NEJやNIJの教育企画について論考を書くことはありますが、NEJやNIJのコースデザインと言ったことは(たぶん!)ないと思います。「デザイン」という響きがイヤなのかなあ…。
まずは、教育活動というもののステップを明らかにします。
1.教育の構想
2.教育の企画
3.教材の制作
4.教育の実践
という4つのステップになるかと思います。で、教育の構想はスキップして、教育の企画の話に行きます。
教育を企画するというのは、汎用性のある新しい教育を作って提案するというようなニュアンスです。もちろん企画されたものが新たな教育企画となります。
教育を企画することには、(1)一定の調査と理論的な考究をかけ合わせた検討の結果として特定のゴールを設定すること、(2)そのゴールに至るまでのステップを策定すること、が含まれます。ですから、教育企画の産物は、(1)特定のゴールと、(2)そのゴールに至る行程となる諸ステップ、となります。
本来的に言うと、教育の企画は一つのことで、教材の制作はもう一つの別のことです。しかし、学習者が諸ステップを経て育成される言語技量と、その言語技量に関わる言葉遣いと、その言葉遣いの要素となる言語事項は密接に関連しているし、その3者連関について一定の方向付けをしたい場合は、教育の企画と教材の制作は連動して作業をしたほうがいいです。NJでは、そのようにしました。
このような結果として、一つの汎用性のある教育企画と、一定の汎用性のあるプラットホーム的な教材(学習と教授のためのリソース)ができました。自己表現の基礎日本語教育の企画とNEJ、テーマ表現の中級日本語教育の企画とNIJです。あわせて、表現活動中心の日本語教育の企画となります。
これまで、「表現活動中心の」という言い方をしてきましたが、主体を中心に据えて、「表現主体を育成する」日本語教育と言ってもいいと思います。
ということで、特定の文脈にある特定の学習者に対するコースを作ったのではなく、新たな種類の汎用的な教育のプランを作って提案したので、コースデザインではなく、教育企画となります。
冒頭で言ったように、「デザイン」という響きがどうも好きではありません。「デザイン」と言った場合に、即興の世界である教育実践を実際にする教師が「デザイン」に従属するような感じがするのがイヤなのでしょう。教育企画の場合は、教師とそして学習者も上の(1)と(2)には「拘束」されます。教材のほうは基本のプラットホームとして有用であろうと教材制作者は考えていて、一応それを最初の踏み台にして学習と教育の活動を展開するのが「表現活動中心」あるいは「表現主体育成」の日本語教育が有効に展開できると思います。
結論として、
学習者と教師が協働して、(2)の各ステップをクリアしてください、そして、順調に(1)を達成してください、というのが教育企画の根幹です。
日本語教育、日本語教育学、第二言語教育学、言語心理学などについて書いています。 □以下のラベルは連載記事です。→ ・基礎日本語教育の授業実践を考える ・言語についてのオートポイエーシスの視点 ・現象学から人間科学へ ・哲学のタネ明かしと対話原理 ・日本語教育実践の再生 ─ NEJとNIJ
2019年3月17日日曜日
2019年3月12日火曜日
理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しに基づく教育の創造
3月9日・10日の両日、早稲田で開催されたALCEに行ってきました。そして、いろいろな話を聞きながらふと考えたこと。研究と実践の関係、理論と研究の関係、理論と実践の関係についてです。
最近は「実践に役に立つ研究を!」という声をあまり聞かなくなった気がします。「実践に役に立つ」とかツベコベ言っていないで、とにかく研究をし、研究の成果をあげようという風潮?(←まあ、就職のためとか研究業績のためとかいう事情でしかたがないか) その一方で、「研究の基盤となる理論」とか「実践の基盤となる理論」という言葉をしばしば耳にするように思います。研究の基盤となる理論については前号の羅針盤で書きましたので、ここでは、「実践の基盤となる理論」について書きます。
「実践の基盤となる理論」と聞くと、初聞は「うん、それは必要!」と思います。しかし、よく考えてみると「うん? ちょっと違うかな?」と思います。第二言語の教育で「実践の基盤となる理論」というと、第二言語の習得についての理論となります。そして、それに関しては、入力仮説、産出仮説、インターアクション仮説が提出され、比較的最近は(と言っても、1992年ですが)、言語促進相互行為仮説(Scarcella and Oxford, 1992)が提出されています。(いずれの仮説も、文型・文法積み上げ方式を端っから相手にしていないことは注目しておいてください。) この4つの中では、後発の言語促進相互行為仮説が前3者を包摂した上で、Scarcella and Oxfordの言うには、ヴィゴツキーの最近接発達の領域の視点に立つ仮説(この点についてはぼくは「要注意!」と言い続けています!)です。そして、現在はそれが最も有力な仮説だと言っていいでしょう。言語促進相互行為仮説は「入力を受ける言語活動従事も習得促進のために重要、産出をする言語活動従事も重要、相互行為従事も重要。しかし、いずれの場合も必要な時に必要な援助が与えられる形での言語活動従事でなければ言語促進的にならない」という仮説で、最後の一文に強調点があります。この仮説は理にかなっていると思いませんか。ただ…。
言語促進相互行為仮説の重要ポイントを箇条書きにすると以下の2つです。
(1) 言語促進相互行為は「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」でなければならない。
(2) (1)のような言語活動従事状況で必要なときに必要で適切な支援をしなければならない。
これを教育企画と授業実践の方法に「翻案」すると、次のようになります。
(a) 言語発達の経路として想定されるものをカリキュラムの行程として計画しろ。
(b) (a)の行程の上で行われる具体的な授業での個々の活動も「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」にしろ。
(c) (b)の只中で教師は、必要なときに必要で適切な支援をしろ。
(d) 言語活動は全体的(wholistic)なものなので、文法や語法、語彙、音声、さらには社会言語的な側面なども含めて、さまざまな種類の支援をしろ。
(a)から(d)、とても理にかなっていると思いませんか。で!…、理論はこれでおしまいです。そして、続くお話は2つ。
1.わたしたちは何に基づいて「理にかなっている」と感じるのか。
2.ここから先は、何が必要か。
です。1の答えは、第二言語習得者としての自身の直感、第二言語教育者としての経験に基づく直感でしょう。これを、ここでは野生の直感と言います。次は2です。
2でもやはりそのような理論と重なった野生の直感が必要です。しかし、教育企画、つまり上の(a)に関して言うと、むしろ理論と重なった論理に基づく見通しが重要になります。端的に言うと、教育企画をするにあたっては、野生の直感を働かせながらの論理に基づく見通しが重要になるということです。そして、この(a)の部分をやり遂げないと、後続の(b)から(d)はそもそも成り立たないということになります。
ですから、日本語教育の革新のためのボトルネックは、(a)の部分を「突破」できるかどうかです。理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しを働かせながら。
このように「実践の基盤となる理論」は、野生の直感と論理に基づく見通しに媒介されてこそ、実践に繋がることができるのです。理論と実践は直接に繋がることはできません。
草莽と有象無象
みなさんは草莽と有象無象の違いがわかるでしょうか。まずは草莽から。
ウィキペディアによると、草莽というのは、「民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人(草莽之臣)」と説明されています。取りあえずは、それくらいでいいでしょう。次の有象無象は、kotobankによると「取るに足りない種々雑多な人々。多く集まったつまらない連中。有象無象 の輩(やから)」となっています。それで、草莽と有象無象の違いは何でしょう? 端的に草莽は教養層の人たちです。教養層の人たちだけど、現在権力の地位に就いていない在野の人のことです。それに対し、有象無象は、端っから軽蔑的な視線が注がれていて、ワイワイうるさく言う/妙な主張をする雑多な人々というような感じです。
学術研究の文脈で言うと、「主流」の人たちと同じくらいの文化資本(ブルデュー)を背景として高度な教育を受けた人で、現在「主流」にない人たちで現在の「主流」に対してある種「オレたちにも物を言わせろ/主張させろ」と言っている人たちがいわば草莽です。草莽の人たちは「主流」の人たちと同じくらい手の込んだディスコースによる議論が好きです。そして、議論が長く、実用的なものを何も生まなくても平気です。どうかすると、議論そのものを楽しんでいるのではないか、この人たちにとっては議論することそのものが目的ではないのかとさせ思わせます。「主流」の人も草莽の人も、野良に出てせっせと働くとか、何かを着実に作ることこそが、人が生きることであるという感覚をずっと前の代から(祖父母の代、曾祖父母の代あるいはもっと前から)「免れて」いて、本を読むことや手の込んだ言葉で議論することが普通に生活の一部になっている人です。簡単に言うと、教養層です。草莽の人たちは、実は自分たちは「主流」の人たちと広くは「同じ穴のムジナ」であることを自覚しなければなりません。
それに対し、世の中には有象無象の人もたくさんいます。そして、有象無象の中から高度なリテラシーと知識を身につけて、「論壇」に登場する人がいます。ブルデューは、リセに入ったときに、自身が育った文化・教養環境と他のクラスメートのそれとの格差を強く感じたそうです。ブルディーの批判的な社会学の根底には、そのような教養層と自身との間の違和感があります(ブルデューの『自己分析』から)。そんなブルデューにとっては、自身が身につけた高度なリテラシーと知識は、教養層が「自分たち圏」として形成している世界を暴くためのツールでありメディアだったのではないかと思います。ブルデューを有象無象出身者に入れるのが適当かどうかはよくわかりませんが、高度なリテラシーを身につけて「論壇」に登場した有象無象出身の人たちには、そのような違和感があると思います。そして、教養層にとって「空気」のような高度なリテラシーが、有象無象出身の人にとっては、野良仕事や物作りの場合の農具や道具と同じく、言語活動を通して仕事をするための道具=ツールに見えています。
教養層によって維持し発展させられる教養や学術研究は、それが重要であるかどうかを議論する前に、自分たちの「文化圏」を形成しているという冷静な自覚が教養層には必要だと思いますし、「野良や作業場」(教育現場や看護の現場などの実践の場)でせっせと働いている人たちの仕事や暮らしに少しでも役に立とう、役に立っていないのは申し訳ないという感覚が必要なのではないかと思います。(←安藤昌益の農本主義的な発想です) そうでないと、汗水垂らして毎日働いている「庶民」から見ると、ただ「こぎれいな服を着て、しゃべったり物を書いたりして、いいお給料をもらっている人」に見えるのではないでしょうか。また、「論壇」でとりとめなく延々と議論が続くと、有象無象出身の人は、しゃべってばかりいないで「野良や作業場」での仕事に役に立つ成果を少しでも出そうよという気持ちになります。
こんなふうに思っているのはぼくだけ? 他にもいるよね!
2019年3月1日金曜日
「あいつ、年下のくせに、なまいきだね」は日本語ネイティブにはわかる!?
この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー2019年3月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。
わたしはFM京都αステーションのファンで、車に乗ったときはいつも聞いています。そして、朝の番組は素敵な低音の素晴らしく落ち着いた話しぶりの佐藤弘樹さんがDJをしています。佐藤さんは英語が素晴らしくできるようで、京都外国語大学の講師もしていらっしゃって、同番組でワンポイント・イングリッシュというコーナーをいつもやっていらっしゃいます。「こんなの英語で何と言うのだろう?」というような話です。ワンポイント・イングリッシュで取り上げられる表現はいずれも英語で表現するのはむずかしいです。そして、自分たちの(1)生活習慣に基づいた上で、(2)日本語で考えて、そして(3)日本語にした上でそれを英語にしようとする、(悪い!)習慣がある「英語が苦手な」英語学習者たちには「なるほど、だからそれを英語で言うのがむずかしいのかあ」と手を打って思わせるものばかりです。しかし!! これってどうなの? そういう「悪い習慣」をもっている人の「悪い習慣」に基づく「ご質問」に答えて(応えて?)いていいのでしょうか、英語の習得を支援しようとする者として。佐藤さんの番組は佐藤さんのトークもそこで流される音楽も大好きなのですが、このワンポイント・イングリッシュだけはいつも「引っかかり」ます。
そのワンポイント・イングリッシュで先日(実は2月10日)「『あいつ、年下のくせに、生意気だね』は英語でどういうんでしょうね?」というのが出てきました。佐藤さん曰く「 うーん。これは、英語にならないでしょうね。これは、日本語ネイティブならわかりますが、英語話者の人には何を言ってんだかさっぱりわからないでしょうね」。ワンポイント・イングリッシュにはそもそも「引っかかって」いるのですが、この「日本語ネイティブならわかりますが」には大いに引っかかりました。日本語ネイティブと言われるには、この水準までどっぷり『日本』に浸かっていないといけないの? そもそも「あいつ、年下のくせに…」というのはほとんど差別発言です。「あいつ、女のくせに…」とか「あいつ、男のくせに…」というふうにすれば差別発言であることがすぐにわかります。差別発言は、差別発言だからだめ、というものではありません。そのように言われた当事者が不快になることと、そのような不当な「線引き」を維持し助長するから、いけないのです。その根本は、人に対するやさしさや人を一人の人として尊重する態度です。そのようなことを考えると、「あいつ、〜なのに…」という発言は、そもそも人へのやさしさや尊重する態度のない発言となります。それを「これって、英語でどう言うんだろう?」というネタにするというのはどうなんでしょう? そして、実はワンポイント・イングリッシュで取り上げられているネタの多くは、ここまでひどくはないにしても、「土着的な」生活習慣に基づいた発想の日本語がとても多いです。
「外国語を学ぶときは、その言語が話されているところ/人々の文化や習慣も理解しなければならない」とよく言われます。それは、一応その通りではありますが、その基本は、(a)人へのやさしさと尊重する態度と、(b)自身が身につけていることの中で自文化に特殊的な部分を認識し意識化すること、です。(a)のほうは、言語や文化を超えた普遍性のあるものです。そして、(b)の「自身が身につけているもの」には、自文化に特殊な部分と(a)に通じる部分の両方が含まれています。そんなふうに考えると、外国語学習を通してめざすべきは、他者を尊重しよりやさしい器量の広い人間になることであって、相手の文化の特殊性を知っておもしろがることではありません。そして、そうして身につけた態度や器量は、自身の第一言語で外国出身の人と話す場合においても発揮されるものです。
こんなふうに考えると外国語の学習は人格の陶冶ということに大いに資するものなのだと思われます。外国語を勉強しているのにあいかわらず「あいつ、〜なのに…」というような考えをもっている人は、一体、何をその外国語で話し、どのようにその言語の話者と交わろうとしているのでしょうか? 何だか、そんな人は、そもそもの外国語学習の入口にも立っていないのではないかという気がします。
ああ、ちなみに、佐藤弘樹さんのために「弁護」をすると、佐藤さん自身は英語教育の人でもあるわけですが、このワンポイント・イングリッシュについては、教育的な観点ではなく、娯楽的な観点でやっていらっしゃるということだと思います。そして、いわゆる英会話を勉強しているという人のかなりの部分は、真剣に英語ができるようになって何かをしたいということなのではなく、英会話の勉強そのものがそもそも娯楽なのではないかとしばしば思ってしまいます。もちろん、そういうのも「あり」ですが。
土台としての理論と本質探究のための理論的議論
この記事は、NJ研究会フォーラム・マンスリー2019年3月号(https://archives.mag2.com/0001672602/)に掲載されたものです。
「わたしは理論が弱い」と告白する院生が多いです。確かに、データに基づく研究をするにしても、理論は必要ですね。そんな告白を聞くと「ふむふむ」と思うのですが、いつもやがて「うん??」となります。最近、その「うん??」の正体がようやくわかりました。
昨日「子どもの変容に対するフリースクールの役割」という修士論文の発表を聞きました。例のごとく、フリースクールの常勤スタッフ2人に半構造化インタビューをしてという研究でした。そして、ハーシ(1969/2010)のボンド理論を基礎として分析するということでした。ボンド理論というのは、「『人はなぜ社会のルールに従っているのか?』という視点から、逸脱は社会的絆(social bond)が弱体化することから起こる」という理論だそうで、森田次朗(1991)が不登校現象にそれを応用しているということで、森田がまとめている4領域のボンドに基づいて分析したとのことでした。この発表のようにうまい理論を持ってくると分析は相応にすっきりいきますし、その上で、上手に考察の議論を行えば、わりと立派な研究に仕立て上げることができます。
このボンド理論適用の例は、実証研究をする土台としての理論の話となります。つまり、持ってきた理論は分析のための土台です。このような場合は、当該の現象を説明するために適当である可能性のあるいくつかの理論をまずは持ってきて、その中のどれが最も適当かの吟味をした上で、一つの理論を適用しなければなりません。また、そのように持ってきた理論はデータ分析のためのいわば「当面の方便」のようなものなので、方便であることをしっかりと認識して、いわゆる考察を行った上で、さらに、理論そのものの適切性や妥当性を検討する議論も展開しなければなりません。
さて、ぼくが言いたいことは、上のような土台としての理論の利用方法ではありません。院生たちがほしがっている理論はそのような土台としての理論なのかもしれません。しかし、ぼくが興味と関心をもって取り組んでいるのはどうもそういう理論ではないようです。ぼくが取り組んでいるのは、言語や認知や文化(社会)や現実や自己など、及び言語の習得と習得支援の全般にわたる基幹の部分を一貫した形で説明できるような理論のようです。そのような理論がないと、第二言語の習得と習得支援に関していかなる実質のある研究もできないのではないかとぼくは思っているようです。そして、ぼくがやってきた&やっている研究(?)はそういう理論の構築に向けての研究のようです。(実は、あと一歩で「いける!」気がしています。乞うご期待!)
院生の皆さんは、当面自身の研究の「背骨」となる土台としての理論を見つけ出す必要があるだろうと思いますが、一方で、第二言語教育学の本質探究に関わる理論にもぜひ関心をもってほしいと思います。研究の深化のためにも、教育実践(企画・教材制作・授業実践)のためにも。
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