冒頭で前回の内容を少し再論したり敷衍したりしながら、いよいよ世界内存在の話を始めます。今回の中心はメルロ=ポンティの構造の哲学です。
根源的な生活世界に立ち返る
現象学を提唱し展開したのは言うまでもなくフッサールです。後期の著書からの引用となりますが、現象学の根本の問題意識をフッサールは以下のように表明しています。
「数学的と数学的自然科学」という理念の衣 ─ あるいはその代わりに、記号の衣、記号的、数学的理論の衣と言ってもよいが ─ は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。(フッサール、『危機』、p.94)
17世紀のデカルトによって主体(subject)が見出されカントによって主体が規定することができる認識のカテゴリーの提案がなされました。そうした流れで、自立的な主体とその主体の外にある客体あるいは客観的世界という近代の二元論が成立しました。こうして神の桎梏から解放された人間主体は客体となった世界を解明することに邁進することになります。
産業革命とも連携しながら急速に発展した近代科学は当初は自然を対象にして物理学や化学を発展させましたが、19世紀になると社会や心理などの人間的な現象も自然科学と同様のスタンスで研究されるようになりました。それが後に実証主義として批判されることになるヴントの心理学やデュルケームの社会学です。しかしながら、こうした「科学的」な物の見方は19世紀後半の一般的な知的傾向で、そうした世界への視線とそれに基づく科学的認識は科学者にとどまらず教養人一般にも広まり、客観的な世界というものがあらかじめそこにあるかのように見られるようになりました。フッサールが「理念の衣」と呼んで問題にしているのは、そのような認識のことです。そして、現象学は、そのような「理念の衣」を取り払ってわれわれの経験に立ち返って、本源の生きられてた世界からわれわれの存在や認識を見直そうという運動なのです。
そうしたフッサールの現象学を正統的に引き継ぐメルロ=ポンティは「知覚とは端緒における科学とは言わないで、逆に、古典的科学は、己れの起源を忘れてみずからを完結したものと思い込んでいる知覚のことだ」(メルロ=ポンティ, 1967, p.110)と言って、この理念の衣を拭い去ってその手前にある生きられた世界に立ち返ってその哲学的探究を始めています。以下の一節の最後の文では、次項で論じるかれの哲学的探究の中心的なモチーフが示されています。
したがって、最初の哲学的行為とは、客観的世界の手前にある生きられた世界にまでたち戻ることだ、ということになるだろう。それというのも、この生きられた世界においてこそ、われわれは客観的世界の権利もその諸限界も、了解することができるであろうからだ。また、最初の哲学的行為は、事物にはその具体的表情を、有機体には世界に対処するその固有の仕方を、主観性にはその歴史的内属を返すことだ、ということになるだろう。(メルロ=ポンティ、『知覚の現象学1』、p.110)
一方で、マルクスは、ヘーゲルの労働というモチーフを人間的で感性的な活動である実践(Übe)として捉え直して、具体的な人間に立ち返って唯物論と観念論のいずれをも超克した人間論と存在論を試みています。以下の引用は、そうしたマルクスの企ての方向性を示すものです。
従来のあらゆる唯物論 ─ フォイエルバッハのそれも含めて ─ の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直感の形式のみで捉えられ、人間的・感性的な活動、実践として、主体的に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は唯物論とは反対に観念論によって展開される ─ とはいえ、観念論はもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らないので、ただ抽象的に展開されたにすぎないが ─ ということになった。(マルクス、「フォイエルバッハ」、p.231、傍点強調は原著、以下同様)
近代から現代への移行の中で、この世界が即自的な(それ自体で完結した)事物の総体、つまりわたしたちの前に繰り広げられた対象的な物理的世界でないことが明らかになってきました。世界は、わたしたちによって知覚され、働きかけられ、生きられている場面であり、物理的過程には還元することができないその都度張り巡らされ更新される世界です。わたしたちが生きる世界つまり生活世界(Lebenswelt)は、マルクスの言うように、「ただ客体ないし直感の形式でのみ」捉えられる世界ではなく、「人間的・感性的な活動、実践」の場面として「主体的に」捉えられている世界です。そして、主体とは、これもマルクスの言うように、「現実的・感性的活動」に従事する主体であって、その身体によって世界の内に深く挿し込まれ、投げ込まれた存在となります。ここにわたしたちは、世界と人間の特有の絡み合いを見ることができます。このような物でもなく、純粋な意識でもない人間の在り方をハイデガーは世界内存在(In-der-Welt-sein)と呼んでいます。
メルロ=ポンティの構造の哲学
木田も同様に引き合いに出しているところですが、世界内存在という人間特有の在り方を理解するための入口として、メルロ=ポンティの構造の哲学のアイデアを知るのが有効でしょう。
『行動の構造』の第3章で、メルロ=ポンティは、物質、生命、精神のそれぞれをそれぞれにおける独自の秩序として捉えています。そして、それを、物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序と呼んでいます。物質、生命、精神を異なる3つの実体として捉えるのではなく、それらを構造の統合度の異なる3つの段階として捉えているのです。つまり、それぞれが先行の秩序を捉え直し、それをより高次の全体に組み込むことによって一層統合度の高い新しい秩序を実現していく3つの階梯をなしていると見ます。ここで詳しく論じることはできませんが、メルロ=ポンティは、存在論と認識論の両者にまたがる議論として構造の哲学を展開しています。
木田(1991)の解説に依拠しつつ『行動と構造』も参照しながらこの3つの秩序を説明すると以下のようになります。まず、物質的秩序について言うと、物理的構造は、ある与えられた外的諸条件との関係において得られた一つの平衡状態と考えることができます。外部から課された作用は、それによる緊張状態を減少して系を静止させるというふうに働きます。つまり、物理的構造とは、現存する現実的諸条件に関して得られた平衡状態だということになります。これに対して、生命的秩序、つまり有機的構造である生命においては、その平衡状態が単に現存の諸条件との関係においてだけでなく、その有機体それ自身によって現実化される可能的諸条件との関係においても実現されることになります。つまり、有機的構造の場合には、構造が外力の強制に屈してただ自らをたわめるというのではなく、自己本来の境界を越えて外に働きかけ、自分の固有の環境を自分で作り上げるのです。したがって、生物の行動は、与えられた外的条件の関数ではありません。むしろ、生物が反応する環境のほうがその生物の活動のある内的規範、例えば知覚の閾や基本的活動の形態などによって区画されていくのです。例えば、ミミズの運動は決して物理的な平衡状態を達成する運動ではなく、一つの有機的な生命体として環境に差し向けられた動作として見なければ正当に理解することはできません。つまり、有機的構造の運動や行動は、食べるものを摂取する、目標に向かって移動する、生命の危険を回避するなどの意味をもった運動や行動なのです。したがって、有機体と環境との関係は、物理的系とその場との関係とは比較できないような、ある生命的な意味を媒介とする弁証法的関係と見なければなりません。
次は、下等な動物から人間のような高等な動物への秩序の再編成の話です。下等な動物にあっては、自然的状況の内に見出される特定の刺激の複合体にのみ結びつく、本能的と呼ばれる行動の形態が支配的です。ところが、高等な動物になると、環境の変化によって課せられる新しい問題にも対処しうるように行動の構造を組み替えることができるようになります。つまり、学習が可能になります。このレベルにあっては、環境の変化とともに、本来無関係ないくつかの刺激が隣接して与えられると、先行の刺激が条件刺激となり、続いて現れる無条件刺激の信号(シグナル)の役を果たします。ただし、そこで信号となるのは、条件刺激そのものではなく、条件刺激を一つの契機としてもち、それに意味を与えている場の全体の構造です。パブロフの犬で言うと、反応が唾液を出すことで、無条件刺激がエサで、条件刺激がエサを与える前に鳴らされるメトロノームの音となります。チンパンジーの行動は、このレベルでの統合(秩序)の最も進んだ段階に位置します。そして、そうした秩序を超えて行動を統合しているのが「シンボルを操る動物」である人間なのです(カッシーラー、『人間』、p.66)。
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