2019年5月13日月曜日

昨日(20190511)のセミナーでの近藤さん(名古屋外大)からのご質問と「人が生きるための志(こころざし)とことばの教育 細川英雄」(ルビュ言語文化教育706号)


 昨日のセミナーに名古屋外大の近藤さんが参加してくださいました。そして、NEJの授業の実演が終わったところで、「今の授業実演を見ると、従来の文型・文法の直接法でやられている絵カードを見せながらの教授法となんら変わらない。表現活動の日本語教育や自己表現活動中心の基礎日本語教育では、改めて「自己」を探り・問い、他者から問われ、発見しつつ言葉にし、言葉にしつつ発見するという自己の探究の部分が重要なのではないか?」というご発言をいただいた。自己表現活動中心の基礎日本語教育を含む表現活動中心の日本語教育の日本語教育の需要部分に関わるクリティカルなご指摘だと思います。
 で、概ね以下のように応えました。
1.ご指摘はまったくその通り。
2.自己表現活動中心の基礎日本語教育の企画そのものとしては、そういう、他者との対話、自己との対話を通した、自己の探究の部分は、要求はしていない。しかし、そういう側面を重視して具体的な教育実践ができるようにということは企画としても「入れている」。
3.つまり、自己表現活動中心の基礎日本語教育はいわば「幅のある」企画になっている。日本語の上達(言語事項の習得ではない!)という部分に焦点化して教育実践を行うこともできるし、他者・自己との対話を通した自己の探究を中心に据えて教育実践を行うこともできる。
4.企画者としては、自己の探究の部分は「重視」してほしいと思っている。(ここは、昨日は言いませんでした。うちの先生で、自己の探究を重視して実践している先生がいる、とだけ言いました。)
 上のようなのがぼくの応えです。細川さんはエッセイで「人が生きるための志」ということをおっしゃっています。ぼく自身は今大学院進学学生のための集中コースを担当していますが、このコースの場合は、特に造作しなくても、自ずと、自己の探究、生きるための志を立てるというような言語活動が行われています。そして、NEJでは、selfのさまざまな側面をテーマとして採り上げているので、交換留学生のクラスなどの場合でも多かれ少なかれそのようになります。
※ついでに言うと、ぼく自身は以前から語りに興味・関心をもっています。『物語の哲学』(野家啓一)、『ストーリーの心理学』(ブルーナー)など、語りの事情についてよく教えてくれます。
 一方で、「日本語の上達」を重視すると言って、文型・文法を取り立ててあらかじめ教えて、それからナラティブでの学習に入る、という教え方を良しとする/それがいい/それがやりやすいという先生もいらっしゃると思います。教育企画者としては、そういう方法は「NG」ですが、このあたりは、今井さんがしばしば言っていらっしゃる「教材は一人歩きする」ということになります。ただし、「教材は一人歩き」しますが、「教育企画」は一人歩きしません。教育企画は、教育実践創造の見取り図であり、教育実践の方向性の共有ですから、「教育企画が一人歩き」するというのは言葉的に論理矛盾となります。
 で、教育企画者・教材制作者としては、そんなふうに一人歩きするとしても、この「新造船」に乗り換えてほしいと思っています。というのは、この「新造船」は実は、教授者のためのリソースである前に、学習者のためのリソースだからです。(優れた学習者であれば、この教育企画とこの教材を活用して、教育企画の趣旨を完遂してくれると思います。もちろん、この企画でいっしょに勉強する仲間や、サポートしてくれる教師がいたほうがなおいいとは思いますが。) NEJを採用して教育をした場合に起こることですが、「ちゃんと教えることができたかどうかよくわからない。でも、学生は日本語が上達している。」という声をしばしば聞きます。これはある意味で、当然です。先に言ったようにNEJは、学習者のためのリソースだからです。
 先日、細川さん・今井さんの「教えないvs.教えない」がありました。日本語教育のレガシー(不幸な遺産)は、日本語という言語そのものへの執着だと思います。また、「日本語の話し方を習得することはむずかしい」という幻想もあります。「日本語の文の作り方をしっかりと習得すること」はなかなむずかしいです。しかし、「日本語の話し方を習得すること」はそれほどむずかしくありません。このあたり、やはり日本語教育のレガシーですね。このレガシーから逃れる第一歩としては、「日本語を教えるというのは、日本語の上達をサポートすることだ」という発想に変えるのがいいと思います。そうすると、今自身がやっている実践が、学習者の日本語の上達に貢献できているかという「自省」ができるようになると思います。そういうのと並行して、「自己の探究」や「生きるための志を立てる」などの観点に関心を持ち、やがて注目して、そのような観点を取り入れる先生が増えると、日本語教育が若い人たちへの教育の一部を担うものらしくなると思います。

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