2018年2月18日日曜日

『自己と他者の社会学』井上俊・船津衛編(2005)有斐閣


 うちの同僚の政治学がご専門の先生が(ご専門でもないのに)こんな本を手にしていらっしゃいました。その先生はたいそうな読書家で専門の本は言うまでもなく、こういう専門でない本も(専門の本に飽きたときに!?)お読みになるそうです。
 最近、日本語教育学の人はけっこう社会や個人(自己)に関心を向けています。でも、何だか社会や個人をきちんと学術的に捉えていない感じがしていました。社会の捉え方及び社会と個人の関係は、社会学の理論の重大なテーマです。ぼく自身は、この数年は、社会と個人の上に言語も絡めながらこのテーマに広く取り組んできました。それについては、3月末刊のうちのセンターの研究論集に論考を書いたのでご覧ください。しかし、同論考はけっこう「難解」かと思います。言語を絡めているからです。ここで紹介している本は、社会と個人に限定して理論的に論究しています。各章は、「演じる私」(第3章)、「物語る私」(第5章)、「意味を求める私」(第6章)などとなっており、それぞれの章のテーマにふさわしい円熟の研究者が実に明快にそのテーマについて論じてくれています。そして、とても読みやすい!
 ちょっとだけ内容について話すと、デュルケーム、ジンメル、ゴフマンという社会と個人についての理論の系譜がこの本を読むと実によくわかります。後の社会構成主義に至る事情もこの本を読めばよく理解できます。また、本書の内容を理解すれば、そこで論じられていることと、バーガーとルックマンや現象学との関連もかなりの程度理解できます。
 日本語教育学で社会や個人に関心をもっている人には、いの一番にお薦めです!

人文的な教養と学者としての進化

 昨日はうちのがっこで、「専門日本語教育研究協議会 ─ 学習者オートノミーを育む言語学習とその支援」とのシンポジウムがありました。参加者は関係者を含めて70人以上になったのではと思います。多数のご参加、ありがとうございました。
 以下、独り言。 人間は個人の中で歴史的に「進化」する。20年前のわたしと今のわたしは(ある意味で)「別人」です。10年前のわたしや、5年前のわたし、そして1年前のわたしと、今のわたしも「別人」です。このことは例えば、「日本語教育における何らかの開発をしたい」というような素朴な期待を抱いて(幸いにも!)大学院に入ったAさんの、入学時と1年後のAさんを比べればよくわかります。そこには「日本語教育を志望する」素朴なAさんから、立派に研究者のタマゴに(も?)なったAさんという「進化」の様子が見られます。 このように学生たちは、マスターの2年や、ドクターの3・4年で大いに「進化」します。では、その一方で、教員であるわたしたちは年を追うごとに「進化」しているでしょうか? 人文系の学者(scholar)は、自身において日常的に人文的な教養の豊富化ということがあるはずだし、あるべきだと思います。そもそも、高度な人文科学の研究成果はそのような人文的教養の豊富化の上に生まれてくるものだと思います。そして、そういう豊富化があれば、人文教養的に「1年前のわたしと今のわたしは違う!」というようなことが起こるはずです。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践)の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践))の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。

2018年2月17日土曜日

理論的研究と実証的研究と教育実践

理論的研究と実証的研究と教育実践

 これ、前から書きたいと思いつつ、何となく置き去りにしてきました。
 今どきは実証的研究がはやっていると言っていいでしょう。第二言語教育関係では、第二言語習得研究がその代表選手でしょうか。実証的研究というのは、関連のあるデータを必要十分な量 出して、「証拠に基づいて赫々然々の傾向があると言えそうだ」と「主張」を提示するわけです。実証研究というのは、現象の全体性の中から特定の部分に注目して、いわばそこを切り取って、その部分で生じそうな「違い」が本当にあるかどうかを実際にデータを取ってみて確かめるわけです。「現象の全体性の中から切り取って」の部分にはくれぐれも注意!です。
 これに対し、理論的研究は、「理詰め」で、現象の全体性を外さないようにしながら「論理的に考えるとこのようになるのではないか」と「主張」を提示します。理論的研究は、「理詰め」で行くし、現象の全体性を外さないように行くので、相当理屈っぽくなります。
 さて、教育実践者のあなたは、どっちの研究と「対話」をしたい? 科学というヤツが信奉されている今どき?の教育実践者は、どちらかというと前者と対話したいと言う傾向があるように思います。つまり、前者が何らかの「答え」をくれそうな気がするのです。この「『答え』をくれそうな気がする」は、科学がその基礎の上にテクノロジーを発展させてわたしたちの生活をますます便利・快適にしてくれたというわたしたちの「過去の経験」に基づいていると思います。科学信奉主義?ということかな。そして、教育実践者たちは、「エラい」大学のセンセたちがやる、データとわけのわからない統計処理に基づく研究をがまんして聞いて、「答え」を求めようとします。そして、たいていの場合は、その期待は裏切られます。また、それだけでなく、大学のセンセたちのデータと統計に基づく研究の結果が自身の経験に基づく「勘」と違っていたら、決してセンセたちの研究結果を受け入れません。あれっ? 科学を信じるんじゃなかったの?
 結局最終的に「わたしにとって信じられるか信じられないかなんです!」というのであれば、「わたし」自身をもっと教養化しなければなりません。つまり、多種多様な視点で現象を見ることができるようになって、洞察力をもって本質に迫ることができる/できそうな「わたし」にならないと、あなた自身の取捨選択はとても「危うい」ものとなります。そのためには、広い意味での理論的な研究と「対話」をしなければなりません。そして、そんな提案をすると「理論的研究はむずかしくて、取っつきにくい!」という声が聞こえてきそうです。
 科学も信じるようで信じない、理論的研究はむずかしいと言って避ける! そんなことをしていると、教育実践は一体どうなるの?
 knowledgeable practiitonerという言葉が一時、はやりました。さまざまな方面の知識をもっていて、複眼的多面的に物事を見て、洞察のある判断ができる実践家ということです。
 結局、教育実践というのは、実際に教育実践にあたる先生たちのこのknowledgeableの水準に左右されるのだと思います。
 ここで飛躍? 皆さん、むずかしくても、ぜひ理論的な本を読んで、自分の脳みそであれこれのことをあれこれ考えてみてください。その向こうには「希望の未来」が拓けます!