この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリーの2018年11月号(https://www.mag2.com/m/0001672602.html)に掲載されたものを再掲しています。
「…知性と教養を考える」の第2回です。今回は、短いです。適宜に第1回の記事を参照してください。
人間の知的能力を一定のスケールで俯瞰すると、「知識→教養→知性」というような並べ方ができるのではないかと思います。ざっと言うと、左のほうが知ること関係、右のほうが知ったことをオーガナイズ(組織化する、統合する)というようなことになります。そして、右から言って、「知性は鋭くなる」、「教養は深まる/豊かになる」、そして「知識は広がる」となります。
この2回のエッセイで言いたかったことは、前回の最後に言った“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要です” です。そして、そのような「知的作業がまだ行われていない」のです。
日本語教育の学会や研究会などに行くと、しばしば日本語教育に多かれ少なかれ関心をもつ特定分野の研究者がその豊富な知識と専門的な教養に基づいて滔々と話していらっしゃる姿を目にします。そんな姿を見ると、「特定分野の知識・知見だけで、なんで日本語の習得と教育という多面的で重層的で輻輳的な現象について物が言えるの?」と、その大胆さに! 不思議を感じます。また、「そんなやたらに怒濤の如く知識の『排出』をして…」と、自分の土俵で自分の「気」の赴くままに自分のペースで「位押し」(自身の地位や立場と「力」を存分に発揮して相手を圧倒すること、筆者創作の言葉)をしているという感じがします。
前者と後者の「感じ」について話します。まずは前者。
いかなる分野であれ個別の研究分野の知識・知見に基づいて日本語の習得と教育という現象について何か物を言うことはできないでしょう。ただし、ここに言う個別の研究分野というのには、哲学や理論○○学というようなメタレベル(個別を架橋するレベル)の学問(探究・追求・研究)は含まれません。他方で、上の“ ”内の「さまざまな関連分野」には、メタレベルの学問が含まれます。そして、上の“ ”内で言いたいことは、そういうメタレベルの学問をむしろ中心にしてそれに個別の研究分野も含めて“さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に…”ということです。
次は、後ろの「感じ」について。個別の研究分野の「大学の先生」は「位押し」をしては、だめです。日本語教育に従事している現場の先生たちの興味や関心や悩みにもっと耳を傾けるべきです。そして、現場の先生たちに寄り添って、自身が何ができるか(できないか!)を謙虚に「反省」して、正直に話をしなければなりません。そして、その「耳を傾ける」と「反省」は、気持ちをベースにした知性的な活動です。そのようにしないと、「位押し」をして、ただ単に自身の「位」を保持するばかりとなります。
書きながら考えていますが、日本語教育学に関して主張したいのは以下のことのようです。
1.メタレベルの学問への関心が低い。
2.“日本語教育の実践に有用な知識を集約し原理を導き出すためには、さまざまな関連分野の知識と教養を越境的に身につけて、それらを俯瞰して、強靱な知性で『ねじ伏せる』ことが必要”という認識がない。
3.上で言ったような、気持ちをベースにした知性的な活動を怠っている。
メタレベルの学問ということで言うと、日本語学を専門としている人あるいはそれに興味のある人は、まずは、言語研究のメタレベルの研究ということで、ヤーコブソンやマルチネやバンヴェニストなどのプラーグ学派の言語学などに触れていただくのがよいかと思います。
少しまとまりが悪いですが、これで、「日本語教育における知性と教養」を終わります。皆さんは、どのような感想をもったでしょうか。
突然のメッセージ、失礼します。
返信削除大阪大学情報科学研究科前田研究室所属の学部4回生の山岡悠と申します。
現在「KAKEN:疑似内言を用いた意識下の行動誘導」という表題で研究を行っています。今は独り言に注目し、独り言=「内言を発話したもの」という風に考えて研究しています。
ただその過程でそもそも「内言」とは何かという問いに立っています。僕の中では内言とは思考言語であるが統一した文法がない言語と思っています。内言においてはキーとなるのは単語を不規則に呟いている事ではないか、というイメージです。
ここでクエスチョンとなるのは「文字を書く前に頭に浮かんでいるものは内言と呼べるのか?」です。これを内言と呼ぶ場合、内言は文章に起こすことができ、それはすなわち文法を存在させる事になります。
そして「本を黙読する時に頭に浮かぶものは内言と呼べるのか」。仮にこれにアグリーする場合、内言とその他の脳内の情報表現に差異が生じないように思います。すなわち本を読んで情景をビジュアルで想像するのと内言は一体何が違うのか。違わないなら言語では既にないのではないか。内言を考える事の優位性は何なのか。本の黙読方法如何で変わるとも思うのですが、その辺りのエビデンスがある文献などはないかなど。
僕自身内言の定義を見つけられず途方に暮れている状況です。内言が何かをはっきりさせない以上、疑似内言でできる事のロジックも立たず、困っています。
僕は基本的に吹田キャンパスに毎日いますので、直接のご回答でも構いません。
メールなどの返信お待ちしております。
(mail : yu-yamaoka@hiel.ist.osaka-u.ac.jp)
山岡くん
返信削除取り急ぎ、手短に。
内言というと、心理学と言語哲学の分野でそれぞれ。
(発達)心理学の分野で内言と言えばヴィゴツキーの内言です。内言という視点の背後にはregulation(統御あるいは制御)という視点があり、「人間は自然のままに活動をするのではない。人間の活動は、外的な活動については道具、内的(心理的)な活動については記号に媒介されている。人間は、人類の社会文化史や個人の個体発生においても、そうした道具や記号によって活動の様態を弁証法的に変化させる。」という見方があります。ここから、内言の機能や形式の議論があれこれ広がっていきます。
言語哲学の方では、バフチンです。バフチンは文芸批評の人で、自身の文芸批評のために言語哲学を展開しています。人間存在に関するバフチンの基本的な見方は、対話原理です。そして、バフチンの言う対話あるいは人と人との対話的交流は、「内言が渦巻くわたし」と「内言が渦巻くあなた」との間で繰り広げられる、終わりのない外言と内言による言葉の交換である、となります。
内言についてわかりやすく書かれた邦書はありません。とりあえずは、わたしの本『対話原理と第二言語の習得と教育』をとっかかりにするのがよいかと思います。豊中の総合図書館にあります。
取り急ぎ。
西口