ウィキペディアによると、草莽というのは、「民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人(草莽之臣)」と説明されています。取りあえずは、それくらいでいいでしょう。次の有象無象は、kotobankによると「取るに足りない種々雑多な人々。多く集まったつまらない連中。有象無象 の輩(やから)」となっています。それで、草莽と有象無象の違いは何でしょう? 端的に草莽は教養層の人たちです。教養層の人たちだけど、現在権力の地位に就いていない在野の人のことです。それに対し、有象無象は、端っから軽蔑的な視線が注がれていて、ワイワイうるさく言う/妙な主張をする雑多な人々というような感じです。
学術研究の文脈で言うと、「主流」の人たちと同じくらいの文化資本(ブルデュー)を背景として高度な教育を受けた人で、現在「主流」にない人たちで現在の「主流」に対してある種「オレたちにも物を言わせろ/主張させろ」と言っている人たちがいわば草莽です。草莽の人たちは「主流」の人たちと同じくらい手の込んだディスコースによる議論が好きです。そして、議論が長く、実用的なものを何も生まなくても平気です。どうかすると、議論そのものを楽しんでいるのではないか、この人たちにとっては議論することそのものが目的ではないのかとさせ思わせます。「主流」の人も草莽の人も、野良に出てせっせと働くとか、何かを着実に作ることこそが、人が生きることであるという感覚をずっと前の代から(祖父母の代、曾祖父母の代あるいはもっと前から)「免れて」いて、本を読むことや手の込んだ言葉で議論することが普通に生活の一部になっている人です。簡単に言うと、教養層です。草莽の人たちは、実は自分たちは「主流」の人たちと広くは「同じ穴のムジナ」であることを自覚しなければなりません。
それに対し、世の中には有象無象の人もたくさんいます。そして、有象無象の中から高度なリテラシーと知識を身につけて、「論壇」に登場する人がいます。ブルデューは、リセに入ったときに、自身が育った文化・教養環境と他のクラスメートのそれとの格差を強く感じたそうです。ブルディーの批判的な社会学の根底には、そのような教養層と自身との間の違和感があります(ブルデューの『自己分析』から)。そんなブルデューにとっては、自身が身につけた高度なリテラシーと知識は、教養層が「自分たち圏」として形成している世界を暴くためのツールでありメディアだったのではないかと思います。ブルデューを有象無象出身者に入れるのが適当かどうかはよくわかりませんが、高度なリテラシーを身につけて「論壇」に登場した有象無象出身の人たちには、そのような違和感があると思います。そして、教養層にとって「空気」のような高度なリテラシーが、有象無象出身の人にとっては、野良仕事や物作りの場合の農具や道具と同じく、言語活動を通して仕事をするための道具=ツールに見えています。
教養層によって維持し発展させられる教養や学術研究は、それが重要であるかどうかを議論する前に、自分たちの「文化圏」を形成しているという冷静な自覚が教養層には必要だと思いますし、「野良や作業場」(教育現場や看護の現場などの実践の場)でせっせと働いている人たちの仕事や暮らしに少しでも役に立とう、役に立っていないのは申し訳ないという感覚が必要なのではないかと思います。(←安藤昌益の農本主義的な発想です) そうでないと、汗水垂らして毎日働いている「庶民」から見ると、ただ「こぎれいな服を着て、しゃべったり物を書いたりして、いいお給料をもらっている人」に見えるのではないでしょうか。また、「論壇」でとりとめなく延々と議論が続くと、有象無象出身の人は、しゃべってばかりいないで「野良や作業場」での仕事に役に立つ成果を少しでも出そうよという気持ちになります。
こんなふうに思っているのはぼくだけ? 他にもいるよね!
他にもたくさんいます。しかし、口外しない。さらにactionを取る人は稀有でしょう。
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