2018年9月1日土曜日

日本語習得における文法と語彙の位置づけ

この記事は、NJ研究会フォーラム2018年9月号(https://archives.mag2.com/0001672602/?l=pfa161f2bd)に掲載されたものを、再掲しています。

 日本語を教えるというのは、学習者が日本語ができるように教育・指導することです。日本語ができるというのは、学習者があれこれの言語活動に日本語で従事できるようになることです。どんな「能書き」を並べたとしても、「日本語」の部分の増強の企画と成果がないと、日本語教育とは言えません。しかし、その部分を「日本語」として記述すると、どうしてもラング(システムとしての言語)中心の内容になってしまいます。おそらく、教育目標としては「斯く斯く然々の言語活動に日本語で従事することができる」というふうに記述して、その目標達成を確認(評価)するためのガイドラインに言語事項的な側面も書いておくという方法が適当かと思います。
 さて、わたしたち日本語教育者は学習者が「あれこれの言語活動に従事できる」ようにと、日本語のコースを企画し、計画して、教育を実践するわけですが、最終的に学習者と交わって具体的に教育・指導をするのは授業を担当する教師集団です。そして、教育の企画・計画では、学習者における日本語習得の経路に沿う形でカリキュラムを策定することができ、各ユニットの終了点での目標を示し、そこに至る経路の概略を示すことはできます。そして、表現活動の日本語教育(NEJでの教育やNIJでの教育)では、そのようにしています。しかし、ユニット全体に対しても各授業に対しても習得するべき言語事項を示すことはできませんし、補強すべき言語的側面(音声、語彙、文法、社会言語的側面など)を一つひとつ明示することもできません。当該のユニットの教育実践は、ユニットの目標達成ということをにらんで、授業を担当する教師集団で、教師個々に判断して、あるいは教師集団で判断と対応を共有しながら、行うほかありません。つまり、日本語ができるようにするためのすべての側面は、学習者がそれらに習熟できるように、その教師集団によってうまくカバーされなければなりません。
 さて、日本語技量を育成する教育と指導はざっくりと言って、どの側面にどれくらい注意とエネルギーを向けるのが適当でしょうか。日本語技量を構成する側面ということで、取りあえずは書記言語のことは除くとして、文法の側面、語彙の側面、音声の側面を考えましょう。そして、まずはということで、基礎日本語教育の場合を考えてみましょう。
 まず、音声の側面については、入門期に「解決」しておくのがいいと思います。しかし、入門期にすべて解決はなかなかできませんので、それ以降も、一応比重5%と見積もっておきましょう。残る95%は、文法の側面と語彙の側面です。文型・文法を柱とした従来的な基礎(初級)日本語教育では、文法の側面への比重は80%とか90%もあるのではないかと思います。語彙の側面への比重はせいぜい10%程度でしょう。ここが問題です! 日本語の文型・文法はそんなにむずかしい? たったの10%の比重で期待される言語活動に従事するのに関係する語彙が十分に習得できる? 日本語の先生たちは、「語彙は、単語を覚えることなので、学習者ががんばれば自分でできる。しかし、文型・文法は教師主導で教えないと学習者は習得することはできない」と考えているようです。これ、第1文も、第2文も、ほんと?
 根本の問題は、日本語において文法(文型を含む)とは何か、です。 ヨーロッパの諸言語では、名詞に、冠詞や代名詞(単に「友だちと」とは言えず、「with my firiend」と言わなければならない)がついたり、人称によって動詞が変化したり、名詞や形容詞に男性形や女性形があったり、また名詞と形容詞の間で性や数の一致が要求されたりと、いろいろと文法があります。日本語にはそのような文法はありません。日本語は膠着語の一つで、日本語の構造は、端的に「〔名詞+助詞〕+〔名詞+助詞〕+述部」です。そして、述部にいろいろな助動詞などがついていろいろな表現が作られます。受動態の文や使役の文や使役受け身の文では、それぞれ独自の〔名詞+助詞〕が要求されますが、それぞれのタイプの文はそれぞれのタイプの文として指導すれば「文法的に」むずかしいことはほとんどありません。(それを、能動態から受動態へというふうに文の変換というふうに教えるからむずかしくなるのです!!) 日本語で文法らしい文法は、せいぜい五段動詞の活用くらいのもので、助詞の用法も単独の意味・用法にすぎず、文法と呼べるほどのものではありません。となると、日本語の文法は、五段動詞の活用だけであとは文型となります。文型は、名前の通り文の型(パターン)ですから、むずかしい面はほとんどありません。こんなふうに考えると、文法(文型を含む)の側面に80%や90%の教育的な労力を傾けるのは無駄だとなります。
 次に、語彙です。語彙の学習は、単に単語を覚えることではありません。「服を着ました」「パジャマを着ました」などを学習しても、“wear a cap”、“wear jeans”、“wear glasses”を言うことはできません。それぞれ、帽子を「かぶる」、ジーンズを「はく」、メガネを「かける」となります。また、「ジュースを飲む」や「ビールを飲む」などを習得したとしても、学習者は決して薬をのむ」は言えません。さらには、教科書に「音楽を聞きました」と書いてあるしそのように練習しているのに、学生はわざわざ「音楽“に”聞きました」と言ってくれます。このように、語彙の学習は、個々の単語を覚えることに限定していては、必ずしも成果はでません。ここに紹介したような、広い意味でのコロケーション(言い回し)といっしょに学習し習得してこそ、真の語彙力となります。先に、日本語には文法はないと主張しましたが、このような語彙に関わるコロケーションこそ日本語の文法と呼ぶにふさわしいのではないかとも思えます。そして、そうであるなら、コロケーションを含めた語彙を指導し習得させるという教授活動は、十分に語彙と文法の両方を教えていることとなります。そして、教師の積極的な教育と指導があってこそそうした側面を学習者は習得できるわけです。学習者にまかせてよいものではありません。
 結論。日本語技量育成のための教授活動の比重は、音声5%、コロケーションを含めた語彙80%、文法(文型を含む)15%です。文法と語彙の立場の逆転ですね!!