理論的研究と実証的研究と教育実践
これ、前から書きたいと思いつつ、何となく置き去りにしてきました。
今どきは実証的研究がはやっていると言っていいでしょう。第二言語教育関係では、第二言語習得研究がその代表選手でしょうか。実証的研究というのは、関連のあるデータを必要十分な量 出して、「証拠に基づいて赫々然々の傾向があると言えそうだ」と「主張」を提示するわけです。実証研究というのは、現象の全体性の中から特定の部分に注目して、いわばそこを切り取って、その部分で生じそうな「違い」が本当にあるかどうかを実際にデータを取ってみて確かめるわけです。「現象の全体性の中から切り取って」の部分にはくれぐれも注意!です。
これに対し、理論的研究は、「理詰め」で、現象の全体性を外さないようにしながら「論理的に考えるとこのようになるのではないか」と「主張」を提示します。理論的研究は、「理詰め」で行くし、現象の全体性を外さないように行くので、相当理屈っぽくなります。
さて、教育実践者のあなたは、どっちの研究と「対話」をしたい? 科学というヤツが信奉されている今どき?の教育実践者は、どちらかというと前者と対話したいと言う傾向があるように思います。つまり、前者が何らかの「答え」をくれそうな気がするのです。この「『答え』をくれそうな気がする」は、科学がその基礎の上にテクノロジーを発展させてわたしたちの生活をますます便利・快適にしてくれたというわたしたちの「過去の経験」に基づいていると思います。科学信奉主義?ということかな。そして、教育実践者たちは、「エラい」大学のセンセたちがやる、データとわけのわからない統計処理に基づく研究をがまんして聞いて、「答え」を求めようとします。そして、たいていの場合は、その期待は裏切られます。また、それだけでなく、大学のセンセたちのデータと統計に基づく研究の結果が自身の経験に基づく「勘」と違っていたら、決してセンセたちの研究結果を受け入れません。あれっ? 科学を信じるんじゃなかったの?
結局最終的に「わたしにとって信じられるか信じられないかなんです!」というのであれば、「わたし」自身をもっと教養化しなければなりません。つまり、多種多様な視点で現象を見ることができるようになって、洞察力をもって本質に迫ることができる/できそうな「わたし」にならないと、あなた自身の取捨選択はとても「危うい」ものとなります。そのためには、広い意味での理論的な研究と「対話」をしなければなりません。そして、そんな提案をすると「理論的研究はむずかしくて、取っつきにくい!」という声が聞こえてきそうです。
科学も信じるようで信じない、理論的研究はむずかしいと言って避ける! そんなことをしていると、教育実践は一体どうなるの?
knowledgeable practiitonerという言葉が一時、はやりました。さまざまな方面の知識をもっていて、複眼的多面的に物事を見て、洞察のある判断ができる実践家ということです。
結局、教育実践というのは、実際に教育実践にあたる先生たちのこのknowledgeableの水準に左右されるのだと思います。
ここで飛躍? 皆さん、むずかしくても、ぜひ理論的な本を読んで、自分の脳みそであれこれのことをあれこれ考えてみてください。その向こうには「希望の未来」が拓けます!
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