2019年10月17日木曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について(続き)

1.欧米語のの場合は、文字としてアルファベットという記号を使い、それの組み合わせとして口頭言語をtranscribeしている。なので、26のアルファベットで文字指導は終了で、あとはスペリングの正確さを問わなければ、口頭日本語と書記言語の両方を使って言語習得を進めてもよい。スペリングの正確さを問わない書き方は、まあいわば「メモ」です。
2.しかし、日本語の場合は、文字そのものとして、ひらがな50、かたかな50、そして、漢字(基礎で)300、ある。
3.ひらがなとカタカナは、表音文字として学習・指導してよい。その場合には、2つの側面からの学習・指導が必要。(1)各文字の書き方・認識を学習・指導する、(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応するひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する。そして、この(1)と(2)はうまく「行ったり来たり」しながら共強化しなければならない。
4.漢字の学習・指導の原理も、当面は上の3のひらがなとカタカナの学習・指導の場合と同じ。
5.ただし、ひらがな・カタカナと比べて、漢字はしばしば字形が複雑で構成的になる。それは、まあ象形は別途として、指示、会意、形成などの原理で一つの漢字ができているから。
6.なので、漢字の指導の場合は、3の原理を踏まえながらも、象形も含めた5の漢字の特性にも留意して指導するのが、「息抜き」にもなるし、漢字という文字の様子を知り、漢字同士の関係づけにも役立つということで、効果があるでしょう。
7.結論として、上の1−6を認識しつつ、3・4と6の原理に基づいてしっかり指導する必要があります。そして、3の(2)の「(2)知っている日本語の語やフレーズをそれに対応する(ひらがなの組み合わせやカタカナの組み合わせや漢字の組み合わせや漢字とひらがなの組み合わせと照合して認識・再生できるように学習・指導する)」という原理を実現するためには、口頭日本語で!知っている日本語の語やフレーズを増やすことが、書記日本語の技量を総体的に伸ばすための基盤になるということです。つまり、少なくとも基礎段階では書記日本語は二次的、派生的な日本語力だということです。8.この「書記日本語は二次的、派生的な日本語力だ」という認識が希薄になる傾向がしばしばある、ということです。
9.そして、日本語の指導の総体として重要なことは、音声(オーラル)日本語と書記日本語の有効な共形成です。
10.形成のためには「無理のない」じわじわの学習・学習指導が必要です。

2019年10月8日火曜日

入門初期のオーラル日本語と書記日本語の有効な共形成について

 以下、2019年秋学期(10月スタート)の日本語集中コースの開始にあたり、コーディネータの立場から先生方に発信したメッセージです。集中コースとは、大学院進学予備教育で、週に毎日で、15コマ(各90分)×15週間というほんとうに「集中」コース(計337.5時間)です。このコースでは、学習と習得支援(教授)を支援するリソースとしてNEJを使用しています。
 以下、貼り付け。


○ ぼくの「気がかり」
 以前から、
(1)日本語の文字は「超厄介者!」。こんなヤツがなかったら、日本語の習得と習得支援はもっと楽々に行くのに!
(2)しかし、現にこの超厄介者があるのだから、コイツも含めて、何とかオーラル日本語と書記日本語の両方が順調に上達するようにプログラムを工夫するしかない。
(3)これまでの(IJでの)やり方はまだ十分に工夫されていない。
というのが「気がかり」でした。で、今学期。

○今学期の「指針」
1.ユニット4までは、オーラル日本語の習得を優先する。つまり、正書的に書かれた日本語を読ませるということはしない。ローマ字表記のテクストは「それ」を思い出すための「手がかり」として活用する。ローマ字表記のテクストも決して「読む」のではない。
⇒「Deciphering and mimicking Nihonngo」で、decipherging(解読)というのはローマ字テクストでの日本語の解読です。音声形態で優先して日本語を習得するための工夫です。決して、正書法の日本語テクストをdecipherさせないでください。
2.一方で、(1)(音声形態でおおむね習得した)語や句とその書記体との照合を通して音声形態の語や句の書記形態での姿を「見知る」こと、(2)「見知って」それをなぞること、などにより、(音声形態で知っている)語や句の書記形態での姿に馴染む練習は、適切なタイミングで「無理なく」豊富に行う。
3.さらに一方で、文字の書き方の指導は、基本としては語や句をベースにしながら、有効&巧妙に行う。
4.ユニット5以降も、「オーラル日本語習得の優先」を基本としてください。オーラルがまだ身についていないのに(正書法の)日本語を読ませるというのはしないでください。
5.書記形態での日本語を「後追い」の形で強化するために、ウィーク4以降に「Oral review and Reading and writing enhancement」というのを入れています。ここで、読み&書きの強化をします。
6.その他にも、(a)オーラル日本語優先、(b)オーラル日本語と書記日本語がうまく連係した日本語上達の工夫、がスケジュールに反映されています。

というようなことで、これまでの学期にも増してamazingな結果が出せるように、有効&滋養たっぷりの指導を、よろしくお願いします。

ご意見などありましたら、先生間で、また、わたしのほうにも!

西口

2019年10月6日日曜日

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号に羅針盤として掲載されたものです。

土台としての理論と本質探究のための理論的議論

 「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
 昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
 このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
 さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
 院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年2月号に羅針盤として掲載されたものです。

母語話者並に? ─ 日本は多言語多文化社会になっているか?


 少し以前から第二言語教育関係の論考などでしばしば、「第二言語話者(非母語話者)は母語話者並に話す(書くも?)必要はない。第二言語話者は第二言語話者らしく、あるいは自分らしく話せば(書けば?)いい!」との意見が出されています。一方で、学習者の中には「母語話者と同じくらいに日本語ができるようになりたい」と言う人がいます。そして、さらに他方で、やたらに文法にうるさい先生がいます。この3つの意見、いずれに対しても違和感があります。
 ハワイに行ったときに、空港から宿までタクシーに乗りました。運転手さんは中国系の人でした。これから行く道の話から始まって、道中のあれこれの建物の話を機嫌よくしてくれるのですが、こっちは「予習不足」なので、地理も分からず、建物もよく聞き取れません。英語はbroken Englishと言っていいし、発音もかなり訛りがありました。話を聞くと、この5・6年の間にハワイに移住したらしいです。この運転手さんは明らかに「母語話者並に」は話していないし、母語話者並みの英語力を身につけているとはいえません。でも、この英語でタクシーの運転手の職を得て、ハワイで悠然と暮らしているわけです。たぶん、ハワイには中国人コミュニティなどもあって、英語が十分にできなくても十分に「居場所」があり、生活情報源もあって、快適に暮らせるのでしょう。この運転手さんにとっては、今の英語力で当面は十分で、今は十分にハッピーなのでしょう。一方で、タクシーの運転手さんの英語が十分に理解できなかったぼくのほうは「もっと英会話ができるようになりたい!」なんて全然思いませんでした。それどころか、無精をして「ああ、そう!」と日本語で生返事をしているくらいです。英会話のための英語力は今くらいで十分と思っているのです。それでいて、今英語で講義をしているのですが、こっちのほうは「もっとしっかりと伝え、学生を引きつけ楽しませる講義ができるようになりたい!」と強く思っています。ただ、こっちのほうも「ネイティブスピーカーの大学の先生のように!」というのは到底ムリです。日本語教育者であり、ユーモアが好きで、学生をリラックスさせるのが得意?なぼくは、そういうぼくらしく英語で講義をしたいと思っています。
 ハワイの中国系の運転手さんの例からは、多言語多文化になっている社会では、共通語になっている言語の能力はかなり限られていてもだいじょうぶということが言えます。ぼくの例からは、その人から見えている第二言語の言語活動領域というものがいろいろあって、領域によって「できるようになりたい」と「そこそこでいい」があることがよくわかります。ぼくの場合では、ぼくの専門分野の学術英語と講義の英語技量は「できるようになりたい」のほうで、英語での日常的な会話や旅行先での会話は「そこそこでいい」となります。
 結論です。多言語社会で暮らす複言語話者における第二言語や第三言語の能力について考える場合には、言語活動領域と「間に合っているかどうか」が主要な視点となります。簡単に言うと、必要なあるいは従事できるようになりたいと思う言語活動領域で「間に合う」ことがその人にとっての言語能力のゴールです。そして、それは当該の言語活動領域に限定してもたいていは母語話者並みではありません。ちなみに「間に合う」と言う場合に実際に話している言語の質は、言語活動領域と「間に合う」の中身によって全然違います。いつぞやサンフランシスコで乗ったタクシーのプエルトリコ系の運転手さんはほとんど世間話もできませんでした。行き先も何度も言い、説明しなければなりませんでした。こちらとしては「間に合ってないでしょう!」と思いましたが、ご本人としては「タクシーの運転手として『認められて』職を得て、その仕事を曲がりなりにもしているのだから、間に合っている」となるのでしょう。
 そもそも習得者の種類やその人が置かれている状況と無関係に一様・一律に言語能力というものを措定するというのは、最初から違っています。そして、そのような一様・一律の言語能力を措定した上で、第二言語話者の場合はそれを割り引いて「不完全でいいんだ!」と言うのは、値段をつり上げておいて「ああ、じゃあ5割引にしておくよ!」と言っているようなものです。人によって必要なあるいはできるようになりたい言語活動領域と「間に合う」が違うわけで、それに寄り添うのが本来の第二言語習得支援なのだろうと思います。
 ただし、日本で暮らすとか日本で仕事をするという事情になった場合は、どうもそんなに簡単には「間に合わない」ように思います。あのプエルトリコ系の運転手さんレベルの日本語力では決してタクシー会社に雇ってもらえないでしょう。あのハワイの中国系の運転手さんでもダメでしょう。日本語力が実用能力としてかなりの水準に達していないと、人とのコミュニケーションを伴う仕事はさせてもらえません。日本はまだまだ「日本語力がいろいろな人たちがハッピーに暮らせる」という意味での多言語多文化社会になっていないのだと思います。

日本語教育を構想することについて

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年1月号に羅針盤として掲載されたものです。

日本語教育を構想することについて

 あけましておめでとうございます。昨年は、就労外国人の受入れ施策のことで、世間は大騒ぎ。そして、今年は、新しい元号の元年とともに、日本開国元年となります。昨年の11月や12月は、就労外国人関係の日本語教育界の動きにたくさん言いたいことがあって、ブログ(https://koichimikaryo.blogspot.com)であれこれ発言してきました。で、そういう発言に疲れたので、今回はまったく違うテーマでとても自由に書きたいと思います。日本語教育の構想の仕方についてです。
 小中高の教科の学習というのは、現状では知識の習得が中心(←それがいいかどうかの議論は当面置いておいて)なので、教育の企画も、教育の実践も、そして評価も、わりあいしやすいです。一般的に言って、教育内容を「即物的に」設定すると企画も実践も評価もしやすいです。日本語教育ではしばしば「文型・文法か、コミュニケーションか」という議論が行われます。前者では教育内容として文型・文法や語彙などの言語事項を並べるわけですから、「即物的」で、企画も実践も評価もしやすいものとなります。しかし、「日本語の上達」という教育成果が得られるかどうかは「?」です。では、後者はどうでしょう。
 学習活動をコミュニケーションの形で行うということであれば、それは「即物的ではない」ということになります。しかし、コミュニケーション中心で教育を企画する場合に、何が行われているのでしょう? それは、悪名高き!(←と思っているのはわたしだけ?)ニーズ分析とコースデザインです。ニーズ分析では、目標場面target situation(できるようになるべき言語活動)を明らかにして、さらにそこでの話し方である目標言語target languageが調査されるわけです。次に、そうした調査の結果に基づいてコースがデザインされ、教材が制作されます。そして、そのようにして制作された教材の主要部は、端的にいうと、場面別やり取り集となります。つまり、「文型・文法か、コミュニケーションか」の後者のコミュニケーションを選んだとしても、結局は新たな「即物的な」言語事項が主な教育内容になってしまうわけです。ただし、これは基礎的な段階の教育を考えた場合のことで、一定程度の基礎力をすでに身につけている学習者に対して課題解決型のモジュールからなるプログラムを策定した場合はかなり「即物的」ということから免れるでしょう。文化庁の報告書(1月15日まではまだパブコメ中)を見ると、就労外国人のための日本語教育では、こうしたニーズ分析とコースデザインというパラダイムで教育を企画することが推奨されているようです。しかし、それはおそらく基礎段階の教育になるでしょうから、新たな「即物的な」教育となるでしょう。
 さて、ここまでは前口上で、ここからが本論です。
 では! 「即物的な」ものは習得しなくていいのでしょうか。つまり、言語事項は習得しなくていいのでしょうか。それは、そんなはずはありません。日本語ができるようになるというのは、日本語を使いながら能動的に言語活動に従事したり、相手の話を日本語を手がかりとしながら理解して応答したりできるようになることですから、日本語ができるようになることには、どのような形であれ言語事項の習得ということが伴います。日本語が上達するというのは、多かれ少なかれ言語事項の習得を伴いながら、より広い言語活動やより高度な言語活動に、より有効に従事できるようになることです。
 そのような日本語上達の経路に合致する日本語教育の構想はどのようなものでしょう。つまり、日本語教育の実践が「即物的に」言語事項を教えることから免れて、しかし結果として言語事項の習得も含めた言語活動従事技量の上達を促進できるように日本語教育を構想するにはどうすればいいのでしょうか。その問いに対するわたしの答えは、言語事項の習得を伴う言語促進的な言語活動がユニットの教育指導として実践できるような形で一連のユニットを企画する、というものです。これは、第二言語習得の原理の問題ではなくて、単に論理的な帰結です。ただし、その一方で、何をもって言語事項とするかは、クリティカルに検討されなければなりません。そこで言語事項とされるのは、従来のような文型・文法や語彙などではないでしょう。これは、言語哲学的な問題です。
 さて、クリティカルに検討するべき点がもう一つあります。それは、日本語プログラムの構成に関わることです。まずは、最終的な目標が日本語での言語活動に実際に従事できるようになることだとして、どのような方面の言語活動に従事できるようになることが期待されるのかをクリティカルに検討することです。その際には、当該の日本語プログラムの教育的な文脈や制度的な文脈などを含むさまざまな文脈も考慮されなければなりません。さらに、ある方面の言語活動に従事できるようになることが最終目標として設定されたとして、その水準に至るための前段階の基礎的な教育が必要ではないかをクリティカルに検討し、必要ならば基礎教育としてそれを企画することです。基礎的な日本語力を養成しないで、いきなり実際のコミュニケーション場面を設定した練習ばかりするのは、何ともナイーブだと言わなければなりません。これはすぐれて日本語教育学的なテーマだと思います。
 このように有効となり得る日本語教育を構想するためには、時には論理的に考え、時には言語哲学と向き合い、そして、最終的には日本語教育者としての高度な専門的知識と深い洞察を動員してさまざまな判断が下されなければなりません。「文型・文法か、コミュニケーションか」という二者択一で考えたり、教育企画と言うと即座に「ニーズ分析の出番だ!」としていては、いつまで経っても、「『即物的な』教育企画ではないが即物的な言語事項の習得も伴わせる巧妙な日本語教育の構想」はできないでしょう。「ニーズ分析!」、「コースデザイン!」と叫ぶのは、すでに古色蒼然の観があります。また、基礎教育を、従来の初級日本語教育で間に合わせてそのままにしているのもどうなのでしょう。わたしたちは、巧妙な日本語教育の構想の下に、創造的で調和的な日本語教育の実践を今後も展開していきたいと思います。

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える!

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2018年12月号に羅針盤として掲載されたものです。

沈没しそうなオンボロ船から最新鋭の新造船に乗り換える! 

 NIJ(A New Approach to Intermediate Japanese、テーマで学ぶ中級日本語教育)が先の学会(11月24・25日、@沼津)でようやくお披露目となりました。うちの大学内ではNEJが出版された2012年くらいからすでに学内版があって使っていたので、出版まで5年ほどかかったことになります。(←ほくとしては「時間がかかりすぎ!」) いずれにせよ、これで入門から中級までの表現活動中心の日本語教育を実践する基盤が整備されたので、ぼくとしては大仕事を終えた感があります。
 日本語教育業界内の巷では、「特定技能1号」「特定技能2号」の外国出身者の受入れの話題で持ち切りです。「日本語教育(が必要!)」という言葉がこれほど連日テレビや新聞に出たことは初めてです。今回の学会でも、その話題とそれに向けた日本語教員・日本語教育人材の養成・研修のことが「大きな課題」として、発表や「立ち話」で大いに話題になっていました。しかし…。そんな中でぼくはしれっと?していました。「しれっと」というか、むしろ「シラけて」いたように思います。このフォーラム・マンスリーをお読みの方ならぼくの「シラけ」が理解いただけると思います。
 ご存じのように、NEJやNIJは単なる新しい教材ではなく、新しい教育内容と教育方法の提案です。あるいは、習得についての考え方も従来とは違うわけなので、新しいアプローチの提案、あるいは新しいパラダイムの日本語教育と言ってもいいでしょう。そして、「沈没しそうな」旧アプローチ・旧パラダイムの教育を抜け出して、この「最新鋭の新造船」に乗り換えることが、新たな日本語教育への第一歩、あるいは日本語教育の新時代を拓く第一歩だと思います。教員の養成や研修は一方で大事なことですが、それよりも日本語教育を再構築することのほうがもっと大事でしょう。日本語教育の再構築をしないと、どんな教員養成や研修が行われようとその「修了者」は、少なくとも入門・初級から中級(前半)までは、旧アプローチの「沈没しそうなオンボロ船」に乗せられて、これまでの先生たちと同じように、船が沈まないようにすることに四苦八苦するばかりとなります。(「安全な船」に乗りおおせた「えらい」大学のセンセたちは、入門・初級から中級までのこの惨状を一体どう考えているのでしょうねえ。そんなところに送り込まれる学生がかわいそうと思わないのでしょうか?)これまでやってきたことと同じことの繰り返しです。そして、学会で研究発表をしている院生の人たちなどは、もう一人のえらい大学のセンセ」になるべく、せっせと発表をしています。そして、その結果、この惨状の再生産にまた加担することとなります。こんなのでいいの!?(←だいぶ「不満」がたまってますなあ!)
 先週、文化庁から「日本語教師【初任】研修」についての意見聴取の文書が来ました。その中で、(10)コースデザイン演習の下に「・ニーズ分析、・目標設定、・職種別対象別日本語教育の内容、・職種別対象別カリキュラム、・教材作成」などが挙げられていました。これって、90年代のパラダイム(英語教育では80年代のパラダイム)だよね! 日本語教育はまだ21世紀を迎えていない? 
 うーむ、しかし…。愚痴を言っていても始まらない。ぼくはぼくの道を行く! 
 日本語教育実践についての具体的な提案はNIJの出版で十分に一段落したので、また研究方面に戻りたいと思います。今度は、『日本語教育者のための第二言語教育学の散歩道』と『第二言語教育学のための人文学の散歩道』という2冊の本を書きます。できれば、相互に関連させながら同時に2冊出版! 目標は、1年後か1年半後。
 闘い続けるしかない!? いや、発信し続けるしかありません! NJの仲間の皆さん、引き続き「共闘」しましょうね! 

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

以下の記事は、NJ研究会フォーラムマンスリーの2019年3月号にコラムとして掲載された者です。

「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?

 わたしはFM京都αステーションのファンで、車に乗ったときはいつも聞いています。そして、朝の番組は素敵な低音の素晴らしく落ち着いた話しぶりの佐藤弘樹さんがDJをしています。佐藤さんは英語が素晴らしくできるようで、京都外国語大学の講師もしていらっしゃって、同番組でワンポイント・イングリッシュというコーナーをいつもやっていらっしゃいます。「こんなの英語で何と言うのだろう?」というような話です。ワンポイント・イングリッシュで取り上げられる表現はいずれも英語で表現するのはむずかしいです。そして、自分たちの(1)生活習慣に基づいた上で、(2)日本語で考えて、そして(3)日本語にした上でそれを英語にしようとする、(悪い!)習慣がある「英語が苦手な」英語学習者たちには「なるほど、だからそれを英語で言うのがむずかしいのかあ」と手を打って思わせるものばかりです。しかし!! これってどうなの? そういう「悪い習慣」をもっている人の「悪い習慣」に基づく「ご質問」に答えて(応えて?)いていいのでしょうか、英語の習得を支援しようとする者として。佐藤さんの番組は佐藤さんのトークもそこで流される音楽も大好きなのですが、このワンポイント・イングリッシュだけはいつも「引っかかり」ます。
 そのワンポイント・イングリッシュで先日(実は2月10日)「『あいつ、年下のくせに、生意気だね』は英語でどういうんでしょうね?」というのが出てきました。佐藤さん曰く「 うーん。これは、英語にならないでしょうね。これは、日本語ネイティブならわかりますが、英語話者の人には何を言ってんだかさっぱりわからないでしょうね」。ワンポイント・イングリッシュにはそもそも「引っかかって」いるのですが、この「日本語ネイティブならわかりますが」には大いに引っかかりました。日本語ネイティブと言われるには、この水準までどっぷり『日本』に浸かっていないといけないの? そもそも「あいつ、年下のくせに…」というのはほとんど差別発言です。「あいつ、女のくせに…」とか「あいつ、男のくせに…」というふうにすれば差別発言であることがすぐにわかります。差別発言は、差別発言だからだめ、というものではありません。そのように言われた当事者が不快になることと、そのような不当な「線引き」を維持し助長するから、いけないのです。その根本は、人に対するやさしさや人を一人の人として尊重する態度です。そのようなことを考えると、「あいつ、〜なのに…」という発言は、そもそも人へのやさしさや尊重する態度のない発言となります。それを「これって、英語でどう言うんだろう?」というネタにするというのはどうなんでしょう? そして、実はワンポイント・イングリッシュで取り上げられているネタの多くは、ここまでひどくはないにしても、「土着的な」生活習慣に基づいた発想の日本語がとても多いです。
 「外国語を学ぶときは、その言語が話されているところ/人々の文化や習慣も理解しなければならない」とよく言われます。それは、一応その通りではありますが、その基本は、(a)人へのやさしさと尊重する態度と、(b)自身が身につけていることの中で自文化に特殊的な部分を認識し意識化すること、です。(a)のほうは、言語や文化を超えた普遍性のあるものです。そして、(b)の「自身が身につけているもの」には、自文化に特殊な部分と(a)に通じる部分の両方が含まれています。そんなふうに考えると、外国語学習を通してめざすべきは、他者を尊重しよりやさしい度量の広い人間になることであって、相手の文化の特殊性を知っておもしろがることではありません。そして、そうして身につけた態度や度量は、自身の第一言語で外国出身の人と話す場合においても発揮されるものです。
 こんなふうに考えると外国語の学習は人格の陶冶ということに大いに資するものなのだと思われます。外国語を勉強しているのにあいかわらず「あいつ、〜なのに…」というような考えをもっている人は、一体、何をその外国語で話し、どのようにその言語の話者と交わろうとしているのでしょうか? 何だか、そんな人は、そもそもの外国語学習の入口にも立っていないのではないかという気がします。
 ああ、ちなみに、佐藤弘樹さんのために「弁護」をすると、佐藤さん自身は英語教育の人でもあるわけですが、このワンポイント・イングリッシュについては、教育的な観点ではなく、娯楽的な観点でやっていらっしゃるということだと思います。そして、いわゆる英会話を勉強しているという人のかなりの部分は、真剣に英語ができるようになって何かをしたいということなのではなく、英会話の勉強そのものがそもそも娯楽なのではないかとしばしば思ってしまいます。もちろん、そういうのも「あり」ですが。

2019年10月1日火曜日

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし なりのこたえ

つながりとつながる日本語 -「なぜあなたは日本語を教えるのか」という問いへのわたし
なりのこたえ
                                  西口 光一

先日、神戸のコミュニカ学院で研修を担当させていただきました。その時に、わたしの
考えを十二分に理解してくださった上で院長の奥田先生から「そういう話の上で、結
局、西口先生は何のために日本語を教えるの? 学生たちは何のために日本語を学ぶ
の?」と尋ねられました。5月以来何回か、NEJやNIJの日本語教師対象のセミナーとい
うことで表現活動中心の日本語教育(自己表現活動中心の基礎日本語教育とテーマ表現
活動中心の中級日本語教育を合わせたもの)について話す機会がありましたが、そこで
はどちらかというと「学習者における日本語の上達」に関心を置くオーディエンスの関
心に応える形で、「従来の日本語教育の企画(言語事項中心のアプローチや実用的なコ
ミュニケーション中心のアプローチ)では日本語を上達させることはできません。日本
語を上達させることができる教育企画は表現活動中心の日本語教育です!」という指摘
をして、同教育企画の内容をお話しし、さらにユニットの一連の授業の流れを説明し
て、その一部について具体的に模擬授業を実施する、ということをしました。そんなこ
とでこのところひどく「実際の教育実践対応」をしてきたわたしには、奥田先生のご指
摘は改めて表現活動中心の日本語教育の原点に回帰させてくれるものでした。

表現活動中心の日本語教育におけるそもそもの「関心」は二つです。一つは、上で言及
したように、本当に日本語を上達させることができる日本語教育を構想しその実践を実
現することです。そして、その先にあるもう一つのより上位の関心は、新たな言語を習
得してこれまで交わることのできなかったもっとたくさんの人と交流してほしいという
ことです。そして、より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かに
してほしいということです。この後者は、CEFRの複言語主義と重なる関心かと思いま
す。

仮に、前者を「つながる日本語」という関心と呼び、後者を「つながり」という関心と
呼ぶことにします。あえて、これらに形容詞をつけると、「つながる日本語」は教育的
な関心、「つながり」は価値判断的な関心ということになるでしょうか。

両者の関係は、一見すると、「つながる日本語」の習得が先で「つながり」はその後に
実現できることというように見えるかもしれません。そして、この見方では後者が目的
で前者が手段という具合になってしまいます。しかし、これでは、またまた「道具主義
的な教育」の「復活」となります。表現活動中心の日本語教育では、この2者をそのよ
うな関係としては考えていません。「そのような関係としては考えていない」というこ
とには二つの面があります。

一つは、「つながる日本語」の学習と習得支援(教育)を、さまざまなところから来た
さまざまな背景を持つ他の学生とつながり交流しながら行っているということです。つ
まり、言葉を行使するというのは人とつながることなんだという見解を口で言うのでは
なく、具体的な学習と習得支援の実践として伝えているわけで、そのような実践を通し
て「より多くのより多様な人と交わって人と人のつながりを広げ豊かにしてほしい」と
いうメッセージ/願いを伝えるようにしているわけです。このように表現活動中心の日本
語教育では両者は目的と手段というような関係ではなく、重なり合っています。

今一つは、一つ目と明らかに関連していますが、表現活動中心の日本語教育を実践する
教師は授業であるいは授業外で学生と接するときの態度でも、上のようなメッセージ/願
いを伝えています。同教育を「正統に」実践する教師は、「日本語を教えている」、
「日本語をしっかりと身につけてください」という態度で学生と接することはありませ
ん。むしろ、「日本語で自身のことを話せるように/インターアクションできるようにな
っていろんな人とつながってね。そしたら、楽しいよ。人生がもっと豊かになるよ」と
いうような部分に関心を持っているという態度で学生と接しています。上のエッセイで
岡崎さんが言っているように、表現活動中心の日本語教育の教師は、「つながる日本
語」として学習者一人ひとりが自分の自己というものを紡ぎ出せるようになることに、
そして相互の紡ぎ出し合いによるつながりと対話に関心を置いています。日本語の習得
というのはそれに付帯する事柄として副次的にのみ関心が寄せられます。

このように、表現活動中心の日本語教育は、「つながる日本語」という教育的な関心と
「つながり」という価値判断的な関心を契機として、その両者が渾然となって実際の教
育が実践されるようにと企図して構想されたものです。そして、一教育実践者であるわ
たし自身は言うまでもなく、「正統派」の教師たちも、そのような企図を具現する形で
教育を実践しています。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

この時期は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2019年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものです。

現象学から人間科学へ⑥ ─ 現象学とは何か? そして、現象学的心理学へ

 今回は、現象学とは何かをできるだけ簡明に説明し、さらに現象学と現象学的心理学を架橋する議論を紹介したいと思います。
 メルロ=ポンティは、自然的態度、エポケー、現象学的還元について以下のようにうまく説明しています。(木田からの孫引きで、原著はまだ確認していません。) すなわち、自然的態度に生きるかぎりでのわたしたちは、環境や外的諸条件によってさまざまに条件づけられています。メルロ=ポンティはこれを「負わされた条件」と呼んでいます。そして、現象学的還元は、この「負わされた条件」を、エポケー(判断留保)という操作をすることによって、「意識された条件」あるいは「自覚された条件」に変えようとすることです。決して条件づけられていることを否定しようと試みることではありません。(第4回の末尾のメルロ=ポンティの引用ももう一度見てください。)

1.『イデーン1』における志向性の再考
 初期の『論理学研究』で、フッサールは、意識の志向性という視点を中心に据えて主として心理学主義を批判しました。そして、中期の『イデーン1』においてはより包括的に自然主義批判を行います。そのために、志向性の問題も考え直されることとなります。『論理学研究』で問題になっていたのは広い意味での心理というイデア的対象の構成に関心が置かれていました。しかし、『イデーン1』においては、イデア的か実在かを問わずすべての対象の構成が関心の対象となりました。すなわち、すべての志向的対象の存在が、それを構成する意識の志向作用に遡って明らかにされなければないこととなりました。そして、一般的に、存在と意識とは厳密な相関関係をなしているのであって、いかなる存在もそれが意味をもつかぎりは必ずそれに対応する意識の構成作業があり、その作業においてそれがそのような意味をもつものとして所与となるのです。
 ここで間奏として、『イデーン1』におけるフッサールのねらいを見ておきたいと思います。上のように、世界の存在とその意味に関するあらゆる仮定や先入見が還元によって排除(一旦、判断保留)され、世界や世界の内部で経験され得るすべての存在者(存在者というのは、実際には「者」ではなく、対象として存在する「もの」、筆者注)の本質的な区別と構造は、それら存在者が与えられるさまざまな意識の作業にまで遡って問い直されることになります。例えば、自然科学や精神科学の用いる基本的な概念やカテゴリーは、たいていの場合素朴な世界革新の上に立つわたしたちの日常的経験から汲み取られたものです。それが、それらの諸科学が究極の根拠づけをもち得ない理由です。ですから、それら科学の基本的概念やカテゴリーは、現象学によって根本的に検討し直さなければならないのです。そして、フッサールによると、超越論的現象学こそ、かつてのデカルトの試みと同様に、自己と世界とを意識している者としてのわたしたち自身の確実性に立ち返っていっさいの諸科学を基礎づけなおすべき基礎学だとなります。

2.ノエシスとノエマ
 さて、議論をわたしたちの関心に近づけていきたいと思います。
 端的に、上に言う存在者がノエマで、それに与えられる意識あるいは志向作用がノエシスとなります。ラングドリッジはこれをわかりやすく、ノエマ=経験されることノエシス=経験される仕方、と説明しています。つまり、意識あるいは経験の一般的構造は、志向作用であるノエシス的契機と、そこで志向される対象であるノエマ的契機との相関関係として捉えられるわけです。
 ラングドリッジは、それ以前の意識についての考え方の「自己中心的袋小路」問題について論じ、現象学から現象学的心理学への橋渡しをしています。

 過去200〜300年にわたって哲学では、とりわけ17世紀のデカルトの哲学に従って、私たちは自己自身と自分の考えや感情に気づくのであって、そのようなものとして意識は、そうした考えや感情を導く外部の事象に向かうというより、内部に向かうというように、きわめて特別なしかたで理解されてきたのだった。この、意識についてのデカルト主義的な考え方では、私たちの意識は「何かについての」意識ではなくなってしまう。代わりに、哲学者たちが「自己中心的袋小路」(egocentric predicament)と称したものにとらえられてしまう。神経科学の研究成果は、一見したところ、意識についてのそのような見解を支持しているように思われる。…もし気づきが内面に向かっているのであれば、私たちはどのようにして外部世界に触れることができるのか、という難問(自己中心的袋小路)に直面することになる。さらなる問題として、私たちは、どのようにして、同じように自分自身の主観性の囚われとなっている他人の世界を知ることができるのであろうか。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 ラングドリッジは、明快に指摘します。

 志向性はここでは、…何かをしようと意図する(intention)という普通の意味で使われているのではない。そうではなくて、私たちが意識している(conscious)時は ─ 気づいているときは、と言ってもよいが ─ いつでも何かを意識している(または何かに気づいている)、という事実のことを言うのである。…現象学者にとっては、…意識が世界に向かうそのしかたが、焦点となる。なぜなら意識は、志向的に世界のなかの諸対象に関わるからである。(Langdridge, 2007, p.13、邦訳p.16)

 そして、現象学的心理学の研究対象を以下のように規定します。
 
 現象学的心理学の研究対象となるのは、世界についてのこの意識であり、具体的に言えば、人間の意識と世界との関係である。それは経験の公共的な(public、筆者注)領域である。…(現象学的心理学では、筆者捕捉)志向的な相関関係において事象が現れるがままの経験とそれが私たちに現れるしかたに取り組むことになる。…これによって心理学という企ては、脳の中の思考のパターンを探究するというよりは、ある人物とその住まっている世界に起こっていることを基にしたものになる。このような構想の結果として、現象学的心理学にとって、経験を理解すること、そしてその人がその住まっている世界をどのように知覚しているかが、中心的な関心事となる。(Langdridge, 2007, pp.13-14、邦訳pp.16-17、一部改訳)

 ここに言う志向的な相関関係が、ノエシス的契機(事象が現れるままの経験)とノエマ的契機(それが私たちに現れる仕方)の相関関係であることは言うまでもありません。

3.環境と世界と、体験と経験
 現象学では志向性が働く以前の生のままの世界のことをしばしば(世界の代わりに)環境と呼びます。つまり、わたしたち一人ひとりは、ある時空間にいて、そこで原初的に環境と接し交わるわけです。そして、わたしたちが覚醒しているかぎり、志向性が自ずと働いて、「何か」としてこの環境を知り、それと交わって生きることを営みます。その「何か」が世界やその中の対象(両者を合わせて存在者)となります。
 実は、日本語とドイツ語は便利で、前者の原初的な環境との交わりと後者の世界との交わりをそれぞれ別の言葉で言うことができます。前者が体験、ドイツ語ではErlebnisで、後者が経験、ドイツ語ではErfahrungとなります。つまり、経験として捉えられる以前の生のままの体験(Erlebnis)というものがあって、それがノエシス的な契機とノエマ的な契機の相関関係として止揚されて経験(Erfahrung)になるのです。
 そして、ここでいよいよ言葉、言語が登場することになります。それは次回に。