2019年1月13日日曜日

国語と日本語 ─ 移民のための日本語を考える

 政治学者中西寛が、「無意識の壁を取り払う ─ 「国語」と「日本語」の間」という興味深い論説を2019年1月13日の毎日新聞に書いています。(https://mainichi.jp/articles/20190113/ddm/002/070/046000c、有料記事ですが)中西の論は、よく読むとちょっと論理の曲折があると思いますが、いくつかの重要な概念をわかりやすく提示していると思います。ここでは、中西が提示した概念を拝借?しながら、いくつかの議論をしたいと思います。
1.これからの日本社会が使う言語としての「日本語」(中西)
 これまでわたしたちは特段何も考えずに、わたしたちの日本語である日本語、つまり「国語」を、何の躊躇も疑いもなく、わたしたちの間で使ってきました。外国出身の人がフツーに同僚になったり、近所の人になったりすると、それまでの「国語」ではうまく物事を運営できない状況が出てくるでしょう。「国語」というのは、濃密な共通基盤(という幻想?)の上に気づかれた築かれたエスニックな言語であり、これまでわたしたちはそういう濃密な共通基盤の上でエスニック言語である日本語、つまり国語で、人と交わり暮らしてきたからです。そして、外国出身の人たちは、さまざまな原因から、わたしたちとは異なる日本語の話し方をするからです。かれらが話す日本語に発音や文法などの面で「わかりにくさ」があるという水準だけでなく!です。
※「わたしたち」とか「わたしたちの日本語」と書いていて、日本人の中の多文化共生を日頃から主張しているわたしとしては、実は違和感を感じました。わたしは、日本人は一色で一枚岩ではないと思っていますし、「わたしたちの日本語」なんて一部の人の幻想だと思っています。しかし、外国出身の人たちが隣人になるようになるこれからこそ、外国出身の人にもわかりやすい話し方という意味での新しい日本語の話し方が要請されているのだと思います。
2.「日本語教育においては文法や語彙、発音が中心となるが、国語にあってはそれに止まらない用法、たとえば敬語、男女語の区別、書き言葉と話し言葉の区別などが重要となる。」(中西)
 この件を読んだ日本語教育関係の人は、「日本語教育でも、敬語、男女間の区別、書き言葉と話し言葉の区別なども教えている」と「胸を張る」、かな? このポイントは、外国出身者が日本に居住して仕事をしたり生活をしたりする場合に、どのような機能までの日本語を本人が希望するか、これからの日本社会として要求するか、という問題になります。そして、それは、正式な形で移民として日本に来る/来た人の場合でも、国としていろいろな「水準設定」があるだろうと思います。同じく、期間を区切られた就労外国人の場合でもいろいろな考え方があるだろうと思います。それは、外国出身者が多数社会のメンバーを構成するようになったときの日本社会をどのようにデザインするのかという問題と直接に関わります。
3.2に続いて、「日本社会に溶けこむにあたって「日本語」と「国語」との差は、異なる言語と呼べるほどに大きいのである。」(中西)
 「溶けこむ」をどのように考えるかを、よく考える必要があると思います。
 外国出身者を多数受け入れた後のヨーロッパの諸国では、「社会統合」が問題になっています。さまざまな背景をもつ移民が多数入ってきて、かれらもそれぞれの国の国民になりました。その結果、それまでは「国民国家」として、「国民」たちがいっしょになって「わたしたちの国を造り発展させよう。暮らしやすいいい国にしよう」という気持ちでやってきたのですが、国の人口構成が具体的に多様になってきた結果、そういう「わたしたち」や「わたしたちの国」という意識が薄れてきました。そして、「これでは、国がこわれてしまう」という危機感から社会統合政策が行われるようになりました。(そして、実はさまざまな社会統合政策にもかかわらず、さまざまな痛ましい事件も起こっています。もちろん、社会統合政策が不十分だという面もあるでしょう。) その場合の「社会が使う言語」はフランス語であれドイツ語であれ、「国語」ではなく、多分社会の一員として機能的に十分に振る舞えるだけの言語としてのフランス語でありドイツ語だということになります。
 中西は、外国出身者の場合は、「(新しい)日本社会が使う言語である「日本語」さえ習得すればいい」と論説の前半では主張していると読めます。にもかかわらず、この部分で「溶けこむ」と言っています。「溶けこむ」と言われると、さまざまな背景をもつ個々の外国出身者が、遍在しほぼ単一的な日本社会に、「溶けこむ」というイメージを引き起こします。そして、この論考の結論部は「(濃密に文化と歴史が浸み込んだ)『国語』を変革しなければ」となっています。

 本記事の結論。詳細に論じると膨大になるので、結論のみを箇条書きにします。
(a)日本語の「国語」はエスニックな言語である。
(b)日本語は「日本語」と「国語」の二本立てで行く必要がある。「国語」は「国語」で大事。「日本語」も「日本語」で大事で必要。
(c)「国語」ができる人のかなりの部分は「日本語」もできるようになる必要がある。そして、そのことはすでに日本国内にある言語的な多様性やその他の多様性をを受け入れる姿勢を涵養することに資する。
(d)移民のための日本語を考えるときは、文法や語彙ではなく、その人たちが日本語に奉仕させようとしている用途・機能に注目しなければならない。
(e)移民の「社会統合」は、1世代ではなく、複数の世代を見通して考えなければならない。移民に対する言語政策・言語教育も複数の世代を見通して考えなければならない。







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