2020年3月15日の毎日新聞書評で、松村氏の『これからの大学』を紹介する記事(https://mainichi.jp/articles/20200315/ddm/015/070/043000c)を読
みました。
松村氏は人類学者でご自身大学の教員です。松村さんの主張のポイントは以下。
1.大学とは、「社会の論理から距離をおいて物事を考える場」
2.知識と知恵を区別する。「知識は誰かの答えであり、答えに至る道のりを追体験して自分なりの考えを導く力が知恵。」
3.後者のプロセスが学び。
4.ゆえに、「考える人」である研究者が教壇に立つことの意義は、常に問いを立てて探究する姿勢・姿を伝えること
さっと読んだところでは、特に最後の「探究する姿を伝えること」の部分などを含めて「うん、そうだそうだ、探究する姿を見せることが大事なんだ!」とうなづき、「ぼくもそうしてる!」と我が意を得たりと思った。しかし…、少し時間が経ってみると、「ん? ぼくは他のことも見せてるなあ」と。そして、もう一度見てみると、松村さんは自身を、あるいは大学教員を、「研究者」と規定している。ここのところは、ぼくと違う!
大学教員は基本は、研究者であり、知の求道者です。そして、そんな「ハードコアな」研究者はぜひいてほしい。しかし、そういうハードコア派だけでなく、研究者的な土台を引き続き探究しながらもその土台のもとに、何らかのモノを開発する人や社会的な実践をする人もいてもいいと思うし、そういう人のそういう姿を見せるのもいいと思う。そういう人は、純粋な研究者や知の求道者ではなく、研究者・知の求道者としては、マイルドで、やや「気まぐれ」つまり領域越境的です。
ハードコアのほうの大学教員は、現代の社会、教育の制度や教育課程や教育の方法等々について「根本的な課題」を指摘することができるでしょう。そして、それを発信したり、学生たちとともにそのあたりについて議論し合うことができるでしょう。しかし、「根本的な課題」を特定したとして、…、じゃあ、その課題を克服するために動くのは誰だ?! 研究者さんは、それは皆さん(大学を卒業後「社会」に出て実際に仕事をする人=現在の学生)です!と言うのでしょう。うーん、このあたり、それでいいんだとも言えるし、それじゃあ、だめでしょうとも言える。
ここで出すのがふさわしいのかどうかわかりませんが、橋下徹さんは、評論家をやめて、政治家に転身しました。そのときに彼が言ったのは「ああだこうだ評論ばかりしていてもだめ。これがいい!こうであるべきだ!と思うんなら、能書きばかり言っていないで、行動を起こすべきだ!」でした。彼の政治姿勢や思想についてはいろいろな見方がありますが、ぼく自身は彼のこの転身を「えらい!!」と拍手喝采しました。
ぼく自身は大学の教員という仕事をしていますが、自身をハードコアな研究者とは規定していません。(気まぐれな?)研究者や知の求道者という面はまあありながらも、むしろ、そういう面と行ったり来たりしながらの教育開発者、教育実践者、教育実践創造者というような感じです。日本語教育学のように、実践の分野に関わる研究領域の場合は、そういう大学教員の姿がふさわしいのではないかと思っています。(というか、それがぼくのスタイル!?)そして、そういう研究者×教育者という「総合的な姿」を学生たちに見てほしいと思っています。穏やかに「戦う」姿勢も!
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2020年3月15日日曜日
2020年3月6日金曜日
教育の企画と教材の制作におけるクリエイティビティ
アニメ・マンガの『鬼滅の刃』が老若男女で人気を博しているそうです。(https://kimetsu.com/anime/)アニメ・マンガ、恐るべし、ですね。こういう作品が出てきて、多くの人々に受け容れられるのを見るにつけ、日本語教育フリークのぼくは、すぐに日本語教育「業界」のことを考えてしまいます。…
これはずっと前から(たぶん日本語教育の仕事を始めた40年前から)思っていたことだが、ことばの真性性(authenticity)を考えると、教材の主要部で提示されるディスコースは一つの作品でなければならないのではないか。まあ、言ってみれば文学作品です。(literary work、英語の“literature”の意味で。ご存じのように英語の“literature”のほうが日本語の「文学」よりも意味が広い!)
そんな感覚の者から言うと、テーマや学習する言語事項を各ユニットや課で区切った教育の企画や教材の制作は、もうそのことだけで「×」となります。上のような感覚で言うと、「よーそんなことしてて、平気でいるなー!」です!
アニメやマンガはいわば大衆文化!?の代表選手であるわけですが、『ワンピース』にしても、以前に人気を博した『進撃の巨人』にしても、今回の『鬼滅の刃』にしても、根本の発想やモチーフがとても優れており、一貫したテーマがあり、おもしろい設定の下に登場人物が登場して「活動」と「相互行為」を展開してモチーフやテーマを具現化しています。発想やモチーフやテーマを構想し、それを各編を通して一貫して展開する制作者の「クリエイティブで超集中的なエネルギー」はたいへんなものです。こうした傑作を創り出す制作者には「頭が下がる」ばかりです。
で、こちら側、つまり日本語教育の側を振り返ってみて、それほどの「クリエイティブで超集中的なエネルギー」を注いで、教育の企画や教材の制作をしているでしょうか。と言うか、上で言ったように、そもそも「教材は一つの(文学的)作品でなければならない」と考えている人はどうも見当たりません。
実は、「直感的に&潜在意識として」そのように感じている人はいるだろうと思いますが、それを堅固な意識としてもって、さらに、そのような感覚で教育の企画や教材の制作に取り組もうとしている人はいないような…。クリエイティブな作品を作ることに大きな困難を感じて、「直感&潜在意識」の段階でたじろいで作品制作に踏み出せないのだと思います。
「手前味噌」、「我田引水」、「自画自賛」、「我田引水」、「唯我独尊」、「武士の矜持」、「快刀乱麻」…???になりますが、表現活動中心の日本語教育の教育企画と教材(NEJ、NIJ)制作を始めるときに、ぼく自身も「たじろぎ」ましたが、「これは、いつか、誰かが、絶対やらなければならない」と自分を鼓舞して、「クリエイティブな作品でありながら、体系的な語学コースの開発」に踏み出しました。アニメやマンガの作家さんに「負けてはいられない」! 映画の作品などを見ても、作品に感動しつつ、そんな負けず嫌い精神!?がやはり出てきます。さらに言うと、論文や本を書くときも、「作家さんに負けてはいられない!」という気持ちがいつもどこかにあります。
言語教育においては「記憶」が重要なわけですが、「どうしたら断片記憶主義に陥らないか」が重要です。「教材を作品として(も)仕立て上げる!」というのは、そのための方略? ぼくの基本的な「志向性」でもあるのだろうと思いますが。
そんな感じで、NEJやNIJや、その教育構想を見ていただけるとうれしいです。ぼくのバフチンなどの本も。(変なヤツですね。)
これはずっと前から(たぶん日本語教育の仕事を始めた40年前から)思っていたことだが、ことばの真性性(authenticity)を考えると、教材の主要部で提示されるディスコースは一つの作品でなければならないのではないか。まあ、言ってみれば文学作品です。(literary work、英語の“literature”の意味で。ご存じのように英語の“literature”のほうが日本語の「文学」よりも意味が広い!)
そんな感覚の者から言うと、テーマや学習する言語事項を各ユニットや課で区切った教育の企画や教材の制作は、もうそのことだけで「×」となります。上のような感覚で言うと、「よーそんなことしてて、平気でいるなー!」です!
アニメやマンガはいわば大衆文化!?の代表選手であるわけですが、『ワンピース』にしても、以前に人気を博した『進撃の巨人』にしても、今回の『鬼滅の刃』にしても、根本の発想やモチーフがとても優れており、一貫したテーマがあり、おもしろい設定の下に登場人物が登場して「活動」と「相互行為」を展開してモチーフやテーマを具現化しています。発想やモチーフやテーマを構想し、それを各編を通して一貫して展開する制作者の「クリエイティブで超集中的なエネルギー」はたいへんなものです。こうした傑作を創り出す制作者には「頭が下がる」ばかりです。
で、こちら側、つまり日本語教育の側を振り返ってみて、それほどの「クリエイティブで超集中的なエネルギー」を注いで、教育の企画や教材の制作をしているでしょうか。と言うか、上で言ったように、そもそも「教材は一つの(文学的)作品でなければならない」と考えている人はどうも見当たりません。
実は、「直感的に&潜在意識として」そのように感じている人はいるだろうと思いますが、それを堅固な意識としてもって、さらに、そのような感覚で教育の企画や教材の制作に取り組もうとしている人はいないような…。クリエイティブな作品を作ることに大きな困難を感じて、「直感&潜在意識」の段階でたじろいで作品制作に踏み出せないのだと思います。
「手前味噌」、「我田引水」、「自画自賛」、「我田引水」、「唯我独尊」、「武士の矜持」、「快刀乱麻」…???になりますが、表現活動中心の日本語教育の教育企画と教材(NEJ、NIJ)制作を始めるときに、ぼく自身も「たじろぎ」ましたが、「これは、いつか、誰かが、絶対やらなければならない」と自分を鼓舞して、「クリエイティブな作品でありながら、体系的な語学コースの開発」に踏み出しました。アニメやマンガの作家さんに「負けてはいられない」! 映画の作品などを見ても、作品に感動しつつ、そんな負けず嫌い精神!?がやはり出てきます。さらに言うと、論文や本を書くときも、「作家さんに負けてはいられない!」という気持ちがいつもどこかにあります。
言語教育においては「記憶」が重要なわけですが、「どうしたら断片記憶主義に陥らないか」が重要です。「教材を作品として(も)仕立て上げる!」というのは、そのための方略? ぼくの基本的な「志向性」でもあるのだろうと思いますが。
そんな感じで、NEJやNIJや、その教育構想を見ていただけるとうれしいです。ぼくのバフチンなどの本も。(変なヤツですね。)
2020年3月2日月曜日
現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話
現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話
第9回からここまで、フッサール現象学の根本のモチーフ、メルロ=ポンティの構造の哲学、そしてハイデガーの世界内存在と、フッサールからハイデガーに至る経緯をたどってきました。今回は、ようやく、世界内存在と言葉(言語)の話になります。
心境(Befindlichkeit)
ハイデガーは、現存在の実存論的構成の議論の中で、基本的な実存範疇の第一として心境(Befindlichkeit)を挙げています。実存範疇としての心境は気分や気持ちとも呼び替えられます。ハイデガーは、心境に基づいて世界の事実が開示されて同時にその事実の中に投げ入れられるものとして現存在の実存の様態を描いています。以下の引用の通りです。
気持ちのなかで現存在はいつもすでに気分的に開示されている。それは、現存在がおのれの存在においてそれへと引き渡されているところの存在者として開示されている。そしてこのことは、とりもなおさず、現存在が実存しつつみずからそれであるべき存在へ引き渡されているということなのである。…この≪とにかくある≫という事実を、われわれはこの存在者の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける。すなわち、現存在は、みずから世界=内=存在としておのれの現を存在するというありさまで、おのれの現のなかへ投げられているのである。…心境のなかで開示された「事実」(Dass)は、世界=内=存在というありさまで存在する存在者の実存論的性格として捉えられなければならない。…現存在という性格をそなえた存在者がおのれの現を存在するのは、それが ─ あからさまであるにせよ、ないにせよ ─ 被投性の心境においておのれを見いだすというありさまにおいてである。心境において、現存在はいつもすでにおのれ自身の前へ連れだされている。(ハイデガー、『存在と時間』上、pp.293-295)
つまり、自身をその発現源として世界を投企する現存在は、翻ってそうした世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられるということです。
では、こうした現存在と言語はどのように関わっているのでしょうか。ハイデガーは、心境と了解(Verstehen)を世界内存在の開示態を構成している基礎的な実存範疇と位置づけ、さらに了解の中には解意(Auslegung)、つまりその意を解する可能性、ハイデガーの言葉では領得する可能性が含意されていると言っています。そして、言語を主題として採り上げる議論を以下のように始めています。
われわれは言明によって、解意の究極的な派生態をあきらかにした。ここではじめて言語を主題として取りあげるのは、この現象がその根を現存在の開示態という実存論的構成のうちにもつものであることを示唆しようとするためである。言語の実存論的=存在論的基礎は話である。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345)
こうした文脈で話(ドイツ語でRede、日本語では話や話すこと)が登場します。ハイデガーは以下のように続けています。
話(Rede)は、心境および了解と、実存論的には同根源的である。了解可能性は、それを領得する解意がおこなわれる以前にも、いつもすでに分節されている。話は了解可能性の分節である。したがって、それはすでに解意や言明の基礎になっているわけである。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345)
そして、話をめぐるそのような事情をさらに以下のように説明しています。
話が ─ 現の了解可能性の分節が ─ 開示態の根源的実存範疇であって、この開示態が第一義的には世界=内=存在によって構成されるのだとすると、話もまた本質上、特有の世界的な存在様相をもっているはずである。すなわち、世界=内=存在の心境的な了解可能性は、おのれを話として語り明かす。了解可能性の意義全体は、発言して言葉(Wort)となる。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.346)
こうした存在と話や言葉と思考の関係は第二次大戦後に刊行され、ハイデガーのもう一つの重要著作として注目された『「ヒューマニズム」について』の冒頭部で改めて定式化されることとなります。ここでは、出版されている翻訳ではなく、より意を汲んで訳出していると見られる木田の訳を紹介します。英語訳も参照しました。
すべてに先だってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくりだしたり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。(『「ヒューマニズム」について』の冒頭部、邦訳ではpp.17-18、ただしここでは木田(1993)のp.202の訳を使用、太字強調は筆者で以下同様)
こうしてハイデガーにおける存在と思考と言葉の関係が明らかになります。「言葉」の部分は、ドイツ語では“Sprache”、英訳では“language”となっているが、“Rede”をも合わせて、ディスコースという用語を用いるのがより適切だろうと思います。思考は現存在の存在への関わりを存在から委ねられたものとして仕上げます。そして、存在は思考の内でディスコースとなって現れます。つまり、現存在の実存はディスコースとして印されるのです。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている、ということです。ここに言うディスコースには、外に出された発話やディスコースとともに、外には出されていない内的な発話も含まれていることは容易に理解できるでしょう。
世界内存在の受動性
木田は、世界内存在のもう一方の特性として受動性を指摘しています。世界内存在の受動性を木田は2つの観点で捉えていますが、ここではその内の一つを採り上げます。
木田によると、ハイデガーの論では、存在という意味での世界は、さしあたっては各自の世界として与えられるものとなります。しかし、そこに含蓄されている意味を遡っていくと、その世界は決して各自の世界に尽きるものではなく、常にその当事者が世界の内で共存している他人への指示を含んでいると言います。以下、木田の文を直接に引用します。
たとえばすべての文化的対象は、その製作者を指示しているし、言語といったシンボルの体系は、それによって意志を伝達し合う他人を予想する。というよりも、道具連関にせよ社会構造にせよ言語体系にせよ、すべてある程度までは既成のシンボルの体系としてわれわれに与えられるわけであり、それを構成した他の主観への指示を含んでいる。したがって、世界は、われわれに<成りきたった共同的な世界>として与えられているわけであり、われわれはそこに入りこんで、その共同的な経験を摂取し、それについて自分なりの新しい経験を重ねていくほかない。まずはこういった意味で、世界はつねにすでにそこにあるものとして受動的に与えられる。(木田, 1991, pp.86-87)
ここで言われている「〜を指示している」や「〜への指示を含んでいる」というのは、「〜の存在を含意している」という意味です。そして、上の一節で言われていることは、世界内存在という現存在の実存というのは、取りも直さず社会文化史的な現象だということです。
次回の第12回がいよいよ最後となります。フッサール現象学の系譜に位置づけられるハイデガー哲学の帰結と、同哲学からの 人間科学への示唆について論じる予定です。
心境(Befindlichkeit)
ハイデガーは、現存在の実存論的構成の議論の中で、基本的な実存範疇の第一として心境(Befindlichkeit)を挙げています。実存範疇としての心境は気分や気持ちとも呼び替えられます。ハイデガーは、心境に基づいて世界の事実が開示されて同時にその事実の中に投げ入れられるものとして現存在の実存の様態を描いています。以下の引用の通りです。
気持ちのなかで現存在はいつもすでに気分的に開示されている。それは、現存在がおのれの存在においてそれへと引き渡されているところの存在者として開示されている。そしてこのことは、とりもなおさず、現存在が実存しつつみずからそれであるべき存在へ引き渡されているということなのである。…この≪とにかくある≫という事実を、われわれはこの存在者の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける。すなわち、現存在は、みずから世界=内=存在としておのれの現を存在するというありさまで、おのれの現のなかへ投げられているのである。…心境のなかで開示された「事実」(Dass)は、世界=内=存在というありさまで存在する存在者の実存論的性格として捉えられなければならない。…現存在という性格をそなえた存在者がおのれの現を存在するのは、それが ─ あからさまであるにせよ、ないにせよ ─ 被投性の心境においておのれを見いだすというありさまにおいてである。心境において、現存在はいつもすでにおのれ自身の前へ連れだされている。(ハイデガー、『存在と時間』上、pp.293-295)
つまり、自身をその発現源として世界を投企する現存在は、翻ってそうした世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられるということです。
では、こうした現存在と言語はどのように関わっているのでしょうか。ハイデガーは、心境と了解(Verstehen)を世界内存在の開示態を構成している基礎的な実存範疇と位置づけ、さらに了解の中には解意(Auslegung)、つまりその意を解する可能性、ハイデガーの言葉では領得する可能性が含意されていると言っています。そして、言語を主題として採り上げる議論を以下のように始めています。
われわれは言明によって、解意の究極的な派生態をあきらかにした。ここではじめて言語を主題として取りあげるのは、この現象がその根を現存在の開示態という実存論的構成のうちにもつものであることを示唆しようとするためである。言語の実存論的=存在論的基礎は話である。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345)
こうした文脈で話(ドイツ語でRede、日本語では話や話すこと)が登場します。ハイデガーは以下のように続けています。
話(Rede)は、心境および了解と、実存論的には同根源的である。了解可能性は、それを領得する解意がおこなわれる以前にも、いつもすでに分節されている。話は了解可能性の分節である。したがって、それはすでに解意や言明の基礎になっているわけである。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345)
そして、話をめぐるそのような事情をさらに以下のように説明しています。
話が ─ 現の了解可能性の分節が ─ 開示態の根源的実存範疇であって、この開示態が第一義的には世界=内=存在によって構成されるのだとすると、話もまた本質上、特有の世界的な存在様相をもっているはずである。すなわち、世界=内=存在の心境的な了解可能性は、おのれを話として語り明かす。了解可能性の意義全体は、発言して言葉(Wort)となる。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.346)
こうした存在と話や言葉と思考の関係は第二次大戦後に刊行され、ハイデガーのもう一つの重要著作として注目された『「ヒューマニズム」について』の冒頭部で改めて定式化されることとなります。ここでは、出版されている翻訳ではなく、より意を汲んで訳出していると見られる木田の訳を紹介します。英語訳も参照しました。
すべてに先だってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくりだしたり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。(『「ヒューマニズム」について』の冒頭部、邦訳ではpp.17-18、ただしここでは木田(1993)のp.202の訳を使用、太字強調は筆者で以下同様)
こうしてハイデガーにおける存在と思考と言葉の関係が明らかになります。「言葉」の部分は、ドイツ語では“Sprache”、英訳では“language”となっているが、“Rede”をも合わせて、ディスコースという用語を用いるのがより適切だろうと思います。思考は現存在の存在への関わりを存在から委ねられたものとして仕上げます。そして、存在は思考の内でディスコースとなって現れます。つまり、現存在の実存はディスコースとして印されるのです。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている、ということです。ここに言うディスコースには、外に出された発話やディスコースとともに、外には出されていない内的な発話も含まれていることは容易に理解できるでしょう。
世界内存在の受動性
木田は、世界内存在のもう一方の特性として受動性を指摘しています。世界内存在の受動性を木田は2つの観点で捉えていますが、ここではその内の一つを採り上げます。
木田によると、ハイデガーの論では、存在という意味での世界は、さしあたっては各自の世界として与えられるものとなります。しかし、そこに含蓄されている意味を遡っていくと、その世界は決して各自の世界に尽きるものではなく、常にその当事者が世界の内で共存している他人への指示を含んでいると言います。以下、木田の文を直接に引用します。
たとえばすべての文化的対象は、その製作者を指示しているし、言語といったシンボルの体系は、それによって意志を伝達し合う他人を予想する。というよりも、道具連関にせよ社会構造にせよ言語体系にせよ、すべてある程度までは既成のシンボルの体系としてわれわれに与えられるわけであり、それを構成した他の主観への指示を含んでいる。したがって、世界は、われわれに<成りきたった共同的な世界>として与えられているわけであり、われわれはそこに入りこんで、その共同的な経験を摂取し、それについて自分なりの新しい経験を重ねていくほかない。まずはこういった意味で、世界はつねにすでにそこにあるものとして受動的に与えられる。(木田, 1991, pp.86-87)
ここで言われている「〜を指示している」や「〜への指示を含んでいる」というのは、「〜の存在を含意している」という意味です。そして、上の一節で言われていることは、世界内存在という現存在の実存というのは、取りも直さず社会文化史的な現象だということです。
次回の第12回がいよいよ最後となります。フッサール現象学の系譜に位置づけられるハイデガー哲学の帰結と、同哲学からの 人間科学への示唆について論じる予定です。
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