「日本語教育能力の判定に関する報告(案)に対するパブコメが一昨日(12月13日(金)に締切となりました。一方、来年5月の日本語教育学会の総合テーマは「日本語教育学の輪郭を描く」です。
この間、日本語教育学って何なのだろう? 日本語教育学は過去40年の間に発展したのだろうか? これから発展するのだろうか? どのように発展する必要があるのだろうか? などについて考えました。そんな話をします。
1.現行の検定試験の内容は何か
現行の検討試験や教員養成・教師養成課程の内容は、平成12年度の「日本語教育のための教員養成について」(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/nihongokyoiku_suishin/nihongokyoiku_yosei/pdf/nihongokyoiku_yosei.pdf)を基本として引き継いでいます。つまり、約20年前のままです。
この内容は、約20年前の日本語教育学の状況を参考にして教員として必要と考えられる事項が「社会・文化・地域」「言語と社会」「言語と心理」「言語と教育」「言語」の5つの分野、16の下位区分にわたって列挙されたものです。それらの事項の後ろにはさらにキーワードというものが列挙されています。上掲「教員養成について」のpp.11−12。(その後文化庁では、そうした事項の列挙では養成課程にバラツキがあるということで、2018年3月に必須の50項目というものを絞り込んで、現在はその50項目と教育実習が含まれることが養成課程の「基準」となっています。)
2.20年前に日本語教育学の体系はあったか
平成12年の「教員養成について」が出たときに、日本語教育学の体系はあったでしょうか。残念ながらありませんでした。逆に、その「教員養成について」を検討するときに、日本語教育学の体系のようなものがいわばはじめて意識されたと言わなければなりません。しかし、上記のような状況で、日本語教育学を体系づけることはできませんでした。
3.日本語教育学と「教員養成について」の内容との関係
20年前の「教員養成について」に盛り込まれている内容は、当時の日本語教育関係の研究者の(a)「守備範囲」と、(b)「守備範囲」ではないが「目に届いていた」部分です。逆に言うと、当時の日本語教育関係の研究者の「目に届いていない」内容や領域はそこには入っていません。
4.日本語教育学の輪郭について
新たに日本語教育学の輪郭を描くにあたっては、これまでの(a)「守備範囲」と(b)「守備範囲」ではないが「目に届いている」部分を参考にしながら、(c)として、(c)現在発展中の重要分野も含めながら、研究分野と研究テーマを包括できる体系を構築しなければなりません。そして、学の体系というのであるから、(ア)研究領域、(イ)研究系、(ウ)研究分野、(エ)研究テーマというような階層構造での全体の整理が必要です。
5.日本語教育学の体系の構築をめぐる観点
4のような認識の下にいくつかの観点を提示したいと思います。
(1) 日本語教育は第二言語教育の一分野である。ゆえに、個別の目標言語を超越した応用言語学や第二言語習得研究は、日本語学や社会言語学や特殊目的日本語教育論などとは独立した、そして第一の研究領域として第二言語教育学領域が設定されなければならない。
(2) 日本語教育は「日本語×教育」なので、第二の研究領域として、「日本語教育基礎領域」を設定し、その下に、日本語学系、教育学系、心理学系などの関連の系を配置するのが適当である。
(3) 上のように第二言語教育学領域と日本語教育基礎領域を設定した上で、日本語教育という現象をめぐる研究分野として日本語教育事情領域を、また、日本語教育の実践を研究する分野として日本語教育実践領域を、それぞれ設定するのが適当である。
(4) 4で(c)として言及した現在発展中の重要分野として、言語理論学が必要である。これまでの日本語教育学は、そもそも言語とはどのようなものであるか、つまり、言語と人間、言語と社会・文化、言語と認知、言語と知性等のそもそもの関係を考究することなしに日本語教育の学や日本語教育の実践に臨んできた。そのために、言語は単に実体として捉えられ、シンボルとして厳密に記号学的に把握されることがなかった。このことが、これまでの日本語学等への偏った依拠と相俟って、日本語教育を即物としての言語事項を扱う営みに矮小化してしまっている。教育実践に追従するのではなく、教育実践により広く深遠な視野を提供すべき日本語教育学としては、そうした言語理論学がぜひとも必要である。
以上のような観点を踏まえて、日本語教育学の体系(私案)を作成しました。コメントなどお寄せいただければ。
https://www.dropbox.com/s/pm1kbv87p0kngge/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB.pdf?dl=0
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2019年12月15日日曜日
2019年9月8日日曜日
日本語教育者=日本語教育という仕事を理知的に捉え、理知的に考え場合によっては探究もし、実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする人
昨日、土曜の会(@関学梅田キャンパス、doyounokai@gmail.com)がありました。いつものようにすばらしく教養深く、理知的で、真摯な議論が展開されました。そんな中で、わたし及びこの仲間たちは「何者になる」ことを目指し、「何者が増える」ことを切望しているのだろうかと考えました。
従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)
ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?
従来からぼくは、「日本語教師」という言葉は避けて、「日本語教育者」という言葉を使っています。例えば、ぼく自身のことは「日本語教師」と言うと「収まっていない」感じで、「日本語教育研究者」と言い方をすると日本語教育の実践を傍観している感じになって日本語教育の実践に常に関与しているぼく自身のスタンスを反映しません。そうなると、ぼく自身の、日本語教育の実践とのスタンスと研究的な姿勢と研究の取り組みを包含する呼び方はやはり「日本語教育者」かなあと…。
で、土曜の会に参加している人たちはけっこうぼくと同じオリエンテーションがある人たちだという気がしています。つまり、日本語教育者であったり、そうなることをめざしている感じがします。じゃあ、日本語教育者というのはどんな人か?
日本語教育者は、
(1)日本語教育という仕事を理知的に捉え、
(2)理知的に考え場合によっては探究もし、
(3)実際の実践にあたっては理知的に企画・態勢整備・授業実践をする
人、でしょうか。 で、ご覧のように「理知的」というのがどうもキーのようです。「理知的」というのがキーワードになるのは、業界全体としては「理知的」が不足しているという認識なのでしょう。
そして、このオリエンテーションの基盤にある根本の姿勢は、「いい仕事、誇れる仕事をしたい」ということです。そのためには、当面は?「理知的」を厚くしなければならないという問題意識なのでしょう。
ただし、…。「知性的」と「理知的」はどう違うか?
ぼく自身は、 理知的=知性が豊かで明敏×感性が豊かで鋭い と考えています。言語教育に適正に従事するためには、知性だけではなく、人間や言葉や人間文化や人と人の言葉を仲介とした接触・交流や言語の習得などについての感性も大いに必要だと思います。(感性を磨きあげて言葉にしたものが「野生の知性」?←これ、ぼくの好きな言葉!)
ということで、日本語教育者をめざそう! ということでどうでしょう!?
2018年5月1日火曜日
羅針盤:日本語教育(学)というカイワイ(201805)
ぼくもTwitterをしていて、うちの子(高校生、男子)もTwitterをしているのですが、 Twitterで出くわしたことがありません。そんなことを言うと、うちの子曰く「パパとオ レがいるカイワイは違うから」。カイワイ?? うちの子に聞いてみると、「SNS上で同類の 人たちがうろついている空間」をカイワイと言うそうです。皆さん、知ってた? カイワイというのは、社会学的あるいは人類学的な観点から言って、とてもおもしろい視 点だと思います。「界隈」を新明解で調べてみると「問題になっている場所とその周辺の地 域」となっています。しかし、ネット上では、「場所」はありません。ですので、「その周 辺の地域」もありません。ネット上のカイワイは、エージェントたちが「未確定の」一定 の関心の下に自由意思に基づいてインターアクションを展開することで、その内実や規模 を変化させながら形成し再形成し続ける、インターアクションだけでできている電子世界 上の空間です。そして、これもうちの子曰くですが、うちの子がうろうろしているカイワ イにいるエージェントたちは、現実世界での自己やアイデンティティを明かすことなく、 簡単に言うとTwitterネームを使って、単なる「興味・関心のエージェント」としてイン ターアクションをしているそうです。(この括弧内は不要→そして、それこそ、現実とは結 びついていない仮想空間でのインターアクションとなり、現実世界における自己と「関連 づけられていない」<←これもIT系の言葉遣い>ので、現実世界の自己<実際に発信をし ている人>はTwitterネームのエージェントの発言について責任を負わないということが いともたやすく可能になります。こうして、発信している人が間違いなくいるのですが、 誰も責任を負わない発言が飛び交う空間ができていくんですね。) さて、カイワイについて。日本語教育(学)なども一つのカイワイですね。それは、ディ スコース実践のインターアクションの空間ですので。そして、特定のカイワイにいるエー ジェントたちは常に「現在として」ある程度共通的な興味・関心を共有しており、またカ イワイの質的な変化や規模的な変化などもありつつ、そのカイワイとしての歴史を有して います。ですので、日本語教育(学)というカイワイにも、(1)「現在として」のある程度 共通的な興味・関心があり、(2)固有の歴史がある、ということになります。 カイワイというのは、あらかじめ規定できるものではなく、また特定の誰かが規定できる ものでもありません。その中のエージェントが絡みあうことであたかも自己制作するよう にできていき、存在し続けるものです。そのような意味でカイワイは社会的現象の機微を 何とも的確に捉えた視点だと思います。LPPで言う実践共同体も実は固定的なものではな く、カイワイです。 で、日本語教育学というカイワイのように、現実世界のカイワイには一応メンバーあるい は外部者あるいはその両者によって了解された名前/看板があります。名前/看板とその内 実の一致・不一致はしばしば問題になります。 ぼくはこれまでずっと日本語教育(学)というカイワイにいたのだと思います。このカイ ワイに「不満」がありながらも、このカイワイがぼくの「ホームグランド」なので離れな いでいます。また、本当は第二言語教育学や応用言語学というようなカイワイがあればう れしいのですが、少なくとも日本にはそういうカイワイはありません。日本語教育(学) というカイワイの近くには、言語文化教育学というカイワイがあるようです。 http://alce.jpあたりです。ぼく自身はそのあたりにも出没しています。 結論。ぼく及びNJ研究会は、日本語教育(学)というカイワイがいいふうに変化するよう に引き続き活動を続けたいと思っています。このカイワイの人々の「『未確定の』一定の 関心」を変えるように。その方向性を示している一つがこのフォーラム・マンスリーで す。
2018年4月22日日曜日
羅針盤:日本語教育学は隆盛?(201703)
ここでは、日本語教育に従事し日本語教育に関わる研究にも従事している人を日本語教育 (学)従事者と呼ぶことにします。 文化というのは本来、「必要」に応じて組織的に発展・展開していくものではありません。 無造作に蔓延る(はびこる)ものです。また、研究というのは本来、特定の問題を解決す るために行われるものではなく、純粋な興味や関心に基づいて自発的に行われ展開するも のです。そのような意味で、研究は「実用」に従属するものではなく、むしろ文化の一領 域です。ですので、研究というのは、元来「蔓延る」ものです。 日本語教育学を含めて実践に関心をおく研究分野は、広く実践上の課題を明らかにしそれ を解決したりベターな方向に改善したりするという実用的なモチベーションに基づいて行 われるものです。しかしながら、日本語教育学の現状はそのようにはなっておらず、むし ろ日本語教育に関わる諸事象・諸現象に関するいろいろな研究の単なる寄せ集めになって いるようです。つまり、日本語教育学はいろいろな立場から日本語教育に関心を持ってい る人によるさまざまな観点や「目のつけどころ」に基づく社会的実践(営み)になってい ます。それには、日本語教育という実践に関心をおいたものから、日本語教育という社会 的事象に関心をおいたものまでさまざまあります。後者については、例えば、日本語教育 政策の研究や日本語教育のイデオロギー性を暴くというような研究や日本語教育史研究で す。そして、広義に「実際の教育の内容や方法に関わる」研究が日本語教育学の中心であ る(べきだ!?)と仮定するなら、現在の日本語教育学の状況はそれを中心とした「学の 体系化」がなされていないのだと思います。学の体系化があってこそ、日本語教育学全体 を俯瞰することができて、自身の研究がその全体のどこにあって、何と関わり、どのよう に実践に貢献できるのか(できないのか)などを知って、安心して研究に発展的に従事す ることができます。従来から日本語教育学の状況はいびつだと思っていましたが、昨今は 別の要素も入り込んでますますいびつになっているように思います。紙幅の関係で、詳し い指摘は省略しますが、皆さんはその辺どう思っていますか。「安心して」「発展的に」 研究活動ができているでしょうか。「No!」であれば、やはりいびつで体系がないというこ とです。 一方で、蔓延ることは本来そんなに悪いことではありません。蔓延る中から純粋な「生成 のエネルギー」を背景としてすばらしいものが産み出されることはフツーにあります。し かし、日本語教育学の現状は、純粋な生成のエネルギーではなく、むしろ「業績をあげな ければ!」という圧力(とそれに押された「不純な動機」?)に基づいて日本語教育学が 蔓延っている気がします。これが上で言った「別の要素」です。そして、「業績をあげな ければ」とばかり考えて、もともと教育の実践に関心を持っていた人でも、(a)本当にその 人自身が関心があって問題意識を持っているテーマに、(b)じっくりと時間とエネルギー をかけて取り組む、ということをしない風潮があるように思います。これでは、日本語教 育学は変に蔓延るばかりで、本当の意味での日本語教育学はいつまでたっても確立されな いでしょう。現在行われている日本語教育に関わるさまざまな研究は、日本語教育(学) 従事者の文化の維持と更新には貢献しています。しかし、現在の動きを「発展」と言える かどうかは微妙です。「いやいや、それでいいんだ!」という意見もあるでしょう。しか し、広義の日本語習得の支援の仕方の改善に、間接にでも、貢献しない日本語教育学はそ の名に値しないのではないでしょうか。日本語教育学者・日本語教育研究者と名乗るので あれば、業績をあげることに精を出すのではなく、何をどのように研究するべきかを真摯 に考えて研究活動を進めるべきなのでは? そうでないと、お為ごかしに引っ張り出され た「学習者」が取り残されるばかりでかわいそう! 業績と「真摯さ」のバランスがむず かしいことはわかりますが、長い目で「真摯さ」を忘れないでほしい!
羅針盤:羅針盤とfacebook(201702)
ものを書くということでは、興ということが重要です。「興に乗る」の興です。興に乗れば、 1000字や2000字のエッセイはすらすら書けます。で、この羅針盤、その「興に乗る」の タイミングに合えばいいのですが、合わないこともあります。そんなときは「何を書こう かなあ」と考えなければならないことになります。 本メルマガの読者の大部分はご存知だろうと思いますが、ぼくは自身のfacebookで仕事 (日本語教育や日本語教育学・第二言語教育学)に関わるエッセイを割合頻繁に発信して います。それは端的に「興に乗った」ときにさっと書いているわけです。そして、「興に乗 っている」分、おもしろい内容になっていると思います。ですので、これからは、時々は、 facebookの記事を紹介するような形でこの羅針盤を書こうと思います。 1月21日発信のfacebookでは、「ディスコースの大洪水と研究者 ─ 新領域開拓のため の『魔物』調伏の旅」というのを書きました。学問や研究というのは、具体的にはたかが ディスコースの実践である。学問や研究の重要部分は、文献つまりディスコースに接しそ れと対話することであり、学問や研究の発信は、過去のディスコースとの対話に基づいて、 時にデータというものも持ち出してそれと照合しながら、新たなディスコースを組織化し てパブリッシュすることです。ただそれだけのことです。しかし、自身の研究に関連する ディスコースは山のように大海のようにあります。その大海あるいは大洪水に飛び込むと 溺れてしまうかもしれません。しかし、研究に従事する者は飛び込まなければなりません。 そして、その大洪水と対峙し、何とかそれと「折り合い」をつけなければならない、そう しないと真の意味で学術的な研究とは言えない、という話です。 これからの研究者が大海の大洪水で溺れないように、針路を示し、荒波の中で溺れない泳 ぎ方を教えてくれるのが先生です。しかしながら、日本語教育学や第二言語教育学は、ま だそれ自身としての海域を持っていないように思います。
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