2018年6月13日水曜日

グローバル時代の庶民の教養:『日本人はなぜ存在するのか』(與那覇潤)を読んで

 與那覇潤の『日本人はなぜ存在するのか』を読みました。帯にはなぜか「“グローバル人材”よ、さようなら」と書かれています。さらにその下には、小さく「『教養学』入門の決定版」とあります。
 與那覇潤との「出会い」は毎日新聞(2018年4月24日(日))の書評「鬱を抱える当事者だからこそ見える社会、大学、そして知性のあり方」(https://mainichi.jp/articles/20180424/org/00m/040/012000c)です。ただし、そこで紹介されている本は著者のもう一つの著書『知性は死なない』です。同書評を以下に再掲します。

『知性は死なない--平成の鬱をこえて』與那覇潤・著(文藝春秋/税別1500円)
 自分が、学者として、あるいはここで書評を書かせて頂いている言論人として、一番何に興味があるかといえば、世の中に転がる「誰も得しないことをあたかも最適解のようにみんなで信じながら進めて、潰し合ったり、うずくまったりしている」現象を解決することだ。そのためには丁寧に現実を見聞きして、じっくり考えて、これが当面の答えなんじゃないでしょうか、ということを言っていく、行動に移していくしかなく、それが自分の仕事だと思っている。その道具として、専門的な知識とか大学・研究機関・メディアという場は極めて有用だ。そんな自分の立ち位置を改めて見つめ直させてくれる本を『中国化する日本』で一世を風靡(ふうび)した著者が書いてくれた。
 本書は現代社会論であり身体論であり大学論である。著者が鬱に苦しみ、2年以上の療養を経て書かれた重み…
(ここまでは無料記事で、それ以降は有料!)『知性は死なない』は2018年の本で、『日本人はなぜ存在するか』は、2013年の本で、文庫本が2018年に出ています。
さて、ぼくが引かれたのは、評者の姿勢と評者を聞きつけた與那覇潤という人です。大学のせんせいというのはある意味で「知りすぎた」人であり、「立場が弱い人や社会の中でしんどい状況にある人にシンパシーを向け(たディスコースを発信し)ながら、自身はのうのうと安泰なご身分に居座っている」自己矛盾した存在です。そして、「正義漢ぶって」大学で講義をしたり本を出したりすればするほど、その自己矛盾を増幅させるほかない存在です。そんな仕事、常人には羞恥心なくしてやれるものではありません。平気でやれる人は、そうとう傲慢な人です。評者や與那嶺さんもそんなふうに考え、羞恥心を感じつつ大学のせんせいというお仕事をされているのだろうと勝手に想像しています。

 で、『日本人はなぜ存在するのか』です。とてもおもしろくて、知的に充実した本でした。そして、著者の議論はちゃんと最終の10章の結論に収斂しています。結論は、21世紀の人類は、自身の運命を自分で決めなくてはならないほどの領域(例えば、臓器移植や、原子力エネルギーの活用など)にまで来てしまった。そして、個人のレベルでは、人間という「小さな存在」の手には余るような決定をしなければならないところ(例えば、臓器移植の決断など)まできてしまった、ということです。
 本当に、21世紀の現在の人間の到達点、あるいはたどりついて「しまった」ところをよくわからせてくれます。また、人間というものの「正体」、現実というものの「正体」もよくわからせてくれます。

 なるほど、「これが21世紀に生きる人間が持つべき教養なのか」と一瞬!?思わせます。しかし、それは「ちょっと待てよ!」…。與那覇さんは、1979年生まれで、今まだ40歳前! この本、60歳くらいの老教授が書いたような本です。「見通し」すぎています!! 「早熟」過ぎ!!(東大出の與那覇さんは、上の書評にもある2014年刊の『中国化する日本』で「一世を風靡した」そうです。ぼくは、『中国化する…』はまだ読んでいませんが。)

 なんかやっぱり與那覇さんは「庶民」じゃないよねえ。ぜんぜん庶民じゃない。そして、世の中の90%くらいの人は庶民、つまり東大や京大などを出た秀才ではなくフツーの人です。ぼくも間違いなくこの90%の中にいます。で、與那覇さんは秀才のいやらしさのないピュアな目線をもっているなあと本を読んで思いました。というか、書評にあるように、與那覇さんが鬱になっていたと言う話を聞いて、この人はきっとピュアな人なんだろうなあと思っていたのが、やはりそうだった、という感じです。で、この與那覇さんが、グローバル人材についてこの本の冒頭ですごくおもしろいことを書いています。ごく結論だけ言うと、グローバルに仕事をするということは、これまでの(国内で「よく似た人たち」といっしょに阿吽の呼吸で「言わなくても」「縷々説明しなくても」わかる)ハイコンテクストな状況での仕事から、背景も考え方も意見も違う、縷々説明しないと決していっしょにやっていけないローコンテクストな状況での仕事になるよ、と言っています。
 で、次にぼくが考えたこと。「秀才の連中がこういうローコンテクストでもリーダーシップを取れるようになると、ますます秀才たちとフツーの人の「格差」が拡がるなあ…」「しかし、ちょっと待って。秀才たちは実は『頭が固い』のではないだろうか。」「そうなると、秀才でない人こそ、ハイコンテクストにカモフラージュされた多様性を暴いてけんかいや対話をさせる「ピエロ的」対話コーディネータになれるのではないか」、そして、「それこそが、庶民が『特殊能力』を発揮して能動的に活躍できる道ではないか」と考えました。それで思い立ったのが、「グローバル時代の庶民の教養」です。これから、ぼちぼち、このテーマを考えたいと思っています。

 最後の2パラグラフの論理がとてもファジーですね。お汲み取りをいただければ。

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