10月に入り新学期が始まりました。(新渡日の留学生たちはフレッシュな顔でキャンパスに現れ)院生たちも皆さん清々しい気持ちでまたキャンパスにもどってきました。MゼミやDゼミが始まり、10月に入ってすでにいくつかの小さな研究会にも参加し、いろいろな人と日本語教育の実践や、日本語教育に関わる研究のことなどについて、議論し、情報交換をし、意見を交わしました。そんな中で、ふと上のようなことを感じました。「日本語教育に関係する(絡みつこうとする)大学の先生(及びその予備軍)は胡散臭いなあ」ということです。できるだけ簡潔に話そうと思います。
大学の先生の2大仕事は、教育と研究です。教育というのは、「教える」ことを通して教養があり健全な批判精神を有する社会に有為な人を育てる、というくらいのことでしょうか。そして、研究というのは、各先生のそれぞれの専門分野の研究となります。日本語教育に「関係しそうな」分野としては、日本語学、認知言語学、コーパス言語学、音声学、社会言語学、第二言語習得研究、会話分析、言語政策などでしょうか。研究というのは、それぞれの分野ですでに蓄積があって、しかしその蓄積をもってもまだ解明されていないことを、解明する営みです。ですから、本来、「内にこもった」「内的自律性のある」営みです。もう少しわかりやすく言うと、研究者が対話し議論するべき相手は基本的には同じ研究分野の研究者です。つまり、同じ研究分野の研究者相互で切磋琢磨して、当該の研究分野のさまざまなテーマの研究を前進させるべきものです。そのようにしてこそ、当該の研究コミュニティでの正統な一人前のメンバーとなります。
大学の(専任の)先生になっている人の中には、教育の義務は日本語を教えることで、その他に研究は上のようなそれぞれの研究分野でやっているという人がたくさんいます。そんな人は、日本語教育者と各自の分野の研究者という2つのアイデンティティを明確にもってほしいと思います。そして、各自の研究分野においては、それはそれで立派な研究をして、その分野で一人前にやってほしいと思います。そして、教育の義務のほうの日本語教育も、自身の研究分野や研究テーマに限定しないで広く関係の知見をリサーチして解釈して仲間と協働してしっかりといい仕事をしてほしいと思います。そのような(専任の)先生の場合は、たいていコーディネータという役割を担い、非常勤の先生たちとチームになって仕事をするのが普通です。コーディネータというのは、コースを計画し、教材を選択(作成?)し、しばしば教育の内容や方法に関して一定の指針を示すべき立場です。その立場の人が、真摯に教育に取り組まなかったり、自身の研究的関心に大きく偏った教育計画をしたり教育指針を出したりすると、それはいずれも自己チュー(自己中心的)な振る舞いだと言わなければなりません。そんな専任教員=コーディネータの下で仕事をしなければならない非常勤の先生は気の毒としか言いようがありません。教育の責任として日本語教育に携わる専任教員は日本語教育に関する広い専門的な教養を身につけておくべきです。そして、自身の研究分野の強みを生かしながら、非常勤の先生たちと仲間として協働していい仕事ができるようにリードしなければなりません。
さて、このエッセイで言いたい「胡散臭い」先生は上のような先生の話ではありません。むしろ、日本語教育が出身だが、今は教育の責任として日本語教育の責任を負っていない、めでたく大学のセンセになりおおせた人です。そういう人は、どうかすると、研究者としても中途半端なのに、日本語教育に対してあれこれ発言をします。先に言ったように研究者の第一の対話相手・議論相手は同分野の研究者です。ですから、そっちでしっかりと対話・議論して一人前にやってほしいと思います。そして、ざっくりと一般的に言ってしまうと、研究で明らかになったことは、その研究が純粋な研究であればあるほど、教育実践に役に立つものはありません。そんなことは、研究を純粋に突き詰めている人には自明なことです。そして、中途半端な人にかぎって妙に教育実践に対して「研究の立場から」あれこれ発言する傾向があるように思います。フツーの日本語の先生から見たら「権威のある」大学のセンセが日本語教育について発言するのは慎重にするべきだと思います。その部分で慎重でない人は、胡散臭いです。ただし、自身の発言が日本語教育の実践の総体の一部としてバランスよく具体化されるところまで責任をもつ覚悟がある場合は、発言していいと思います。
もう終わろうと思いますが、ぼくが胡散臭さを感じるのは、「そんなふうに発言しているあなたは、その発言を具体化する『優れた教育実践』を実際に創造してきたのか、あるいは、これからそれを創造する気持ちと予定があるのか」という部分です。日本語教育に本気で関心をもっているなら、自分がリーダーになって「優れた教育実践」を創造してください、ということです。それを示すのが、一番のご自身の主張が受け入れられることになります。日本語教育(学)関係では、個人による一定の「優れた教育実践」は報告されているかと思います。しかし、チームで実施された、原理に基づく「優れた教育実践」はほとんど報告がないかと思います。研究的な傾向のある人は原理を考えているはずですから、そういう人が中心になって、原理に基づく「優れた教育実践」を創造して、報告をしてほしいと思います。
結論。若い院生たちは、将来、そういう胡散臭い大学のセンセになってほしくないと思います。
すべて、日本語教育の発展のためです。そして、先日は、院生たちと話していて、「やっぱり、日本語教育学っていうのは成りたたないよねえ!」と皆さんため息をついていました。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年10月14日日曜日
日本語教育学における知性と教養を考える①
この記事は、NJ研究会フォーラム2018年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを、再掲しています。
このテーマはどうも長くなってしまいそうなので、2回に分けて話します。今回は1回目です。
知性と教養というのは、昭和の前半までは社会全体のごく一部の人しか身につけていなかったのではいないでしょうか。大阪の南のほうの元々は農村地域であった町で育ったわたしが子どもの頃は、親やそれ以上の世代について言うと、元庄屋さんだった人や、元地主で現在もお屋敷に住んでいる人の一部(本を読むのが好きな人)だけが、読書階級・教養階級でした。それ以外の人は、学校に通わせてもらってようやく一定の「読み書きそろばん」ができるようになったというような具合でした。しかし、学齢期の大部分やその一部が戦時と重なった人は、学校に十分に通うことができず、「読み書きそろばん」も必ずしも十分に身につけることができていません。そんな「それ以外の人」の家庭に育ったわたしには、知性と教養は本来「自分の文化圏外のもの」です。ですから、そういうものを求められつつ仕事をしながらも、同じように知性と教養を動員して仕事をしている人たちと自分は「違う人種」だとほとんどいつも違和感を感じてます。ちなみに、「それ以外の人」の名誉のために言うと、「それ以外の人」が身につけている高次の美徳は、誠実さと品位と人としての矜持と、それらに基づく信用かと思います。知性と教養がなくても、そういう美徳を備えた人はたくさんいます。
知性と教養の対比について、先ずは、一般論から。
知識というのは物を知っていることです。地理的な知識、歴史的な知識、自然や植物・生物に関する知識、技術的な知識などいろいろな知識があります。ここで言っている知識は、学校で教えられるその種の知識も含まれますが、学校では教えられないが社会で共有されているその種の知識もあります。わたしのおじいちゃんの世代は、和歌山、福井、徳島とは言わず、紀州、越前、阿波などと言って、かれらの交通網のイメージと重ねて、豊富な地理的知識を持っていました。また、自身の直接的な経験や上の世代の話を聞いて、近現代の歴史的な知識が豊富な人も多かったです。農家の人は、自然や植物・生物に関する知識が豊富でした。そして、職人は自身の工作活動に関わる道具使用の技量を身につけていることはいうまでもなく、各種の資材や塗料や接着剤やそれらの用途をよく知っていました。昭和までの小学校で学んだ知識は、そのような生活・生産活動に関わる知識及びその一定の抽象化であったのだろうと思います。そして、それらと並行して言語の技量つまり国語と、数の技量つまり算数が教えられました。現代の小学校では、同様のロジックで、現代の生活や生産活動を営むことに関わる基礎的な知識が教えられているということになります。「基礎的な知識」が増大しているので、現代の中学校での教育内容も小学校からの基礎的な知識の教育の延長と見るのが適当でしょう。このような幅広い教育が大学に至るまで推し進められて、それを通して人々が身につけるのが教養です。ただし、教養があるというのは単にあれこれの知識が豊富だということではありません。教養と言うには各種の知識がその人の人格とうまい具合に統合されていなければなりません。理科系の技術的な知識が教養ということと疎遠な感じがするのはこうした教養の定義に由来するのでしょう。
では、一般的に知性と教養とは何か? とりあえず比喩的に言うと、「教養は深まる」、「知性は鋭くなる」というイメージを持っています。一定の教養のある人は、さらに本を読んだり、ネットで興味のあることを調べたり、博物館などを訪ねたりして、一層教養を深めることができます。それは、人格と結びついた人文的な知識の拡充と円熟です。そこには、円みが感じられます。これに対し、知性というのは鋭さでしょう。この鋭いというのは何か? それは、本質を突いた物の見方ができる、俯瞰する視野を持っていてその視野の下に知識が整然と整理整頓されている、ということでしょうか。ですから、その気になれば、物事をわかりやすく話すことができます。
教養のある人は、しばしば教養にどっぷりと浸っています。そして、どうかすると、教養の勢いにまかせて奔流のように話をします。その話はめくるめく展開していってとてもおもしろいのですが、どうかすると取り留めのないものになってしまいます。一方で、知性のある人が知性に勢い にまかせて話をすると、実際には整理整頓されて話をしているのですが、しばしばとても早口になり、聞いている人は「目が回る」というような具合になってしまいます。この後者の知性派の代表選手が茂木健一郎です。茂木健一郎は脳科学者で、脳科学の専門家で人文科学の知識も豊富です。知性派のかれの話は、実は整理されているのですが、早口でどんどん話が進むので、聞く方はちゃんと理解しようとすると「目が回り」ます。
さて、ここから日本語教育(学)に引きつけて。日本語教育学関係で大学の先生になっている人は、ご専門が日本語学にせよ、音声学にせよ、社会言語学にせよ、第二言語習得研究にせよ、それぞれの分野を中心として実に豊富な知識をもっていらしゃいます。ですから、フツーの日本語教師がそういう先生方から話を聞くと、何をたずねても奔流のようにお話になるので、圧倒されてしまいます。もちろん、端っから自分の「土俵」に引き込んで話しているわけで、聴衆も「この先生のこのテーマの話を聞こう」と足を運んだところですでに相手の「土俵」に入っているわけで、大学の先生はその「土俵」の専門家なので、奔流のように話せるのは当たり前です。そして、そんな話を聞いて、一部の「(生)真面目な」日本語教師は「わたしは本当に知識が不足しているので、もっともっと勉強しなければならない」と思い、その一方で、一定の経験があって勘の鋭い日本語教師は「この(大学の)先生は自身の知識が日本語教育にとって重要で必要なように滔々と話しているけれど、本当にそうなのか」と疑います。
日本語教育の実践経験の有無にかかわらず、大学の先生になって「研究」ということを長年してきた先生は、その研究分野のスペシャリストです。そして、かれらは自身の分野については長年やっているだけに本当に知識が豊富です。そんなかれらが、日本語教育関係の集まりに呼ばれると、日本語教育の実践に役立つことを積極的に(自身の目から見て一定の自信をもって積極的に)あるいは消極的に(本当はあまり何とも言えないと思いつつ司会者や聴衆に促されてしぶしぶ)話します。「積極的に」か「消極的に」かは、人によって違います。さて、ここで注意しなければいけないのは、かれらは日本語の習得や習得支援ということの全般を見渡して考究しているジェネラリスト(広域的専門家)ではなく、局所的なスペシャリスト(特定領域的専門家)だということです。ですから、かれらからの日本語教育実践に向けたアイデアや助言は、特定分野の立場からのアイデアや助言です。そして、特定分野の立場からのアイデアや助言ですから、当然偏らざるを得ません。ですから、日本語教師がそういう大学の先生から話を聞くときは、あらかじめ「この先生の話は○○学の立場からの話だ」と開き直って聞くのが無難です。それは何も「大それたこと」ではありません。日本語教育を責任をもって担っているのは、そういう大学の先生ではなく、個々及びチームとしての日本語の先生なのですから、何でも自分(たち)の責任においてやればいいのです。そのように開き直って聞かないと「もっともっと勉強しなければ」という「積極性のマゾヒズム」になりがちです。
フツーの大学の先生は、ご専門の分野を中心とした専門的な知識と教養は豊富です。しかし、専門以外の分野の知識や教養はしばしば不足しています。また、日本語教育を俯瞰する目線もたいていは欠けています。日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で「ねじ伏せる」ことが必要です。日本語教育学の世界では、そのような力を要する知的作業がまだ行われていないようです。次回は知性を中心に。(に)
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