2018年10月14日日曜日

日本語教育学における知性と教養を考える①

この記事は、NJ研究会フォーラム2018年10月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを、再掲しています。

 このテーマはどうも長くなってしまいそうなので、2回に分けて話します。今回は1回目です。
 知性と教養というのは、昭和の前半までは社会全体のごく一部の人しか身につけていなかったのではいないでしょうか。大阪の南のほうの元々は農村地域であった町で育ったわたしが子どもの頃は、親やそれ以上の世代について言うと、元庄屋さんだった人や、元地主で現在もお屋敷に住んでいる人の一部(本を読むのが好きな人)だけが、読書階級・教養階級でした。それ以外の人は、学校に通わせてもらってようやく一定の「読み書きそろばん」ができるようになったというような具合でした。しかし、学齢期の大部分やその一部が戦時と重なった人は、学校に十分に通うことができず、「読み書きそろばん」も必ずしも十分に身につけることができていません。そんな「それ以外の人」の家庭に育ったわたしには、知性と教養は本来「自分の文化圏外のもの」です。ですから、そういうものを求められつつ仕事をしながらも、同じように知性と教養を動員して仕事をしている人たちと自分は「違う人種」だとほとんどいつも違和感を感じてます。ちなみに、「それ以外の人」の名誉のために言うと、「それ以外の人」が身につけている高次の美徳は、誠実さと品位と人としての矜持と、それらに基づく信用かと思います。知性と教養がなくても、そういう美徳を備えた人はたくさんいます。
 知性と教養の対比について、先ずは、一般論から。
 知識というのは物を知っていることです。地理的な知識、歴史的な知識、自然や植物・生物に関する知識、技術的な知識などいろいろな知識があります。ここで言っている知識は、学校で教えられるその種の知識も含まれますが、学校では教えられないが社会で共有されているその種の知識もあります。わたしのおじいちゃんの世代は、和歌山、福井、徳島とは言わず、紀州、越前、阿波などと言って、かれらの交通網のイメージと重ねて、豊富な地理的知識を持っていました。また、自身の直接的な経験や上の世代の話を聞いて、近現代の歴史的な知識が豊富な人も多かったです。農家の人は、自然や植物・生物に関する知識が豊富でした。そして、職人は自身の工作活動に関わる道具使用の技量を身につけていることはいうまでもなく、各種の資材や塗料や接着剤やそれらの用途をよく知っていました。昭和までの小学校で学んだ知識は、そのような生活・生産活動に関わる知識及びその一定の抽象化であったのだろうと思います。そして、それらと並行して言語の技量つまり国語と、数の技量つまり算数が教えられました。現代の小学校では、同様のロジックで、現代の生活や生産活動を営むことに関わる基礎的な知識が教えられているということになります。「基礎的な知識」が増大しているので、現代の中学校での教育内容も小学校からの基礎的な知識の教育の延長と見るのが適当でしょう。このような幅広い教育が大学に至るまで推し進められて、それを通して人々が身につけるのが教養です。ただし、教養があるというのは単にあれこれの知識が豊富だということではありません。教養と言うには各種の知識がその人の人格とうまい具合に統合されていなければなりません。理科系の技術的な知識が教養ということと疎遠な感じがするのはこうした教養の定義に由来するのでしょう。
 では、一般的に知性と教養とは何か? とりあえず比喩的に言うと、「教養は深まる」、「知性は鋭くなる」というイメージを持っています。一定の教養のある人は、さらに本を読んだり、ネットで興味のあることを調べたり、博物館などを訪ねたりして、一層教養を深めることができます。それは、人格と結びついた人文的な知識の拡充と円熟です。そこには、円みが感じられます。これに対し、知性というのは鋭さでしょう。この鋭いというのは何か? それは、本質を突いた物の見方ができる、俯瞰する視野を持っていてその視野の下に知識が整然と整理整頓されている、ということでしょうか。ですから、その気になれば、物事をわかりやすく話すことができます。
 教養のある人は、しばしば教養にどっぷりと浸っています。そして、どうかすると、教養の勢いにまかせて奔流のように話をします。その話はめくるめく展開していってとてもおもしろいのですが、どうかすると取り留めのないものになってしまいます。一方で、知性のある人が知性に勢い にまかせて話をすると、実際には整理整頓されて話をしているのですが、しばしばとても早口になり、聞いている人は「目が回る」というような具合になってしまいます。この後者の知性派の代表選手が茂木健一郎です。茂木健一郎は脳科学者で、脳科学の専門家で人文科学の知識も豊富です。知性派のかれの話は、実は整理されているのですが、早口でどんどん話が進むので、聞く方はちゃんと理解しようとすると「目が回り」ます。
 さて、ここから日本語教育(学)に引きつけて。日本語教育学関係で大学の先生になっている人は、ご専門が日本語学にせよ、音声学にせよ、社会言語学にせよ、第二言語習得研究にせよ、それぞれの分野を中心として実に豊富な知識をもっていらしゃいます。ですから、フツーの日本語教師がそういう先生方から話を聞くと、何をたずねても奔流のようにお話になるので、圧倒されてしまいます。もちろん、端っから自分の「土俵」に引き込んで話しているわけで、聴衆も「この先生のこのテーマの話を聞こう」と足を運んだところですでに相手の「土俵」に入っているわけで、大学の先生はその「土俵」の専門家なので、奔流のように話せるのは当たり前です。そして、そんな話を聞いて、一部の「(生)真面目な」日本語教師は「わたしは本当に知識が不足しているので、もっともっと勉強しなければならない」と思い、その一方で、一定の経験があって勘の鋭い日本語教師は「この(大学の)先生は自身の知識が日本語教育にとって重要で必要なように滔々と話しているけれど、本当にそうなのか」と疑います。
 日本語教育の実践経験の有無にかかわらず、大学の先生になって「研究」ということを長年してきた先生は、その研究分野のスペシャリストです。そして、かれらは自身の分野については長年やっているだけに本当に知識が豊富です。そんなかれらが、日本語教育関係の集まりに呼ばれると、日本語教育の実践に役立つことを積極的に(自身の目から見て一定の自信をもって積極的に)あるいは消極的に(本当はあまり何とも言えないと思いつつ司会者や聴衆に促されてしぶしぶ)話します。「積極的に」か「消極的に」かは、人によって違います。さて、ここで注意しなければいけないのは、かれらは日本語の習得や習得支援ということの全般を見渡して考究しているジェネラリスト(広域的専門家)ではなく、局所的なスペシャリスト(特定領域的専門家)だということです。ですから、かれらからの日本語教育実践に向けたアイデアや助言は、特定分野の立場からのアイデアや助言です。そして、特定分野の立場からのアイデアや助言ですから、当然偏らざるを得ません。ですから、日本語教師がそういう大学の先生から話を聞くときは、あらかじめ「この先生の話は○○学の立場からの話だ」と開き直って聞くのが無難です。それは何も「大それたこと」ではありません。日本語教育を責任をもって担っているのは、そういう大学の先生ではなく、個々及びチームとしての日本語の先生なのですから、何でも自分(たち)の責任においてやればいいのです。そのように開き直って聞かないと「もっともっと勉強しなければ」という「積極性のマゾヒズム」になりがちです。
 フツーの大学の先生は、ご専門の分野を中心とした専門的な知識と教養は豊富です。しかし、専門以外の分野の知識や教養はしばしば不足しています。また、日本語教育を俯瞰する目線もたいていは欠けています。日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で「ねじ伏せる」ことが必要です。日本語教育学の世界では、そのような力を要する知的作業がまだ行われていないようです。次回は知性を中心に。(に)

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