政治学者中西寛が、「無意識の壁を取り払う ─ 「国語」と「日本語」の間」という興味深い論説を2019年1月13日の毎日新聞に書いています。(https://mainichi.jp/articles/20190113/ddm/002/070/046000c、有料記事ですが)中西の論は、よく読むとちょっと論理の曲折があると思いますが、いくつかの重要な概念をわかりやすく提示していると思います。ここでは、中西が提示した概念を拝借?しながら、いくつかの議論をしたいと思います。
1.これからの日本社会が使う言語としての「日本語」(中西)
これまでわたしたちは特段何も考えずに、わたしたちの日本語である日本語、つまり「国語」を、何の躊躇も疑いもなく、わたしたちの間で使ってきました。外国出身の人がフツーに同僚になったり、近所の人になったりすると、それまでの「国語」ではうまく物事を運営できない状況が出てくるでしょう。「国語」というのは、濃密な共通基盤(という幻想?)の上に気づかれた築かれたエスニックな言語であり、これまでわたしたちはそういう濃密な共通基盤の上でエスニック言語である日本語、つまり国語で、人と交わり暮らしてきたからです。そして、外国出身の人たちは、さまざまな原因から、わたしたちとは異なる日本語の話し方をするからです。かれらが話す日本語に発音や文法などの面で「わかりにくさ」があるという水準だけでなく!です。
※「わたしたち」とか「わたしたちの日本語」と書いていて、日本人の中の多文化共生を日頃から主張しているわたしとしては、実は違和感を感じました。わたしは、日本人は一色で一枚岩ではないと思っていますし、「わたしたちの日本語」なんて一部の人の幻想だと思っています。しかし、外国出身の人たちが隣人になるようになるこれからこそ、外国出身の人にもわかりやすい話し方という意味での新しい日本語の話し方が要請されているのだと思います。
2.「日本語教育においては文法や語彙、発音が中心となるが、国語にあってはそれに止まらない用法、たとえば敬語、男女語の区別、書き言葉と話し言葉の区別などが重要となる。」(中西)
この件を読んだ日本語教育関係の人は、「日本語教育でも、敬語、男女間の区別、書き言葉と話し言葉の区別なども教えている」と「胸を張る」、かな? このポイントは、外国出身者が日本に居住して仕事をしたり生活をしたりする場合に、どのような機能までの日本語を本人が希望するか、これからの日本社会として要求するか、という問題になります。そして、それは、正式な形で移民として日本に来る/来た人の場合でも、国としていろいろな「水準設定」があるだろうと思います。同じく、期間を区切られた就労外国人の場合でもいろいろな考え方があるだろうと思います。それは、外国出身者が多数社会のメンバーを構成するようになったときの日本社会をどのようにデザインするのかという問題と直接に関わります。
3.2に続いて、「日本社会に溶けこむにあたって「日本語」と「国語」との差は、異なる言語と呼べるほどに大きいのである。」(中西)
「溶けこむ」をどのように考えるかを、よく考える必要があると思います。
外国出身者を多数受け入れた後のヨーロッパの諸国では、「社会統合」が問題になっています。さまざまな背景をもつ移民が多数入ってきて、かれらもそれぞれの国の国民になりました。その結果、それまでは「国民国家」として、「国民」たちがいっしょになって「わたしたちの国を造り発展させよう。暮らしやすいいい国にしよう」という気持ちでやってきたのですが、国の人口構成が具体的に多様になってきた結果、そういう「わたしたち」や「わたしたちの国」という意識が薄れてきました。そして、「これでは、国がこわれてしまう」という危機感から社会統合政策が行われるようになりました。(そして、実はさまざまな社会統合政策にもかかわらず、さまざまな痛ましい事件も起こっています。もちろん、社会統合政策が不十分だという面もあるでしょう。) その場合の「社会が使う言語」はフランス語であれドイツ語であれ、「国語」ではなく、多分社会の一員として機能的に十分に振る舞えるだけの言語としてのフランス語でありドイツ語だということになります。
中西は、外国出身者の場合は、「(新しい)日本社会が使う言語である「日本語」さえ習得すればいい」と論説の前半では主張していると読めます。にもかかわらず、この部分で「溶けこむ」と言っています。「溶けこむ」と言われると、さまざまな背景をもつ個々の外国出身者が、遍在しほぼ単一的な日本社会に、「溶けこむ」というイメージを引き起こします。そして、この論考の結論部は「(濃密に文化と歴史が浸み込んだ)『国語』を変革しなければ」となっています。
本記事の結論。詳細に論じると膨大になるので、結論のみを箇条書きにします。
(a)日本語の「国語」はエスニックな言語である。
(b)日本語は「日本語」と「国語」の二本立てで行く必要がある。「国語」は「国語」で大事。「日本語」も「日本語」で大事で必要。
(c)「国語」ができる人のかなりの部分は「日本語」もできるようになる必要がある。そして、そのことはすでに日本国内にある言語的な多様性やその他の多様性をを受け入れる姿勢を涵養することに資する。
(d)移民のための日本語を考えるときは、文法や語彙ではなく、その人たちが日本語に奉仕させようとしている用途・機能に注目しなければならない。
(e)移民の「社会統合」は、1世代ではなく、複数の世代を見通して考えなければならない。移民に対する言語政策・言語教育も複数の世代を見通して考えなければならない。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2019年1月13日日曜日
2019年1月8日火曜日
日本語教育をプロデュースしているのは誰/何で、監督をしているのは誰/何だ? ─ 「遠吠え」ばかりしている?
webjapanese(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/
)の「Who cares? ─ 誰が日本語学習者を守るのか」の記事を読んだ上での先の記事の後に以下のようなことを考えました。まあ、この記事も、あまり「明るい」記事ではありません。
前口上
わたしはなぜあれこれ専門の本を読んだり論文を読んだりしているのでしょうか? それは、何かについて発言しよう(書こう)と思ったら、その何かについてすでに発言している人の見解を知っておかないといけないからです。これは、研究や学問をする人間の基本的なマナーです。
一般的にはこれは先行研究のレビューということになります。では、わたしは先行研究のレビューということをしているのでしょうか。どうも違うようです。先行研究のレビューというのは、一定の研究領域(例えば、第二言語習得研究)と一定の研究テーマ(例えば、文法形態素や文法構造の習得の研究や語用論転移の研究ど)があって、それまでに行われている理論的研究や実証的研究を踏まえてその上にさらに研究的知見を積み重ねようという趣旨で先行研究のレビューをします。その営みは、当該の研究分野をさらに伸展させることです。
「わたしの場合は違う」というのは、(1)わたしの学問的営みは特定の研究領域に焦点化していない、そしてこの(1)とも関係ますが、わたしの研究は、(2)いろいろな研究領域の研究成果を第二言語教育学の関心から「批判的に」(関係があるか無関係か、関係がある場合はどのように関係があるか、に焦点化して)まとめあげることと、(3)教育学的に日本語教育学を確立すること、です(教育実践に関わる仕事は別物ととして)。わたしがやっていることは、フツーの意味での学術研究ではないのだろうと思います。しかし、(たぶん!)、日本語教育や第二言語教育の実践のために「必要で」「求められている(?)」学問的な営みであろうと思って(願って)います。
そんな事情のため、日本語教育(学?)関係の論文や海外の応用言語学関係の本や論文もけっこう読んでいます。そして、今、日本の日本語教育界は、就労外国人の受入れに向けた日本語教育の整備で「てんやわんや」になっていて、そんな文脈で教員教育や教師養成の改革というテーマが頻繁に論じられています。そんなのも、読んでいます。
そんなことをしていて、しばしば感じるのが、表題のようなことです。検討してみましょう。
本文
取りあえず、用語。映画のプロデューサーや、ドキュメンタリーや特集番組のプロデューサーと言うように、プロデューサーというのは、基本のところで何をどのように制作するかを決める人です。そして、監督というのは、プロデューサーと連携しながら具体的に制作を進める人です。多くのジブリ作品では、高畑勲さんがプロデューサーで、宮崎駿さんが監督です。
Q1 日本語教育をプロデュースしているのは誰/何だ?
A1 日本語の教科書です。基礎(初級)段階や中級前半は、各々基礎(初級)教科書、中級教科書に依存しています。そして、中級後半や上級段階でも適当な教科書を選んで授業をしたり、いろいろな教科書から抜粋して寄せ集めて授業をしています。自身でコースを企画しデザインして、教材なども準備して教育実践をしているのは、ごく一部の先生だけです。それも、中級以上の学習段階に限られるでしょう。結局、日本語教育をプロデュースしているのは教科書です。そして、厄介なことに、たいていの教科書の著者は一人ではありません。ですから、日本語教育をプロデュースしているのは誰だと聞かれて、「この人(A教科書の著者)と、この人
B教科書の著者)」というふうに言うことができません。日本語教育は、責任を負っているのが誰だかわからない教科書によってプロデュースされているのです。そして、この状況は今後も変わらないだろうと思います。
そして、フツーの教師が教科書を頼りにするのはむしろ「フツー」のことです。ですから、日本語教育の専門家という人が、優れた教育の企画とそれを支える「頼りになる教科書」を制作するべきなのだろうと思います。
Q2 日本語教育を監督しているのは誰/何だ?
A2 日本語教育を監督するのは本来は、各々の教育現場を担当しているコーディネータであるはずです。しかし、実際にはコーディネータは、学生や先生たちの「ご不満」をうけたまわってそれに対応して若干の「調整」をしている程度ではないでしょうか。既存の教科書を使っている限りは、コーディネータが授業担当教師と相談してダイナミックに学習活動や教育活動を展開するということはないように思います。(コースの流れに乗っていない唐突なスピーチコンテストや発表会などはありますが…) そんな状況ですので、授業担当の先生たちの方はそれぞれで、与えられたノルマをどのようにこなそうかということに汲々とするばかりです。そして、基礎(初級)段階では、各々の文型・文法の教え方を解説した教授法の本などに頼って、授業を計画し実施しています。このような事情ですので、この質問への答えは、監督は「不在」となります。
さて、現在日本語教育の実践は、満足な状況でしょうか。これは、結果を客観的に測定して云々ということではなくて、実際に教育をしている教師の感覚として、そして教育を受けている学習者の感覚として、です。非漢字系の学習者について「毎日勉強していても、1年半勉強してN3に受かるかどうかだ!」という話をよく聞きます。うーん、これはどうもうまくいっていないと言わざるをえないのでは…。
そんな状況を見て、大学のセンセたちは、たいていは、日本語教員の教育や教師養成を何とかしなければという方向で、あれやこれや「研究」して「提案」をします。そして、ますます「上等な」議論を繰り広げます。しかし! 今の日本語教育の状況を改善する方策として、教員教育や教師養成を改革するという行き方はどうなんでしょう? 有効でしょうか? 大学のセンセたちは、QA1やQA2などの状況をどのように考えているのでしょうか。どうもそのような現場や現状やそれに実際に関わっている人に直接関わることを避けて、「遠吠え」ばかりしているように見えてなりません。
大学のセンセになった人は、「自分は日本語教育の研究者であって、日本語教育の(実践をする)専門家ではない」と自認しているのかもしれません。(それには一定の理解はできます。大学のセンセであるという「値打ち」を維持するためにも!) そして、その一方で、「日本語教師は…」「日本語教師にとって…」というように「日本語教師」ということをよく論じています。こういうセンセは、「日本語教師」を「卒業」されたようです。しかし! 大学のセンセが「日本語教師」を「卒業」した日本語教育の研究者で、現在日本語教育の現場に携わっている人が「未卒業」の日本語教師だとしたら、この世の中のどこに日本語教育の専門家がいるのでしょうか? どこに、日本語教育の専門家(その重要部分として、日本語教育のプロデューサーや監督がある)が「生まれる」のでしょうか。
これは、日本語教育と日本語教育学が抱える根本的な構造的問題です。この構造的問題を解決する処方箋はまだ誰も見出していません。厄介です。
そして、その一方で、日本語教育の研究者と目されている人は、今、政治家や行政官から「関連するデータを出してくれ!」とせがまれて(?)います。普及可能なgood pracriceを生み出すことができておらず、そのために「関連するデータ」も集めることができていないわけで、これも実に厄介です。
webjapaneseの記事をきっかけにあれこれ考えてしまいました。
2019年1月6日日曜日
就労外国人に関わる日本語教育の施策と「日本語教育のデータ」ということについて
こんなblog(https://webjapanese.com/blog/j/whocares/)、だれかさんのfacebook関係で知りました。(ありがと!) ライターさんの情報収集力、恐るべしです。で、この記事の中にも「データ」云々のことが書いてありますが、以下、就労外国人に関わる日本語教育の施策と「日本語教育のデータ」ということについて考えました。(「だれかさん」にも送った記事からの抜粋です。)
1.「データ」云々について
これはとても厄介。(1)施策にはお金がかかる、(2)お金をかけるのだから「何に」いくらかけたら「どんな成果が」得られるかが明確になっていないと、お金を出せないし、いくら出せばいいかもわからない(accountability<説明責任>の問題)という論理ですねえ。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
2.「何に」と「どんな成果が」について
現在の日本語教育学は「何に」について十分に語ることができるでしょうか。現在できることは、(1)(多かれ少なかれ)日本語学に基づいた「何に」、と、(2)ニーズ分析に基づいた「何に」、だけではないでしょうか。
そして、そのような発想では「何に」は「どんな成果が」と直接に関連するわけで、(1)の場合は「抽象的な言語事項の知識」において「ここまで!」という「成果」となり、(2)の場合は、リストアップされた言語活動の一覧表で「ここまで!(この言語活動まで!)とならざるを得ません。いずれも言語的な観点からの即物的な議論になっています。
3.もう一段広い視野で
(細川さんではありませんが!)「何に」の背後に「何のために」を置く必要があるのだろうと思います。そして、この「何のために」は、移民政策の一環なのであれば、「さまざまな背景をもつ市民の社会統合のため」となります。が、今回は移民政策ではない(らしい!)ので「社会統合」はダメです。そうなると、「何のために」一体は何でしょうか?
すぐに思いつくのは、(a)就労外国人でありながらも日本生活経験者としての(副次的な?)メリットとしての日本語力、(b)一人ひとりの生活の「人間的な豊かさ」を向上させ、安寧な社会を維持するための日本語、です。(a)は、就労外国人その人にとってのメリットであり、また日本の会社が海外で展開する場合の「サポーター」作りになるという面もあるかと思います。(b)は、就労外国人本人の利益(福利)にもなりますが、大きくは日本人側の利益になるでしょう。
そして、おもしろいのは、この「何のために」を見据え始めると、「何に」のほうの発想も変わってくるように思います。これまでは、「生活のために必要な日本語」や「就労のための日本語」ばかりが議論されてきました。それらを上の(a)や(b)と照らし合わせると違っている!(的が外れている!)ことがわかります。詳細な議論は省略して論を進めると、(a)や(b)に対応するのは、「生活日本語」や「就労日本語」よりももっと一般的な日本語能力だと思います。
4.現実
これはぼくがこれまでの論考などで度々主張していることですが、日本語教育は「文型・文法か、実用的なコミュニケーションか」という二元論の間で彷徨っていて、日本語教育の内容として確固たるものを提案できないでずっとここまで来ています。そんな事情ですので、確固たる内容に基づいた教育実践はありませんし、そうした教育実践についてのデータもありません。
5.現実への対応
このような状況(ちょっと「悲しい状況」?)ですので、日本語教育(学)関係者そのものとしてのアジェンダ(重要課題)の第一は「確固たる日本語教育」を確立して、世間にも見せる/見えるようにすることです。これは、日本語教育(学)関係者であるわれわれ自身の問題・課題です。
そして、そのようなアジェンダを「右手に」しながら、その問題・課題への対応・貢献を視野に入れながら、「左手で」現在目の前に置かれているさまざまな具体的な問題・仕事に上手に対応することです。これはなかなか「高等戦術」です。
政策・施策の「矢面」に立っている人にとっては、このような議論は「お気楽」かもしれませんが、「今求められている仕事・役割がひじょうに困難なものであることはわかってるよ! ぼちぼち、うまくやってね!」というエールとして!
2018年12月15日土曜日
日本語教育の効率性と、人と関わる日本語
以下の記事は、2018年12月9日に、神吉宇一さんのfacebookのタイムラインに送ったものです。
例の「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案にパブコメしました。https://koichimikaryo.blogspot.com です。ポイントは、「人として人と関わって暮らすための日本語」です。短くは「人と関わる日本語」。
神吉さんが、ノート「効率性とことばの教育」で書いているように、ことばの教育はスムーズにやり取りができ,効率的なコミュニケーションができるためだけにあるのではない、と思います。じゃあ、他に何なんだ!、となります。日本語教育(界?)は、この「他に」をこれまで見つけることができていません。「日本語教師【初任】研修案でも、「効率的なコミュニケーション」のための(相変わらずの)ニーズ調査・コースデザインのパラダイムにとどまっています。小委員会の皆さんも、就労外国人を人として扱わなければ!と考えているはずですよね。なのに、これじゃあだめでしょう。
ぼくの答えは(以前から!)「人と関わる日本語」です。実用的(で用を足す)コミュニケーションと並行して、人と関わる日本語(コミュニケーション)の教育をしないと、主に就労目的で日本に来た外国人を労働者扱いするという方向に「加担」することになります。専門家集団の日本語教育(界)の良識に基づく「知恵」として「人と関わる日本語」を今こそ提案するべきでしょう。
ただ、ここで一つ厄介なことが起こります。それは、「人と関わる日本語」の必要性を科学的に(調査に基づいて?)明らかにしてください、と言われた場合です。「人と関わる日本語」は遍在していて、そういうコミュニケーションがそこらじゅうどこでも起こっているというのが「デフォルト」です。そして、そういうコミュニケーションが行われていないと、孤立や情報不共有や、疎外や無援というような事態が生じるというものです。そのようなみんながフツーにやっていること、つまり、自分のことをあれこれ話、相手の話も聞いて、交友を広め、仲間や「味方」を作り、自分を支えてくれる、あるいは相互に支え合う基本の人間関係を作ること、そういうことがフツーにできるようにするために必要なのが「人と関わる日本語」です。そして、そういうことができないと、しばしば仕事や仕事を覚えることもうまく行かなくなり、実用的なコミュニケーションもスムーズに行かなくなります。それは広く人文学に従事する日本語教育者であるからこそ、指摘することができる日本語教育についての重要な視点です。その必要性は「科学的に」ではなく、人が人と関わって生きることを営むことの重要側面として人文学的に(あるいは哲学として?)議論されるべきことです。
神吉さんが、ノート「効率性とことばの教育」で書いているように、ことばの教育はスムーズにやり取りができ,効率的なコミュニケーションができるためだけにあるのではない、と思います。じゃあ、他に何なんだ!、となります。日本語教育(界?)は、この「他に」をこれまで見つけることができていません。「日本語教師【初任】研修案でも、「効率的なコミュニケーション」のための(相変わらずの)ニーズ調査・コースデザインのパラダイムにとどまっています。小委員会の皆さんも、就労外国人を人として扱わなければ!と考えているはずですよね。なのに、これじゃあだめでしょう。
ぼくの答えは(以前から!)「人と関わる日本語」です。実用的(で用を足す)コミュニケーションと並行して、人と関わる日本語(コミュニケーション)の教育をしないと、主に就労目的で日本に来た外国人を労働者扱いするという方向に「加担」することになります。専門家集団の日本語教育(界)の良識に基づく「知恵」として「人と関わる日本語」を今こそ提案するべきでしょう。
ただ、ここで一つ厄介なことが起こります。それは、「人と関わる日本語」の必要性を科学的に(調査に基づいて?)明らかにしてください、と言われた場合です。「人と関わる日本語」は遍在していて、そういうコミュニケーションがそこらじゅうどこでも起こっているというのが「デフォルト」です。そして、そういうコミュニケーションが行われていないと、孤立や情報不共有や、疎外や無援というような事態が生じるというものです。そのようなみんながフツーにやっていること、つまり、自分のことをあれこれ話、相手の話も聞いて、交友を広め、仲間や「味方」を作り、自分を支えてくれる、あるいは相互に支え合う基本の人間関係を作ること、そういうことがフツーにできるようにするために必要なのが「人と関わる日本語」です。そして、そういうことができないと、しばしば仕事や仕事を覚えることもうまく行かなくなり、実用的なコミュニケーションもスムーズに行かなくなります。それは広く人文学に従事する日本語教育者であるからこそ、指摘することができる日本語教育についての重要な視点です。その必要性は「科学的に」ではなく、人が人と関わって生きることを営むことの重要側面として人文学的に(あるいは哲学として?)議論されるべきことです。
2018年12月14日金曜日
就労外国人の受入れに関わる日本語教育について
就労外国人の受入れに関わる日本語教育について
ぼくのこの苛立ちは何なのでしょう? たぶん、「また、日本語教育界は知恵と洞察を発揮しないで仕事をしようとしている!」という苛立ちでしょう。あるいは、さらに非難がましく?言うと、「また、日本語教育界はつまらない日本語教育を再生産しようとしている!」という苛立ちでしょう。
ここでは就労を主な目的として日本に来て居住する外国出身者のことを就労外国人と呼びます。まず、提案を箇条書きにします。その後に、そうした提案が出てきた背景を書きます。
□ 提 案
1.就労外国人に対する日本語教育プログラムについて
(1) 人として人と関わって暮らすための日本語
就労のための日本語だけでなく、「人として人と関わって暮らすための日本語」(以降では、「人と関わる日本語」と略す)もプログラムのもう一つの柱として設定する。
(2) プログラム当初はオーラル日本語に集中
プログラムの当初はオーラル日本語(口頭日本語)の習得に集中する。つまり、日本語学習当初は、オーラル-オーラル(オーディオの利用ももちろん可能)による学習活動を通したオーラル日本語の習得をめざす。日本語学習当初にひらがな、カタカナなどを要求しない。テクストや板書などでは、メモとしてローマ字表記を使用する。
(3) (2)をサポートする教材を制作する。
就労のための日本語の部分についても、「人と関わる日本語」の部分についても、日本語独自の文字を使用しないローマ字表記による教材を制作する。
2.就労外国人の日本語能力の試験について
(1) 文字に依存しない日本語能力の試験
「人と関わる日本語」を中心として、文字に依存しない試験を作成する。基本の形は、オーディオを聞いてそれに対応する絵を選ぶという形の試験となる。(解答用紙は適宜に工夫する。)
(2) 試験あるいは模擬試験のウェブ公開
(1)のような試験をいつでもどこでも実施できるように、試験あるいは模擬試験をウェブ公開する。
これくらいの「工夫」をしないといろいろなことが決してうまくいきません。この提案は、以下の2つの提案に集約することができます。
A.「人として人と関わって暮らすための日本語」を就労外国人が身につけるべき日本語としてしっかりと位置づける。
B.日本語学習当初にひらがな等を教えることや、日本語学習でひらがな等を使用することをやめる。※就労外国人が必要な日本語の重要部分はオーラル日本語である。日本語独自の文字の学習と日本語学習でのその使用は、オーラル日本語の習得を大きく阻む。
Bは、日本語習得の基本的な企画に関わることで、すぐれて日本語教育学的な問題です。この提案については、ご同輩の日本語教育の専門の皆さんがどう考えるか、ご意見をうかがいたいと思います。
Aは、就労外国人に対する日本語教育に関するいわば倫理的な観点から導き出されることです。以下では、この点について論じます。
□ 「人と関わる日本語」という提案が出てきた背景
以下、移民か外国人労働者かという議論からスタートして、このイシュー(問題、検討課題)を日本語教育学のイシューとして正確に位置づけたいと思います。
政府の見解ではかれらは移民ではないそうです。「移民」という場合は「定住のために」という修飾語がつく(IOM、国際移住機関)ので、確かに移民ではありません。
ならば、彼らは外国人労働者か? 産業界(とそれに追従する政府)の目線では、かれらは外国人労働者でしょう。だって、この大騒ぎは、人手が足りない! 労働力がほしい! というところから始まっているわけですから。
良識派の論者は、当初は「きちんと移民として受け入れるべきだ」と主張していましたが、現在はトーンが変わって、「現在の経済水準を維持したければいずれは移民を大量に受け入れざるを得ない状況になるだろうから、そこまでのロードマップを描き出しつつ現在の就労外国人の受入れに関する制度や態勢の整備を行うべき。」(例えば、http://www.canon-igs.org/column/security/20181203_5386.html)つまり、移民なのか就労外国人なのかという二元論的な議論を乗り超えて、就労外国人から移民へとうまくバランスを取りながら徐々に移行していきましょう、ということです。バランス感覚のとれた、もっともな議論だと思います。
一方で、人権派からは「就労外国人の受入れの制度や態勢の整備にあたっては、かれらの人権を守ることが肝要!」と叫ばれています。しかし、改正入管法の特定技能1では、「滞在期間中は結婚が不可。既婚者は家族同伴禁止」となっていて、問題ありだと思います。また、他にもさまざまな側面で人権保障・人権侵害防止のための制度・態勢整備が必要になると思います。現在、政府のほうで「鋭意検討中」のようです。
他方、日本語教育界では、以前から「外国人労働者が来るのではなく、『人』が来るのだ!」という声が上がっています。つまり、働くばかりの労働者ではなく、人として人と関わりながら人生を生きる「人」が来る、ということです。この観点は、先に触れたような、人権的な観点ではありません。いわば、倫理的な観点です。そして、人文系の一分野である日本語教育学からそうした観点が提起されるのはひじょういふさわしいことだと思います。そうした観点の提示そのものがひじょうに重要なことだと思います。そして、その上で、次に日本語教育学として重要なことは、就労外国人のための日本語教育のプログラムにそのような観点に基づく教育内容を設定ことです。しかし、…。
文化庁で「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】(活動分野:就労者,難民等,海外)が作成され、現在パブリックコメントが求められています。(http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.html
) その中の就労者や難民等の部分に上のような「人として人と関わりながら…」というような観点がまったく含まれていません。ですから、就労者に対する日本語教育の内容は、就労のための日本語だけになってしまいます。日本語教育学の関係者は、そんなことでいいの?
そして、「そんなことでいいの?」という疑問が多々ありますので、それをきっかけにあれこれ考えて、上記のような提案が出てきました。
2018年12月9日日曜日
「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】 (活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見
「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(二次報告案)」の日本語教師【初任】
(活動分野:就労者,難民等,海外)に対する研修案に関する意見
【文化庁HP:新着情報より】
http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/ikenboshu/nihongoiken_kyoshi/index.htmlに意見を送りました。
文化庁国語課
日本語教育担当 御中
以下のように標記について意見を申し上げます。参考にしていただければ幸いです。
西口
○件名: 日本語教師(初任)研修に対する意見
○氏名: 西口光一
○性別・年齢: 男・62
○職業: 大学教員
○住所: 大阪府箕面市森町中1−10−14
○意見
「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点の追加
0.はじめに
分科会でのご検討並びに報告書(案)の作成に感謝します。
先に「在り方について」(報告書)で提案された日本語教員の【養成】にかかる教育内容については、提案に基づいて各大学や養成機関でそれぞれの持ち味を生かしたカリキュラムが企画され実施されることと思います。さて、本文書では、今回の日本語教師初任研修(就労者、難民等、海外)について意見を述べたいと思います。
1.就労者と難民等における「生活者としての外国人」という観点の欠落
まずは、就労者と難民等について、今回の報告の資料の1−2と2−2「知識」の【1】と【2】及び「技能」の前半部に関わることです。端的に言うと、「生活者」の観点が欠落しています。「在り方について」の表2の「【初任】(生活者としての外国人)の内容は並行して実施するということでしょうか。
2.人として人と関わって暮らすための日本語という観点の欠落
また、今回の報告の就労者と難民等や「在り方について」(報告書)の生活者としての外国人のいずれにおいても、人として人と関わって暮らすための日本語という観点が欠落しています(注1)。
わたしたちはみんなそれぞれ一人の人として人生を生きています。職場や地域の一メンバーとしてそこでのさまざまな活動に参画してメンバーとしての「役割を果たす」ことはそれはそれで重要なことです。しかし、わたしたちの人生には、人として人と関わって暮らすという面も重要な側面としてあります。わたしたちは人と関わってあれこれと自分の話をします。家族の話をする、好きな物や好きなこと(スポーツ、音楽、映画・ドラマなど)の話をする、毎日の生活/きつい生活について話す、週末の過ごし方について話す、あれがしたいこれがしたいと話す、自分の来し方や将来について話す、特別な技能や能力について話す、子どもの時の話をする、自分の国や町のことを話す、などです。そして、もちろん相手からのそういう話も聞きます。わたしたちはそのようにして、他の人たちと人生をシェアしつつ相互にラポールを育みながら人生を生きています。外国出身の就労者や難民等は、就労者や難民等であるわけではありません。かれら一人ひとりは一人の人間です。就労者や難民等というのはかれらが経験する/経験した一つの人生であり、そういう意味でかれら一人ひとりの背景でしかありません。かれらが一人の人として生きていくためには、自身のことや自身のあれこれの背景を語る言葉を持たなければならないし、また、現在の自身の生活や暮らしを自分なりに話す言葉や自身の将来を思い描きそれを語る言葉も持たなければなりません。(難民等の場合のように「厳しい過去」がある場合は、過去を語ることはきついことであるとは思われますが、それでも一定の「折り合い」つけて将来に向かって人生の展望を描くほかありません。)
3.生活活動の実用的な側面と非実用的な側面
わたしたちの生活活動には、実用の面と非実用の面があります。就労者や難民等のための日本語教育やこれまでの生活者のための日本語教育の議論では、実用の面ばかりが注目されきたように思います。上で述べた「人として人と関わって暮らすための日本語」は非実用の面です。しかし、そういう非実用の部分こそが人が一人の人間として生きるために欠かすことのできない部分ではないでしょうか。また、そういう非実用の部分があってこそ、基本としての人と人との関係が構築され、人と人との信頼できる関係が醸成されます。そして、そうした関係やそこで育まれたラポールなどが実用の面の土台となったり、実用の面をいい方向に導く「触媒」となったりするものと見られます。
実用の面ばかりに注目することは、パウロ・フレーレが批判した機能的識字の視点を適用することとなります。つまり、体制に順応して、与えられた立場において役割を適正に果たすという視点です。フレーレが説いたように、そうした機能的識字の視点にとどまらないで、一人の人として「解放」される方向を見据えた日本語教育の構想が必要であろうと思われます。そのようなより広い視点から就労者や難民等や生活者の日本語教育を構想するというのは、ニーズに基づいて企画される言語教育ではなく、人が流動する現代社会についての見方や見識に基づいて未来志向的に企画される言語教育となります。
4.人格尊重の日本語教育
そのような面に目を向けた日本語教育を企画し実践してこそ、外国出身のそれぞれの人を一人の人として受け入れるという人格尊重の日本語教育になるのだと思います。実用の面での言語コミュニケーションを実用的コミュニケーションと呼ぶとすれば、非実用の面は社交コミュニケーションと呼ぶことができるでしょう。つまり、ここで強調しているのは、社交コミュニケーションのための日本語ということになります。
「人として人と関わって暮らす」という面への着目は、長い目で見て人権尊重に繋がると思われます。また、しばしば言われる多文化共生社会を築くという方向にも合致することだと思われます。
5.人と人が出会い・交流する場としての日本語教室
生活活動の実用の面にばかり注目することの「弱点」がもう一つあります。それは、日本語教室という場の根本の構図に関わることです。
生活活動の実用の面はたいてい教室の外にあります。ですから、実用的なコミュニケーションというのは教室の外の「現実」で行われる活動に奉仕するコミュニケーションとなります。実用的コミュニケーションが生気を得るのは教室の外です。そのような事情ですので、生活活動の実用の面を日本語習得の課題として設定すると、教室の構図は、教室の外の「現実」で行われるコミュニケーションの形骸をただ覚えるだけの学習と教育になってしまいます。教室は、畢竟、「役に立つ日本語」を教えてもらうだけの場になってしまいます。そこには、教室に集まった学習者と学習者、学習者と教師や支援者との出会いや交流はありません。
教室というのは、週に1回あるいは数回、同じ場所に同じ顔ぶれの人たち(学習者、教師、支援者など)が寄り合う機会です。教室という時空間のデフォルトの構図はこのように人と人が出会う場であり、人と人の交流が自然と進む場です。実用の面ばかりに注目した日本語の学習と教育は、そのような貴重な出会いと交流のチャンスを台無しにしてしまいます。「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点からの日本語の学習と教育がそこに実現されれば、教室という時空間は生気を取り戻して、人と人の出会いと交流の活動が促進され、それに伴う「支援された言語パフォーマンス」(assisted language performance)の形で社交的なコミュニケーションの日本語を習得することができます。
6.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点
どのような日本語教育の構想であれ、そこには緻密な企画と計画が必要です。「人として人と関わって暮らすための日本語」教育を系統的にあるいは段階的に実践するためには緻密な企画と計画が必要です。それがどのような内容でどのような段階を踏んで行うのが有効で有益であるかは明瞭にはわかっていません。しかし、そのような教育の可能性を追究することは必要でしょう。(注2)
以上のような論点から、就労者や難民等の【初任】の資質・能力の中にぜひとも「人として人と関わって暮らすための日本語」(短く、人と関わる日本語の教育)の観点を入れていただくのが適当であろうと考えます。
注1.生活者としての外国人の観点に、「人として人と関わって暮らすための日本語」の観点が含まれているかどうかは、実際には、あいまいです。「在り方について」の表2の中の「教育的観点」や「「学習者が地域社会とつながり、ネットワークを構築する力を育てる教育実践」というような文言ににじみ出ているとも言えます。
注2.「人と関わる言語教育」については、Hall(2001)で「関わり(interaction)そのものを目的とする言語活動」として言及されている。※Hall, J. K. (2001) Methods for Teaching Foreign Languages: Creating a Community of Learners in the Classroom. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.
捕捉.「人として人と関わって暮らすための日本語」という観点は、海外の【初任】においても重要であると思われる。
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