ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、 Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の 人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた? カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視 点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地 域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周 辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定 の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模 を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界 上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、 簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結 びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連 づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、 誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。) さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度 共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。 カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を 何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな く、カイワイです。 で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内 実の一致・不一致はしばしば問題になります。 ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学) というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。 http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。 結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の 関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで す。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2018年5月1日火曜日
羅針盤:日本語教育(学)というカイワイ(201805)
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