2019年12月8日日曜日

Krashenと第二言語教育

 この週末(2019年12月6-7日の金土)はとてもおもしろい経験をしました。一つは、入力仮説とナチュラル・アプローチのKrashenが久々に来日。同志社で公演いや講演があって聞きに行ったこと。もう一つは、ぼく自身が講演者でひょうご日本語教師連絡会議主催の教師セミナーをしたこと。この2つ、関連させて話します。
 Krashenの来日は数年ぶりなのではないかと思います。ぼく自身がかれの話をはじめて聞いたのは1984年のJALT大会(@東京新宿の文化女子大学)でした。これがたぶんかれの初来日だと思います。そして、2015年の秋にサンディエゴであったTESOLの年次大会で30何年ぶりにかれの話を2度目として聞きました。そして、今回が3度目です。1984年のKrashenの話は皆さんご存じの入力仮説のことが中心です。かれが講演中に"comprehensible input!"とお題目のように何度も繰り返していたのを今でも覚えています。当時のKrashenは多分40歳代(前半?)だったのだろうと思いますが、ものすごい自信・確信とエネルギーに溢れていてまるで新興宗教の教祖さまのようでした。そして、かれは「入力仮説は、否定しようのない科学的事実だ!」ということも何度も言っていました。かれは、本当に自身の入力仮説を「葵のご紋」にして第二言語教育の革新を進めようと思っていたのでしょう。そしてその革新運動は必ず成功すると思っていたと思います。
 2015年に30数年ぶりに会ったKrashenは往年のエネルギッシュさはかなり薄れていました。でも、自信・確信はあいかわらずでまあまあ元気に見えました。そして、いつのことからか分かりませんが、かれはcomprehensible inputよりもextensive self-selected readingのほうを強く推奨するようになっていました。おそらく、カリフォルニアを中心として北米におけるヒスパニックの子どもたちなどや家庭の教育環境のせいなどでリテラシーが低くなってしまっている子どもたちの読解能力を中心とした知的な言語能力の養成と認知的な発達の両方を促進するために、第二言語教育よりもむしろリーディングのほうに行ったのではないかと想像します。
 で、今回のKrashenの様子と話です。サンディエゴ以来4年ぶりのKrashenは「けっこうおじいちゃんになったかなあ」という印象があります。話し方も4年前と比べてもとても穏やかでした。でも、自信・確信は変わりませんでした。内容は、extensive self-selected readingでした。ぼくにとって鮮烈に印象的だったのはかれが講演のマクラで話したことです。Krashenは、第二言語教育で一般に普及している方法をスキル学習と言いました。つまり、文型・文法事項や語彙などの言語事項を学習してそれを組み合わせて言語を産出する操作(あるいは発話やディスコースをそうした知識を使って分解して理解する操作)という技能を養成するということです。認知心理学で言われているスキル学習理論(Anderson)です。Krashenによるとそうした第二言語の教育法・学習法が一般の人だけでなく第二言語教師の間でも公理(Krashenはaxiomと言った)になっている。そして、かれの子どもの学校でも、カリフォルニア州や全米を見ても、こうした教育法・学習法が今でも「公理」として普及していると言います。「入力仮説が正しいのが科学的事実であると40年前からこんなにあちこちで紹介しそれに基づく教育・学習を推奨しているのに、現状40年前も今も何も変わっていない!」という悲観的な言い方は自信家のかれの口からは出てきませんでしたが、そういうメッセージは十分に発せられていました。かれのこの部分の話を聞いて、ぼくは、かれと自分自身を重ね合わせて、何だかものすごく共感というか同志意識というか、そういうものを感じました。「Krashenがこんな勢いでこんなに広範に過去40年間入力仮説等を『宣伝』したのに、現状はちっとも変わっていないのか! Krashenさんもさぞ落胆しているだろう。そして、ぼくも同じように落胆している!」と。
 さて、ぼく自身の話です。ぼくはKrashenよりも一歩進めて、(自己)表現活動中心の日本語教育という具体的な教育企画と資材(教材)を提案しています。(自己)表現活動中心の日本語教育では、各ユニットで特定のテーマについて言語活動ができるようになるという「日本語上達のエスカレータ」の日本語教育企画を提案しています。そして、その企画に沿った日本語の学習と教育の実践を支える資材として2012年にNEJ(2012年)を公刊し、昨年の2018年にはNIJを公刊しました。同企画では、「日本語上達のエスカレータ」に沿う形で文型・文法事項が系統的に習得でき語彙も体系的に習得できるように仕組んでいます。表現活動中心の日本語教育の企画は、(1)バフチンのことばのジャンルの考え方と(2)Krashenの入力仮説と(3)インストラクショナル・デザインの三者の融合でできたものです。そして、同教育の背景にある理論(バフチンの対話原理が中心ですが)や習得の原理や具体的な実践方法なども西口(2015)の本で解説しています。
 Krashenの主張は「科学的事実」なのだと思います。しかし、Krashenは、言語事項の習得に関心を置く教師たちに一定の配慮をしたインストラクショナル・デザインをしていません。インストラクショナル・デザインをしていないということは、端的に言うと、正式な教育課程の中の1つの教科にすることができないということです。ぼくのほうは、従来の文型・文法事項や語彙の代わりに(バフチンのことばのジャンルから敷衍した)言葉遣いという観点を提示し、テーマ中心のカリキュラムで言葉遣いを配慮して資材を用意しています。そして、その資材を主要なリソースとして活用して学習と教授を進めることで、文型・文法事項や語彙などを含めた言葉の習得の側面にも対応できるようにインストラクショナル・デザインと教材制作と学習と教授のデザインをしています。つまり、ぼくのほうは、採用可能なコースの提案をしているということです。にもかかわらず…。NEJが出てすでに7年経っています。そして、昨日、教師セミナーで、「文型・文法事項ではなく、実用的なコミュニケーションでもなく、表現活動という言語活動領域に注目しましょう。そして、NEJとNIJは表現活動の部分に注目して、テーマ中心で編まれている教材です」という話をしました。しかし、…。まず、NEJ(NIJ)を知っている人はそこそこいらっしゃったようです。しかし、詳しく見た人や、指導参考書を手にして読んだ人となるとうんと少なくなると思います。今年の5月から6月にかけて大阪、東京、福岡で教師セミナーをしたときは「NEJを使っている。学校で採用している」という人が何人かいらっしゃいましたが、今回はいらっしゃらなかったような。というわけで、ぼくとしては「こんなに丁寧に準備万端整えているのに、あまり知られていないなあ、広まっていないなあ」という感を持ちました。そして、改めて、前日のKrashenと自分自身を重ねてしまいました。
 1年ほど前になりますが、早稲田(元筑波)の今井さんが「教えない教え方」ということで割合注目され「物議をかもし」ました。表現活動中心の日本語教育は、いわば「(言語事項を)教えないが、(言語事項等の習得も含めて)日本語上達という結果を出す」教育方法の提案です。昨日のセミナーでもそのような話をしましたが、うまく伝えられたかなあ…。
 結論です。Krashenは、スキル学習という学習法・教育法が、言語教師たちの公理になっていると言いました。その通りだと思います。(従来から思っていました。「公理」とは言いませんでしたが) つまり、文型・文法事項など即物的な教えるモノがあって、それを教えるてこそ、教師としての仕事をしたことになるという考え方です。しかし、言語事項などを取り立てて教えなくても、日本語が上達して、その日本語を見てみたらちゃんと文型・文法事項や語彙などを適切に使っているという結果を出すことができたらそれで教師として「Good job!」をしたことになるんじゃない! 「教える」という行為をして結果が出ないのと、「教える」という行為をしないけど結果が出るのと、どちらが本当に学習者のためで、教師の職責を果たしている? 皆さん、よく考えてね!
 Krashenは当初から"Speaking is a result of acquisition and not its cause."と言っていました。金曜日の講演でも最後に言うチャンスがあったのに、直截にはこの言葉は言いませんでした。今は、"Language capacity and intelligence is the result of development through extensive self-directed reading."と言うのでしょうか? このあたりは、日本語教育では、子ども向けであれ、成人向けであれ、楽しくハマって読める、それでいて知的な興味に応え、知的な発達をも引き起こす教材が必要だというsuggestionがあるように思います。

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