡単に言うと、必要なあるいは従事できるようになりたいと思う言語活動領域で「間に合う」ことがその人にとっての言語能力のゴールです。そして、それは当該の言語活動領域に限定してもたいていは母語話者並みではありません。ちなみに「間に合う」と言う場合に実際に話している言語の質は、言語活動領域と「間に合う」の中身によって全然違います。いつぞやサンフランシスコで乗ったタクシーのプエルトリコ系の運転手さんはほとんど世間話もできませんでした。行き先も何度も言い、説明しなければなりませんでした。こちらとしては「間に合ってないでしょう!」と思いましたが、ご本人としては「タクシーの運転手として『認められて』職を得て、その仕事を曲がりなりにもしているのだから、間に合っている」となるのでしょう。
 そもそも習得者の種類やその人が置かれている状況と無関係に一様・一律に言語能力というものを措定するというのは、最初から違っています。そして、そのような一様・一律の言語能力を措定した上で、第二言語話者の場合はそれを割り引いて「不完全でいいんだ!」と言うのは、値段をつり上げておいて「ああ、じゃあ5割引にしておくよ!」と言っているようなものです。人によって必要なあるいはできるようになりたい言語活動領域と「間に合う」が違うわけで、それに寄り添うのが本来の第二言語習得支援なのだろうと思います。
 ただし、日本で暮らすとか日本で仕事をするという事情になった場合は、どうもそんなに簡単には「間に合わない」ように思います。あのプエルトリコ系の運転手さんレベルの日本語力では決してタクシー会社に雇ってもらえないでしょう。あのハワイの中国系の運転手さんでもダメでしょう。日本語力が実用能力としてかなりの水準に達していないと、人とのコミュニケーションを伴う仕事はさせてもらえません。日本はまだまだ「日本語力がいろいろな人たちがハッピーに暮らせる」という意味での多言語多文化社会になっていないのだと思います。