2019年3月12日火曜日

理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しに基づく教育の創造

 3月9日・10日の両日、早稲田で開催されたALCEに行ってきました。そして、いろいろな話を聞きながらふと考えたこと。研究と実践の関係、理論と研究の関係、理論と実践の関係についてです。
 最近は「実践に役に立つ研究を!」という声をあまり聞かなくなった気がします。「実践に役に立つ」とかツベコベ言っていないで、とにかく研究をし、研究の成果をあげようという風潮?(←まあ、就職のためとか研究業績のためとかいう事情でしかたがないか) その一方で、「研究の基盤となる理論」とか「実践の基盤となる理論」という言葉をしばしば耳にするように思います。研究の基盤となる理論については前号の羅針盤で書きましたので、ここでは、「実践の基盤となる理論」について書きます。
 「実践の基盤となる理論」と聞くと、初聞は「うん、それは必要!」と思います。しかし、よく考えてみると「うん? ちょっと違うかな?」と思います。第二言語の教育で「実践の基盤となる理論」というと、第二言語の習得についての理論となります。そして、それに関しては、入力仮説、産出仮説、インターアクション仮説が提出され、比較的最近は(と言っても、1992年ですが)、言語促進相互行為仮説(Scarcella and Oxford, 1992)が提出されています。(いずれの仮説も、文型・文法積み上げ方式を端っから相手にしていないことは注目しておいてください。) この4つの中では、後発の言語促進相互行為仮説が前3者を包摂した上で、Scarcella and Oxfordの言うには、ヴィゴツキーの最近接発達の領域の視点に立つ仮説(この点についてはぼくは「要注意!」と言い続けています!)です。そして、現在はそれが最も有力な仮説だと言っていいでしょう。言語促進相互行為仮説は「入力を受ける言語活動従事も習得促進のために重要、産出をする言語活動従事も重要、相互行為従事も重要。しかし、いずれの場合も必要な時に必要な援助が与えられる形での言語活動従事でなければ言語促進的にならない」という仮説で、最後の一文に強調点があります。この仮説は理にかなっていると思いませんか。ただ…。
 言語促進相互行為仮説の重要ポイントを箇条書きにすると以下の2つです。

(1) 言語促進相互行為は「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」でなければならない。
(2) (1)のような言語活動従事状況で必要なときに必要で適切な支援をしなければならない。

 これを教育企画と授業実践の方法に「翻案」すると、次のようになります。

(a) 言語発達の経路として想定されるものをカリキュラムの行程として計画しろ。
(b) (a)の行程の上で行われる具体的な授業での個々の活動も「現在自力でできる水準よりも少しだけ上の、次にできるようになる水準のもの」にしろ。
(c) (b)の只中で教師は、必要なときに必要で適切な支援をしろ。
(d) 言語活動は全体的(wholistic)なものなので、文法や語法、語彙、音声、さらには社会言語的な側面なども含めて、さまざまな種類の支援をしろ。

 (a)から(d)、とても理にかなっていると思いませんか。で!…、理論はこれでおしまいです。そして、続くお話は2つ。

1.わたしたちは何に基づいて「理にかなっている」と感じるのか。
2.ここから先は、何が必要か。

です。1の答えは、第二言語習得者としての自身の直感、第二言語教育者としての経験に基づく直感でしょう。これを、ここでは野生の直感と言います。次は2です。
 2でもやはりそのような理論と重なった野生の直感が必要です。しかし、教育企画、つまり上の(a)に関して言うと、むしろ理論と重なった論理に基づく見通しが重要になります。端的に言うと、教育企画をするにあたっては、野生の直感を働かせながらの論理に基づく見通しが重要になるということです。そして、この(a)の部分をやり遂げないと、後続の(b)から(d)はそもそも成り立たないということになります。
 ですから、日本語教育の革新のためのボトルネックは、(a)の部分を「突破」できるかどうかです。理論と重なった、野生の直感と論理に基づく見通しを働かせながら。
 このように「実践の基盤となる理論」は、野生の直感と論理に基づく見通しに媒介されてこそ、実践に繋がることができるのです。理論と実践は直接に繋がることはできません。

1 件のコメント:

  1. 理論は本来、実践から立ち上がるべきもの。実践の内省を経て整理されたもの。しかし、多くの実践者は不安を抱えているので、その拠りどころとしての理論を求める。即ち、「実践の基盤となる理論」である。そのアプローチは方略としてはよしとしよう。なぜなら、天才でないかぎり、先人の到達点から出発しないと方向を見失うから。しかし、借り物の理論はあくまでも借り物。それをいかに消化し、実践との往還を経て、自分なりの理論を構築できるかが肝。とすれば、現場を持たない研究者には借り物の理論以上の発展は「理論的に」できないことに気づくだろう。そのような借り物かつ空虚な理論がいかに多いことか。学会もそういう口先だけの理論をわざわざ有名大学の教授を呼んでシンポジウムを企画して話させる。そして、負の再生産が続く。学会の企画者には良識ある判断を望みたい。(だいぶ、矛先がずれてしまいました。すみません。)

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