アニメ・マンガの『鬼滅の刃』が老若男女で人気を博しているそうです。(https://kimetsu.com/anime/)アニメ・マンガ、恐るべし、ですね。こういう作品が出てきて、多くの人々に受け容れられるのを見るにつけ、日本語教育フリークのぼくは、すぐに日本語教育「業界」のことを考えてしまいます。…
これはずっと前から(たぶん日本語教育の仕事を始めた40年前から)思っていたことだが、ことばの真性性(authenticity)を考えると、教材の主要部で提示されるディスコースは一つの作品でなければならないのではないか。まあ、言ってみれば文学作品です。(literary work、英語の“literature”の意味で。ご存じのように英語の“literature”のほうが日本語の「文学」よりも意味が広い!)
そんな感覚の者から言うと、テーマや学習する言語事項を各ユニットや課で区切った教育の企画や教材の制作は、もうそのことだけで「×」となります。上のような感覚で言うと、「よーそんなことしてて、平気でいるなー!」です!
アニメやマンガはいわば大衆文化!?の代表選手であるわけですが、『ワンピース』にしても、以前に人気を博した『進撃の巨人』にしても、今回の『鬼滅の刃』にしても、根本の発想やモチーフがとても優れており、一貫したテーマがあり、おもしろい設定の下に登場人物が登場して「活動」と「相互行為」を展開してモチーフやテーマを具現化しています。発想やモチーフやテーマを構想し、それを各編を通して一貫して展開する制作者の「クリエイティブで超集中的なエネルギー」はたいへんなものです。こうした傑作を創り出す制作者には「頭が下がる」ばかりです。
で、こちら側、つまり日本語教育の側を振り返ってみて、それほどの「クリエイティブで超集中的なエネルギー」を注いで、教育の企画や教材の制作をしているでしょうか。と言うか、上で言ったように、そもそも「教材は一つの(文学的)作品でなければならない」と考えている人はどうも見当たりません。
実は、「直感的に&潜在意識として」そのように感じている人はいるだろうと思いますが、それを堅固な意識としてもって、さらに、そのような感覚で教育の企画や教材の制作に取り組もうとしている人はいないような…。クリエイティブな作品を作ることに大きな困難を感じて、「直感&潜在意識」の段階でたじろいで作品制作に踏み出せないのだと思います。
「手前味噌」、「我田引水」、「自画自賛」、「我田引水」、「唯我独尊」、「武士の矜持」、「快刀乱麻」…???になりますが、表現活動中心の日本語教育の教育企画と教材(NEJ、NIJ)制作を始めるときに、ぼく自身も「たじろぎ」ましたが、「これは、いつか、誰かが、絶対やらなければならない」と自分を鼓舞して、「クリエイティブな作品でありながら、体系的な語学コースの開発」に踏み出しました。アニメやマンガの作家さんに「負けてはいられない」! 映画の作品などを見ても、作品に感動しつつ、そんな負けず嫌い精神!?がやはり出てきます。さらに言うと、論文や本を書くときも、「作家さんに負けてはいられない!」という気持ちがいつもどこかにあります。
言語教育においては「記憶」が重要なわけですが、「どうしたら断片記憶主義に陥らないか」が重要です。「教材を作品として(も)仕立て上げる!」というのは、そのための方略? ぼくの基本的な「志向性」でもあるのだろうと思いますが。
そんな感じで、NEJやNIJや、その教育構想を見ていただけるとうれしいです。ぼくのバフチンなどの本も。(変なヤツですね。)
同感大いにあります。ただ、日本アニメを買いかぶっている面がいくぶんかあるのではないか。。?当方、いくつかの日本アニメ、大いに全世界に流行ったものですが、不快な印象しかありません。実は製作側も、時間成約の中で無理に作ってる部分があることを知っており、不自然な筋であることは厭えません。 全体を広く見るとき、もっと文学的に気持ち良い、心豊かになる作品があってもいいんじゃないか?それが当方の意見です。それを持って日本アニメと銘打てれば、まさに世界に堂々と日本と日本語をアッピールできるものと思うわけです。
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