ある院生のレポートの中に、「第二言語教育について考えるために、なぜ社会学、心理学、言語学、応用言語学といった分野を見る必要が出てくるのか(ということを自分なりにも考える必要があると感じた。)」との一節がありました。
まず、ちょっと「遊ぶ」と、この文は多義的ですね。つまり、「なぜ」が、「社会学、心理学、言語学、応用言語学」に係っているのか、「見る必要があるのか」に係っているのか、です。たぶん、学生の疑問は、「なぜ(そういう分野を)見る必要があるのか」だろうと思います。では、本題に。
ぼくのこたえ。二方面で。まずは、学術研究的に言うと、「究明されていないから」。これで、終わりです。明らかになっていないことを、見つけたら、「では、わたしはこのあたりを明らかにします」でよい、ということになります。表題にあるように、大学の先生というのは、本来、物好きです。その探究・究明の活動に「なぜ?」とか「何のために?」は要りませんし、ましてや「何の役に立つの?」などはそもそも大学の先生には「無関係」で、むしろ「役に立つ」云々を考えると、研究が「不純」になります。そして、本来の大学の先生はそれでいいのです(orよかったのです??)。
次は、日本語教育学?的?に先の質問にこたえると、「現在の日本語教育の状況や、それに従事している人たちはみんな迷妄の中にある。その結果として『いい仕事(学習者に質の高い教育を提供すること)ができている』とはとても思えない」と(ぼくは!)思うので、その迷妄を少しでも「晴らす」ためにそういう研究をする、となります。これは本来の研究として、「動機不純」でしょうか。うーん、「動機不純」という必要はないでしょうね。研究者自身に教育実践への「関心」があって、教育実践を「ながめた」ときに、「どうもそこに(大きな)課題がありそうだ」と思って、「そこ」に注目しておもむろに研究を始めるというのは、正統な研究動機」と言っていいでしょう。日本語教育学としての問題は、「おもむろに」の前(研究動機)と後(研究)の区切り・けじめです。
で、その「区切り・けじめ」に関連してまた他の院生からおもしろい指摘がありました。その学生のレポートの末尾に「現在の日本語教育の企画や実践がいかに理論的に見ていびつかを説明しても、どれほど受け入れられるのかわからない」という指摘がありました。この学生の指摘は「まさにおっしゃる通り」です。つまり、研究をしてその産物を学会発表や論文や本の形で公にしても、そもそも「迷妄な人たち」の耳や目に入るかどうか、仮に入ったとしても関心をもってもらえるか、関心を持ってもらえたとしても分かってもらえるかど、そしてうまい具合に分かってもらえたとしても受け入れてもらえるか、という問題があります。この学生の指摘は、このようにひじょうに「現実的な」指摘です。研究の中身や質に関わることではありません。そして、現実の世界では「普及」(自動詞&他動詞)ということが中心的な問題になります。「素晴らしい新製品」を開発しても、「マーケッティング」(これは、「他動詞」になりますが)が悪いと、売れないし使ってもらえない、ということです。そして、この「普及」ということを考えると、「ユーザー・フレンドリーであるかどうか」が問題となります。つまり、読んで分かってもらうためには読みやすく分かりやすく書かなければならないということです。しかし、探究・考究を終える前に「ユーザーフレンドリー・バージョン」を書くことはできません。まず学術研究としてしっかりとやって、その上で広く多くの人に分かりやすい本を別途書く、という二段構えでやる必要があると思います。しかし、「学術研究」を経ないと「分かりやすい本」は出せませんので、大いに時間がかかります。(世の中には、「学術研究」を経ないで、いいかげんな「分かりやすい本」を書いている日本語教育学者?がたくさんいる!?)
研究活動において物好きほど「強い」ものはありません。その分野のことが好きで、「何のために」など考えることもなく探究・考究に邁進できるわけですから。大学の他の分野の先生の様子を見ているとそんな具合です。恐るべし!です。読書量が全然違う!!
そんなことで言うと、「そもそもわたしの関心は日本語教育(の教育実践)です」というところが、研究者をめざすことにおいて「動機不純」です。研究という何とも動機が純粋で心が無垢なところに、「日本語教育に役に立つ研究をしたい」などと言う不純な・世間ズレした(・泥臭い)人間が入ろうとするのは、どうかなあ。また、そういうそもそもが「動機不純」な者は、物好きにかないません。じゃあ、どうする? 実践研究という自分たちらしい新たな研究分野を開拓する? それとも「研究」に「身を売る」? どうしましょう? 問題の焦点は、「不純さ」「世間ズレ」「泥臭さ」を克服していかに(再)純化するか、かなあ? (再)純化したら「『研究』に『身を売る』ことになる!」? そうなることもしばしばでしょうが、そうならない道もあるだろうと思います。いずれにせよ、道を拓かなければならないと思いますが。
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