※NJ研究会マンスリー(まぐまぐメルマガ)第57号に掲載された記事です。
『論理学研究』(1900−1901)に代表される初期フッサールと『イデーン』(原題は『純粋現象学および現象学的哲学の構想』、1913)を中心とする中期フッサールの間の1910年に、フッサールは『厳密学としての哲学』という論文を発表しています。この論文は、成熟した中期の思想の出発点を告げるフッサールの「現象学宣言」だと言われています。木田からの孫引きとなりますが、同論文へと繋がる問題意識と当時の悲壮な心境がフッサールの1906年の覚え書によく表れています。
かりに自分を哲学者と言いうるとした場合、わたしが自分自身のためにぜひとも解決しなければならない普遍的な課題をまず第一にあげてみたい。それは理性の批判である。論理的理性と実践理性と価値判断理性一般の批判である。概括的にもせよ理性批判の意味、本質、方法、主要観点を明晰に自覚しなければ、また理性批判の普遍的構想を十分に考え、企画し、論定し、そして基礎づけなかったならば、わたしは真の意味で生きることはできない。(フッサールの1906年9月25日の覚え書)
当時は自然主義と歴史主義が哲学的認識の学的性格に疑いを差し挟んでいたのだが、『厳密学としての哲学』は、現象学による厳密な学的哲学の確立を説くプロパガンダだったと木田は言っています。同論文でフッサールは、自然以外のものは何ものをも認めない自然主義、すべての思想を歴史的状況の所産と見る歴史主義を批判しているそうです。
こうした経験的事実についての一定の仮定の上に立って学の理念を変造したり弱体化したりするこれらの誤った実証主義に対し、いっさいの仮定を排して絶対に明確な端緒から出発する自身の現象学を真の実証主義と呼び、これによってのみ「厳密学としての哲学」の建設が可能になるとフッサールは主張しています。フッサールの大きな自信の根源は「現象学的還元」の発見にあると木田は見ています。現象学的還元についての木田の説明を箇条書きにしてみます。ここで、有名なエポケー(判断停止、あるいは判断保留)も出てきます。
□ 自然的態度の一般的定立
1.「超越論的」という概念は「世界内部的」という概念と対をなす。
2.われわれは、日常的な自然的態度においては、世界の内にさまざまな仕方で表れてくるあらゆる可能な存在者とのかかわりに生きている。そこでは「世界」の存在は素朴に仮定されている。
3.世界は、事情だけでなくさまざまな価値をも含みながら統一的な連関をなすただ一つの世界であり、われわれが出会うすべての事象、さらにはわれわれ自身もこの世界に属するものとして経験されている。
4.このように世界を「あり」と素朴に断定して、「世界内部的」に生きるということが自然的態度の基本的性質である。
5.フッサールは、世界についてのこうした素朴な断定を「自然的態度の一般的定立」と呼んでいる。
□ 自然科学や精神科学と自然的態度の一般的定立
1.自然科学も精神科学も世界内部的存在者を研究対象にし、この一般的定立を共にしている。
2.ゆえに、それらも自然的態度の延長線上にある。
□ 現象学的還元
1.自然的態度は、絶えず積み上げられる日常的経験から生じた一種の習慣に過ぎない。
2.つまり、自然的態度は、世界を「あり」とするあらかじめの仮定を前提にしている。
3.無仮定的であろうとする哲学はこうした仮定に甘んじることはできない。
4.そこで、自然的態度の一般的定立つまり世界の存在についての確信・遂行にストップをかけ、逆に、われわれに直接に与えられる意識体験からいかにしてそのような確信が生じてきたかを見ようとする。
5.それが、エポケー(判断停止あるいは判断保留)による現象学的還元である。
最後にこうした現象学的還元の趣旨・目的を確認しておきます。
□ 現象学的還元の目的
1.エポケーは自然的態度の一般的定立を否定するのではない。単に「括弧にいれ」たり、「スイッチを切っ」たりするのである。
2.だから、エポケーによって主体と世界の間に敷設されている「配線」が消えてなくなるわけではない。ただ、日頃無意識に行っている定立作用の電流を一旦切って、敷設されている配線の具合を反省しようということである。
3.つまり、意識の志向的校正作業の錯綜を解きほぐし、そこからいかにして世界といった意味が形成されてくるかを見きわめようというのが、現象学的還元の目的である。
今回は、大いに木田に依拠して議論をしました。最後に、自身でも確認したメルロ=ポンティによる現象学的還元についての説明を紹介して、今回の結びにしたいと思います。
われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、この運動に参加しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて ─ それどころか逆に、これらの確信こそ哲学の恒常的なテーマなのだ ─ むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものになっており>、それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起してそれをして出現させるためには、われわれはそれらを一次さし控えなければならないからこそ、そうするのである。
次回は、志向性、ノエシスとノエマなどの概念もからめながら現象学というものが何なのかを改めて考えたいと思います。
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