2018年6月23日土曜日

哲学のタネ明かしと対話原理 番外編:人間の思考とディスコース活動の超俯瞰①

 人間の思考とディスコース活動を超俯瞰してみたいと思います。東洋の伝統は「不勉強」で、とりあえず、哲学というものを発明し発展させた西洋の伝統で書きます。

1.活動に付随しないディスコース活動の始まり
 もともとの言語活動は活動に付随していた。やがて、見聞きしたことを語り伝えるということが行われるようになった。言語の「脱活動化」の第一歩である。やがて、歴史の語り(ホメロスなど)や創世神話(ギリシア神話、各部族の神話)などが語り継がれるようになる。だいたい紀元前8世紀頃です。
2.哲学の誕生
 1までは、人間は「そもそもこの世界とは」「存在とは」「人間とは」などは考えませんでした。そういう「そもそも」が考えられるようになるのは、紀元前6世紀ごろのタレス、アナクシマンドロス、ピタゴラスなどの「最初の哲学者」たちからです。
 ギリシアのポリスで暮らす市民たちは「不労階層」つまり働かないで日々を暮らしているヒマな人たちです。かれらがすることは、アゴラに行って、都市国家の運営(植民都市の建設や戦争のこと)について喧々ガクガクの議論をすることと、そうした議論の前や後にアゴラのあちこちで理屈っぽい議論を戦わせる/楽しむことです。なんせ「不労階層」ですから、時間はたっぷりあります。そんなコンテクストでソフィストが登場し、やがてソクラテス「革命」に至るわけです。
 ここで注意。ソクラテスあたりまでは、哲学といっても、書記言語活動はまだ普及していませんでした。実際、ソクラテスは書いた物を残していません。わたしたちがソクラテスを知るのは、プラトンのソクラテス言行録を通してです。
 ソクラテスは簡単にいうと「そもそも〜とはだんだろう」と探究することを一つの重要な言語活動として確立しました。それが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシア哲学の黄金期を作り、西洋哲学の基盤を築いたのです。
3.ギリシア哲学とキリスト教
 一気にローマ帝国の時代に飛びます。380年にキリスト教はローマ帝国の国教となります。当初確固としたキリスト教の教義体系はありませんでした。それを確立したのは、アウグスティヌス(『神の国』22巻、413-426年)です。アウグスティヌスの教義は、超わかりやすく言ってしまうと、プラトンのイデアの部分に神を入れ替えた、プラトン主義の翻案番です。ですので、アウグスティヌスが確立したキリスト教は「民衆のためのプラトン主義」と揶揄されます。これがキリスト教での、神が、世界も、動物も、人もお作りになったという考え方になります。人間も含めて万物は神の創造だということです。
4.人間理性への注目の大きな第一歩 ─ デカルト(17世紀半ば)
 デカルトはいわば人間を神の意思あるいは理性の「出張所」と考えました。「神は、世界創造の仕上げとしてみずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた」となります。一方に、神の理性(Ratio)を反映した世界を貫く理性法則としてのratioがあって、もう一方に、神によって神の似姿として植え付けられた人間のratioがあるという構造です。デカルトは、徹底的な懐疑によって行きついた「私は考える。ゆえに、私は存在する」という命題で、人間理性の実在性を論証によって基礎づけたことで理性主義の扉をあけました。デカルトについては、身体と精神は区別されうるという身-心二元論も注目しておかなければなりません。
5.人間理性を考えるにあたって、神と「縁を切った」カント(18世紀終わり)
 カントは、ある範囲内でのわたしたちの理性的認識の効力を認めること、つまり神の理性の媒介なしにもある範囲内でわたしたちの理性的認識と世界の理性的構造とは一致しうることを主張しようとしました。カントは、わたしたちの純粋な理性的認識の有効範囲を理性そのものの自己批判によって明らかにしようとし、その課題に答えることができたとされています。それが、『純粋理性批判』です。カントは「理論的認識の問題を考えるに場面に神や神の理性を持ち出すのはおかしい」と主張したので、「カントは神様の首を切り落とした(ハイネ)と言われています。
6.デカルトからカントまでのまとめ
 デカルトの『省察』が1641年刊、そしてカントの『純粋理性批判』が1781年刊です。つまり、デカルトからカントに至るのに150年もかかっています。デカルト以前は、人間は神の僕(しもべ)、農夫などは「迷える子羊」だったのだと思います。 つまり、神なしには人間という神秘的な存在が考えられなかったのだと思います。デカルトは、人間の理性を徹底的に「疑って」、「オレら、現に、こうして考えてるやん」というところに強烈なスポットライトを当てた。そして、この「現に考えていること」と世界の構造がどのように関わっているかを徹底的に反省(批判)して、わたしたちが考えること、つまりここでは理性的に認識の有効範囲を画定したのがカントだ、ということになるかと思います。理性の、神から人間への「引っ越し」と譬えてもいいかもしれません。このまとめは、かなりぼくの「推測」が入っています。
7.ドイツ観念論とヘーゲル
 カントの3つの『批判』本から1831年のヘーゲルが没するまでの約半世紀は、ドイツ観念論の時代です。カントの哲学を継承し展開したフィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルが登場します。この時期は、ギリシア哲学に匹敵する哲学のもう一つの黄金時代です。
 カントからヘーゲルに至る重要な経緯は、ぼくのこのエッセイの「タネ本」である『反哲学入門』(木田元)でとてもわかりやすくまとめられていますので、それをそのまま引用して、ヘーゲルまでの番外編①を終えようと思います。

「ドイツ観念論の展開のなかで、カント哲学にあった認識と実践、理論理性と実践理性の二元性が克服されてゆき、それも自由な実践理性寄りのかたちで一元化されてゆきましたので、(カントが論じた─筆者注)カテゴリーも単なる認識のための思考形式にとどまらず、認識をもふくめた主幹の活動一般、つまり宗教的・倫理的・政治的・社会的・芸術的活動などの形式としてかんがえられるようになってゆきました。
 一方、世界の方ももはや単なる自然界としてではなく、歴史的な世界として捉えられるようになります。というのも、フランス革命の基盤となったフランス啓蒙思想や、その強い影響を受けたドイツ啓蒙思想 ─ カント哲学はその所産 ─ が「光」として掲げた理性は、いわば無時間的、無歴史的なもの ─ つまり、古代のギリシア人にあっても、18世紀のフランス人やドイツ人にあっても、まったく同じ理性 ─ と考えられており、フランス革命軍はこれを旗印に、ドイツ人をも封建的圧政から解放してやるんだとドイツに侵入してきた(のですが、ドイツ人の方では、ドイツ民族には中世以来固有の歴史のなかで培われてきた民族的個性があるのだと言ってこれに抵抗しました。いわば世界を歴史的に見はじめていたからです。こうした世界の見方がドイツ・ロマン派の芸術運動の一つの動機にもなりました。シェリングやヘーゲルは、まさしくそうした運動のさなかで自分たちの思想を形成していったのです。
 「理性(Vernunft)」というラテン語のratioの訳語に使われてきた言葉に代えて、生粋のドイツ語である「精神(Geist)」という言葉が愛用されるようになった背後にも、そうした動きがありました。
 こうして、世界は歴史的世界として受けとられ、それに応じて主観の方ももはや個体的な認識主観としてではなく、歴史的世界を形成してゆく民族精神として、いや、さらには世界史を形成する人類の精神として捉えられることになります。(木田『反哲学入門』pp.156-157)

 
  

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