2020年3月2日月曜日

現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話

現象学から人間科学へ⑪ ─ 世界内存在と話
 
第9回からここまで、フッサール現象学の根本のモチーフ、メルロ=ポンティの構造の哲学、そしてハイデガーの世界内存在と、フッサールからハイデガーに至る経緯をたどってきました。今回は、ようやく、世界内存在と言葉(言語)の話になります。
心境Befindlichkeit
 ハイデガーは、現存在の実存論的構成の議論の中で、基本的な実存範疇の第一として心境(Befindlichkeit)を挙げています。実存範疇としての心境は気分や気持ちとも呼び替えられます。ハイデガーは、心境に基づいて世界の事実が開示されて同時にその事実の中に投げ入れられるものとして現存在の実存の様態を描いています。以下の引用の通りです。
  気持ちのなかで現存在はいつもすでに気分的に開示されている。それは、現存在がおのれの存在においてそれへと引き渡されているところの存在者として開示されている。そしてこのことは、とりもなおさず、現存在が実存しつつみずからそれであるべき存在へ引き渡されているということなのである。…この≪とにかくある≫という事実を、われわれはこの存在者の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける。すなわち、現存在は、みずから世界==存在としておのれの現を存在するというありさまで、おのれの現のなかへ投げられているのである。…心境のなかで開示された「事実」(Dass)は、世界==存在というありさまで存在する存在者の実存論的性格として捉えられなければならない。…現存在という性格をそなえた存在者がおのれの現を存在するのは、それが  あからさまであるにせよ、ないにせよ  被投性の心境においておのれを見いだすというありさまにおいてである。心境において、現存在はいつもすでにおのれ自身の前へ連れだされている。(ハイデガー、『存在と時間』上、pp.293-295 
 つまり、自身をその発現源として世界を投企する現存在は、翻ってそうした世界内存在として「そこ」に存在するという様態で「そこ」に投げ入れられるということです
 では、こうした現存在と言語はどのように関わっているのでしょうか。ハイデガーは、心境了解Verstehen)を世界内存在の開示態を構成している基礎的な実存範疇と位置づけ、さらに了解の中には解意Auslegung)、つまりその意を解する可能性、ハイデガーの言葉では領得する可能性が含意されていると言っています。そして、言語を主題として採り上げる議論を以下のように始めています。
  われわれは言明によって、解意の究極的な派生態をあきらかにした。ここではじめて言語を主題として取りあげるのは、この現象がその根を現存在の開示態という実存論的構成のうちにもつものであることを示唆しようとするためである。言語の実存論的=存在論的基礎は話である。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345
  こうした文脈で話(ドイツ語でRede、日本語では話や話すこと)が登場します。ハイデガーは以下のように続けています。
  話(Rede)は、心境および了解と、実存論的には同根源的である。了解可能性は、それを領得する解意がおこなわれる以前にも、いつもすでに分節されている。話は了解可能性の分節である。したがって、それはすでに解意や言明の基礎になっているわけである。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.345
 そして、話をめぐるそのような事情をさらに以下のように説明しています。
  話が  現の了解可能性の分節が  開示態の根源的実存範疇であって、この開示態が第一義的には世界==存在によって構成されるのだとすると、話もまた本質上、特有の世界的な存在様相をもっているはずである。すなわち、世界==存在の心境的な了解可能性は、おのれを話として語り明かす。了解可能性の意義全体は、発言して言葉(Wort)となる。(ハイデガー、『存在と時間』上、p.346
  こうした存在と話や言葉と思考の関係は第二次大戦後に刊行され、ハイデガーのもう一つの重要著作として注目された『「ヒューマニズム」について』の冒頭部で改めて定式化されることとなります。ここでは、出版されている翻訳ではなく、より意を汲んで訳出していると見られる木田の訳を紹介します。英語訳も参照しました。
 すべてに先だってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくりだしたり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。(『「ヒューマニズム」について』の冒頭部、邦訳ではpp.17-18、ただしここでは木田(1993)のp.202の訳を使用、太字強調は筆者で以下同様)
 こうしてハイデガーにおける存在と思考と言葉の関係が明らかになります。「言葉」の部分は、ドイツ語では“Sprache”、英訳では“language”となっているが、“Rede”をも合わせて、ディスコースという用語を用いるのがより適切だろうと思います。思考は現存在の存在への関わりを存在から委ねられたものとして仕上げます。そして、存在は思考の内でディスコースとなって現れます。つまり、現存在の実存はディスコースとして印されるのです。そして、人間はそのようなディスコースという棲み処に住みついている、ということです。ここに言うディスコースには、外に出された発話やディスコースとともに、外には出されていない内的な発話も含まれていることは容易に理解できるでしょう。
 世界内存在の受動性
 木田は、世界内存在のもう一方の特性として受動性を指摘しています。世界内存在の受動性を木田は2つの観点で捉えていますが、ここではその内の一つを採り上げます。
 木田によると、ハイデガーの論では、存在という意味での世界は、さしあたっては各自の世界として与えられるものとなります。しかし、そこに含蓄されている意味を遡っていくと、その世界は決して各自の世界に尽きるものではなく、常にその当事者が世界の内で共存している他人への指示を含んでいると言います。以下、木田の文を直接に引用します。
  たとえばすべての文化的対象は、その製作者を指示しているし、言語といったシンボルの体系は、それによって意志を伝達し合う他人を予想する。というよりも、道具連関にせよ社会構造にせよ言語体系にせよ、すべてある程度までは既成のシンボルの体系としてわれわれに与えられるわけであり、それを構成した他の主観への指示を含んでいる。したがって、世界は、われわれに<成りきたった共同的な世界>として与えられているわけであり、われわれはそこに入りこんで、その共同的な経験を摂取し、それについて自分なりの新しい経験を重ねていくほかない。まずはこういった意味で、世界はつねにすでにそこにあるものとして受動的に与えられる。(木田, 1991, pp.86-87
  ここで言われている「〜を指示している」や「〜への指示を含んでいる」というのは、「〜の存在を含意している」という意味です。そして、上の一節で言われていることは、世界内存在という現存在の実存というのは、取りも直さず社会文化史的な現象だということです。
 次回の第12回がいよいよ最後となります。フッサール現象学の系譜に位置づけられるハイデガー哲学の帰結と、同哲学からの 人間科学への示唆について論じる予定です。

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