間もなく始まる日本語教育学会(2021年5月22-23日)での会長挨拶にあるように、日本語教育学会としても「日本語教師の養成と研修」を学会が取り組む3大課題の一つにしています。課題2です。
課題1 : 日本語教育学の「学問的専門分野」としての体系的枠組みの構築
課題2 : 日本語人材・複言語人材育成のための日本語教師養成・研修の理念と
枠組みの再構築
課題3 : 多様なキャリア形成のための日本語教育内容の体系的再編成
この「日本語教師の養成と研修」というテーマ、すごくいろいろな観点や課題や制度などが複合してしまっていて、収拾がつかなくなっていると思います。このテーマが厄介なのは、(a)そもそも今「日本語教師」というような職業があるのかという問題(上の課題3に関係)と、(b)学問的な専門分野として日本語教育学というようなものがあるのかという問題(上の課題1に関連)、が根本的にからんでいるからです。しかし、その要因をからめると話がますます混乱しますので、ここではあえて「日本語教師という職業が世の中に立派にある」と仮に前提して話を進めます(A)。また、これも話をわかりやすくするために、大学教育の一環にある課程と民間の日本語教師養成課程を区別する議論をします(B)。そして、そうしたステップを踏んで最後に、日本語教師養成課程の教育内容についてわたしなりの提案をし、またこのテーマについて現在わたしたちが直面している課題を述べたいと思います(C)。
*ここでは、これも話を一旦わかりやすくするために、「職業としての日本語教師」をめぐる問題に限定します。
A.日本語教師の養成と研修をめぐって
1.「日本語教師という職業が世の中に『立派に』ある」との前提の帰結
(1)司法書士、美容師、保育士などと並んで日本語教師という職業が「認定可能な形で」存在する。
(2)日本語教師という仕事の「内容」や「方法」があり、その仕事を遂行するための「資質・技量・能力」などを特定することができる。
(3)経験を積むにしたがってその職業人としての「資質・技量・能力」は相応に向上するので、日本語教師の中で、新任、中堅、ベテランなどの成長過程がある。
(4)「…『立派に』ある」との前提なら、養成から成長過程まで含めて日本語教師を「再生産」すればいい。
このような状況があってこそ、日本語教師の養成と研修ということを実質のあるものとして議論できます。
2.上のような前提とその帰結があれば;
(1)日本語教師の養成としては、日本語教師が有している「資質・技量・能力」の基本的な部分を明らかにして、その育成をめざして養成が行えばよい。
(2)日本語教師の研修としては、適切な段階あるいは特定された役割に対応して「資質・技量・能力」を向上させる内容を明らかにして、それにふさわしい研修を実施すればよい。
B.民間の養成課程と大学の一環にある課程との対比
1.大学の教育課程に関するいくつかの前提の確認
(1)日本の大学では専攻(major)という制度がなく、基本的に「○○大学△△学部」というのが教育課程の基本単位となる。
(2)各「○○大学△△学部」では、その大学のその学部として達成しようとする教育の目標がディプロマ・ポリシーとして記述されている。
ゆえに、
(3)日本語教育の主専攻や副専攻を受講する場合でも、それはあくまで大学教育の一部として、あるいは当該の「○○大学△△学部」の教育の一環としてその内容が学修される。そして、その大学教育の全体は一般的には成人・社会人準備段階にある若者を対象に提供されることを前提としている。
2.民間の場合と大学の場合の大きな違い
(1)民間の養成課程は、基本として、大学の教育課程をすでに修了している(←「国家資格」の要件がそのようになっているので「大学修了」とした)成人・社会人を対象として、日本語教師という仕事をするために必要な「資質・技量・能力」に限定して提供される。つまり、「教養ある社会人・市民としての資質・能力・態度などはすでに身につけている人が対象」という前提。それに対し、大学での養成課程の場合は、Bの1の(3)のような事情で、「教養ある社会人・市民としての資質・能力・態度」を身につけることと並行して養成課程の教育が実施される。
(2)そのような事情なので、民間の養成課程の内容と大学での養成課程の内容は同じには設定できないと思います。他の言い方をすると、大学での養成課程の学修は大学教育のそれ以外の部分の学修と融合しているだろうということです。
3.民間の養成課程の教育内容と大学の養成課程の教育内容
(1) 2のような事情ですが、民間の養成課程の教育内容と大学の養成課程の教育内容を別途に策定するとまた混乱してしまうので、あえて一元的に設定するのが適当だろうと思います。また、いわば「本体」である大学教育を「日本語教員養成」ということに大きく偏重したものにならないように比較的スリムに設定するのがいいと思います。
(2) そして上の2のような事情をしっかりと認識して、大学での養成課程は大学のその他の課程とうまく融合させて、全体として養成課程の趣旨と大学教育としての趣旨が相互促進的に達成できるように企画するのがよいと思います。。
C.養成課程の教育内容についての提案と課題
このような理路で仮に作ってみたのが、大学における日本語教育人材の養成の教育内容の私案(https://koichimikaryo.blogspot.com/2021/05/blog-post.html)です。この私案の中のAからCまでが養成課程の核で、全30単位の内容となります。そして、この30単位で文化庁の「教育内容」の50項目をカバーすることができます。(従来の民間の養成課程の420時間分もこれで十分となります。)
一方で、Dはリベラルアーツ的な教育内容で、大学の専門課程の教育らしい内容が期待されています。この部分で、しっかりと日本語教育や言語教育一般や多文化共生などに関心をもつ「教養ある社会人・市民」としての資質・能力・態度を育成するのが大学教育の全体としてふさわしいと思います。また、Dの部分はその十分な専門的内容になりますので、大学院進学などさらなるキャリアの前進を考えている学生の「用意」にもなります。
最後に課題ですが、大きな課題は端的にAが成り立つための「日本語教師という職業が世の中に『立派に』ある」という前提がないことです。そして、さらに敷衍的に言うと、日本語教師という職業が世の中に立派にあるわけではないし、それとも関連して、そうした職業を支える「一定の基盤」となる日本語教育学というものも十分に成熟していないという課題もあります。「一定の基盤」と言ったのは、現在日本語教育学は豊かに行われていると思いますが、(a)基盤として決定的に重要な部分がそれに含めているか、それがターゲットされて進展しつつあるかという問題と、(b)豊かに行われている現在及び過去の日本語教育学でどの部分が「重要に」関連し、どの部分が「実用的に」関連しているかなどの関連の質的な違いも含めて関連の知識や知見が体系づけられているかという問題、があります。そして、間違ってはいけないのは、この日本語教育(の広い意味で)の実践と日本語教育学との関連の話と、日本語教育学の体系構築の議論は別物だということです。この2つもはっきりと区別して議論しないとわけのわからない「迷走」に入ってしまいます。
取り急ぎざざっと書いてみました。
皆さんから、ご意見やコメントなどいただければ。