2018年2月18日日曜日

人文的な教養と学者としての進化

 昨日はうちのがっこで、「専門日本語教育研究協議会 ─ 学習者オートノミーを育む言語学習とその支援」とのシンポジウムがありました。参加者は関係者を含めて70人以上になったのではと思います。多数のご参加、ありがとうございました。
 以下、独り言。 人間は個人の中で歴史的に「進化」する。20年前のわたしと今のわたしは(ある意味で)「別人」です。10年前のわたしや、5年前のわたし、そして1年前のわたしと、今のわたしも「別人」です。このことは例えば、「日本語教育における何らかの開発をしたい」というような素朴な期待を抱いて(幸いにも!)大学院に入ったAさんの、入学時と1年後のAさんを比べればよくわかります。そこには「日本語教育を志望する」素朴なAさんから、立派に研究者のタマゴに(も?)なったAさんという「進化」の様子が見られます。 このように学生たちは、マスターの2年や、ドクターの3・4年で大いに「進化」します。では、その一方で、教員であるわたしたちは年を追うごとに「進化」しているでしょうか? 人文系の学者(scholar)は、自身において日常的に人文的な教養の豊富化ということがあるはずだし、あるべきだと思います。そもそも、高度な人文科学の研究成果はそのような人文的教養の豊富化の上に生まれてくるものだと思います。そして、そういう豊富化があれば、人文教養的に「1年前のわたしと今のわたしは違う!」というようなことが起こるはずです。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践)の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。
 わたしたちの業界(第二言語教育学や日本語教育学および第二言語教育や日本語教育の教育実践))の大学のセンセたちは、そんな「進化」を年々遂げているでしょうか。業界の大学のセンセが人文教養的に「進化」しないと、わたしたちの業界も人文教養的に「発展」しないでしょうね。研究業績は堅実に(?)あげているけど、人としては「進化」がない!? 「進化」が伴うはずなんですけどねえ。

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