前回のところまでで、カッシーラーの「シンボルを操る動物」というところまで来ました。今回は、2つの議論をします。一つは、人間的秩序である行動のシンボル形態について。もう一つは、いよいよハイデガーに突入で、かれの実存哲学の中核的視点である世界内存在(In-der-Welt-sein)について説明します。
人間的秩序 ─ 行動のシンボル的形態
人間的な意味の世界をめぐって、カッシーラーはシグナルとシンボルについて以下のように論じています。
シグナルとシンボルは理論上、2つの異なった世界に属するのである。すなわちシグナルは物質的な「存在」の世界の一部であり、シンボルは人間的な「意味」の世界の一部である。シグナルは、オペレーター(操作者)であり、シンボルはデジグネーター(指示者)である。シグナルは、たとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在である。シンボルはただ機能的価値のみもっているのである。…要するに、動物は実際的想像及び知性をもっているのに対し、人間のみが新しい形式のもの ─ シンボル的想像およびシンボル的知性 ─ を発展させたということができる。(カッシーラー、『人間』、pp.76-78)
メルロ=ポンティは、心理学研究の古典とされるケーラーの『類人猿の知恵試験』で紹介されている実験例を手がかりとしてチンパンジーの行動の構造を探究しています。これも木田(1991)が要領よく説明してくれているので、『行動の構造』の当該部分も参照しつつ、木田に依拠して要約します。ケーラーのチンパンジーは、竹竿をつなぎ合わせて遠くにあるエサを引き寄せたり、箱を積み重ねて高いところにあるエサを取ったりすることができました。しかし、実際には、チンパンジーが棒を道具として使用するのはあらかじめ棒がエサの手前の適当なところに置かれているか、少なくとも棒とエサとが一目で見渡せる場合に限られていました。また、箱を踏み台にしてエサを取る操作を習得したはずのチンパンジーも、その箱に他のチンパンジーが座っているとそれを踏み台にして利用しようとはしませんでした。つまり、チンパンジーにとって、エサの手前にある棒と離れたところにある棒や、踏み台としての箱と腰掛けとしての箱は、それぞれ違った意味をもった2種類の対象なのであって、同一の事物の二面、つまり同一の対象の異なる現れ方ではないのです。すなわち、チンパンジーは一定の意味を捉えているとは言えますが、その意味は、その時々の場の実際的な構成によって与えられる機能値にすぎないということです。対象を単なる機能値から解放して常に道具として使うことができるためには、現に与えられている状況の構造とそこから浮かび上がる可能的な状況の構造を関係づけるような高次の構造化の能力が必要なのです。
人間はそうした高次の構造化ができます。そして、人間にあってはそうした高次の構造化ができるだけでなく、それを歴史的に幾重にも積み重ね上げて重層的にシンボル的知性の世界を構築することができるのです。メルロ=ポンティはそのような人間の行動形態を行動のシンボル形態と呼んでいます。
メルロ=ポンティは、物理的・生物的自然を変容し、そこに新たな構造を実現するこの人間活動を、ヘーゲルにならって「労働」と呼んでいます。労働という見方は、直接的環境の「向こう側」に多くの局面から見ることができる「対象の世界」を認める見方で、マルクスの実践に直截に通じる視点です。
メルロ=ポンティの構造の哲学から始まった人間の行動形態についての議論を木田は以下のように結んでいます。哲学・思想でしばしば用いられ、以下の引用中にもある「存在者」というのは、「存在していると認められるものやこと」です。
シンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば、<世界>に開かれることになる。人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によってつくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。(木田, 1991, pp.68-69)
このような人間の存在についての世界内存在という見方は、本節の冒頭で紹介したカッシーラーのシンボルについての見解と照応しています。
ハイデガーの『存在と時間』
ハイデガーの実存論に入る前に、ハイデガーの実存哲学の位置について述べておきたいと思います。周知のように、ハイデガーの『存在と時間』は当初は上巻と下巻の2巻の予定でした。1927年に刊行された『存在と時間』の上巻は、発表されるやいなや圧倒的な評価を受け、ハイデガーはそれ一冊で哲学界における地位を確立しました。そして、瞬く間にドイツ思想界の形勢を変えたと言われています(木田, 1970, p.87)。一方で、下巻の刊行は長い間引き延ばされたあげく、結局1953年に断念されました(同前、p.89)。
木田よると、ハイデガーは『存在と時間』の2巻でソクラテス以前の古代ギリシア哲学者にまで遡って存在そのものの意味を探究することを目論んでいましたが、結局その入口として発表された人間存在の実存の分析を扱った上巻だけが一人歩きしました。その結果、上巻だけの『存在と時間』はハイデガーのもともとの目論見に反して、実存哲学の書として広く一般に受け入れられることとなったのです。本稿でも、ハイデガーの本来の関心や目論見は顧慮することなく、現存の『存在と時間』で展開されている世界内存在の議論に注目することとします。ちなみに、本稿内で、『存在と時間』の「上」や「下」として出されているのは、この上巻の邦訳の「上」と「下」です。
世界内存在(In-der-Welt-sein)
先にも言ったように、存在者とは「存在していると認められるものやこと」であり、ごくわかりやすく言うとわたしたちが認めている世界や現実です。存在者とは何か、そもそも存在するとはどういうことかに根本的な関心を置くハイデガーは、人間存在を手がかりとして存在の分析を始めます。人間だけが自己以外の存在者と関わっているだけでなく、自身の存在を存在しなくてはならないという形で自己自身の存在と関わりあいながら、同時に存在とは何かと問うこともできる特殊な存在だからです。そのような人間存在をハイデガーは一旦“Dasein”と呼びます。ドイツ語の“Dasein”はもともとは“da”(そこに)“sein”(ある)という意味で、ハイデガーは「存在が立ち現れる現場」というような意味で“Dasein”を使っています。通常は現存在と訳されています。現存在という見方には、いっさいの存在者の存在を意識の志向性に立ち返って問おうとしたフッサールの発想が受け継がれていると見ていいのですが、ハイデガーは意識という概念を注意深く避けていることになります。
ハイデガーは、まずわたしたちが何気なくそこで生きている日常性(Alltäglichkeit)の分析から存在の探究を始めます。日常性とは、フッサールの言う自然的態度(die natürliche Einstellung)に基づく生き方です。そして、自然的態度に基づくフッサールの言う世界定立(Weltthesis)ということを世界内存在(In-der-Welt-sein)として捉え直したのです。
フッサールにおける自然的態度でもわたしたちは世界を定立しつつ逃れがたくその事実的世界に繋がれているという事態が含まれていますが、ハイデガーにおいてもそれは投企(Entwurf)と被投性(Geworfenheit)が分かちがたく結びついているという事態として捉えられています。わたしたちは世界の内に否応なく投げ出されているのですが、そうした世界内存在をどのように生きて自己をどのように存在させるかを委ねられ、そして自身の責任において存在の投げ企てを絶えることなく続けなければならないのです。
ひと(das Man)と本来的実存
本エッセイの関心は世界内存在とことばの関係ですが、ここでひと(das Man)と本来的実存についてのハイデガーの議論を見ておかなければなりません。この部分では、ハイデガーの議論は幾分道徳的な議論に傾きます。
現存在は日常的相互存在としては、ほかの人びとの司令下にあるということを意味する。現存在がみずから存在しているのではなく、ほかの人びとが彼から存在を取りあげてしまったのである。ほかの人びとの思惑が、現存在のさまざまな日常的存在様式を操っている。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.276)
これがハイデガーの言う、非本来的な生き方であるひとです。木田によると、そこでハイデガーは存在の真の意味を捉えるためには存在の開示の場である現存在そのものが本来性(Eigentlichkeit)を取り戻さなければならないと考えて、フッサールの現象学的還元の操作を援用します。そして、そこに「死」ということを導入します。つまり、日常性に生きているひとは、死の不安に襲われることによって、自然的態度によって装われた自己充足性を打ち破られ、かけがえのない自己に目覚め、自身の存在を自身の存在として引き受けるようになります。その結果、主体的に投企しようという本来的実存を回復するというわけです(木田, 1991, pp.80-81)。こうしたハイデガーの道徳的とも言える議論を木田は以下のようにまとめています。
もともと実存Eksistenzとは外に抜け出、超え出ることであった。つまり、本来的実存、真の人間存在の在り方とは、日常的に物との交渉に明け暮れしている<ひと>として自己を超え出る、その自己超越の運動なのだと考えてよいだろう。…われわれはこの自己超越の運動のなかで、むしろ世界へと超出し、われわれの事実的な被投性、われわれの有限性をますます深く自覚し、それを意識的に引き受けることになるのである。(木田, 1991, p.81)
現存在の実存の在り方にこうした視点を採り入れることによって、ハイデガーは現存在の実存を時間性(Zeitlichkeit)として捉えていく『存在と時間』の第2編の議論を展開していくのです。
次回は、こうした世界内存在と言語の話になります。
シグナルとシンボルは理論上、2つの異なった世界に属するのである。すなわちシグナルは物質的な「存在」の世界の一部であり、シンボルは人間的な「意味」の世界の一部である。シグナルは、オペレーター(操作者)であり、シンボルはデジグネーター(指示者)である。シグナルは、たとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在である。シンボルはただ機能的価値のみもっているのである。…要するに、動物は実際的想像及び知性をもっているのに対し、人間のみが新しい形式のもの ─ シンボル的想像およびシンボル的知性 ─ を発展させたということができる。(カッシーラー、『人間』、pp.76-78)
メルロ=ポンティは、心理学研究の古典とされるケーラーの『類人猿の知恵試験』で紹介されている実験例を手がかりとしてチンパンジーの行動の構造を探究しています。これも木田(1991)が要領よく説明してくれているので、『行動の構造』の当該部分も参照しつつ、木田に依拠して要約します。ケーラーのチンパンジーは、竹竿をつなぎ合わせて遠くにあるエサを引き寄せたり、箱を積み重ねて高いところにあるエサを取ったりすることができました。しかし、実際には、チンパンジーが棒を道具として使用するのはあらかじめ棒がエサの手前の適当なところに置かれているか、少なくとも棒とエサとが一目で見渡せる場合に限られていました。また、箱を踏み台にしてエサを取る操作を習得したはずのチンパンジーも、その箱に他のチンパンジーが座っているとそれを踏み台にして利用しようとはしませんでした。つまり、チンパンジーにとって、エサの手前にある棒と離れたところにある棒や、踏み台としての箱と腰掛けとしての箱は、それぞれ違った意味をもった2種類の対象なのであって、同一の事物の二面、つまり同一の対象の異なる現れ方ではないのです。すなわち、チンパンジーは一定の意味を捉えているとは言えますが、その意味は、その時々の場の実際的な構成によって与えられる機能値にすぎないということです。対象を単なる機能値から解放して常に道具として使うことができるためには、現に与えられている状況の構造とそこから浮かび上がる可能的な状況の構造を関係づけるような高次の構造化の能力が必要なのです。
人間はそうした高次の構造化ができます。そして、人間にあってはそうした高次の構造化ができるだけでなく、それを歴史的に幾重にも積み重ね上げて重層的にシンボル的知性の世界を構築することができるのです。メルロ=ポンティはそのような人間の行動形態を行動のシンボル形態と呼んでいます。
メルロ=ポンティは、物理的・生物的自然を変容し、そこに新たな構造を実現するこの人間活動を、ヘーゲルにならって「労働」と呼んでいます。労働という見方は、直接的環境の「向こう側」に多くの局面から見ることができる「対象の世界」を認める見方で、マルクスの実践に直截に通じる視点です。
メルロ=ポンティの構造の哲学から始まった人間の行動形態についての議論を木田は以下のように結んでいます。哲学・思想でしばしば用いられ、以下の引用中にもある「存在者」というのは、「存在していると認められるものやこと」です。
シンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば、<世界>に開かれることになる。人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によってつくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。(木田, 1991, pp.68-69)
このような人間の存在についての世界内存在という見方は、本節の冒頭で紹介したカッシーラーのシンボルについての見解と照応しています。
ハイデガーの『存在と時間』
ハイデガーの実存論に入る前に、ハイデガーの実存哲学の位置について述べておきたいと思います。周知のように、ハイデガーの『存在と時間』は当初は上巻と下巻の2巻の予定でした。1927年に刊行された『存在と時間』の上巻は、発表されるやいなや圧倒的な評価を受け、ハイデガーはそれ一冊で哲学界における地位を確立しました。そして、瞬く間にドイツ思想界の形勢を変えたと言われています(木田, 1970, p.87)。一方で、下巻の刊行は長い間引き延ばされたあげく、結局1953年に断念されました(同前、p.89)。
木田よると、ハイデガーは『存在と時間』の2巻でソクラテス以前の古代ギリシア哲学者にまで遡って存在そのものの意味を探究することを目論んでいましたが、結局その入口として発表された人間存在の実存の分析を扱った上巻だけが一人歩きしました。その結果、上巻だけの『存在と時間』はハイデガーのもともとの目論見に反して、実存哲学の書として広く一般に受け入れられることとなったのです。本稿でも、ハイデガーの本来の関心や目論見は顧慮することなく、現存の『存在と時間』で展開されている世界内存在の議論に注目することとします。ちなみに、本稿内で、『存在と時間』の「上」や「下」として出されているのは、この上巻の邦訳の「上」と「下」です。
世界内存在(In-der-Welt-sein)
先にも言ったように、存在者とは「存在していると認められるものやこと」であり、ごくわかりやすく言うとわたしたちが認めている世界や現実です。存在者とは何か、そもそも存在するとはどういうことかに根本的な関心を置くハイデガーは、人間存在を手がかりとして存在の分析を始めます。人間だけが自己以外の存在者と関わっているだけでなく、自身の存在を存在しなくてはならないという形で自己自身の存在と関わりあいながら、同時に存在とは何かと問うこともできる特殊な存在だからです。そのような人間存在をハイデガーは一旦“Dasein”と呼びます。ドイツ語の“Dasein”はもともとは“da”(そこに)“sein”(ある)という意味で、ハイデガーは「存在が立ち現れる現場」というような意味で“Dasein”を使っています。通常は現存在と訳されています。現存在という見方には、いっさいの存在者の存在を意識の志向性に立ち返って問おうとしたフッサールの発想が受け継がれていると見ていいのですが、ハイデガーは意識という概念を注意深く避けていることになります。
ハイデガーは、まずわたしたちが何気なくそこで生きている日常性(Alltäglichkeit)の分析から存在の探究を始めます。日常性とは、フッサールの言う自然的態度(die natürliche Einstellung)に基づく生き方です。そして、自然的態度に基づくフッサールの言う世界定立(Weltthesis)ということを世界内存在(In-der-Welt-sein)として捉え直したのです。
フッサールにおける自然的態度でもわたしたちは世界を定立しつつ逃れがたくその事実的世界に繋がれているという事態が含まれていますが、ハイデガーにおいてもそれは投企(Entwurf)と被投性(Geworfenheit)が分かちがたく結びついているという事態として捉えられています。わたしたちは世界の内に否応なく投げ出されているのですが、そうした世界内存在をどのように生きて自己をどのように存在させるかを委ねられ、そして自身の責任において存在の投げ企てを絶えることなく続けなければならないのです。
ひと(das Man)と本来的実存
本エッセイの関心は世界内存在とことばの関係ですが、ここでひと(das Man)と本来的実存についてのハイデガーの議論を見ておかなければなりません。この部分では、ハイデガーの議論は幾分道徳的な議論に傾きます。
現存在は日常的相互存在としては、ほかの人びとの司令下にあるということを意味する。現存在がみずから存在しているのではなく、ほかの人びとが彼から存在を取りあげてしまったのである。ほかの人びとの思惑が、現存在のさまざまな日常的存在様式を操っている。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.276)
これがハイデガーの言う、非本来的な生き方であるひとです。木田によると、そこでハイデガーは存在の真の意味を捉えるためには存在の開示の場である現存在そのものが本来性(Eigentlichkeit)を取り戻さなければならないと考えて、フッサールの現象学的還元の操作を援用します。そして、そこに「死」ということを導入します。つまり、日常性に生きているひとは、死の不安に襲われることによって、自然的態度によって装われた自己充足性を打ち破られ、かけがえのない自己に目覚め、自身の存在を自身の存在として引き受けるようになります。その結果、主体的に投企しようという本来的実存を回復するというわけです(木田, 1991, pp.80-81)。こうしたハイデガーの道徳的とも言える議論を木田は以下のようにまとめています。
もともと実存Eksistenzとは外に抜け出、超え出ることであった。つまり、本来的実存、真の人間存在の在り方とは、日常的に物との交渉に明け暮れしている<ひと>として自己を超え出る、その自己超越の運動なのだと考えてよいだろう。…われわれはこの自己超越の運動のなかで、むしろ世界へと超出し、われわれの事実的な被投性、われわれの有限性をますます深く自覚し、それを意識的に引き受けることになるのである。(木田, 1991, p.81)
現存在の実存の在り方にこうした視点を採り入れることによって、ハイデガーは現存在の実存を時間性(Zeitlichkeit)として捉えていく『存在と時間』の第2編の議論を展開していくのです。
次回は、こうした世界内存在と言語の話になります。