2018年10月14日日曜日

日本語教育に関係する(にじり寄りかどわかす?)大学のセンセ(とその予備軍)の胡散臭さ

 10月に入り新学期が始まりました。(新渡日の留学生たちはフレッシュな顔でキャンパスに現れ)院生たちも皆さん清々しい気持ちでまたキャンパスにもどってきました。MゼミやDゼミが始まり、10月に入ってすでにいくつかの小さな研究会にも参加し、いろいろな人と日本語教育の実践や、日本語教育に関わる研究のことなどについて、議論し、情報交換をし、意見を交わしました。そんな中で、ふと上のようなことを感じました。「日本語教育に関係する(絡みつこうとする)大学の先生(及びその予備軍)は胡散臭いなあ」ということです。できるだけ簡潔に話そうと思います。
 大学の先生の2大仕事は、教育と研究です。教育というのは、「教える」ことを通して教養があり健全な批判精神を有する社会に有為な人を育てる、というくらいのことでしょうか。そして、研究というのは、各先生のそれぞれの専門分野の研究となります。日本語教育に「関係しそうな」分野としては、日本語学、認知言語学、コーパス言語学、音声学、社会言語学、第二言語習得研究、会話分析、言語政策などでしょうか。研究というのは、それぞれの分野ですでに蓄積があって、しかしその蓄積をもってもまだ解明されていないことを、解明する営みです。ですから、本来、「内にこもった」「内的自律性のある」営みです。もう少しわかりやすく言うと、研究者が対話し議論するべき相手は基本的には同じ研究分野の研究者です。つまり、同じ研究分野の研究者相互で切磋琢磨して、当該の研究分野のさまざまなテーマの研究を前進させるべきものです。そのようにしてこそ、当該の研究コミュニティでの正統な一人前のメンバーとなります。
 大学の(専任の)先生になっている人の中には、教育の義務は日本語を教えることで、その他に研究は上のようなそれぞれの研究分野でやっているという人がたくさんいます。そんな人は、日本語教育者と各自の分野の研究者という2つのアイデンティティを明確にもってほしいと思います。そして、各自の研究分野においては、それはそれで立派な研究をして、その分野で一人前にやってほしいと思います。そして、教育の義務のほうの日本語教育も、自身の研究分野や研究テーマに限定しないで広く関係の知見をリサーチして解釈して仲間と協働してしっかりといい仕事をしてほしいと思います。そのような(専任の)先生の場合は、たいていコーディネータという役割を担い、非常勤の先生たちとチームになって仕事をするのが普通です。コーディネータというのは、コースを計画し、教材を選択(作成?)し、しばしば教育の内容や方法に関して一定の指針を示すべき立場です。その立場の人が、真摯に教育に取り組まなかったり、自身の研究的関心に大きく偏った教育計画をしたり教育指針を出したりすると、それはいずれも自己チュー(自己中心的)な振る舞いだと言わなければなりません。そんな専任教員=コーディネータの下で仕事をしなければならない非常勤の先生は気の毒としか言いようがありません。教育の責任として日本語教育に携わる専任教員は日本語教育に関する広い専門的な教養を身につけておくべきです。そして、自身の研究分野の強みを生かしながら、非常勤の先生たちと仲間として協働していい仕事ができるようにリードしなければなりません。
 さて、このエッセイで言いたい「胡散臭い」先生は上のような先生の話ではありません。むしろ、日本語教育が出身だが、今は教育の責任として日本語教育の責任を負っていない、めでたく大学のセンセになりおおせた人です。そういう人は、どうかすると、研究者としても中途半端なのに、日本語教育に対してあれこれ発言をします。先に言ったように研究者の第一の対話相手・議論相手は同分野の研究者です。ですから、そっちでしっかりと対話・議論して一人前にやってほしいと思います。そして、ざっくりと一般的に言ってしまうと、研究で明らかになったことは、その研究が純粋な研究であればあるほど、教育実践に役に立つものはありません。そんなことは、研究を純粋に突き詰めている人には自明なことです。そして、中途半端な人にかぎって妙に教育実践に対して「研究の立場から」あれこれ発言する傾向があるように思います。フツーの日本語の先生から見たら「権威のある」大学のセンセが日本語教育について発言するのは慎重にするべきだと思います。その部分で慎重でない人は、胡散臭いです。ただし、自身の発言が日本語教育の実践の総体の一部としてバランスよく具体化されるところまで責任をもつ覚悟がある場合は、発言していいと思います。
 もう終わろうと思いますが、ぼくが胡散臭さを感じるのは、「そんなふうに発言しているあなたは、その発言を具体化する『優れた教育実践』を実際に創造してきたのか、あるいは、これからそれを創造する気持ちと予定があるのか」という部分です。日本語教育に本気で関心をもっているなら、自分がリーダーになって「優れた教育実践」を創造してください、ということです。それを示すのが、一番のご自身の主張が受け入れられることになります。日本語教育(学)関係では、個人による一定の「優れた教育実践」は報告されているかと思います。しかし、チームで実施された、原理に基づく「優れた教育実践」はほとんど報告がないかと思います。研究的な傾向のある人は原理を考えているはずですから、そういう人が中心になって、原理に基づく「優れた教育実践」を創造して、報告をしてほしいと思います。
 結論。若い院生たちは、将来、そういう胡散臭い大学のセンセになってほしくないと思います。
 すべて、日本語教育の発展のためです。そして、先日は、院生たちと話していて、「やっぱり、日本語教育学っていうのは成りたたないよねえ!」と皆さんため息をついていました。

2 件のコメント:

  1. 「やっぱり、日本語教育学っていうのは成りたたないよねえ!」と若い人が思っているのは悲しいですね。また、自分もそのように思わせてしまっている一人かもしれないと思うと、つらいです。日本語教育学が成り立っていないのは、批判的な方法を取っていないからではないでしょうか。普通の研究では、まず先行研究の間違いや不備、まだ研究されていない点を明らかにして、自分の研究で一歩先に進めます。しかし、日本語教育学では、せいぜい文法積み上げ式はよくないという程度の当たり障りのないことしか言わず、(特に大学のセンセの)報告、論文、著書を正面から批判して新たな提案をする人はあまりいません。このあたり、勇気をもって取り組んでいかないと、若い人に申し訳ないと思いました。また、自分自身も胡散臭い大学のセンセになりたくはないので、「リーダーになってチームで優れた教育実践を創造」したいのですが、全くできていません。トライはしたものの、満身創痍。かろうじて「これからそれを創造する気持ち」だけは残っているので、なんとかチームで実践できるようにしたいものです。研究と実践を安易に比較はできないでしょうが、研究の方が「チームでの」実践よりも相当楽というのが実感です。ですので、いつも実践を避けて研究に逃げ込んでしましたい衝動に駆られます。そして、そこに逃げ込んだとき、私も胡散臭い大学のセンセになってしまうのでしょう。しばらく、易きに流れたがる自分自身との闘いが続きそうです。(と粋がってはみたが、既に日本語教育界では最も胡散臭いヤツと思われている節が無きにしも非ず。本人もだいぶ自覚はしている。)

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    1.  今井さんは「胡散臭い」じゃなくて、「破天荒」でしょうね。
       日本語教育と日本語教育学にはいろいろな課題が現在でも山積みですね。
       まず、前者に関して言うと、日本語教育というのはteachingよりも、いろいろな意味で感情労働だなあという感じがしています。ぼくは日本語教育をスポーツのように考えています。「結果を出すために何をどうすればいいか」が第一です。そして、次が「どのようにチーム/仲間を作り育て上向的なインターアクションを『媒介』すればいいか」です。そして、仲間でこれを繰り返す。うちの職場では、わたしたちの仕事をいつもこのようにスポーツにたとえて話をしています。あともう一つ、いつも忘れないのが、「人間主義」です。わたしたちは教育に従事しているわけですから、人(学生たちの人生や成長、そして先生たちの人生や専門職としての成長)にいつもみんなが関心をもっています。このような見方をすれば、日本語教育は過剰な感情労働から抜け出して、結果を出せるプロ集団に変容していくことができると思います。
       次に、日本語教育学について言うと、これまではぼく自身も「日本語教育なんてない! 無理!」と言ってきましたが、実践的な研究に関しても、理論的その他の研究に関しても、「日本語教育学というの、できるんじゃないかなあ…」と少し思ってきました。その大きな原因は、教育実践を軌道に乗せることで、いろいろなことが見えてきて、また、時間的にも気持ち的にもすごく余裕が出てきたからです。それは、ぼくだけではなく、うちの仲間も同じように感じている模様です。だから、今後数年は、運が良ければ!、いい研究活動をし、おもしろい発信ができるような予感がしています。
       今井さんも、胡散臭いヤツにならないで、ふんばって! 関西方面に「転出」したほうばがいいかも!?

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