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2019年9月18日水曜日

どんな日本語教育者になる? ー 勉強者? 発信もするスーパー勉強者?

 ある研究会の友人が研究会のメーリングリストで、知の探求者の分類表ということで、以下のような4象限の図を紹介してくれました。(この図は、『在野研究ビギナーズ』(荒木優太編著、アマゾン日本の思想でベストセラー第1位)を読んで、山本隆一さんがblog(https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/09/08/222032)で提示しているものです) そこでは「勉強者」というおもしろいカテゴリーが提案されています。また、ここに言う「スーパー研究者」というのは「複数の分野にまたがり得る優れた研究者で(たぶん哲学的な造詣もあって!)応用的なアイデアも豊富な人」というようなことかと思います。




で、これを参考にして考えたこと。

1.理系の場合はB(勉強者)の価値は高い
 まず、4象限を右上から時計回りに、SR:スーパー研究者(学者)、B:勉強者、M:マニア、R:研究者、としましょう。荒木優太さん(『在野研究ビギナーズ』の著者)も山本隆一さん(blogで図を発信した人)も基本理系の人ではないかと思います。そして、理系の場合は、あらゆる分野で、実験やシミュレーションなどに基づいた「実のある研究」が十分すぎるほど行われていると思います。つまり、現在「利用可能で(活用されることを待っている)そこにある知」が極めて豊富です。ですから、B(勉強者)の価値はとても高いと思います。

2.「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」というのは一応わかる
 しかし、日本語教育学を振り返ってみてください。日本語教育学には「利用可能でそこにある知」が一見たくさんあります。しかし、その知の大部分は、日本語について(日本語学)と、日本語の使われ方について(社会言語学、会話分析)です。(当面は、実践研究での知の蓄積の話はどけておきます。) そして、それらの知は、日本語教育の実践に「直接に応用が可能」でしょうか。この「直接に応用が可能か」という部分がぼくがずっと「警鐘を鳴らしている」ところです。
 端的に言って、現在利用可能な知は、直接に応用は可能ではありません。応用のためには、(1)まずは知の「出番」を見極めなければなりません、そして、(2)教育指導として適切な形に「仕立て直して」利用しなければなりません。
 現在「利用可能でそこにある知」を生産し続けている研究所の研究者や大学のセンセたちは、「どうぞどんどん使ってください!」「わたしたち(研究者)はいろんな(利用可能な)知を皆さん(日本語教育実践者)に提供してるでしょ!」というスタンスで、「自分たちが好きな」知をただ増やし続けています。そして、研究の方面に必ずしも強くない日本語教育実践者はいつもかれらが発信するディスコースの量と「ややこしさ」に圧倒されて煙に巻かれてそしてひれ伏すばかりです。そんな文脈があるので、「研究者とクリティカルに対話をするB(勉強者)になる!」という立場は一見「悪くない」感じがします。

3.知性の充実こそ日本語教育学の現状を打破する
 しかし、現在の大勢の日本語教育学の知を生産しているR(研究者)たちとクリティカルに対話をしても、日本語教育学にとって本質的に必要な知は出てこないと思います。ぼくが「日本語教育学には知性が足りない!」(https://koichimikaryo.blogspot.com/2019/09/blog-post_22.htmlと言ったのはそういう問題意識の表明です。
 結局、問題は、現在の日本語教育学というのは、実際には個別の研究領域の単なる寄せ集めになっていて、そういう個別の学を統括する総括的な学がないということです。そして、そのことが、日本語教育学を迷走させています。実践研究を推進しているグループは、そのような現状を改善・打開するためのかれらとしての試みとして、実践研究というのを強力に推進しているのでしょう。それは、「前向きな」一つの姿勢だと思います。
 ただ、ぼく自身は、それよりも知性の充実こそが必須だと思っています。ただし、忘れてはいけないのは、「日本語教育実践への真摯な関心を維持しながら」です。知性の探究には大きな時間と努力が要ります。ですので、それをやり始めると、ややもすると当初の問題意識である実践への真摯な関心から離れたり、それを忘れたりしてしまいます。

4.新たな本質的に必要な知を生産して発信するB
 当面は、B(勉強者)としてやっていくのはいいと思います。ただし、「既存の知」のBではなく、「新たな本質的に必要な知」を探究するBです。
 でも、考えてみてください。この「新たな本質的に必要な知」をどこの誰が生産してくれるでしょう? 日本語教育学全体をながめても「ほぼいない!」です。そうすると、当面はBでも、近い将来には「新たな本質的に必要な知を生産して発信するB」にならないといけないのでは? それも業績のために発信するのではなく、日本語教育のギョーカイでの知性の拡充を促進するために発信することになります。どのようなメディア、モード、方法でそういう発信をするかは、検討しなければなりませんが。(もちろん業績にもなる形であるなら、それはそれでいい!) 

5.「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」というドライブ(推進力)
 実践への真摯な関心を維持しながらそういう本質的に必要な知を探究する場や「コミュニティ」がぜひとも必要です。そして、知の生産とシェアの場の「馬力」を高く維持するためには、ぜひ「おれも(わたしも)いずれは発信するぞ!」という心意気を持つことが期待されます。それが「新たな知を探究する」強力なドライブ(推進力)になるからです。
 ちなみに言うと、日本語教育者&日本語教育学者は、日本語という対象が関わる諸分野だけでなく、言語と言語の習得と習得支援や言語と文化と現実の構成や言語と文化と自己などがテーマとなる分野についても探究する必要があると思います。そのような意味で、日本語教育者&日本語教育学者は避けがたく「オールラウンド・プレイヤー」であることを求められているように思います。ですから、基本はB(勉強者)なのでしょう。ぼく自身、そういう意識です。そして、その行きつく先は、個別分野のR(研究者)を凌駕する「スーパーB」です。そんなBやスーパーBが増えると、日本語教育(学)の分野は俄然おもしろくなると思います。

2019年3月12日火曜日

草莽と有象無象

 みなさんは草莽と有象無象の違いがわかるでしょうか。まずは草莽から。
 ウィキペディアによると、草莽というのは、「民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人(草莽之臣)」と説明されています。取りあえずは、それくらいでいいでしょう。次の有象無象は、kotobankによると「取るに足りない種々雑多な人々。多く集まったつまらない連中。有象無象の輩(やから)」となっています。それで、草莽と有象無象の違いは何でしょう? 端的に草莽は教養層の人たちです。教養層の人たちだけど、現在権力の地位に就いていない在野の人のことです。それに対し、有象無象は、端っから軽蔑的な視線が注がれていて、ワイワイうるさく言う/妙な主張をする雑多な人々というような感じです。
 学術研究の文脈で言うと、「主流」の人たちと同じくらいの文化資本(ブルデュー)を背景として高度な教育を受けた人で、現在「主流」にない人たちで現在の「主流」に対してある種「オレたちにも物を言わせろ/主張させろ」と言っている人たちがいわば草莽です。草莽の人たちは「主流」の人たちと同じくらい手の込んだディスコースによる議論が好きです。そして、議論が長く、実用的なものを何も生まなくても平気です。どうかすると、議論そのものを楽しんでいるのではないか、この人たちにとっては議論することそのものが目的ではないのかとさせ思わせます。「主流」の人も草莽の人も、野良に出てせっせと働くとか、何かを着実に作ることこそが、人が生きることであるという感覚をずっと前の代から(祖父母の代、曾祖父母の代あるいはもっと前から)「免れて」いて、本を読むことや手の込んだ言葉で議論することが普通に生活の一部になっている人です。簡単に言うと、教養層です。草莽の人たちは、実は自分たちは「主流」の人たちと広くは「同じ穴のムジナ」であることを自覚しなければなりません。
 それに対し、世の中には有象無象の人もたくさんいます。そして、有象無象の中から高度なリテラシーと知識を身につけて、「論壇」に登場する人がいます。ブルデューは、リセに入ったときに、自身が育った文化・教養環境と他のクラスメートのそれとの格差を強く感じたそうです。ブルディーの批判的な社会学の根底には、そのような教養層と自身との間の違和感があります(ブルデューの『自己分析』から)。そんなブルデューにとっては、自身が身につけた高度なリテラシーと知識は、教養層が「自分たち圏」として形成している世界を暴くためのツールでありメディアだったのではないかと思います。ブルデューを有象無象出身者に入れるのが適当かどうかはよくわかりませんが、高度なリテラシーを身につけて「論壇」に登場した有象無象出身の人たちには、そのような違和感があると思います。そして、教養層にとって「空気」のような高度なリテラシーが、有象無象出身の人にとっては、野良仕事や物作りの場合の農具や道具と同じく、言語活動を通して仕事をするための道具=ツールに見えています。
 教養層によって維持し発展させられる教養や学術研究は、それが重要であるかどうかを議論する前に、自分たちの「文化圏」を形成しているという冷静な自覚が教養層には必要だと思いますし、「野良や作業場」(教育現場や看護の現場などの実践の場)でせっせと働いている人たちの仕事や暮らしに少しでも役に立とう、役に立っていないのは申し訳ないという感覚が必要なのではないかと思います。(←安藤昌益の農本主義的な発想です) そうでないと、汗水垂らして毎日働いている「庶民」から見ると、ただ「こぎれいな服を着て、しゃべったり物を書いたりして、いいお給料をもらっている人」に見えるのではないでしょうか。また、「論壇」でとりとめなく延々と議論が続くと、有象無象出身の人は、しゃべってばかりいないで「野良や作業場」での仕事に役に立つ成果を少しでも出そうよという気持ちになります。
 こんなふうに思っているのはぼくだけ? 他にもいるよね!

2019年1月26日土曜日

読書教養人はえらい人?

 以下の記事は、相変わらず!! 日本語教育(学)の関心から書いています。
 小説家、大学の先生、評論家、ジャーナリストなどはたいてい小さい頃から現在も引き続いて強烈に本を読んでいます。本を読むスピードやネットで情報にアクセスしてそれを読み解くスピードも強烈です。元ジャーナリストでその後一念発起してイギリスに留学して博士号をとって今ぼくの身近な同僚になっている人がいますが、かれは仕事をフツーにこなしながらも、小説、教養書、専門書などを日常的に読んでいて、たぶん1週間に数冊いっていると思います。たいへんな「読書馬力」です。『火花』で芥川賞をとった又吉くんの読書量も半端ではありません。
 新聞やテレビなどにしばしば出てきて、ものを書いたり、いろいろな発言をしたりしているそういう種類の人たちを仮に言論人と呼ぶことにしましょう。言論人の多くは、最近では、自身のブログなどでも発信をしていらっしゃいます。
 言論人はえらい人なのでしょうか? うーん、えらいのかなあ? 本を読むことが日常にある家庭出身でもなく、本を読むことが日常になっている人が身近にいない環境で育ったぼくには、今振り返ってみると、八百屋のおっちゃんや、豆腐屋・お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんや、鶏肉・玉子屋や肉屋や酒屋のおっちゃんとおばちゃんなど、日々お仕事に励んで町の人たちの生活を支えている人たちがとても「えらいなー」と思えるのです。たぶん、町の人たちの生活に奉仕していてせっせと働くその姿がビビッドに「えらいなー」と思えるのでしょう。それと比べると、新聞やテレビで出てくる言論人は、どうかすると「能書きを垂れてお金を稼いでいる」ふうに見えてしまいます。「どうかすると」というのは、たぶん2種類あって、一つは「えらそうに」話す人。大阪人としては「えらそうなこと言うて、お前、なんぼのもんやねん!」と言いたくなります。もう一つは、議論がどんどん舞い上がってしまって、本来の重要なテーマを忘れてしまって、議論の相手とだけの議論・討論にはまってしまっているのに平気で「白熱して」議論を続けている場合です。これは「何、しょうもない能書きばっかり言うてるねん!」となります。
 趣味の世界の中で「議論がどんそん舞い上がって…『白熱して』議論を続けている」というのは別にかまわないでしょう。それは、趣味の世界、広い意味で娯楽の世界なので、見ている人、読んでいる人も本気で議論しているのを聞く・読むのはそれはそれで圧巻でしょう。しかし、世の中の問題、社会のいろいろな問題について議論しているときに、「フツーの人の暮らし」を忘れて議論していらっしゃる(←これ、皮肉の敬語!)のは、どうもうさんくさいです。「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」と聞きたくなります。
 ここまでは、どうも「まくら」です。では、収束、2つ。
 言論人云々について言うと、言論人と読書教養人は異なるのだと思います。読書教養人は「表(舞台)」に出るかどうかにかかわらず読書を楽しみ教養を身につけますます人格を高めている人です。言論人は、その中の一部として「表(舞台)」に出ている人です。読書は本来は、言論や議論のためにすることではなく、私事としてひっそりとするものでしょう。もちろん友人同士の間で「この本はすばらしかった!」というような共有はあると思いますが。言論が「生業(なりわい)」になってしまうと、そのような「本来の読書」から離れていってしまうのかなあと思います。そして、人文系の大学の先生においてもどうもそういう「よろしくない傾向」に傾いている気がします。人文系の大学の先生は、本来的には高度な読書教養人(であるべき)なのだと思います。
 もう一つの収束。日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、上のような意味での高度な読書教養人(であるべき)なのでしょうか? うーん、これはむずかしい質問です。日本語教育学や第二言語教育学を教育実践に資する学問と定義するなら、答えは「No!」となります。「教育実践に資する学問」と定義すると、教育実践のために教育実践者に向けて積極的に発言しなくてはならなくなるわけで、そうなると「本来の読書」から離れてしまいます。
 それに対し、日本語教育学や第二言語教育学は日本語教育や第二言語教育への関心という部分で教育実践とつながりはあるが、それをきっかけとして人文学の一分野として自由に研究を展開していっていい、というふうに考えると、上の質問への答えは「Yes!」となります。そして、日本語教育学や第二言語教育学の大学の先生は、日本語教育や第二言語教育への関心をスタートとしながらも自身の興味・関心にまかせてどんどん「本の世界」に入って行ってもいい、のめり込んでもいい、ということになります。しかし、ここで一つの「むずかしさ」が生じます。「本の世界」に深く入って行けば行くほど「微に入り細に入り」の議論になってしまって、そうした議論は教育実践者にとって、(a)疎遠でよそよそしい議論、(b)自身の目の前の関心から離れた議論、になってしまうという「むずかしさ」です。しかし、…。(a)と(b)について考えてみましょう。
 (a)に関しては「微に入り細に入りでややこしくてゴメンね。でも、我慢して読んで! 聞いて!」と言うほかありません。そして、(b)に関しては、「目の前の関心」というのが本当にそれでいいのかを振り返るためにあれこれ言語やコミュニケーションや意識や社会文化的現実のことを深く探究して公表しているわけで、それを「わたしの目の前の関心はそれではない」と言って読んで・聞いてもらえないとなると大いに残念ですと言わざるを得ません。ただし! このように「残念です!」と言えるのは、研究者自身において自分の研究が教育実践と重要なつながりがあると確信できている場合だけです。そうでない場合は、「こんな研究をしているのですが、教育実践とのつながりはわたしもよくわかりません」と告白するのが誠実です。このあたり、厄介なのは、「重要なつながりがある」との確信が思い込みである可能性があることです。結局、「重要なつながりがあるか/ありそうか」は、話を聞いて/本を読んでくださる教育実践者のほうの「野生の直感」に委ねるしかありません。
 結論として言いたいのは、実はこの「野生の直感」です。教育実践者の人たちがしっかりと「野生の直感」を磨いて、しっかりと、本当に教育実践のことを真摯に考えて研究活動をしている大学の先生とそうでない先生を見抜かなければなりません。これが、先の「そもそも、何のために、あるいは、誰のために議論してるの?」という言論人への質問とつながるわけです。うさんくさい日本語教育学・第二言語教育学の大学の先生もたくさんいる? 変に教育実践とつながりがあるように発言するからうさんくさいのです。自身に「重要なつながりの確信」がないのなら、「つながりはわたしもわかりません」と正直に言えばいいのです。「えらい人」の不正直は罪が重い!!

2019年1月8日火曜日

日本語教育をプロデュースしているのは誰/何で、監督をしているのは誰/何だ? ─ 「遠吠え」ばかりしている?

 webjapanese(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/
)の「Who cares? ─ 誰が日本語学習者を守るのか」の記事を読んだ上での先の記事の後に以下のようなことを考えました。まあ、この記事も、あまり「明るい」記事ではありません。

前口上
 わたしはなぜあれこれ専門の本を読んだり論文を読んだりしているのでしょうか? それは、何かについて発言しよう(書こう)と思ったら、その何かについてすでに発言している人の見解を知っておかないといけないからです。これは、研究や学問をする人間の基本的なマナーです。
 一般的にはこれは先行研究のレビューということになります。では、わたしは先行研究のレビューということをしているのでしょうか。どうも違うようです。先行研究のレビューというのは、一定の研究領域(例えば、第二言語習得研究)と一定の研究テーマ(例えば、文法形態素や文法構造の習得の研究や語用論転移の研究ど)があって、それまでに行われている理論的研究や実証的研究を踏まえてその上にさらに研究的知見を積み重ねようという趣旨で先行研究のレビューをします。その営みは、当該の研究分野をさらに伸展させることです。
 「わたしの場合は違う」というのは、(1)わたしの学問的営みは特定の研究領域に焦点化していない、そしてこの(1)とも関係ますが、わたしの研究は、(2)いろいろな研究領域の研究成果を第二言語教育学の関心から「批判的に」(関係があるか無関係か、関係がある場合はどのように関係があるか、に焦点化して)まとめあげることと、(3)教育学的に日本語教育学を確立すること、です(教育実践に関わる仕事は別物ととして)。わたしがやっていることは、フツーの意味での学術研究ではないのだろうと思います。しかし、(たぶん!)、日本語教育や第二言語教育の実践のために「必要で」「求められている(?)」学問的な営みであろうと思って(願って)います。
 そんな事情のため、日本語教育(学?)関係の論文や海外の応用言語学関係の本や論文もけっこう読んでいます。そして、今、日本の日本語教育界は、就労外国人の受入れに向けた日本語教育の整備で「てんやわんや」になっていて、そんな文脈で教員教育や教師養成の改革というテーマが頻繁に論じられています。そんなのも、読んでいます。
 そんなことをしていて、しばしば感じるのが、表題のようなことです。検討してみましょう。

本文
 取りあえず、用語。映画のプロデューサーや、ドキュメンタリーや特集番組のプロデューサーと言うように、プロデューサーというのは、基本のところで何をどのように制作するかを決める人です。そして、監督というのは、プロデューサーと連携しながら具体的に制作を進める人です。多くのジブリ作品では、高畑勲さんがプロデューサーで、宮崎駿さんが監督です。

Q1 日本語教育をプロデュースしているのは誰/何だ?
A1 日本語の教科書です。基礎(初級)段階や中級前半は、各々基礎(初級)教科書、中級教科書に依存しています。そして、中級後半や上級段階でも適当な教科書を選んで授業をしたり、いろいろな教科書から抜粋して寄せ集めて授業をしています。自身でコースを企画しデザインして、教材なども準備して教育実践をしているのは、ごく一部の先生だけです。それも、中級以上の学習段階に限られるでしょう。結局、日本語教育をプロデュースしているのは教科書です。そして、厄介なことに、たいていの教科書の著者は一人ではありません。ですから、日本語教育をプロデュースしているのは誰だと聞かれて、「この人(A教科書の著者)と、この人
B教科書の著者)」というふうに言うことができません。日本語教育は、責任を負っているのが誰だかわからない教科書によってプロデュースされているのです。そして、この状況は今後も変わらないだろうと思います。
 そして、フツーの教師が教科書を頼りにするのはむしろ「フツー」のことです。ですから、日本語教育の専門家という人が、優れた教育の企画とそれを支える「頼りになる教科書」を制作するべきなのだろうと思います。

Q2 日本語教育を監督しているのは誰/何だ?
A2 日本語教育を監督するのは本来は、各々の教育現場を担当しているコーディネータであるはずです。しかし、実際にはコーディネータは、学生や先生たちの「ご不満」をうけたまわってそれに対応して若干の「調整」をしている程度ではないでしょうか。既存の教科書を使っている限りは、コーディネータが授業担当教師と相談してダイナミックに学習活動や教育活動を展開するということはないように思います。(コースの流れに乗っていない唐突なスピーチコンテストや発表会などはありますが…) そんな状況ですので、授業担当の先生たちの方はそれぞれで、与えられたノルマをどのようにこなそうかということに汲々とするばかりです。そして、基礎(初級)段階では、各々の文型・文法の教え方を解説した教授法の本などに頼って、授業を計画し実施しています。このような事情ですので、この質問への答えは、監督は「不在」となります。

 さて、現在日本語教育の実践は、満足な状況でしょうか。これは、結果を客観的に測定して云々ということではなくて、実際に教育をしている教師の感覚として、そして教育を受けている学習者の感覚として、です。非漢字系の学習者について「毎日勉強していても、1年半勉強してN3に受かるかどうかだ!」という話をよく聞きます。うーん、これはどうもうまくいっていないと言わざるをえないのでは…。
 そんな状況を見て、大学のセンセたちは、たいていは、日本語教員の教育や教師養成を何とかしなければという方向で、あれやこれや「研究」して「提案」をします。そして、ますます「上等な」議論を繰り広げます。しかし! 今の日本語教育の状況を改善する方策として、教員教育や教師養成を改革するという行き方はどうなんでしょう? 有効でしょうか? 大学のセンセたちは、QA1やQA2などの状況をどのように考えているのでしょうか。どうもそのような現場や現状やそれに実際に関わっている人に直接関わることを避けて、「遠吠え」ばかりしているように見えてなりません。
 大学のセンセになった人は、「自分は日本語教育の研究者であって、日本語教育の(実践をする)専門家ではない」と自認しているのかもしれません。(それには一定の理解はできます。大学のセンセであるという「値打ち」を維持するためにも!) そして、その一方で、「日本語教師は…」「日本語教師にとって…」というように「日本語教師」ということをよく論じています。こういうセンセは、「日本語教師」を「卒業」されたようです。しかし! 大学のセンセが「日本語教師」を「卒業」した日本語教育の研究者で、現在日本語教育の現場に携わっている人が「未卒業」の日本語教師だとしたら、この世の中のどこに日本語教育の専門家がいるのでしょうか? どこに、日本語教育の専門家(その重要部分として、日本語教育のプロデューサーや監督がある)が「生まれる」のでしょうか。 
 これは、日本語教育と日本語教育学が抱える根本的な構造的問題です。この構造的問題を解決する処方箋はまだ誰も見出していません。厄介です。
 そして、その一方で、日本語教育の研究者と目されている人は、今、政治家や行政官から「関連するデータを出してくれ!」とせがまれて(?)います。普及可能なgood pracriceを生み出すことができておらず、そのために「関連するデータ」も集めることができていないわけで、これも実に厄介です。

 webjapaneseの記事をきっかけにあれこれ考えてしまいました。

2018年12月2日日曜日

オンボロ船と新造船

以下の記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー 第49号 2018年12月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。

2018年12月号 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!) 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない?  うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く!  日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! (に)

2018年5月1日火曜日

羅針盤:日本語教育(学)というカイワイ(201805)

ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、
Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ
レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の
人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた?

カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視
点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地
域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周
辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定
の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模
を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界
上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ
イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、
簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン
ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結
びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連
づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし
ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが
いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、
誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。)

さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ
スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー
ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ
イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して
います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度
共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。

カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる
ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう
にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を
何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな
く、カイワイです。

で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい
は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内
実の一致・不一致はしばしば問題になります。

ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ
ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな
いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう
れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学)
というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。
http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。

結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう
に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の
関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで
す。

2018年3月5日月曜日

あなたはリテラシーのインサイダー? それともアウトサイダー?

 ブルデューの文化資本の視点は、個々の人とリテラシーの関係に「大きな影を落としている」と思います。端的に言うと、読書階層あるいは教養階層の環境で育ったか、日常的に本を読むことがない、あるいはうちに本なんて並んでいないという環境で育ったか、の違いが、人とリテラシーとの関係・感覚に大きな影響を及ぼしていると思います。前者の種類の人の場合は、(両親や親戚のおじさんやおばさんも、さらには直接にお付き合いをしている両親の友人なども、フツーにリテラシーがあるので)自身がリテラシーがあることは「空気のように」フツーです。ですので、ものを書く活動もいわば自身の「フツー」の延長となります。それに対し、後者の種類の人の場合は、教育のおかげで?リテラシーを身につけたことは「特別なこと」となります。両親や親戚のおじさんやおばさんなど誰も「本を読む」ということ(ましてや「ものを書くこと」も!)を日常的にしていないわけですから、そりゃー一族の中で「変わったヤツ」となります。(そんな場合に、むかしはよく「トンビがタカを生んだ」と言いました。)
 前者の人の場合は、リテラシーのインサイダーとなります。本(や論文?)を大量に読んだり、そしてその「延長」として書記言語で発信したり、学会などで「理屈的な」やり取りをしたりすることが、自身の「フツー」の延長なのです。ですから、リテラシー・インサイダーの場合は、リテラシーの活動をすることとそういう活動をしている「わたし」が一体になっている、というか、「このようにリテラシーの活動をしているわたしが『わたし』だ!」というふうに自己がそのリテラシーの活動に埋没することになります。
 これに対し、リテラシーのアウトサイダーとなる後者の人の場合は、リテラシーの活動に従事することが「わたし」におけるフツーではなく、むしろ「特別」あるいは「異常!」となります。つまり、リテラシー・アウトサイダーにおいては、リテラシーの活動をしているときでも、本当の?「わたし」はそのようにリテラシーの活動に従事している「わたし」を「冷めた目で」見ているのです。まあ、ちょっと妙な言い方をすると、「こいつ=わたし、ええかっこしとるなあ!」という「冷めたわたしの目」があるわけです。そして、そういう「冷めた目」には、リテラシーの活動をしているすべての人が「ええかっこしー」に見えるわけです。「ええかっこしー」はちょっと言い過ぎかな。「異星人」です!
 リテラシーのアウトサイダーにとっては、リテラシーの活動が(たぶんいつまでたっても)何だか気恥ずかしいことなのです。そう、とても気恥ずかしいのです。司馬遼太郎がその創作活動のための取材などで会う人の多くは、読書階層の教養人です。そして、組織上でも一定の立場にある人が多い。そんな人に会ったときに、司馬は何ともいいがたい愛情を込めて、「○○さんは羞恥心を隠せない表情で…」というふうにしばしば言っています。司馬がこの羞恥心に込めた意味は、「(幸いにも?)リテラシーがあって一定の立場にあるので相応の役割をしているが、このような何だか物知り気にしたり顔で話をしなければいけない役割をするのは何とも気恥ずかしい」という様子だと思います。そう、リテラシー・インサイダーでもこういう羞恥心を知っている人もいるのです。そして、リテラシー・アウトサイダーにとっては、そういう「羞恥心」を持ったリテラシー・インサイダーに出会うと、何だか「救われた」感じがします。
 「告白」すると、ぼく自身はリテラシー・アウトサイダーです。ですから、(エラそうに?)リテラシーの活動をしているときは、いつも気恥ずかしいです。論文を書くことなども、大いに気恥ずかしいです。
 そんなぼくにとっては、リテラシー・スペースは、民主的な創造空間というふうに映っています。そこは、人間的な豊かさの創造に向けて、誰もが自由に自身の考え・見解を呈示することができて、他者と対等な関係で対話することができる空間です。しかし、(人文系の場合は?)そのリテラシー・スペースへの参加が高度なリテラシーがないとできないというような状況になると、どうも「民主的」でない気がします。たぶんその部分には、「人間的な豊かさの創造に向けて」というのが関わっているのだと思います。「人にはやさしいが同時にクリティカルで、高度なリテラシー活動に従事することができて、でも庶民的?な人」になりたいのかなあ。どうもうまくまとまりません。
 

2018年2月18日日曜日

人文的な教養と学者としての進化

 昨日はうちのがっこで、「専門日本語教育研究協議会 ─ 学習者オートノミーを育む言語学習とその支援」とのシンポジウムがありました。参加者は関係者を含めて70人以上になったのではと思います。多数のご参加、ありがとうございました。
 以下、独り言。 人間は個人の中で歴史的に「進化」する。20年前のわたしと今のわたしは(ある意味で)「別人」です。10年前のわたしや、5年前のわたし、そして1年前のわたしと、今のわたしも「別人」です。このことは例えば、「日本語教育における何らかの開発をしたい」というような素朴な期待を抱いて(幸いにも!)大学院に入ったAさんの、入学時と1年後のAさんを比べればよくわかります。そこには「日本語教育を志望する」素朴なAさんから、立派に研究者のタマゴに(も?)なったAさんという「進化」の様子が見られます。 このように学生たちは、マスターの2年や、ドクターの3・4年で大いに「進化」します。では、その一方で、教員であるわたしたちは年を追うごとに「進化」しているでしょうか? 人文系の学者(scholar)は、自身において日常的に人文的な教養の豊富化ということがあるはずだし、あるべきだと思います。そもそも、高度な人文科学の研究成果はそのような人文的教養の豊富化の上に生まれてくるものだと思います。そして、そういう豊富化があれば、人文教養的に「1年前のわたしと今のわたしは違う!」というようなことが起こるはずです。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践)の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践))の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。

2018年2月17日土曜日

理論的研究と実証的研究と教育実践

理論的研究と実証的研究と教育実践

 これ、前から書きたいと思いつつ、何となく置き去りにしてきました。
 今どきは実証的研究がはやっていると言っていいでしょう。第二言語教育関係では、第二言語習得研究がその代表選手でしょうか。実証的研究というのは、関連のあるデータを必要十分な量 出して、「証拠に基づいて赫々然々の傾向があると言えそうだ」と「主張」を提示するわけです。実証研究というのは、現象の全体性の中から特定の部分に注目して、いわばそこを切り取って、その部分で生じそうな「違い」が本当にあるかどうかを実際にデータを取ってみて確かめるわけです。「現象の全体性の中から切り取って」の部分にはくれぐれも注意!です。
 これに対し、理論的研究は、「理詰め」で、現象の全体性を外さないようにしながら「論理的に考えるとこのようになるのではないか」と「主張」を提示します。理論的研究は、「理詰め」で行くし、現象の全体性を外さないように行くので、相当理屈っぽくなります。
 さて、教育実践者のあなたは、どっちの研究と「対話」をしたい? 科学というヤツが信奉されている今どき?の教育実践者は、どちらかというと前者と対話したいと言う傾向があるように思います。つまり、前者が何らかの「答え」をくれそうな気がするのです。この「『答え』をくれそうな気がする」は、科学がその基礎の上にテクノロジーを発展させてわたしたちの生活をますます便利・快適にしてくれたというわたしたちの「過去の経験」に基づいていると思います。科学信奉主義?ということかな。そして、教育実践者たちは、「エラい」大学のセンセたちがやる、データとわけのわからない統計処理に基づく研究をがまんして聞いて、「答え」を求めようとします。そして、たいていの場合は、その期待は裏切られます。また、それだけでなく、大学のセンセたちのデータと統計に基づく研究の結果が自身の経験に基づく「勘」と違っていたら、決してセンセたちの研究結果を受け入れません。あれっ? 科学を信じるんじゃなかったの?
 結局最終的に「わたしにとって信じられるか信じられないかなんです!」というのであれば、「わたし」自身をもっと教養化しなければなりません。つまり、多種多様な視点で現象を見ることができるようになって、洞察力をもって本質に迫ることができる/できそうな「わたし」にならないと、あなた自身の取捨選択はとても「危うい」ものとなります。そのためには、広い意味での理論的な研究と「対話」をしなければなりません。そして、そんな提案をすると「理論的研究はむずかしくて、取っつきにくい!」という声が聞こえてきそうです。
 科学も信じるようで信じない、理論的研究はむずかしいと言って避ける! そんなことをしていると、教育実践は一体どうなるの?
 knowledgeable practiitonerという言葉が一時、はやりました。さまざまな方面の知識をもっていて、複眼的多面的に物事を見て、洞察のある判断ができる実践家ということです。
 結局、教育実践というのは、実際に教育実践にあたる先生たちのこのknowledgeableの水準に左右されるのだと思います。
 ここで飛躍? 皆さん、むずかしくても、ぜひ理論的な本を読んで、自分の脳みそであれこれのことをあれこれ考えてみてください。その向こうには「希望の未来」が拓けます!